150 知明に視線を向けた夫人は、あなたにはたくさん描いてもらいましたから、デッサンは お終いにしましようと告げた。 「正直なところ、あなたが初めて喫茶室で描いてくれたものが一番好きです、あれにサ インをして、わたしにください」 「しかしあれは鉛筆のスケッチで、ゲラの裏に描いたままですから、紙も安物なら絵と しても小さすぎます」 「かまいません、裏に活字があるなんて素敵じゃありませんか、立派な額に収まるよう な重たい絵より、どうしてかそういうものが好きなの、きっと儚いものに縁があるよう に生まれついているのでしよう」 「演劇のことはよく分かりませんが、華やかな印象がありますー 「舞台はね、なんといっても人様に観てもらうお仕事ですから、でも普通の幸せに恵ま れて一生を終わる役者なんていないんじゃないかしら、そもそも幸せなら役者になろう なんて考えないでしようし」 夫人は少し思い巡らす顔になって、あまり減らないビールに目を落とした。いつもと 違う雰囲気の彼女は知明の目に新鮮で、描くならこういう表情がよかったと画家の目で 眺めた。そのうち夫人は言った。 「わたしは十五歳のときからこの世界で生きてきました、進学して勤めて結婚してとい
「この街も昔は移民を出すほど貧しいところだったのよ、素潜りの海女が働き、海水浴 客でにぎわ、つだけのつまらない街、とわたしも若いころは田 5 っていました、でもここを 愛した人も大勢いるのです、画家や詩人、それに小説家もいましたね、彼らの目を通す と、こんなに素晴らしい海はなく、こんなに落ち着く街もないのです、そこでわたしも そういう目で見ることを覚えました、自分が生きて死んでゆく街を嫌いになるほどっま らないこともないでしよ、つから」 彼女は目に穏やかな笑いを溜めていた。歳月とともに流してきた悲哀が滲むような笑 いで、あなたの年齢なら分かるでしようという期待の眼差しでもあった。園井も素直な 気持ちから、 「おっしやる通りです」 と一一一一口った。 「わたしはあまりに小さな世界に生きて、それが嫌で、ここへ移ってきましたが、まだ 何も見ていないようです」 「それはあの娘たちもそうでしよう、今は見えなくて当然の若さですから、わたしたち 戻 は佳いものを見なくてはつまりませんね」 曜 ビーチボールや浮き輪を持った学生らしいグループが砂を蹴ってゆくのを見るうち、 婦人はまた手帳を開いた。ちょっとごめんなさい、と言って五分ほど集中したあと、残
な月が出ていたと話した。杏子はそういうときの彼に中年の男らしい情緒を感じて、い つも帰ってゆく生活の方が間違いではないのかと思ったりする。久住から匂う清潔な安 らぎは、小町との暮らしにないものであった。ばんやりして乾杯の笑顔を忘れていると、 「どうしたの、小町さんのことが気になるのか」 言葉より優しい眼差しに見つめられて、彼女は首を振った。 「心配してもはじまらない人よ、今ごろロタのホテルで遊んでいるでしよう」 「それがグアムにいるらしい、撮影は一日で終わってタレントも帰国したそうだが、相 手役のモデルは臨時の仕事で小町さんといる」 「どうしてあなたがそんなことを知っているの」 「モデルの所属事務所がうちの顧客でね、グアムには伝もできたし」 まさら幤 ~ 彳 ( 静かな、しかし刺すような目で、小町とモデルの関係を告げていた。い くことでもないが、杏子はやはり落胆した。夫の享楽ぶりが目に浮かぶのと、久住に自 分という女の汚点を見られている気がするからであった。 「小町さんを変えることはできないだろう」 と彼は言った。杏子はいつのまにか出ている刺身を摘まんだ。 「今のままではたぶん君も変わらない、変わらない二人で仕方ない生活を続けるより、 新しい生活を築くときが来ていると思う、人におかしな目で見られない、っちに、ほくら
