達する、専門の訓練を受けた常備軍。産業振興。だが南方の藩に自分への支持を説くには、時すで に遅かった。 幕府への不満をくすぶらせる者たちはひとつの地域に限られていたわけではなかったが、潤沢な 薩摩と長州には特に多く集結していた。歴史的に犬猿の仲であったこのふたつの藩は、一八六六年 までに秘密同盟を結び、返り咲いた天皇が率いる新しい政府を、幕府に取って代わらせることを誓 っていた。薩摩と長州の両藩は、将軍方の盟友たちよりも軍備が充実し、組織立っていた。そして 賢明にも錦の御旗を押し立て、自分たちの主張は天皇が正当性を与えたものであることを示し、巧 みに相手を朝敵と位置づけた。 激しく対立していた両陣営の見解は皮肉にも、このときには大筋で同し方向を向いていた。年を 追って西洋の軍艦との遭遇は暴力的な様相を帯び、不満を抱えた志士らの唱える反動的排外主義は 非現実的なものに映り始めた。やがて外国人を排斥するという妄想にまともに取り合う者はなくな り、両陣営とも、内外の脅威に対処するには、儒教道徳をよりどころに統一された日本を、輸入し た西洋の兵器と産業技術によって強化するほかないと確信するにいたる。だが薩長の若く血気盛ん ゃぶ な改革者たちは、何世紀もかけて将軍のまわりに生い茂った官僚制度という藪に、大鉈を振るう決の の 意をしていた。 龍 勤王家らが南日本で力を結集するにつれ、徳川家の指導力はぐらついた。慶喜は全面的な市民戦 章 争を勃発させることなく将軍を退いた。彼の忠実な盟友たちは、はらわたが煮えくり返る思いをし 第 たが、この行動こそ、慶喜が政治的な状況を正確に把握していた証しであり、おかげで流血の惨事
停戦とともに、若き明治天皇と臣下らは″東の都″で新しい慣習としきたりになじんでいった。 町人たちはこの町を、今は江戸ではなく東京と呼ぶのだと、自分に言い聞かせた。捨松の二番目の 兄の健次郎はこのとき十六歳で、東京で勉学にいそしんでいた。健次郎は、ひとりの僧侶の庇護を 受け、寺小姓のふりをして収容先を脱走していた。彼の非凡な学才に同情的であった長州の指導者 からも支援が寄せられ、翌年には偽名で生活しつつ勉強することができたのである。しかし、逃亡 者であることが噂になるたびに何度も居場所を変えねばならなかった。最終的に東京に落ち着くこ とができたが、相変わらす出自が不利に働き、格式の高い学校への出入りは拒まれた。東京に斗南 の荒れ野ほどの雪は降らなかったが、気がつけば健次郎は追放された家族とほとんど同じくらい飢 えていた。 明治初期に人生が闘いと知ったのは、敗者である会津人ばかりではなかった。新しい時代の名前 には、新しい指導者たちの意志が表われていたようにも思える。精力的で改革を志向する驚くほど 若い一団が台頭して、新しい日本を率い、自分たちの行動指針を、王政復古した天皇の詔勅として 手際よく提示した。天皇の支持を得て、こうした者たちが速やかに現状を瓦解させた。 将軍を権力の座から押し流した変化の波のあとには、昔と変わらない、根本的に藩に忠誠心を抱 く人間たちの不安定な連合体が残された。″ 日本″はいまだ抽象的な概念で、各藩はそれ自体が国 であった。共通の敵の敗退により、昔からの対抗意識が復活するおそれがあった。薩摩の″ィモ侍 と長州が徳川家に取って代わり、その本拠地を接収したが、両藩およびその他すべての藩は無傷の まま、それそれが自分の軍を保有していた。
