考え - みる会図書館


検索対象: 太陽は気を失う
28件見つかりました。

1. 太陽は気を失う

後の時間を使ったのだろう。 眠れずに寝返りを打っと、語りかける人のいないべッドが見えて、杏子は虚しいもの に眺めた。もしそのときがきたら、わたしは誰に電話をするだろうかと考え、今なら久 住しかいないと思った。すると無性に声が聞きたくなって、枕許の携帯電話に手を伸ば した。 非常識な時間であったが、昨夜からのことを話すうちに久住は目を覚まして、 「それはつらかったね、不安なら今から迎えに行こうか」 と一一一口った。 「ここへ来るのはよして、あなたには見せたくないもので一杯なの」 「思い切って片付けたらいい、 時間はあるようでないよ」 「そうねー 杏子は本気で身軽になることを考えはじめた。千佐子の霊もその辺を漂いながら、そ はかな しうなさいと言っている気がした。人は年とともに物を溜めて、埋もれ、人生の儚さを知 整るとき、その無駄に気づくのかもしれない を た「明日、会えないか」 ら 久住が心配そうに言い、彼女は二、三日待ってくださいと答えた。この人をこれ以上 、カ 9 6 待たせてはいけないと思い、ある考えを実行するつもりであった。病身の千佐子が心を

2. 太陽は気を失う

圏と活動的な仕事を選ぶと思っていたのである。例えばどこかの砂漠の国で農業をしたり、 日本人大リーガーのエージェントになるような闊達な姿がそうであった。予想外といえ ばアメリカの女性と結婚したこともそうで、いっからそんな生活を夢見ていたのか分か らない。妻子は毎年夏休みの半分をアメリカの郷里で過ごすとかで、そこにいなかった。 「文学の翻訳となると日本語のセンスもいるし、大変な仕事でしよう、奥さまは日本語 を話すの」 「ばくの英語よりはうまい、そのうち追いっかれるだろうね、そういえば百合子ねえさ んも大学の専攻は英文学だろう」 「わたしはもう駄目、原書を読む気力も実力もないし、ただ英語圏で暮らしているとい うだけね」 口にすると、それも淋しい気がして百合子は笑った。貞雄は知的な良い人生を歩んで いると思うが、彼の家庭に叔母の入る余地はないだろうとも思った。生活空間がまるで 違うし、翻訳家には団欒よりも孤独な時間が余計にいるからであった。 「このあたりも随分変わってしまって、知らない街へきたような気がしたわ、叔父さん が移ってきたのはいつだったかしら 「ばくが生まれる前の年かな、ねえ、かあさん , 「ええ、そ、つですよ」

3. 太陽は気を失う

かきて今があることは納得しているか、夫婦として終わったとい、つことにはならない。 といって離婚を考えるほどの恨みも憎しみもないのが却って厄介であった。 和枝は取り澄ました顔で聞きながら、 ーの雰囲気を味方にしていた。突きつめて考 えることが苦手な彼女は話題の重さを嫌い、心の限界を前にすると、 「子供たちもいるし、お互いになんとかなるんじゃないかしら、そのときがきたら考え 亠ましよ、つ」 と言って遮断した。ひとりでも生活に困らない女の強さは眼差しにも表れて、上辺か ら園井を圧倒した。しかし、その軽薄な自信が今の彼女の日常という気がした。バ 口論するつもりもない彼は折れて、やはり取り澄ました。もともと無難を信条に生きて きたような夫婦であったが、、 お互いに偏狭なところがあって精神的に強く結ばれてきた とは一一一一口えない。それが先の見える年になって捨てた生活でもあろう。晩年を意識する男 と気儘に若返ってゆく女の求めるものは違って、似た者夫婦から異質のものが生まれる と、園井には埋めようのない溝に思われた。 「君はこれからどうする」 「どうするって」 「生活はいいとして、あと二十年かそこいらの人生だろう」 「わたしは今のままでいいわ、別に困ることもないし

