長引いても、時み恃まれる関係は変わらない。鮨を握ってもらいながら、矢吹は明るい 季節に会えてよかったと思った。冬では自分の気力が持ちそうにないからであった。 早見は焼酎にかえてもビールのように飲んで、適度な酔いを得てから、 「何か俺に頼みごとがあるのじゃないか , と訊いた 「よく分かるな」 「ただでこんな上等な鮨は食えないさ」 矢吹は笑いを浮かべた顔を直して、唯一の望みらしく静かに告げた。 きと・つゆりえ 「鬼頭百合恵の消息を知りたい」 「ほう」 その瞬間、早見の頬から微笑が消えて、かわりに動揺とも苛立ちともっかない翳りが 表れた。、つつすらと無精鬚の伸びた顎をさすりながら、短い吐息を繰り返す男を、矢吹 はその日二度目の宣告を待つような気持ちで横に見ていた。 「まあ、お安い御用だが、会、つつもりかー 「できるなら、そうしたい 二人を知る早見は愛情の入り組んだ不幸を思い出したとみえて、よい顔をしなかった。 たかし 「矢吹孝も最後は負け越しか」 たの
6 高地の夏の霧の朝方、はじめて交わした言葉はそれだけであったが、二人が恋に落ち るのに長い時間はかからなかった。中途採用の百合恵は家の経済的事情で大学を中退し ていたが、語学力と容姿と明るさを買われてフロント・オフィス・クラークとして働き はじめ、矢吹はバック・オフィスで予約のコントローラーを務めていた。バック・オフ イスでの席は背中合わせで、髪が匂うほど近い。ときおり外国人も宿泊するホテルのス タッフで英語を流暢に話すのは新人の彼女ひとりであったから、それも矢吹には魅力だ った。 あるとき彼女が中年のアメリカ人女性と日本料理のレシピについて話しているのを聞 くと、鳥肌が立った。それは美しい発音で、ゆとりのある接客も美しく、矢吹にはネイ テイプのように聞こえた。 「英語を教えてくれないか」 彼はすぐ申し出た。恋愛のきっかけになるとは思ってもいなかった。 「わたしも人に教えられるほど上手ではありません、大学中退の英語力ですし 「まわりを見てごらん、君以上の先生がどこにいると思う」 彼らはホテルのすぐ脇にある社員寮に暮らしていたが、オフシーズンになるまで自由 になる時間は限られていた。シフトで勤務する百合恵とはプライベイトタイムもずれて、 夜遅くしか時間がとれない。矢吹が女子寮へゆくわけにもゆかず、どうにかできたのは
「肝をつけておきます、乙な味ですから」 常連で店の主人とも親しい矢吹を板前は知っていて、愛想がよかった。矢吹も偉ぶる 職人は好かない。待つほどもなく付台に出された鮑は磯の匂いがするほど新鮮で、刺身 は薄く歯応えがある。まだおいしく食べられる体にほっとして、なんとか半年は持つだ ろ、つと田 5 った。 「にぎやかで、すみません」 げん 「かまわないさ、こっちは験直しだから」 「今日の鮑は効きますよ」 板前が言って少しばかり別の客の方へ離れてゆくと、矢吹はビールを注ぎ足した。 検査結果がよくないことは予想していたものの、書類ばかりの殺風景な小部屋で人生 の幕切れを知らされるとやはり動揺した。背もたれのある椅子と水がほしかったが、か わりに看護師が背後に立っていた。担当の医師は病状の説明に熱心なわりに、患者の顔 色の変化には気づかなかった。話の途中から矢吹の方が気持ちを切り替えた。 6 癌の状況と余命宣告のあと、積極的な治療で苦しむかホスピスかといった幾つかの選 択肢の中から、彼は自力で動ける時間をとって通院しながら自然に逝く道を選んだ。最 期は病院の世話になるとしても、運がよければしばらくは人間らしく考え、生きられる。 3 終焉を予感して入院中から身辺整理を考えていたので、あとは時間との闘いであった。
