食べ - みる会図書館


検索対象: 太陽は気を失う
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1. 太陽は気を失う

量を減らすしかなかった。 、ロ支は汚いものでも見るように呆 夏の日、有り余る野菜を車に積んで川口へ帰ると不本 れた。 「ひとりでこんなにたくさん食べられないわよ、だいいちどこに置くの 「誰かにあげたらいい 三箱の段ボールに詰めた野菜は収穫のほんの一部であった。買えばそれなりの金額に なるもので、嫌われることなど念頭になかった園井は和枝の態度に戸惑った。ただでも ーへゆき、お金を払い、持ち帰る手間の らえるものなら喜ぶ女と思っていたし、スー いらない、上等の野菜であった。 「一箱でたくさん、人にあげるにしても見栄えがしないし、恥ずかしいわ。 彼女は言った。園井の中で何かが崩れた瞬間であった。 その晩、和枝は用意していた豪華な弁当をテープルに並べた。どこかで買ってきたも ので、澄まし汁だけが手作りであった。園井はおいしく食べたが、会話は弾まなかった。 る和枝は毎日こんなものを食べているのではないかと疑いながら、女ひとりの生活を汁の にように薄いものに感じた。 曜 次の朝、彼は二箱の野菜を車に積んで帰った。通い馴れた道を走りながら、家に着い たら捨てるしかないだろうと思い、そのころには和枝もそうしているだろうと思った。

2. 太陽は気を失う

300 治医の力量を調べることも忘れなかった。 「病院も医師も間違いないようだから、あとは任せるしかない 保護者のような顔で言った。英語圏のホテルで経験を積み、合理的な考え方を身につ けてきたせいか割り切ることに馴れていた。ホテルのバックオフィスでは決断の早さも 求められるのだろう。 「料理人が胃をなくすのは痛手だが、味見はできる、それも無理なら引退すればいい」 「引退して、どうして食べてゆくの」 「思い切って整理すれば、どこかでのんびり暮らせるよ、古い家は維持するだけでも苦 労だし」 彼は言ったが、千佳子にもそんなことは分かっているのだった。好きなようにできな い理由が身のまわりにごろごろしていた。 手術の成功と術後の経過を見極めて、光洋は仕事へ帰っていった。生家に未練はない らしく、世界のホテル業界で成功することを目指していた。いすれどこかの一流ホテル の支配人になるのだろう。 朝早く築地の病院へ向かうのが日課になってから、彼女の一日は刻まれるようににし く流れた。午前中に夫を見舞い、帰ると家の用事を済ませて昼の部を迎え、終わると帳 場に女中頭と板長代理を呼んで夜の部の手配を確認する。予約がなければ自分のために

3. 太陽は気を失う

落ち着かない瞳を伏せて、どうにか気持ちを直していると、 帰りにも食べたいな」 「おかあさん、これ、おいしい と愛弓は笑顔であった。 「いいわよ、用事が済んだら買物もしましよう、デパートへゆくのは久しぶりね . そう話すうちにも彼女は呼び戻されて、母親からひとりの女へ還っていった。 マンションとは名ばかりの四谷のアパートにひとり暮らして、麹町の海外旅行専門の 旅行社に勤めていたころ、彼女はときおり紀尾井町のホテルに泊まることがあった。夜 遅くまで働いても会社から家までは歩いてゆけたが、働くだけの日常に息苦しくなって いたこともある。給与の三割方を富山の実家に送り続けていたし、帰る部屋は大きな物 入れも同然であった。 ホテルの客室は必要最小限のもので整えられていて、そのひとつひとつが良質で、ア メニティグッズもお洒落であった。央適なべッドが市販のものと比べてもさほど高価で はなく、 空調のために毛布が消えてしまったことを知る人は少ないだろう。眠れずにバ っーで飲むお酒も、朝のラウンジのコーヒーも日常にない味を教えてくれる。大勢の人が いるにもかかわらす誰にも干渉されない空間は理想的な社会にも思われ、昌子はその一 さ部でいられる時間にほっとする。贅沢な一夜が過ぎると凡庸でせわしない日常が待って いるが、そういう特別な時間があるから、ひとりでも生きてゆける強い気持ちを保てる