てノミの餌食となり蚊の大群に悩まされながらも、家族の役に立とうと努める毎日。客にお茶を出 したり部屋を片づけたり、日本語を勉強して七人の弟妹たちをしつけたり。ときには大事なピアノ を弾いて心をなぐさめる。ランマン夫妻がうめの留学給付金の残りで買ってくれたものだ。ほとん ど無傷のままはるかワシントンから海を越えて来て、津田家の狭い応接間にでんと居すわっている。 ジョージタウンではエ リートの娘で通っていた。だが、ここ東京では津田家の社会的地位はかな りあいまいだった。父の津田仙は、うめがアメリカで暮らす間に進歩主義の理念を掲げてさまざま な活動をしていた。一八七三年〔明治六年。にウィーンの万国博覧会に出席し、帰国後の数年間は 女子のミッション・スクールや盲聾唖者の学校、農学校の設立にたすさわった。近代的な啓蒙学術 団体「明六社」の会員として、日本の指導者たちの中でも優秀な人材と親しく交わった。短期間に 終わったが、商業的に成功を収めた発明品もある。「津田縄」という、オランダから取り入れた受 粉の技術で、蜂蜜を塗った毛糸の縄で穀物の穂をこするものだ。グラント大統領訪日の栄誉に浴し た折は、津田仙が記念の植樹の手配をしている。 て だが仲間の士族から見れば、農業に打ち込む津田仙は落ちぶれたも同然であり、アメリカ仕込み 生 で の平等主義は急進的でついていけなかった。なにしろ、彼自ら侍という肩書きを捨てて「平民 , と なったほどなのだ。キリスト教を受容した点でも変わり者という目で見られた。うめが帰国する頃ひ 章 には外国のものを何でもよしとする風潮がすたれ始めていたために、父の社会的な影響力は弱くな っていた。しかも、うめは父がクリスチャンになっていたことを喜んだが、改宗する少し前に使用第 人との間に子をもうけていたことを知って、ショックを受けた。侍の家ではごく普通のことでも、
デロングだった。。 テロングは生粋のニューヨークっ子で、十七歳になる頃には、サンフランシスコ の金鉱地で一山当てる夢を追いかけていた。投機的事業を弁護士稼業で補いながら政界に進出した デロングだが、そこでは彼の理想主義的資質ではなく、たぶんに便宜主義的な資質が明らかになっ た。日本での公使の役職を一八六九年〔明治二年〔に引ぎ受けたが、魅惑的な外交生活に、アヒル が水になじむようにきわめて自然になじんでいったのである。彼の天性の魅力が、常に彼を助けた。 しかし埠頭の見物人たちの目を釘づけにしたのは、もうひとりの人物だった。その男は、前を紐 で結んだ、刺繍の施されたミッドナイトブルーの礼服に身を包み、華奢な体の背筋を伸ばして、厳 粛な面持ちでたたすんでいた。長さの違う二本の太刀が帯から下へ伸びている。頭の側面の毛を剃 、残った毛を髷に結った上に黒い塗りのかぶり物をかぶり、それをあごの下にしつかりと紐で括 りつけている。それは帽子というよりは箱のようだった。 里 いくつきりした眉根が鷲鼻に迫り、ロはヘの字に結ばれ、半ば閉したような目が、眼下に群れ ち る人の波を見渡している。右大臣にして特命全権大使の岩倉具視は、堂々たる第一印象を与えた。 人 かって明治天皇の父の宮廷で侍従を務め、次いでその息子である明治天皇が権力を奪還するための 客 工作で中心的役割を果たした彼は、日本の過去と未来を体現する人物だった。 深 岩倉の後ろには、彼に比べれば優美さに欠ける大勢の随行員がいた。洋服は着ているものの、そ興 れはある記者の表現を借りれば「ノアの洪水この方、もっとも英国とかけ離れた英国風既成服」だ 章 った。船が無事に停泊すると、隙のないいで立ちの地元の名士の一行が、異国の訪問者たちに挨拶 しようと乗船してきた。にこやかな笑みとともに手を差し出した名士たちに、かしこまってお辞儀
導を手伝えるだろう。 レベッカの助言に従って、べーコンは契約を承認した。少女ひとり当たり週十五ドルとして部屋 と食事を提供し、洗濯もこちらがおこない、また英語と算術と幾何の指導もおこなう。服、本、ビ アノのレッスン、治療費については別途支払われることとする ( レベッカはべーコン家のためにと てもよい働きをした。ノ】スロツ。フが最初におこなった、中国人少年たちの受け入れ家庭の募集で は、少年ふたり一組について週に十六ドルとされていた。これは日本と中国に対する、一般的なア メリカ人の姿勢の違いとも関係があるかもしれない。あるいは日本のほうが、学生を海外に送るこ とに関して相対的に熱心で、予算が大きかったからかもしれない ) 。 