矢吹は百合恵が泣いた夜を思い出した。あのときから彼女の未来は大きく変わったの かもしれず、娘もその不運を継いでしまったよ、つであった。 「君、名前は ? ともみ 「知美といいます、よろしく」 「一杯、付き合わないか」 「ありがとう ) 」ざいます」 酌み合うと一本のビールはたちまち消えてゆき、勧められるまま矢吹はウイスキーの 水割りをもらった。安いスコッチで、女も同じもので付き合った。 「見たところ、ひとりで切り盛りしているようだが、混むと大変だろう」 「みなさん、お馴染みさんですから、なんとかなります、本当ににしいときはお客に手 伝ってもらうこともあるんですよ」 「東京では考えられないね」 「それだけが田舎のいいところですねえ」 っ 、市こも優しい人が多いなどと話した。化粧が薄いとみ 彼女は一一 = ロい、 見かけは乱暴な漁自し 叱えて、二杯目の水割りで頬を染めたが、興に乗ればいくらでも付き合いそうであった。 三十分ほどでどうにか気軽に話せるようになると、矢吹は思いきって訊いてみた。 海 「この街にはかって海女がいただろう、最後は君のおかあさんの世代じゃないか」
ならはしみのる その仲間に奈良橋稔という男がいて、百合恵を見初めたらしく、ふらりとひとりで来る ことがあった。早見の友人ということで、矢吹は頼まれて紹介したが、百合恵の方にそ の気持ちも時間もなかった。東京の良家に育ち、恵まれているらしい男は強引で、生活 のために大学を中退して地方で働く女には重たい存在でしかなかった。 「奈良橋さんがまた手紙をくれて、東京で会えないだろうかって言うの、困るわ 「嫌なら断ればいい、 上等のステーキともお別れだな」 「ステーキのために東京へ行くと思う」 「次は料亭かもしれない」 そんなときの矢吹ははぐらかしたが、殴ってでも引きとめてほしい彼女の気持ちは分 かっていた。結婚という形で二人の将来を考えるのが自然であったし、そういう時期に きていた。しかし一度決断したら、二つの家族を支えなければならない。百合恵にはま だ自分の親兄弟のことを話していなかったから、反応を怖れる気持ちもあった。 結婚は彼女にも一生の重荷を負わせることであり、夢よりも不吉な予感が勝った。な んとかしてみせるという気持ちと、偏狭な人間はどうにもならないというあきらめか、 いつも矢吹の胸で闘っていた。子供のころからそうであった。 二人だけの人生を生きてゆけたらどんなによいか。彼は百合恵とともに海外で働き、 精神的な自由を得るかわりに、そこから日本へ送金することを考えたが、その準備にも
夏の外房の海辺は熱を帯びて、太陽と風の渚に若い肉体が弾むようであった。小さな 街のホテルには一跨ぎのところに海が迫り、夕暮れに人が去ると波音が侘びしげにさざ めく。風の日は通りのヤシの葉が騒いだ。 五階の山側の部屋しかとれず、矢吹は食事のときに一階のテラスから海を眺めた。あ とは部屋に籠った。 っ早見から連絡があって、鬼頭百合恵の消息を知ったのは一週間ほど前のことである。 ーのホス ) 一彼女は離婚後、娘を連れて故郷の街へ帰り、隣町の観光ホテルに勤めたり、 淑テスをしたりしながら、ずっと生家で暮らしてきたという。朗報のあと矢吹がすぐにや ってくると、偶然、ホテルの部屋からその家が見えた。小さな庭を持つ、瓦屋根の歪ん 風の便りはあって、不本意な別れから間もなく奈良橋と結婚し、渡米し、子を儲け、十 数年後に離婚したと聞いている。その後、矢吹も海外へ渡り、やがてホテル業界用のリ ネンの会社を興して小さな成功をみるが、本当の自分を生きたと言えるかどうか、未だ に実家への援助は続いているのであった。それもじきに終わるだろう。けれども人生を かけて捨てたのは結果として身内ではなく百合恵ということになってしまう。そのこと が命を終えようとする今でも海やまれてならなかった。
少ない休日を繰り合わせて小さな街で会うことであった。喫茶店の片隅を教室にし、そ こで食事もし、うたた寝することもあった。矢吹はそれでよかったが、貴重な休日を使 い果たす百合恵には迷惑な話かもしれなかった。気になってあるとき訊いてみると、学 生の続きのようで愉しいと言い、本当に女子大生のような瑞々しさで笑った。彼女が美 容院へゆく日も彼は喫茶店で待って、一番に変身ぶりを見るのであった。食べ物の好み や生い立ちを知ってゆくのも自然のなりゆきであった。 百合恵がはじめて彼の部屋を訪れたのは冬の夜のことで、暖房のないコンクリートの 通路に立って目に涙を溜めていたので、矢吹はすぐに招じて暖めた。唇が変色して震え おえっ ているうえ、父と弟が遺体で見つかったと話す間も嗚咽するので、なかなか聞き取れな かったが、海難事故であった。