大山 - みる会図書館


検索対象: 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年
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1. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

彼も戦いで負傷したが、おそらく捨松たちも手伝って作った 捨松も姉たちも城内を逃げまどった。 , 弾薬によるものだろう。十五年が過ぎて戦争は昔のことになり、しかも今、大山は陸軍で山川浩の 上司に当たる。だが、敵への恨みは心の奥から消えていない。山川家は申し出をきつばりと断った。 けれど、大山には表面的なことを別にすると、捨松と共通する点があった。一八七一年「明治四 年〕に捨松が岩倉使節団に伴われてサンフランシスコに渡った一カ月後、大山は反対の方向を目指 彼よフランス語を し、ヨーロッパの軍事技術を学ぶべく、フランスの郵便船でインド洋を渡った。 , 。 リには日本人が多すぎて勉強にならないためだ ) 。 マスターするためにジュネープに暮らした ( パ そして三年近い海外暮らしですっかりヨーロッパ趣味になって帰国した。大山は近代的な日本の指 導者たる者には、公の場にも出られて進取の気性に富む伴侶が欠かせないことをきちんと理解して いた。母から西洋の習慣を習えるのは、娘たちのためにもよい 大山の最初の妻は捨松と同い年だったが、前年の夏に産褥熱がもとで亡くなった。彼はまたその 死を悼み続けていたので、すぐに再婚するつもりはなかった。だが捨松は学士号を持つ日本でただ ひとりの女性である。英語を母国語のように話し、フランス語もできる。すらりとして優美で、落結 の っ ち着いた物腰。ドレスの着こなしも見事ならダンスの心得もある。これ以上の女性がいるだろうか。 話をてきばきと進めたのが、大山のいとこの西郷従道だった。農商務卿で在京の薩摩人のリタ 章 ー格だった彼は、仲介役を買って出て山川家の説得にあたった。西郷は個人として何度となく山川 家を訪ね、どこまでも家族の義務を重んじる彼らに言葉巧みに訴えた。確かに、薩摩と会津は過去第 に敵同士だった。だが新生日本の未来は、優れた国民が手を取りあって国家を導いていくことにか

2. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

実なようです」 この勝利に日本中の愛国心が湧きかえった。「我々はもはや日本人であることを世界に恥じない」。 これは日本初の総合雑誌『国民之友』を創刊した徳富蘇峰の言葉である。「これまで我が国は自身 が何たるかを知らす、世界も我が国を知るにおよばなかった。だが我が国の強さを試すにいたって 自らにも世界にも知らしめたのだー ( この国粋主義は勝利の一カ月後に打ち砕かれる。ロシア、フ ランス、ドイツが半島の返還を勧告したのである。そして世にいう三国干渉に対する反発が契機と なって、日本は新たな敵、ロシアに対抗することとなる ) 戦争によって日本は国際舞台で脚光を浴びたばかりでなく、名誉ある兵士の母や妻である日本女 性の地位もあがった。大山の名は海外の新聞にもたびたび載ったが、間もなくアメリカの出版界が 大山に劣らぬ英雄を見つけた。大山の妻である。賢人レオナルド・ べーコンの養育を受け名門女子 大学で学んだ大山夫人こそ、夫を支えた陰の功労者にふさわしい。「清国は日本に負けたおかげで 近代化を急ぐに違いなく、それも結果的にはアメリカの援助があったからということになる」と、 タイムズ紙は述べる。「というのも、アメリカに学び、アメリカで身につけた信条に基づき、多様 な手段や方策に専念した大山夫人が、大きな影響力を行使し、進取の精神を助けたに違いないと思 われるからだ」 上品で教養が高く、上流階級で優雅に振る舞う捨松は、アメリカの啓蒙が実を結んだ喜ばしい例 であり、新興国から指導者たる地位にの、ほった国家の象徴的存在と一一一一口える。「国に忠誠をつくしな がらアメリカで学んだ信条も忘れす、日本で女性の地位をあげるために努めようとしている」と書 288

3. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

飾られていた、とうめはランマン夫人に報告している。捨松はスイスに注文したブリリアントカッ トのダイヤモンドが三つついた指輪を大山卿から贈られた ( 私の骨ばった指には豪華すぎます、と 捨松はアリスに書いている ) 。けれども、うめの目から見ると、この重大な儀式は期待したよりは 平板だった。「すいぶんあっさりしていて、奇妙なまでに簡単に静かに終わりました」と彼女は述 べている。「捨松は家を出て別の家に入っていっただけです。豪華な衣装を着ていたけれど、家の 人たち以外に見られるわけでもなし、騒いだりもせず新婚旅行もなければ、歓声も万歳もなし」。 せつかく偉い人に嫁ぐのだから、もっと盛大な行事にしなければつまらないじゃないの。うめは不 満だった。 「だから、捨松が結婚したなんて思えないのです」 結婚式は大山の邸宅で執りおこなわれた。後日、友人や親戚知人は、象牙色の大きなカードにフ ランス語で流麗に書かれた招待状を受け取った。「陸軍卿大山巌は一八八三年〔明治十六年〕十一月 八日東京にて山川嬢と結婚しますことを謹んでお知らせ申し上げます」両家のもっとも親密な何人 かの知りあいだけが、そのあとの晩餐会に招かれた。出席したうめには、捨松が変わったように思 えた。「集まった貴族の夫人たちに対して完璧なホステス役を務めている彼女は、私の知っている 捨松ではありませんでした」うめは捨松とふたりだけで話したかった。結婚式はどんなだったの、 どんなすてきな贈り物をいただいたの ? でも、姉のように何でも相談に乗ってくれた捨松をつか まえるのは無理だった。「ほかの招待客の前では『すてまっ』などと呼ばすに『大山様の奥様』と 言うように気をつけなければ」。うめは納得した。「繁はほかの人がいようといまいと、いつだって 繁と呼べる。でも、捨松とはふたりきりでないと親しく話せないし、そんな機会は持てないでしょ 219 第 10 章ふたつの結婚

4. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

悩み抜いて痩せてしまいました」。うめはランマン夫人への手紙で語った。捨松から話を聞いたう めは、うらやましくもありほっとする気持ちでもあった。この劇的な展開により、捨松は、今まで 彼女たちが畏敬の眼差しで見ていた階級の人々をも一気に飛び越えた位置に立つだろう。彼女たち と一緒にフィラデルフィア百年祭に出席した前駐ワシントン公使の吉田清成も、今は東京に戻って いる。うめは続ける。「吉田様がこの話を聞いたときにどんな思いがしたことでしよう。だって吉 田様は私たちのことをほんの子供だと見ていたのに、捨松は世間から吉田夫人より格上に見られる でしようし、大山卿は吉田様より年上なのですから」 * 吉田夫人はもと芸者。生まれではなく結婚によって身分が高くなった。明治の政府高官にはひい きの芸者を妻にする者がいた。西洋文化に触れて恋愛結婚の観念を取り入れたばかりでなく、歌舞音 曲や会話術に長けた女性をめとれば外交上も役に立ったからである。 もう捨松が経済的な心配をすることはないだろう。「大山卿はお金持ちですし、おうちはフラン ス風のすてきな洋館ですから、捨松はいつも洋服で過ごせて、欲しいものは何でも手に入るでしょ うとうめは続けている。「捨松は素晴らしい社交の機会に恵まれ、舞踏会や晩餐会にも出られ、 紳士貴婦人と交流して婦人の能力をお偉方の男性に示せます。なんといっても " 大山夫人。なので すから、。うめは思いをめぐらせる。しかし同時に、捨松が「これからは私たちのスティームでも ヴァッサー大学の同窓生でもなくなり、看護婦や教師の職に就くこともないでしよう」とも記して いる。もはや大山卿の同僚の有力者たちが捨松の智恵を借りることもないだろうし、彼らの夫人た ちといえども捨松の教養にはかなわない。繁の家で夜ふけまでおしゃべりをすることもないだろう。 216

5. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

この頃になると、うめは大山夫人と会う機会が増えた。捨松が週に一度墨絵の研究会を開くこと になり、会費免除で誘われたのだ。うめは喜びをランマン夫人に伝えている。「すてきですよね、 こんなふうに楽しく友だちと絵のレッスンを受けるのは」大山は政府の命で。フロイセンの軍事体系 を学ぶためにヨーロッパに派遣されたところだった。捨松が同行するという話もあったが、彼女よ 体調がすぐれなかった。大山は単身で出かけ、一年近く別居が続くことになっていた。 夫の留守中、捨松は陸軍卿夫人としての公務から解放されたのを機に、結婚によって実現できる のを期待していた事柄に目を向けた。新年には皇后の通訳を務めるために二度目の参内をしたが、 そこでは失望の念を禁じ得なかった。「皇后の生活についてありのままを話したら、あなたは日本 東京に戻って忙しい日常が始まるのはうれしいものだった。週に三日の午前中は下田歌子の学校 で英語を教え、昼食後は伊藤家の家庭教師をして、週末には麻布の実家へ帰る。「いかに充実して いるかおわかりでしよう」と誇らしげに書いているが、内心では職業婦人としての生活に悩みを抱 えていた。アメリカで小学生のときに書いた作文『労働は祝福か呪いか』を思い出す。「もし楽し いことだけして生きていけるのなら、仕事なんかしたくない」。そんなことはあり得ないのを承知 で書いた。仕事をしなければいけないのなら、先生になりたい。でも一行ごとに自信が揺らいだ。「ご 存知のように、私はお裁縫なんか大嫌いでほかの家事も好きではありません。だから今は適職に就 いていると思います。私が一介の教師でも喜んでくれますよね ? 教師の仕事は尊いものなのです から」 239 第 1 1 章ひとりで生きていく

6. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

まるで未来が閉ざされてしまったかのようだった。 きっかり一週間後、うめがランマン夫人に切羽詰まった文面の手紙を書き送った。「お知らせす ることがたくさんあります。きっと驚かれるでしよう。この手紙が早くお手元に届きますように」。 そして当たり障りのない話題でじらしておいてから、彼女は切り出した。「さてここからがクライ マックスです。私のペン先は秘密を語りたくてうすうすしています。もう重大な秘密ではなく、捨 松も言っていいと言うので書きます。そうです。私たちの捨松が心を決めて、もうすぐこの国でと ても身分の高い貴婦人になるのですよ」 二カ月前冫、、 」こノエイクスピアの劇に出演した捨松を見初めたもうひとりの男性は、観客のひとりだ った。二重あごで恰幅のよい中年だが威厳に満ち、その晩の客の中でもとりわけ上流のその紳士は、 舞台の上の洗練された美貌の婦人をじっと見つめていた。捨松がポーシャ役で喝采を浴びて間もな 、彼女の兄たちに思いもかけない人物から正式な問いあわせがあった。大山巌。ときの陸軍卿が 末妹に結婚を申し込んだのである。 衝撃的な申し込みだった。大山は明治政府の重鎮で、歳は四十歳。妻を亡くしたばかりで三人の 幼い娘がいる。歴戦のつわものであり、軍服の厚い胸は武功の勲章で埋めつくされている。そして 薩摩の人間だった。会津の宿敵である。 捨松の家族は何よりもこのことに唖然とした。戊辰戦争の末期、悲惨をきわめた鶴ケ城の籠城戦 において、大山は包囲された会津軍に肉迫してきたイモ侍のひとりだった。彼が撃ち込んだ大砲に、 212

7. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

women 』改訂版 (Boston: Houghton, Mifflin, 1902 ) , 1 15 ページ。 [ 277 ] 私たちの少女時代の友情に愛を込めて : 同前 , 8 ページ。 [ 277 ] 彼女はごまかしたりせずに : 「 New l)ublications 」 , New-York Times, 1891 年 8 月 17 日。 これが我が帝国の優れたところであり : 「 The lmperial Rescript on Educa- tion ( 教育ニ関スル勅語 ) 」 , Children and Youth in History, ltem 136 , 1996 ~ 2014 (http://chnm.gmu ・ edu/cyh/primary-sources/136) 。 [ 278 ] 案じるほど困ることではないと思います : 大山捨松からアリス・べーコ ンへの手紙 , 1891 年 8 月 6 日 , TCA, 11-6-1 ( 3 ) . [ 278 ] 私に矛先が向けば大丈夫でしよう : アリス・べーコンからうめへの手紙 , 1891 年 8 月 9 日 , TCA, ル 3-4 ( 4 ) . [ 278 ] 教育と文化 : 前掲 [ 227 ] Rose, fTsuda Umeko 』 , 89 ページ。 日本茶と箸の夕食会 : コネティカット州ノーフォーク , Tower, 1891 年 8 月 13 日。 ・・ふさわしい伴侶となり : 津田うめ , 「 The Education ofJapanese women 」 , 前掲 [ 51 ] 「津田梅子文書』 , 引ページ。 [ 280 ] いいところしか見ていないのよ : 大山捨松からアリス・べーコンとうめ への手紙 , 1891 年 8 月 6 日 , TCA, ル 6-1 ( 3 ) 。 [ 280 ] あなたはあきれるかしら ? : 大山捨松からアン・サウスワース・ワイマ ンへの手紙 , 1893 年 5 月 30 日 , SYOP, Box 1 , Folder 8 , VSCO [ 280 ] 洋イヒ顧問係 : Akiko Kuno ( 久野明子 ) , fUnexpected Destinations: The poi- gnant story 0fJapan's First vassar GraduateJl Kirsten McIvor ( カースティン・ マカイヴァー ) 訳 (New York: Kodansha lnternational, 199 引 , 178 ページ。 [ 281 ] 彼女には我慢できません : 大山捨松からアリス・べーコンとうめへの手紙 , 1891 年 8 月 6 日 , TCA, ル 6-1 ( 3 ) 。 [ 281 ] 思慮深い方 : 山川捨松からアリス・べーコンへの手紙 , 1884 年 3 月 8 日日 , SYOP, Box 1 , Folder 5 , VSCO [ 281 ] 寄宿生たちがなんと言っていると思いますか ? : 大山捨松からアリス・ べーコンとうめへの手紙 , 1891 年 8 月 6 日 , TCA, ル 6-1 ( 3 ) 。 [ 281 ] 賢明な母上が : マリアン・ I) ・ホイットニー寄稿「 StematzYamakawa, prin- cess Oyama 」 , rvassar Quarterly 』 , 1919 年 7 月 , 270 ページ。 [ 282 ] 天皇は午後一時から十時まで : 前掲 [ 232 ] Kuno, fUnexpected Destina- 』 , 180 ページ。 tl()ns [ 282 ] 優秀かっ勤勉な学生である : Yoshiko Furuki ( 古木宜志子 ) , 「 The White PIum, a Biography of Ume Tsuda: Pioneer in the Higher Education of Japa- [ 28 引私と同じように : 「 Questions [ 0 SpeciaIists 」 , [ 282 ] [ 279 ] 妻は・・ [ 279 ] [ 277 ] : 同前 , 85 ページ。 ミス・トーマスが・ nese Women 』 (New York: WeatherhilI, 199D , 月 22 日。 [ 284 ] 世の既婚女性が 86 ページ。 Japan Weekly Mail, 1893 年 7 ・・よくないわね : アリス・べーコンからうめへの手紙 , 出典と注釈 ( 30 ) 358

8. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

かっている。会津出身の才媛と英雄の誉れ高い陸軍卿ーー古き短歌から新しい国歌の歌詞を選んだ 男・ーーが結ばれたら、すべての日本国民が過去のいさかいを水に流してひとつにまとまる手本とな るだろう。このように畳みかけられては、容易に断れない。山川家は侍の一族としての矜持を保つ ていながらも、西洋の考え方も柔軟に受け入れていたので、自分たちだけで決めるつもりはないと いう返事をした。捨松本人の選択にゆだねると。 一年前の彼女なら、こんな結婚話には取りあわなかっただろう。大山がどんな人物かも知らす、 政治家で、父親ほども歳が離れている。ポーシャが最後にバサ ] ニオではなく公爵と結婚するよう なものだ。これまですっと、日本における女子教育の普及に努めようと考えてきたのに、大山に連 れ添うことなどどうしてできよう ? 相手が誰でも同しこと。 だが帰国後の数カ月で、自分に適した仕事にも就けなければ、祖国の女性の地位向上という大き な課題においても何もできないことを思い知らされた。日本語の読み書きが身につくまで英語の家 庭教師をしてこっこっと働き、いすれ姉のように師範学校の教員になるという道もある。だが、教 室で女生徒たちを前にして一生を送ることが本当に日本の社会のためになるのだろうか。 十一歳で祖国から引き離され、人生の半分を異質な存在として過ごして来た。まわりを見ても日 本人の少女はたいてい自分ひとり、という世界で。そのうえ、これから一生を未婚の女性として過 ごす必要があるのだろうか ? 祖国でもまた異質な存在となって ? 以前は繁がいて、宙ぶらりん の気持ちを分かちあえた。彼女が結婚してからはうめだけになったが、うめは同志とは呼べない。 今や捨松の目に浮かぶ未来は、荒涼たる孤独に震える自分の姿だけだった。大山巌を愛しているわ 214

9. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

tion,Box 160 , Fo 旧 er 2 。 [ 引 8 ] 殿方のエスコートぶりは : うめからアデリン・ランマンへの手紙 , 1902 年 3 月 22 日 , 前掲 [ 188 ] Furuki fAttic Letters 』 , 380 ~ 381 ページ。 [ 引 9 ] 思い起こすのは : 読売新聞「洋行の夢」 , 1902 年 3 月 22 日。 それは楽しい夜でした : うめからアデリン・ランマンへの手紙 , 1902 年 3 月 22 日 , 前掲 [ 188 ] Furuki fAttic Letters 』 , 380 81 ページ。 [ 321 ] 仕事がうまくいき : うめからアデリン・ランマンへの手紙 , 1902 年 1 月 22 日 , 前掲 [ 188 ] Furuki 「 Attic Letters 』 , 378 ~ 379 ページ。 [ 322 ] 教師の職を辞することになる : 生田澄江 , 『瓜生繁子もう一人の女子留 学生』 ( 文藝春秋 , 2009 ) 203 ~ 204 ページ。 [ 322 ] 私に関しては : 1882 年度「 Class 。 f ' 82 」大山捨松 , 「大山 ( 山川 ) 捨松」。 SYOP Box 2 , Folder 4 , VSCO [ 32 引こんなに笑ったのは何年ぶりかしら : マリアン・ p ・ホイットニー寄稿 「 Stematz Yamakawa, princess Oyama 」 , 「 vassar QuarterIyJ , 1919 年 7 月 , 269 [ 324 ] 何だか不思議だけれど : うめからアデリン・ランマンへの手紙 , 1882 年 11 月 23 日 , 前掲 [ 188 ] Furuki 「 Attic Letters 』 , 14 ~ 19 ページ。 [ 324 ] 出航するまではいられませんでした : うめからアデリン・ランマンへの 手紙 , 1902 年 4 月 21 日 , 前掲 [ 188 ] Furuki fAttic Letters 』 , 382 ページ。 [ 引 9 ] 第 15 章晩年 [ 3 引 ] 懐かしい団欒 : 「ワシントン以来の懐かしい団欒」 , 朝日新聞 , 1916 年 10 [ 330 ] 悪魔の代理人 : Rose, 「 Tsuda UmekoJ, 146 ページ。 12 日 , SYOP, Box 1 , Folder 5 , VSCO [ 330 ] 近頃の若い女性は : 大山捨松からアリス・べーコンへの手紙 , 1912 年 3 月 [ 330 ] 真の仕事とは : Rose, 「 Tsuda Umeko 』 , 150 ページ。 so-Kwai 」 , 1908 年 7 月 , 前掲 [ 51 ] 「津田梅子文書」 119 ページ。 [ 330 ] 新しい世代の自己中心的な女性 : 津田うめ , 「 To the Members of the Do- [ 329 ] 元始 : Rose, fTsuda UmekoJ] , 142 ページ。 DayExercises 」 , ポキプシー・イーグル紙 ( ニューヨーク ) , 1909 年 6 月 9 日。 [ 328 ] 彼女の話し方はゆっくりと慎重で : 「 BriIIiant Feature Mark the vassar Class 7 日 , SYOP, Box 1 , Folder 12 , VSCO [ 327 ] かわいそうな捨松 : 瓜生繁子からアリス・べーコンへの手紙 , 1908 年 7 月 1908 年 1 月 8 日 , SYOP, Box 1 , Folder 5 , VSCO [ 327 ] あの子になぐさめられています : 大山捨松からアリス・べーコンへの手紙 , ンへの手紙 , 1907 年 1 月 10 日 , SYOP, Box 1 , Folder 5 , VSCO [ 327 ] 高には心配させられどおしだったけれど : 大山捨松からアリス・べーコ 手紙 , 1904 年 9 月 27 日 , 前掲 [ 188 ] Furuki fAttic Letters 』 , 417 ~ 418 ペ [ 325 ] 入塾希望者がどんどん増えています : うめからアデリン・ランマンへの 353 出典と注釈 ( 35 )