4. 太陽は気を失う

しかし次の一杯を飲むうち、素晴らしい考えが湧くかもしれなかった。そうして切り抜 けられなかったことは過去になかったし、どのみち眠れないなら考えられるだけ考えて みるしかなかった。 「十日くらいどうということもないさ、俺は二年も休んでいるんだからな、どうしたっ て頭が腐ってくるよ、こう見えても切れる方だったんだ」 ーテンは微笑しながら、静かにウォッカのグラスを置いた。それから水も出して一一一一口 った。 「時給五百円で働いたことがありますか、どんなに働いても五百円です、そういうとき の人間は二つに分かれます、五百円にしかならないと分かっていても精一杯働く奴と、 手を抜いて時間を潰す奴です、結果は同じでしようか」 「何が言いたい」 「結局、手を抜いた奴は時給千円でも同じことをします、それが一生続くんです、たと え世間的には成功しても人生の本当の喜びや充足とは無縁のままでしよう、老いてその まま終わるのも手遅れの人生に気づくのも不幸ですが、五百円の値打ちもない生き方を 長 選んだ結果ですから仕方ありません、その必要もないのに時間をかけて人生を台無しに する人の気持ちが、わたしには分かりませんね」 「おもしろいことを一一一一口、つじゃないか、も、つ一杯くれ

5. 太陽は気を失う

「君はうまくレールを切り替えたな、大仰に節目を意識することなく絵の世界を愉しん でいる、俺も海外でずいぶん働いたロだが、終わってみると役にも立たない自負しか残 っていない、今も待避線から本線を見ている感じで、とても走る気にはなれない」 「考えすぎじゃないのか、この年になったら好きなことに関わって生きればいい、技術 屋が絵描きになるのもそういうことだろう、人生に決まったレールなどないのさ」 「まあな、そう考えた方が楽には違いない」 邦昭は言ったが、 すでに輝くレールを敷いた人間の余裕に聞こえた。それ以上絵のこ ほろよ とを聞いてもはじまらない気がして別の話題を探していると、微酔いの木村が喋り続け 「ほとんど体の一部だった仕事の看板を外して、みんな迷っているのじゃないか、野球 部の安部などは離婚してアラスカへ行ってしまった、彼は新生を思いつめたロだが、パ チンコとゴルフしかない奴もいる、真新しい生き甲斐を見つけるのだから、右から左と いうわけにはゆかないさ、取りあえずの選択肢からはじめてみるのもひとつの方法だろ 長 しかし邦昭は暇つぶし同然の仕事や娯楽で充たされる人間ではなかった。といって好 まきな仕事に復帰する当てもなければ、今のままの暮らしもつらい。 「余裕があるなら、今のうちに世界を巡るのもいいじゃないか、お定まりの観光コース

6. 太陽は気を失う

65 がらくたを整理して は久住の部屋で休らう時間の意味するものを大切に思うようになっていたが、心のどこ かで次の失敗を布れるときがあった。そういう形で小町との長い生活が影を落としてい マジュロからときおり短いメールが届くだけの数日が過ぎ、考え疲れたある夜、寝室 あさいちさこ の電話が鳴って、出ると友人の浅井千佐子からであった。十一時を過ぎていたので、急 用だろうかと案じたが、久しぶりに聞く声は学生時代のままの柔らかさであった。 「こんな時間にごめんなさい、どうしても話したくて、病院からなの」 千佐子は告げて、とりとめのないお喋りをはじめた。無名の画家と結婚して、生活の 苦労をし尽くし、どうにか絵画教室で食べながら夢を見ている人であった。杏子も生活 費を融通したことがあるが、月に千円、二千円と返してくるような暮らしで、実直な人 うる 柄だけが財産の夫婦であった。彼女はときおり少し潤む声で話した。 「主人が美術展で入賞したの、大賞よ、やっと絵が売れるの」 「おめでとう、素晴らしいわ 急に目の冴えた杏子は自分のことのように嬉しくなって、繰り返した。 「それであなたはどうして病院にいるの」 「ちょっとした手術をしたの、三食点滴、麻酔付きだから、のんびりばんやり、目が覚 めたら夜でしよう、すぐあなたに報告しなくちゃと思って

7. 太陽は気を失う

210 ていた。タ陽を浴びた広大なバナナ園を走り抜けるところであったが、ひどく美しいも のに感じた。自分のほかにこんな景色を見る日本人はいないだろうと思い、持っていた カメラを向けたが、 あとで写真を見ると、そのとき見たものとは違う気がした。 「素人が情景を撮るのはむずかしいと分かった、ためしに絵にしてみると、少しずつ見 たものに近づいてくる、うれしかったね」 そう話しながら、木村はビールをうまそうに胃袋へ流し込んでいた。 「それからだよ、旅の荷物にスケッチブックが加わったのは、画法など学ぶ気もなかっ たからね、好きに描くうち、自然に今のような絵になってきた、むろん絵で食べてゆこ うなどという考えはなかったし、仕事中毒の毒消しとしてはじめたことが少しずつ膨ら んで実を結んだというだけだ、別に定年後を考えて用意していたわけじゃない」 それは邦昭の想像した通りであった。違うのは木村が本職よりも絵によって晩年を豊 かなものにしていることであった。するとそれまでの人間的な蓄積はどこへいってしま うのかと思う。第一線を退きながら生き生きとして見える男たちに邦昭が懐疑的になる のはそのためであった。第二の人生を意識するあまり、彼らは取りあえず夢中になれる ものに自足しているように思えてならない。野菜作りやマラソンも、 しいが、老いや孤独 を恐れて充実した人生を装う人たちの心の底が彼には見えてしまう。代償行動的な同じ 類いの生き甲斐が多すぎやしないかと疑いたくなる。