「そうだったわね」 二人が顔を見合わせて笑ったのは数日ぶりのことであった。夫人の死後も彼女の人生 に詰まった悲しみを引き受けていたから、儚い笑いになった。今はまだ夫人の寝室に飾 られている絵も、いすれどこかへ運び出されて消えてゆくに違いない。手元に残るデッ サンを保存しようと二人は話し、眺めた。上品な笑顔の一枚を家族にするのであった。 「せめて一度くらい藤倉さんの演技を観たかったわね」 麻美がコーヒーを淹れながら言い、知明もそう思った。 「いや、下の喫茶室で観たことがある、まんまと騙されたよ」 「どんな演技だった」 「いきなり目を剥いて、殺してやるって言われた、その一秒後には笑っていたな」 「描ける」 と麻美が訊くので、彼はその場でスケッチ風に描いてみたが、満足のゆくものにはな んらなかった。記噫の中の夫人は優雅に暴れているのに、少し前に別れてきた夫人が邪魔 するからであった。画家として頼りない目だと思った。なにか大事なものの欠けた無難 な生活に染まって、感性が錆びかけているような気もした。すると異郷の古いアパート し 悲 に暮らしながら、見るべきものを見て、カンバスと格闘している画家たちの姿が目に浮 かんだ。そこには苦しみや挫折もあれば、計り知れない充足もあるはずであった。
って夏を取り戻した渚には若い人たちが遊んでいる。休暇を愉しむ家族連れや社会人ら しい男女も見えて、鮮やかな水着が眩しい。駐車場に並ぶ高級車は沖のサーファーたち のものであろうか。彼は恵まれた人たちの一日に目をやりながら、多分みんなまだ知ら ないのだろ、つなと思った。 彼の一見豊かな人生もそうであったが、偶然に等しい幸運に守られ、自分も暮らす社 づら 会の矛盾や格差について考えることもなく、他人の苦しみを無視し、紳士面をして自分 の生活だけを守ってきたこと、その狭隘さが今はたまらなく嫌であった。恵まれない人 からみれば人生の成功者に見えることも、何もしなかったための無傷も嫌であった。け れどもこのところ目に映り、感じるものは悪くなかった。 ラソルの日陰に園井は テープルへ戻ると、婦人は手帳を見つめて考え込んでいた。パ 音を立てないように座り、タコスを食べはじめた。そのうち彼女が顔を上げたら、刺激 的な良質な会話がはじまる。彼もふさわしい言葉で応えなければならない。園井は婦人 の額に柔和な目をあてながら、過ぎ去った厖大な日々より遥かに居心地のよい世界を感 じ、もう戻れない自分を知ってしまったと思った。 戻 曜
は変わらす、子供たちは見違えるほど大きくなっていた。真智子の目に一家は順調に平 穏な暮らしを築いているように見えたし、絵里が明るく振る舞うせいか不吉な兆しを感 じることはなかった。 「まだまだ貧乏ですー と言、つライアンも穏やかなままであった。 渡米して八年目のある日、ライアンの母親が孫に会いにきて三泊した。四日目の朝、 彼女は不意に言い出した。 「主人はどこ 「おとうさまは三年前に亡くなりましたが 義母は混乱して大声で泣き出した。認知症であった。同じころ日本の実母にも同じ症 状が現れたと知ると、飛んでゆけないだけに平静ではいられなかった。両親と同居して いる妹から電話がきて、 「こっちは地獄よ、長女なんだから早く帰ってきて」 と蜷し立てられた。妹は妹で暴力を振るう夫と別居して葉山の実家に身を寄せていた が、母とはひどく折り合いが悪く、結局介護を放棄して病人を放置することになった。 絵里は都合をつけて帰れるだけ帰ったが、食事も作らない妹を見ると腹が立ち、母の介 護をする高齢の父を見ると無力感に襲われ、滞在中は動けるだけ動いて父を休ませた。