4. 太陽は気を失う

142 見えている。今日までどうにかやってこられたのは麻美の理解と甲斐性のお蔭だし、ひ とつには足枷のない男と女だからで、離れられない夫婦だからではなかった。家賃のい らない棲みかを得たことは人生設計の足掛かりにはなるが、気が大きくなっていること も彼は自覚していた。 ねぎら 夕食のとき、少し疲れた顔の麻美を労いながら、いっそ絵本画家として一生を送ろう かと考え、芸術を趣味にする日々を思った。出版界は不況で文芸誌の挿絵の点数も減る 傾向にあるし、少額の画料を積み上げても食べてゆけない。 「絵本で成功するかどうか分からないが、今のところ可能性があるのはそれしかない」 麻美に話すと、彼女は反対した。 「油絵はどうするの、そのためにがんばってきたのよ」 「しかし芸術では食べてゆけないー 「志のある画家はみんな似たり寄ったりじゃないかしら、運よく認められるまで画壇の 端っこにぶらさがって自分と闘っている、食べるための仕事はそれぞれで、トラックを 運転している人もいるわ、あなたは絵に関わっていられるだけ幸せじゃない 「それも長くなると問題だろう、気力の問題もある」 「まだ三十六でしよう、時間はあるわー 彼女は明るく言った。そういう女が知明には哀れであった。 あしかせ

5. 太陽は気を失う

途な表情も優しくなって、苦い思いもするだろうが、トンネルの先は明るいなどと言った。 、小さな決断と後海を繰り返して、最 「そもそも人が思い通りに生きるのはむずかしい 後はどれだけ思い切ってきたかで納得するような気がする、君にも腹を決めてほしい 「まだそんなに生きてもいないくせに」 杏子も調子が出て切り返した。 やがてスッポンの雑炊が出て、食べたことのない彼女は恐る恐る箸をつけたが、すぐ 気に入った。薄味の中になんとも一言えない深みと好ましさがあって、絶品とはこういう ものかと田ハった。 「これ、おいしい」 「だから、そう言ったろう」 男も食べながら、彼女の幸福そうな顔を見ていた。 その前に今夜は家へ来てくれないか、君が暮 「ここにはまた来ることになりそうだが、 らすことになるかもしれない場所だし、見ておく方がいい」 「もし、そうならなかったら」 「なるに決まってる」 杏子は彼の気持ちが嬉しかったが、まだどこかで自分自身を疑うところがあって気後 れした。男の部屋を見てしまっては引き返せないだろうという気がした。自分をさらそ

6. 太陽は気を失う

常であった。 「いい喫茶店を見つけてね、コーヒーよりケーキが、つまいから買ってきた、ひとつは卓 也にやってくれ 彼は立ったまま話した。集中したい人を察すると二分もしないうちに帰ってゆくが、 ろくに話もせずに女の手仕事を眺めていることもある。 「人の子を気安く呼ばないでほしいわ、ケーキはあとでいただきますー 「機嫌が悪いね、働き過ぎじゃないのか」 「あなたのようにぶらぶらしていたら、この世界では食べてゆけませんから」 奈央子は材料の孔雀の羽を削り、終わるとノギスで寸法を測りながら、気のない返事 をした。小西はいつものように女の穴蔵を見まわしていた。たくさんある細長い材 ( 広ロの瓶や花生けに立てて整頓してあるが、女らしいものの見えない仕事場であった。 「君が浮子作りの職人とはね、未だに信じられないよ」 「わたしも信じられないわ、あなたこそ、どうしてこんなところにいるの」 「こんなところはないだろう、自分も住んでいるくせに お彼は皮肉に笑った。 東京湾の東側にある大学の工学部で大規模生産技術を学んでいた一一人が、四半世紀後 に孤独な手仕事で食べているのは人生の皮肉でしかなかった。いっか女が仕事を捨てて

7. 太陽は気を失う

夕方の時間に男性事務員がきて、病院として食べ物を提供できないことを詫びたが、 頭を下げるのは勝手にやってきた私たちの方であった。感謝しながら、少し気落ちした。 夜になり、待合室のみんなで持ち合わせの菓子などを分け合っていると、さっきの男性 事務員が茹で卵を配りはじめた。その日、たまたま自分のために買って車に置いていた ものだという。おいしくて、もったいなかった。介護福祉士の女性も前掛けのポケット からのど飴を配ってくれる。みんな優しい 待合室は露天のバイバスに比べたら極楽だが、病院なので救急車が来るし、次々と怪 我人が運ばれてきて眠れなかった。海藻まみれの人を乗せた担架がすぐ脇を通ってゆく。 重体の人は待合室の奥の処置室へ運ばれてゆき、忙しい医師と看護師と救急救命士の遣 り取りが聞こえてくる。 「車の窓ガラスを割って脱出したそうですー 「輸血の準備、海藻を切ってくれ」 「助かりますか」 「分からん、さっさと昆布と服を切れー そんな野戦病院のような怒声が響いた。ほんの十メートル先のところで人が死にかけ ているのに、何もできない私はなんとかひとりでも助かることを祈り、死んだように寝 ている母を眺め、低地で本当に死んでいるかもしれない人たちを思った。もう跡形もな