8. 太陽は気を失う

Ⅷ視する女の性で生活を無視することはできない。専門にしているモジリアニの研究も情 熱半分、生活半分という醒めた比重であった。 うな 知明は弱気になって自身の才能を疑うときがあるか、いっかは世間を唸らせるものを 描けるとも思っている。けれどもそのいっかが大問題で、晩年では麻美の苦労が報われ ないし、その前に人生に疲れてしまうだろう。生活が先決という考えにも一理はあって、 たいていの画家は流され、やがて自信を失い、描きたいものすら見失ってゆく。彼は美 大の理論と実践的な教育を受けて審美眼も技法も身につけたが、それで以前より佳い絵 が描けるということにはならなかった。よけいな知識と教養が邪魔をして、描くことを 愉しませてくれない。技法など知らない子供が描いた絵に素晴らしいものがあるのは、 無垢な感性だけで描き、何も気にしないからであろう。自分もそういうところへ戻りた いと思いながら、月に数枚の挿絵とたまの絵本に収入を頼る日々であった。麻美の支え なしには絵筆も持てない現実から、どうにかして抜け出さなければならない。しかし食 べるための仕事は邪魔でしかなかった。 小説のために入れる絵には自ずと制約があって、物語から食み出すことはできない 職人として腕を振るうだけである。達観し、独自の世界を持っ清方のようにはできない。 鉛筆描きの下絵を眺め、決断し、〆切まで時間のない仕事はスケッチかデッサン風に 仕上げる。文芸誌の挿絵が色刷りになるのは稀なので、彩色は滅多にしない。画紙も小 さカ

9. 太陽は気を失う

225 まだ夜は長い 温い風が出ている。前にもそうして帰ったような気がして、裕子を見ると、苦痛の表情 であった。 「俺はどこも病んではいない、ただ考えることがありすぎるだけだ」 彼は言ったが、 何も思いっかないままであった。 「まるでぶつつり人生が途切れてしまったようだよ、これからどうすればいいのか答え が見つからない」 「分かります、わたしにもそういうときがありましたから、でも手遅れにならないうち に病院へ行きましよう、今日、とてもよいお医者さまが見つかったのよ」 ーの駐車場沿 彼女は案外な力で、夫の腕を自分の首に巻くようにして歩いた。スー いに薄明かりがあって、がらんとした車道に二人の奇妙な影が伸びていた。夜風に吹か れて千切れそうな影を、女のひどく重たい靴音がつなぎとめている。邦昭は思うように ならない体を任せながら、そうしている間にも何かしら取り返しのつかないものが失わ れてゆくのを感じた。バ ーテンの一一一一口う通りだと思いなから、いつになく冴え冴えとする 目で夫婦の影を見ていた。

10. 太陽は気を失う

「ええ、そう」 「ひとっ確率の問題もある、卓也の進学のことだが、県内の国立しか道がないなら学部 をかえた方がいい、今の学力で工学部は無理だろう」 小西は不意に言い出した。 「浪人させるか私立なら話は別だが」 「そんな余裕はないわ」 「少し融通しようか . 「結構です、受験に失敗したら就職させますからー 彼女は言ったが、そういう形で子供を社会へ送り出すことは考えていなかった。小西 が卓也の学力を知っているのも思いがけないことで、二人はどこかで会っているのだろ 、つかと田 5 った。 「彼は君に遠慮している、本当は東京の私立が第一志望だよ」 「そうやって人の家のことに立ち入るのはよしてくださらない、あなたになんの関係が あるの」 「ひとりの若者の将来を左右するかもしれない大事だし、母親が知らないから、言って みたまでさー いつもそうして不意に切りつけてくる男に彼女はかっとして混乱した。他人の援助な