現実的な娘とは対照的にべーコンは、金銭すくではなく、まるで家族を迎えるような準備を計画 した。彼は、ファン・ネーメに次のように書き送った。「私たちは、彼女を単なる間借り人として 受け入れるのではなく、親のように世話し、親戚か近しい友人の子供であるかのように受け入れた 彼女は我々の孫のような存在になるだろう」 健次郎は満足し、妹がべーコンや彼の家族とともに教会に出席することさえ許可した。「だが捨て 求 松には宗教教育をしないでもらいたい、それは私がおこなうと彼に強く言った」と、健次郎は書い を ている。キリスト教信仰の実践は、日本では今も違法である。外からの影響を受けやすい妹を、そ家 の影響から守らねばならなかった。 章 第 沼地特有の湿気が乾いたそよ風に道をゆする頃、コネチカット通りの風変わりなこの小さな家族
となった。そのときの様子を、うめはブリンマー大学の友人への手紙に興奮気味にこう記している。 「私が辞職を申し出たとき、誰も本気にしませんでした。辞めるまですいぶんもめたし、これから 進む道にも困難は待ち受けているでしよう。でも、とうとう私は " 自由。 ( この言葉にうめは二重 線を引いている ) になったのよ。背水の陣を敷くという状況ではあるけれど、これからは官職とい う立場から解放され、女子教育の発展のためだけに純粋に働ける。「保守的なものや古いしきたり とは決別し、一平民として、やりたいことをやりたいようにやるつもりです、父親と同しく、うめ も進歩的な理想を追求するため官位を返上した。 うめがブリンマー大学学長マーサ・ケアリ ー・トーマスへ宛てた手紙は、もっと感情を抑えた筆 致になっている。「政府の学校を辞職するにあたっては、民主的なアメリカでは想像できないよう な困難がありましたが、とにかく無事に辞職することができました。けれど、日本の知人に私の事 業の援助を頼めるようになるには、あと二、三年はかかるでしよう」東京のエ リート層はうめの事 業に理解は示しても、資金援助までしてくれる見込みはなかった。当時の日本では慈善バザーは盛 況だったものの、慈善活動は根付いていなかったのである。とはいえ、うめの事業が軌道に乗れば、 外国人が資金を出す可能性はあった。うめとアリスは、事業を本格化する前に山間の温泉場へ行き、 そこで短い夏休みを過ごして英気を養った。うめは。フリンマー大学時代の友人たちに「手紙をくだ さい。私を勇気づけて . と書き送っている。 私塾を開校するのに、ます必要なのは建物であったが、うめが思い描いていた私塾は生徒の学び 舎と住居を兼ね備えたものだった。教師と女子学生がひとっ屋根の下で生活をともにし、人格的な 引 2
十九世紀が終わりに近づくにつれて、誰もがどんなに成功を収めても納得がいかないようだった。 繁は子供と高潔な夫に恵まれ、教師の仕事に誇りを持っているが、すべて並立させることが難しく なってきていた。うめは二度目の留学で教育事業家としての才能を発揮し声価が高まったが、華族 女学校が保守的な考えを脱却しないことにいらだっている。捨松は日清戦争が勃発すると俄然精力 的に働き、その甲斐あって大山卿の名声は高まり続けた。勝利のあと、天皇は彼を伯爵から侯爵に あげ、皇太子の教育係に任命した。たが、確かに繁ゃうめより高い知性に恵まれながらそれを生か せる機会には恵まれす、地位と家庭に縛られて身動きがとれない。アメリカでいくら称賛されても 日本ではほとんど認められないことが、精神的な負担となっている。 かって家族を持って夫の力に頼らす日本の役に立てる女子を教育する学校を設立する夢をともに 抱いた姉とも慕うアリスに、捨松は熱意よりあきらめの境地で手紙を書いた。「夫は年々太ってい きますが、私は痩せていくばかりです」 295 第 13 章前進と後退