8. 太陽は気を失う

空腹で気力の尽きそうなタ暮れ、福島第一原発と第二原発に挟まれた富岡町に暮らす 従姉夫婦からメールが来て、脱出して東京の娘のところへ向かうので一緒に行こうと知 らせてきた。ガソリンがないので地元のスタンドを当たって待っていてくれという。私 は母に伝えて、実家と病院の間にあるガソリンスタンドへ出かけた。もしまた大きな地 震がきたら今度は助からないだろうと思いながら、母と二人で助かるために歩いた。明 かりの乏しい町を遺体があるかもしれない瓦礫に向かって下ってゆくのは恐ろしかった。 スタンドは明かりかついていたが、 人影はなく、殴り書きの看板が翌日の営業を告げ ていた。 「八時より、一台につき千円分のみ販売」 千円で何リットルになるのか私には分からず、一リットルでどれくらいの距離を走れ るのかも知らなかった。我ながら嫌になり、暗くなった道を引き返しながら病人のよう に唸った。 その夜、おにぎり一個と見事に黄色いたくあん一切れをもらった。たくあんは一口で 食べるのが惜しくて、十回ほど噛み切った。おにぎりはあと五個は食べられる気がした。 食後にやっと母がトイレにゆくというので付き添い、廊下の窓から故郷の夜を見るうち、 そこに残る人たちはこれからどうするのだろうと思った。東京に子供がいても都会では 暮らせない人もいるし、そもそも彼らが失った家には終の棲家が多い。私のそれは今の

9. 太陽は気を失う

120 るあまり、しどろもどろになってしま、つ」 「今の子はそうでもないさ、日本語よりうまいかもしれない」 夕食の時間はそれなりに愉しく、何か一言えば会話になる馴れがあった。妻の気配を感 じながら眠る夜も落ち着く。次の朝、帰ってゆく房総半島の家に和枝がついてくること はないが、園井はこの日曜があるから別におかしいとも思わなかった。 「そのうち野菜を持ってこよう、無農薬だから体にいいぞー 別れて帰ってゆくとき、彼はそう言った。 果して強い陽射しと雨のお蔭で野菜は順調に育った。小松菜、大根、空豆、胡瓜、 マト、ピーマン、茄子、玉葱、それに発育旺盛なゴーヤなどであった。丹精した畑には 草も生えたが、 野菜には収穫後のゴミにしかならない部分も多い。ゴミ袋が有料のうえ、 清掃車は都会ほど頻繁に来ないので、彼は大量に出る野菜屑を枯らして腐葉土にするこ とを考え、裏庭に穴を掘った。そこに刈り取った芝や草も入れ、ときには腐ってしまう 野菜や生ゴミも捨てたりした。蓋のできない大きな穴で、周囲を煉瓦で固めたものの、 雨ざらしであった。 やがて蠅が発生して穴は埋め戻したが、非常識なことをしては困る、と近所から苦情 が出た。食べきれない野菜をなぜ作るのか、海から食べない魚を獲って捨てるのと変わ らないとも言われた。考えさせられたが、作ること自体が愉しみであったから、次から

10. 太陽は気を失う

っ 1 -0 きようこ その日最後のメールを送り、夕暮れに京橋の事務所を出た杏子は家の買物のために近 くすみたつお くのスー ノ . ーへ向かいかけて、こちらへ歩いてくる久住達郎に気づいた。京橋といって も狭い通りの雑居ビルの一室に夫婦で営む会社がある。どうしてここに、と思う間もな く彼はそばへきて、 「やつばりひとりだったね と言った。近くの銀行で打ち合わせをした帰りで、会社へ電話をしてみたが誰も出な こまちっとむ いので歩いてきたということであった。夫の小町努が一緒だったらどうするつもりだっ たのだろう、と杏子は男の不用意さに呆れた。 「そのときは君を挟んで鮨でも食べるさ」 「困るわ、わたしはどちらを見ればいいの」 「もちろん勘定を払う人の方さ」 小町と仕事をしたことのある久住は気楽に考えていて、顔を合わせて困ることもない らしかった。もともと雑談の話題に困るような人ではないし、そこに仕事の匂いがすれ