10. 少女たちの明治維新 : ふたつの文化を生きた30年

プ場は、十六頭の賢いイングリッシ = ・シー。フドッグと、日本家屋に似せて建てられた宿泊施設を 売りものにしていた。アリスは宿泊客に、アメリカで正式な日本風呂を楽しめる施設はディー。フへ イブンだけだと自慢していた。このキャン。フ場は、ファミリ ーキャン。フ場として今も残っている。 ヘイブンのセンター 一九一八年「大正七年〔、アリスは六十一歳で生涯を閉した。葬儀はニュー チャーチで執りおこなわれた。牧師たったアリスの父が毎週日曜日に説教をしていた教会である。 アリスは生前、ふたりの日本人養女にディー。フヘイブンを遺贈した。 , 彼女の死は東京の友人たちに 打撃を与えた。陽気なアメリカ人ならではの見識にあふれる手紙を、皆、頼りにしていたのだった。 なかでも二年前に不幸に見舞われていた捨松は、アリスの訃報に接して、さらに孤独を深めたに 違いない。実は一九一六年〔大正五年冖の暮れ、初孫の男児誕生の二カ月後のことだったが、大正 天皇の陸軍演習行幸に随行していた大山巌が、その帰途に病に倒れたのである。大山を頼りにして いた大正天皇の命により侍医が派遣され、見舞の品が届けられたり、滋養のあるスー。フが届けられ たりしたが、大山はそのまま帰らぬ人となった。天皇の意向により国葬が執りおこなわれたあと、 次男の家に身を寄せた捨松は、公の場にはほとんど姿を見せなくなった。「夫を失った痛みを手紙 で伝えるだけでは、私の悲しみは薄らぎそうにありません、と、捨松はアリスへ書き送っている。 捨松はアリスに日本へ来てもらい、未亡人となった寂しさをなぐさめてほしかったのだろう。 第一次世界大戦で日本軍も動員されていたが、捨松は赤十字の活動から退き、息子の嫁にあとを 託した。女子英学塾の理事は辞めすにいたが、うめの病状が悪化して後任者選びが急務となってい た。一九一九年〔大正八年〔、うめはついに塾長を辞任。捨松は、アリスの養女で日本に戻ってい 332