健次郎 - みる会図書館


検索対象: 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年
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1. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

いなかった。コネチカット州ノーウィッチで一年間勉強した健次郎の英語は実用の域を超え、その 書体は流れるように美しかった。健次郎はまだ十八歳になっていなかったが、妹の運命を左右する 権限のあるワシントンの男たちに、自分の疑念をためらわすに表明した。 日本人の何たるかを学び終えていないような少女をアメリカへ送ることが、良い考えだと言える のだろうか。「こうした少女たちが我が国の道徳哲学を教えられなければ、彼女たちはあらゆるこ とをアメリカ人がおこなうように、でなければ自分勝手におこなうだろう。健次郎はチャールズ ランマンに宛て、行間に憤りをにじませてこのように英語でしたためた。「もしアメリカ人のように、 すなわち聖書の教えにしたがって行動すれば、彼女らは我が国の政府に罰せられる。アメリカ人が、 自分と同じ学校で学んだ少女たちが罰せられることを知って遺憾に思うかどうか私にはわからない が、日本人である私は、それをきわめて遺憾に思う」 会津侍の″道徳哲学″によって人格を形成された健次郎にとって、優先すべきことは、揺るぎな い儒教的な従順さ、階級制度、名誉だった。敗れた自分の藩に対する忠誠心を向ける先は、誇りに て 思う自分の出身国とその国の新しい指導者たちになってした。イ 、 - 印ぐべきは政府であって、聖書では め 求 健次郎はイエール大学シェフィールド 科学学校の入学試験に備えて詰め込み勉強をしていた を とき自分の使命に疑問を抱くことはかった。英語を覚え、物理学と工学を学び、帰国して、日本を家 章 導くために自分の技能を役立てるのだ。しかし捨松の任務とは何だろう。成長半ばの少女を異国に 第 十年間も実質的にひとりにしておいて、取り返しのつかないほど変わらないようにしておけるもの だろうか。そのような女性がどうやって日本の社会に再び人っていけるのか。ましてや手本になる

2. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

停戦とともに、若き明治天皇と臣下らは″東の都″で新しい慣習としきたりになじんでいった。 町人たちはこの町を、今は江戸ではなく東京と呼ぶのだと、自分に言い聞かせた。捨松の二番目の 兄の健次郎はこのとき十六歳で、東京で勉学にいそしんでいた。健次郎は、ひとりの僧侶の庇護を 受け、寺小姓のふりをして収容先を脱走していた。彼の非凡な学才に同情的であった長州の指導者 からも支援が寄せられ、翌年には偽名で生活しつつ勉強することができたのである。しかし、逃亡 者であることが噂になるたびに何度も居場所を変えねばならなかった。最終的に東京に落ち着くこ とができたが、相変わらす出自が不利に働き、格式の高い学校への出入りは拒まれた。東京に斗南 の荒れ野ほどの雪は降らなかったが、気がつけば健次郎は追放された家族とほとんど同じくらい飢 えていた。 明治初期に人生が闘いと知ったのは、敗者である会津人ばかりではなかった。新しい時代の名前 には、新しい指導者たちの意志が表われていたようにも思える。精力的で改革を志向する驚くほど 若い一団が台頭して、新しい日本を率い、自分たちの行動指針を、王政復古した天皇の詔勅として 手際よく提示した。天皇の支持を得て、こうした者たちが速やかに現状を瓦解させた。 将軍を権力の座から押し流した変化の波のあとには、昔と変わらない、根本的に藩に忠誠心を抱 く人間たちの不安定な連合体が残された。″ 日本″はいまだ抽象的な概念で、各藩はそれ自体が国 であった。共通の敵の敗退により、昔からの対抗意識が復活するおそれがあった。薩摩の″ィモ侍 と長州が徳川家に取って代わり、その本拠地を接収したが、両藩およびその他すべての藩は無傷の まま、それそれが自分の軍を保有していた。

3. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

捨松はうめの帰国を待ち望んでいた。末の子ももう十二歳になり、しなくてはならないことが多 すぎて重荷に感じていた。繁もますます忙しくなっていた。十五歳から六歳まで六人の子を抱え、 東京女子高等師範学校ではうめの分の講義もしなければならなかった。一八九九年〔明治三十二年〔 の一月四日、新年の休みのこと。うめが乗合馬車の二階に座ってこれから訪れる大英博物館やパ への小旅行に思いをめぐらせていた頃、日本では捨松が繁を自宅に招き、夜まで一緒に過ごした。 ふたりにとってめったにない貴重な場だった。 繁が女子高等師範でのニュースや噂を話題にした中に、高嶺秀夫校長が西洋の思想を広げようと 考えているという、耳よりな情報があった。高嶺は昔、会津の藩校で捨松の兄、健次郎の朋輩だっ た。後に健次郎がイエール大学で学んでいた頃、高嶺も隣のニューヨーク州北部にあるオズウエゴ ー師範学校に派遣されている。彼と健次郎は親友の仲で志も同じくし、教育とはただ教室で教科書 を丸暗記することではないと、留学によって心にきざんでいた。 アリス・べーコンが十年前に日本を去ってからすっと、日本の友人たちは、彼女の再来日を切望 していた。これは絶好のチャンスではないか。捨松が繁に高嶺校長への打診を頼むと、数日後、校 長が大山邸を訪れた。その晩、捨松はアリスに急いで連絡した。「彼はあなたのような人材を探し ておられるようでした」。彼女は自分にとって姉にも等しい人に告げた。学校の中でも外でも女性 の手本となるような「模範的なアメリカの女性」を探していると。「私が思うに、女子高等師範には、 生徒たちを正しく導くことのできる強い意志を持った外国人教師が必要です」捨松は続ける。「も ちろん日本であなたのやり方がいつでも通用するかどうかはわかりませんが、少なくとも高嶺氏は 306

4. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

街地に砲撃を加えるにいたった。イギリス軍のこの示威行為によって、薩摩は早い時期に攘夷があ まり現実的な方針ではないかもしれないことを認識した可能性がある。 それから数年後、かっては二本差しに絹の羽織をはおっていた黒田は、仕立てのよい西洋の軍服 を着用し、大きな口ひげを蓄えた明治の官吏になっていた。清隆は手本を西洋に求めてアメリカに 渡り、炭鉱、製材所、醸造工場を見てまわり、アメリカの農業および鉱業技術をつぶさに見学した。 そしてアメリカの専門家を招聘し、新たに設けた北海道開拓使への助言を請うた。北海道開拓使は、 隣接するロシアが我がものにしようと目をつけていた北方領地において、日本の存在を強化するた めに新たに設けられた機関だった。豊富な森林と漁場に恵まれた北海道は、古くからその地に暮ら し、熊をあがめる狩猟採集の民アイヌが住むのみであった。行き場を失って不満を抱き、金に困っ ていた武士階級の残党を送るのに、これほど良い場所がほかにあるだろうか。 黒田は日本に戻るとすぐに、有望な若い男たちを募り、外国で勉強をさせ、彼の理想実現の手助種 ン けをさせた。そのひとりが、東京で依然として苦学していた、捨松の兄の健次郎だった。健次郎は、 の その血筋にもかかわらす、いや、むしろ血筋によって選ばれた。敗北者という汚名によって会津の わ 名はすたれてはいたが、会津武士らの強靭不屈を疑う者はなく、また北海道での暮らしには、会津 の ん の寒い冬が格好の訓練と考えられた。一八七一年〔明治四年〔一月に、十六歳の健次郎は、洋服と いうよりは着物に見える、東京仕立ての洋風の上下を着、彼には二まわり以上も大きな人目を引く 章 白い中古の靴を履いて、船でアメリカへ向かった。 第

5. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

導を手伝えるだろう。 レベッカの助言に従って、べーコンは契約を承認した。少女ひとり当たり週十五ドルとして部屋 と食事を提供し、洗濯もこちらがおこない、また英語と算術と幾何の指導もおこなう。服、本、ビ アノのレッスン、治療費については別途支払われることとする ( レベッカはべーコン家のためにと てもよい働きをした。ノ】スロツ。フが最初におこなった、中国人少年たちの受け入れ家庭の募集で は、少年ふたり一組について週に十六ドルとされていた。これは日本と中国に対する、一般的なア メリカ人の姿勢の違いとも関係があるかもしれない。あるいは日本のほうが、学生を海外に送るこ とに関して相対的に熱心で、予算が大きかったからかもしれない ) 。 現実的な娘とは対照的にべーコンは、金銭すくではなく、まるで家族を迎えるような準備を計画 した。彼は、ファン・ネーメに次のように書き送った。「私たちは、彼女を単なる間借り人として 受け入れるのではなく、親のように世話し、親戚か近しい友人の子供であるかのように受け入れた 彼女は我々の孫のような存在になるだろう」 健次郎は満足し、妹がべーコンや彼の家族とともに教会に出席することさえ許可した。「だが捨て 求 松には宗教教育をしないでもらいたい、それは私がおこなうと彼に強く言った」と、健次郎は書い を ている。キリスト教信仰の実践は、日本では今も違法である。外からの影響を受けやすい妹を、そ家 の影響から守らねばならなかった。 章 第 沼地特有の湿気が乾いたそよ風に道をゆする頃、コネチカット通りの風変わりなこの小さな家族

6. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

人種のことは瑣末な問題だった。一八七二年にアメリカにいた少数の日本人ーーほとんどが士族 の出だった は、学ぶためにやって来て、母国に戻った。平等を求めたり、アメリカで就労した りはしなかった。自由になった奴隷は問題を抱え、中国人の労務者もアメリカ人には災厄だが、日 本人の学生だけは試してみる価値のある事業だった。彼らは勉学に励み、そして去っていく。ニュ ヘイ。フンに健次郎がいることが何よりの証しだ。ますいことになったとしても、すぐそこに彼が しかし未婚で中年のレベッカはーー教師をしてきようだいを養うのを助け、今は父親の右腕だっ この件に関して但し書きをつけた。彼女は、ニュ ーヘイブン近郊で学ぶ日本の若い男性た ちのひとりを受け持ったことがあるが、彼が重病になったという報告を受けてからは、日本人にあ まりよい印象を持っていなかった。「日本人はこの気候に十分には耐えられないので、この女の子 についてもその種の責任は負いかねます」。レベッカは、ニュ ーヘイブンの暑さを逃れて比較的涼 し丿ッチフィールド・ヒルズに行っていた父にそう書き送った。「彼らはひ弱な民族で、健康な 者を選んで送ってきているにもかかわらす、男なのにカ仕事ひとつできません。」 健次郎とファン・ネーメは報酬の問題をあれこれ話し合い レベッカは腕まくりして、この地域 のほかの受け人れ家庭と毎週の給費を相談して、しかるべき注意義務を果たした。「ホッチキス夫 人は十三ドルを提示しています」と彼女は父に話した。「でもどうやら、十五ドルでも多すぎると は思っていないようです」。べーコンの二番目の妻のキャサリンは、病気で床につくことが多かった。 下宿する学生は、歓迎すべき話し相手になれるかもしれす、べーコンの若い娘らは英語と音楽の指 116

7. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

込の家へ、うめは南西部の麻布郊外にある父の農園へ向かった。再び離ればなれになったふたりを 待っていたのは、日本人に戻るための教育だった。 一時間ほど人力車に揺られたあと、捨松は山川家の門口に立った。そこには母親の唐衣が待って いた。娘の帰りを待っと決めた思いが、ついに報われたのだ。健次郎もいた。六年前にニ = ー ブンで会ったときよりも背が高く、威厳を感しさせ、捨松が初めて会う妻も伴っている。健次郎は 東京大学の物理学教授となっていた。それまでは欧米から招かれた指導教授にしか与えられなかっ た職位だ。姉たちも捨松を出迎えた。長姉の双葉は週の半分を女子高等師範学校ーー日本で唯一の 女性教員育成学校ーーで暮らし、舎監を務めていた。操はロシアから帰国してフランス語の通訳と して働き、常盤は夫と幼い息子が一緒だった。奇妙な着物や靴を身に着けておかしな髪形をした、 見たこともない叔母さんが現れたので、息子はわっと泣き出した。とはいえ、その場で素直に感情 を表したのはこの子だけだった。十一年ぶりの再会でありながら、山川家の人々は日本人特有の慎 ましやかな喜び方で捨松を迎えた。 山川家は大所帯だったーー山川家三世代のほかに書生が三人、下男がひとり、女中が三人住み込 んでいるーーが、捨松がいささか困惑したのは、家じゅうでお客扱いされることだった。「気候や 服装が変わって私が体をこわさないかと心配して世話を焼き、気を遣ってくれるので、すっかり甘 えてしまいそうです」と、彼女はアリスに書き送っている。一日三食、近所のレストランから特別 注文の洋食が届けられる。かって受けたこともないほど丁重な扱いだったが、安心したことに長く 194

8. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

一方、健次郎は、捨松の英語が完全に母国語に取って替わることがないように、またアメリカ流 に気楽に育って自分が忠実な日本帝国臣民であることを忘れてしまわないようにさせていた。日本 語と儒教思想を勉強するために、ふたりは毎週会っていた。捨松は、ふたっとも英語でおこなう学 校の勉強よりすっと大変だとこぼしていたが、彼女の心に根付いた侍の自負はーーー少なくとも、キ ャリ ーのサイン帳に表意文字を誇示したりする程度にはーー健在だった。健次郎は一八七五年「明 治八年冖に学位を取得して日本に戻ると、妹に日本の政治に関する長い手紙を送り、遠くから指導 を続けた。捨松はその親切に感謝しつつも、家族のことをもっと教えてくれたらいいのにと思った。 捨松の教育は教室の外でも続した。。 し、 - ヘーコン家は決して裕福ではなかったが、レナード・べーコ ンはその信望により、ヒルハウス協会という、ニュ ーヘイ。フンの主だった研究者と実業家が定期的 に集まって奨学金、芸術、市の問題などを話し合うクラブの会員になっていた。会員の多くは、数 年前にチャールズ・デイケンズがアメリカで一番美しい通りと明言した、大邸宅と立派な楡の木の 立ち並ぶヒルハウス通りに住んでいた。ヒルハウスの妻たちには、貧しい女性や子供たちを援助す という彼女ら自身のグルー。フがあった。捨松は るために立ち上げられた " 私たちのソサエティー アリスと一緒に会合に出席して、生活の苦しい黒人家庭や、普仏戦争を逃れてきた難民たちのため に、服やおむつを縫った。ここで初めて捨松は慈善事業というものに触れた。個人がおこなう慈善 活動は、日本では知られていなかった。 、 ' ヘーコン家から通りを渡ったと 彼女らは勉強も遊びもする、ゆとりのある日々を過ごしてした。。 ころに、イエ】ル大学のサンスクリット語の教授でアメリカ東洋学会幹事でもあるウィリアム・ド 126

9. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

捨松の兄で、あと数週間で十四歳になる健次郎は、十代の若者からなる白虎隊という予備隊に参 加していた。ライフル銃を扱えるほど力が強くなかったため、彼はほかの年少の少年らとともに、 城の警護を手伝うよう送り帰された。健次郎は幸運だった。八月二十二日に、二十名の白い虎たち が指揮官とはぐれ、主力部隊から離れてしまった。翌明け方、丘の頂上から煙に包まれる自分たち の城を目にした少年たちは、最悪の事態が起きたーー自分たちの城が敵の手に落ち、藩主が殺害さ れ、藩が敗北したと思い込んだ。少年らは絶望し、皆がともにひざまずき自害した。二十人のうち 生き残ったのはひとりだけだった。この話は、武士の名誉を示す例として、教科書、観光バンフレ ット、漫画など、形を変えて今も描かれている。 捨松の一番上の兄の浩は二十三歳で、会津上層部に人望があり、隊長を務めていた。城を離れて いた浩の部隊に若松包囲の知らせが届いたときには、自分たちの部隊が防衛に戻るより先に、城の 周囲が敵に囲まれ突破不能になっているであろうことは明らかだった。そこで浩は一計を案した。 隊員らに小百姓の身なりをさせ、笛と太妓、そしてこの地で毎年おこなわれる獅子踊りの羽飾りの 戦 の ついた衣装を徴発し、踊りの一団に見せかけて白昼堂々練り歩いて城に入ったのである。大名は感 年 の 銘を受け、即座に浩にこの包囲攻撃の防衛を任せた。 龍 包囲された城壁内には、三千人の男とともに千五百人の女と子供がいて、作業部隊に振り分けら 章 れた。米を研いで炊く者、人で混み合い徐々に不潔になる城内を清掃する者、負傷者を看病する者、 日の離れた目をした八歳の捨松は何ひとつ見逃さないよ 薬莢を作る者もいた。何でも見逃さない、門

10. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

英語に目覚ましい進歩はないだろうということだった。そこで、一「三キロ離れたフェア・ヘブン に住む別の著名な牧師のジョン・・ 0 ・アポットが繁の受け入れに同意すると、その週の終わり に彼女は出発した。「私たちは、とても東洋的な顔立ちで物事の滑稽な面が大好きな繁とお別れす るのが残念たった」とべーコンは書いている。「たいていの場合、興味を引いたのは繁のほうだ」。 しかし健次郎と知り合っていたこともあり、彼の妹をよその家に送り出すことなどできなかった。 何にせよ、とべーコンは続けた。捨松の「素朴さ、聡明さ、そして親しみのこもった、信し切った 様子に、私たちは皆魅せられていた」 美子皇后が御簾の後ろから、ひざますく五人の少女を見つめていたときからその日までに、ほぼ 一年が経過していた。今そこにいるのは三人。そして三人のそれそれが初めて自分の場所にひとり で立った。こうして、アメリカでの教育が本格的に開始された。 122