「もう絶対に結婚の話題を出さないでください」。東京に戻って初めて迎える初夏の頃に、うめは ランマン夫人に抗議した。「耳にするのも話題にするのもいやです。私は自分で望まない限り結婚 はしません」。うめと捨松と繁は三人だけの国に住んでいたようなものだった。小さいけれどなん の心配もない国に。今はすべて変わってしまった。友情は続いているが、少なくともうめから見れ ば三人の国はひとりぼっちの国になってしまった。 結婚などしないと決めた以上は仕事を探さなくてはならない。 うめの強みは、英語と西洋的思考 を教えることにかけては国内に勝るものなし、ということだった。だが運の悪いことに、その頃急 に、そういう技能は日本人が必す習得したいものではなくなっていた。維新直後は熱狂的に西欧の 思想に傾倒したが、十年もすると、その激しい変わり方に改革主義者といえども食傷気味になって きたのである。「数年前までは、外国のものなら何でも喜ばれ、開化のかけ声ばかりでした。とこ ろが今では日本風のものが優先されて、外国のものはただ外国風だから、という理由で否定的に見 第Ⅱ章びとりで生きていく 221 第 1 1 章ひとりで生きていく
′ストレンジャ というべンネームの生徒が、ヒルハウス・ハイスクールの生徒会誌「落ち穂 拾い」の創刊号に「私たち日本人の多くは急進論者だ」と書いていた。「科学と文明のこの世紀に、 私たちは中世の人たちのような人生を歩みたくない。変化と近代的な進歩を私たちは望む」 は捨松と思われる。クラスメートには留米幼童の少年四人がいたが、彼女よ 当時のヒルハウスで唯一の日本人だった。記事の内容もまた彼女の経歴を思わせるものだった。健 次郎の指導は功を奏し、妹の捨松はアメリカで成人したが、今も自分を日本の娘と考えていた。日 本は強い決意の下に西洋的な文明開化へと一気に歩みを進めが、日本の娘には急進的すぎてついて いけない考え方が、まだいくつかあった。ストレンジャーはきつばりと言う。「ひとつは女性の権 利である。私たちには、日本では女性が政治集会で議長をしたり、裁判官席で判決を読み上けたり、 説教壇に上がって神学の説教をしたりするようにできているとは思えない」。公民権運動の活動家、 スーザン・・アンソニーやエリザベス・キャディ・スタントンは、ここで言われたほど高い目標 第 8 章ヴァッサー大学にて ″ストレンジャー 148
たちに知られたくなかったのでー アリスは常に独自の考えをしつかりと保ち、しかも開放的だった。新しい環境も彼女らしい熱意 をもって丸ごと受け入れた。毎朝学校に出勤するたびに、判を押して登録する。「私は正しい向き で判を押すことを覚えて、日本語で書かれた名前も読めるようになり、無知だった頃に比べれば素 晴らしい進歩だと思う。。苦笑まじりだが満足げだ。始業のベルが鳴り、五十分後に用務員が拍子 木を打ちながら廊下を歩いて授業の終わりを知らせる。各授業の間には儀式ばったお辞儀が繰り返 される。「全体的にとてもきちんとしていて、授業の始まりと終わりのマナーにはすっかり感心した」。 アリスは述べている。「アメリカの学校に取り入れたら、啓蒙的な効果があるかもしれない」 アリスにとって授業に劣らずうれしかったのは、数年ぶりに捨松と再会して、育ち盛りの子供た ちと接する機会が持てたことだった。捨松は一八八六年〔明治十九年〔の冬に嫡子、高を出産し、 夫を大喜びさせた ( 大山は、四人娘にもうひとり加えたかったが、こんな不細工な子は男の子でよ る かった、などと照れ隠しを口にした ) 。だが高を産んでから、捨松の健康はすぐれなかった。彼女来 は一八八六年〔明治十九年〕のコレラの流行のあとに流産を経験している。長男の出産後にすぐま 東 ス た妊娠していたが、喉が痛いと言う娘に吸入器を使って看病していたところ、この吸入器が爆発し ア て顔に熱湯を浴びた。そのショックで早産したのだ。赤ん坊は女の子だったが、二日後に死んでし 章 まった。捨松は心身ともになかなか回復しなかった。 第 そんな状況でアリスの来日は心の支えとなりなぐさめとなった。捨松には彼女がぜひとも必要だ ったのだ。度重なる妊娠や病気に加え、この鹿鳴館の貴婦人は、ことあるごとに保守的なジャーナ