朝には母親と祖父母の待っ房総の生家へ飛んで帰らなけ ればならなかったが、明け方まで彼女は矢吹の腕の中で泣いていた。 そのことがあってから百合恵は大胆に男の寮へ来るようになって、夜の長い時間を彼 。いつも封筒か本を持って届 のそばで過ごした。来るときは人に見られてもいいようこ、 っ けにゆく体を装ったが、見つかったことはなかった。頼りになる地縁もなく、遠くに家 ~ 」族という重荷を抱えた二人は守り合うようにつながり、愛し合うようになっていた。 高校の同級で三年浪人し、まだ大学生だった早見が学友とよく遊びにきたのもその頃 海 である。夏は高原の凉を愉しみ、秋は紅葉を眺め、冬にはスキ 1 をして若さを謳歌した。
「そうかもしれません、祖母の代にはまだ大勢いたと聞きますー 「漁師の家の女性なら、海女だろうね」 「そうとは限りませんが、祖母はったようです、母のころにはもっと楽な仕事ができ るようになって、海女はどんどん減って、とうとういなくなりました」 「東京の鮨屋でそんな話をしてね、帰ったら海女のかわりにバーの美人を見てきたと言 、つことになりそ、つだ」 彼女はおかしくもなさそうに笑んで、 「サザェでも焼きましようか と言った。今ではウェットスーツを着た男が採るという、この土地の幸であった。 矢吹は百合恵の娘の出すものなら食べておこうと思った。そんな機会はもうないだろ うし、東京へ帰って思い出すものができるのは慰めであった。意外だったのは注文を受 けた彼女がカウンターの内側から母屋の方へ消えて、そこにいるであろう人へ伝えたこ うちのれん とである。 ーと母屋は内暖簾の仕切りひとつで繋がっていて、知美はすぐ戻ってきた が、母親のことはロにしなかった。 「十分ほどで焼けますから」 そう告げる女の何かしら秘めた顔色に、矢吹は冬の寮の通路に立っていた百合恵の幻 影を見る心地がした。奥で自分のためにサザ工を焼いている女を思い浮かべて、ひどく
初夏の日の午後遅く、検査入院を終えて行きつけの築地の鮨屋へまわると、夕暮れの 早い時間にもかかわらず案外なにぎわいであった。繰り上げ当選した区議会議員が内輪 の祝賀会をしているとかで、座敷が騒がしい。カウンターの席しかご用意できませんと ゃぶき 言われて、矢吹は待ち合わせている友人のために付台の端の席を空けて座った。 はやみいさお 早見勇夫とは学生時代から深いとも浅いとも言えない付き合いが今も続いている。定 年後も嘱託として同じ出版社に勤める彼は安月給になったが、残業もなくなり、年相応 の仕事と生活を維持して屈託がない。三年前に妻を野辺へ送り、去年は子に会社を譲っ て、身軽になりすぎた矢吹は早見に心残りを話してみようかと考えていた。思いつく知 人で、気の置けない話し相手は彼しかいなくなっていた。 あわび ビールをもらい、正面に来た板前に摘まみを頼むと、いい鮑が入っているという。 「どこの産だね」 「房総です、むかしは海女が採ったそうですが、今はどうでしよう」 「もういないだろうね、鮑と赤身にしよう」 あま
「酔ったらしい、気分のいいうちに帰るよ」 彼は女を見つめて笑いながら、百合恵のかわりにその顔を覚えた。濡れたグラスを干 して勘定を頼むと、知美は掌の上で計算するふりをして、 「ちょうど五万円ですー と一一一口った。 「ほう」 「貸し切りですから」 矢吹は払った。どうせならもっと吹っかけてくれたらよかったと思った。百合恵に渡 る金なら借しくなかった。 外の通りには乏しい明かりのほかに人影もなかった。店を出ると、終わったことには ほっとしたが、、い残りを清算したとは一一一一口えなかった。大切にしてきた古い布を洗って、 落ちない染みを目立たせてしまったような夜であった。 「人生なんてそんなものでしょ っ百合恵に言われた気がして、彼はしっとりと輝いていたころの女を思いながら歩いて いった。現実の彼女は淋しすぎて、手出しのしようがなかった。しかしホテルの部屋か ら見つめた姿は近景となって、あと数ヶ月の記憶を染めるはずであった。あるいは最期 に田 5 い出すことになるかもしれない