蹴仲であったし、自分を利用した若い女の口から男女の縁を説かれるとは思わなかったの である。彼にとってそれは新鮮な出来事ではあったが、目の覚めるほど意味のある瞬間 にはならなかった。 夜のホテルは抑えた明かりが美しい。家庭にはない空間の安らぎには他人といる緊張 感もあって、男も女も憩いながら顔を繕う。 小安が一夜の部屋をとってバーで待っていると、暁子は時間通りにやってきた。女社 長らしく渋いスーツ姿であった。ホテルにしても広いハーで、カウンターにいる小安を 見つけた彼女はするりと隣の椅子に身を寄せて、 「今晩は」 と一言った。 「妙な挨拶だな、芸者じゃあるまいし」 小安は暁子のエキゾチックな顔から少しほっそりした首筋へ目をやりながら、久しぶ りの女を確かめた。唇が厚く、寿枝子ほど整った美人ではないが、 男勝りに実社会を生 きている気丈夫であった。 「お食事はお済みですか」
266 人陰の愛弓に気づいた保科は軽く会釈してから、君によく似ているね、いくっと訊 ねた。 「小学生です」 昌子ははぐらかしたが、気づかれたかもしれないと思った。誰の目にも十歳には見え る娘であった。保科はまたお茶に誘った。 「今からだとランチにちょうどいい、三人で何かおいしいものでも食べよう」 「食事をしながら、何を話すの」 「君のことでもいいし、僕のことでもなんでもいい、 一時間はすぐに経ってしまう」 「ごめんなさい」 こら 彼女は堪えかねてうつむいた。それ以上なにか口にすれば涙に変わりそうであった。 昼近くに用事を終えて大使館を出ると、しかし門のそばに保科が待っていた。歩いて ゆく二人に軽く手を上げて微笑みながら、さりげなく愛弓を見ている。 「せめて駅まで送りますよ、せつかく会えたのだから 「義理堅いのね」 昌子は娘の目を気にして笑った。愛弓は母の手に引かれて黙って歩いた。 「よかったらグアムの住所を教えてもらえませんか、年に一度、クリスマスカードを出 します」
「保科さんこそ」 昌子はやはり動悸がした。髪に白い筋を増やした男は魅力を失うどころか精厚になっ ていた。彼女の変わりようを確かめる目は優しく、間違えば残酷であった。 「アメリカへゆくようだね、偶然だが、僕も転勤でしばらく住むことになる 「どちらですか , 「エル・エー、君は ? 」 「メインランドではありません、そう、ジョージ、アンクル、エイプル、マイク」 「ほう、また太平洋の西と東か」 彼は苦笑して、ここでは話しづらいから後でお茶でもどうかと誘った。どこか静かな 場所で語り合えたら、長い空白は一気に縮まるだろう。それから次の空白か永遠の空白 がはじまる。夫のもとへ旅立つ前に会えたこと自体が奇跡のようなものであったから、 昌子はこれから思い出すことになる男の顔から目を逸らさなかった。 「そうしたいところですが、あいにく娘を連れていますので」 「かっての同僚とお茶を飲んで悪いこともないでしよう、娘さんの前で余計なことは話 しません」 「そうもいかないでしよう」 今度は昌子が苦い笑みを浮かべた。結婚して、子供を儲け、。 クアムで暮らすらしい女
「まあ、君のような子持ち聖女から見たら飛んでるかもしれない、だが、それもいろい ろ悩んだ結果でね、人生の流れによっては方向転換も有効さ」 小西はにやにやしながら、奈央子の手元を見ていた。削り取った孔雀の羽が散らかっ ているのだった。彼女は散漫な心のうちを覗かれた気がして、掻き集めた。 「君はどうなの、ご主人の亡霊と仕事を続けることで充たされるとしたら、かわりに何 かを失っていると思うがね」 「この年になったら生活が一番だわ、贅沢はできないけれど、怯えることもないし」 「浮子に淫して、男が怖くなったか」 「失礼ね」 「なにしろ絶滅危惧種だからね、女もあるとき固まったまま古くなると、歳月が磨いて くれるのかな」 「気に障る言い方ね、川の石ころじゃあるまいし 奈央子は仕事の手をとめて、明け透けな態度の男を睨んだ。小西の目に今の彼女が魅 力的に映るとしたら、やはり普通の感覚とは一一 = ロえない。髪は短く、ほとんど化粧もせず おに浮子を作り、男勝りの恰好で試し釣りに出かけてゆく女であった。彼女は時計を見て、 坂そろそろ帰って、と目で促した。 「効率が悪いか」