政治家は、総理の側近として陰から政権を支え、新しい内閣では有力閣僚に抜擢さ れると噂されていた。十月二十九日の夜、日本料理店の座敷に総理番を集めて「お疲 れさん会」を開いた。官邸の外にいる政治家が、官邸記者をわざわざ招くのは異例の ことだ。総理に「あなたの五年間を支えたのは私だ」と強調するための策にも見える。 組閣が一週間あまりあとに控えている。現総理が新総理を押しのけて、好きなだけ影 響力を行使するという憶測が飛んでいた。 この日、天皇陛下は退院後に初めて吹上御所の庭を散策された。皇后陛下とともに べランダからバラ園に降りられ、そこから歩かれ始めてススキの穂を手に取られた。 侍従は「懐かしそうな表情をなさった」と話した。 政治家の問いに天田原は「生まれたのは大磯です。海外は一歳からです」と、切る ように答えた。政治家は次の言葉を待ったが、天田原はビ 1 ルのグラスを持つ手を正 座した膝小僧に置いて黙っている。政治家は何かを言おうとして口を閉じ、右隣の佐 久木綿子記者へ顔を向けた。常石の通信社にいる佐久は、紺のスカートの膝を楽に崩 している。 「あんたはニューヨーク生まれだよな。やつば、南米よりかセンスがいいからすぐ思 ばってき
過青山繁晴 9 7 8 4 5 4 4 4 2 4 9 9 9 1 9 2 0 1 9 5 0 0 5 4 0 0 昭和天皇崩御の「 >< ディ」はいっ訪れるの一凱 か。その報道の最前線にいる記者・楠陽に関一旺 係者が衝撃のひと言を洩らした。「陛下は吐花 血。洗面器一杯くらい」。その時、現場で何一繃 が起こっていたのか。そして新元号を「平 成」に決めた、政府の知られざる思惑とは。 著者自身の記者時代の経験を源に、圧倒的な リアリティーと臨場感で紡ぎ出す傑作小説。 幻冬舎文庫 青山繁晴の本 主月山繁晴 Aoyama Shigeha 「 u 一九五二年神戸市生まれ。慶應義塾大 学文学部中退、早稲田大学政治経済学 部卒。共同通信記者、三菱総研研究員 を経て二〇〇二年、日本初の独立系シ ンクタンク「独立総合研究所」社長 兼、首席研究員に就任。二〇一六年、 参議院議員に当選。著書に「壊れた地 球儀の直し方」「青山繁晴の「逆転」 - ガイドハワイ真珠湾の巻』『ほくらの 一祖国』などがある。 平成紀 青山繁晴 定価 ( 本体 540 円 + 税 ) I S B N 9 7 8 - 4 - 5 4 4 - 4 2 4 9 9 - 9 C 0 1 9 5 \ 5 4 0 E t h e H E I S E I E R A S H I G E H A R U A O Y A M A カバーテサイン 幻冬舎デザイン室 題字 青山繁晴 カバーイラスト もりおゆう 幻冬舎文庫 幻冬舎文庫 \ 540
184 れた。「定年になってから、ちと縁があってさ。今は実家に用があって居ないけど。 きみこそ、まだ独身なんじゃないか」 「どうして分かるんですか」 「体に書いてある。一九八九年一月に陛下が崩御され、その年の十一月にはベルリン の壁が崩れ、翌年は東西両ドイツが統一し、その翌年はあっという間にソ連が崩壊し たちゅうのに楠陽は代わり映えしないなあ 「いや変わりましたよー。心持ち口を尖らせた。 ホリディさんは軽く頷き「電話で、もう記者じゃないって言ってたね。政治部から 外信部へ移って欧州へ赴任していたのは知ってたけど、今はアメリカの投資会社にい るんだって」 「はい、二年ちょっとになります」 投資会社がアジア全域を統括する東京支社を立ち上げて間もなく、楠は転身を誘わ れた。ニュ 1 ョ 1 ク本社から来た痩せぎすの白人の支社長は簡素な応接室で「ほんと うに組織に徹して働いてもらうとは、最後には組織より個を優先して本来の力を発揮 し、組織に貢献することですーと米語で言った。
いけど、登場人物がそういうエピソ 1 ドを話してますね」と赤錆は付け加えた。 楠はその小説を知っていた。そして忘れていた。腕を伸ばして一杯だけ、赤錆の盃 に注いだ。腕がすこし震えたのを残念に思った。 それから一か月半あと、「お返しをさせてください」と赤錆を鮨屋に誘った。 小一時間呑んだあと、楠は「あの黒ネクタイは、誠意にお応えできなくて、申し訳 ありませんでした。ばくの生涯の悔いです」と言った。 赤錆は「え、そんなの知りませんよ。黒ネクタイって何ですか」と応えた。耳を疑 って顔を見ると、赤錆は楠に視線を当てて「楠さん、もう忘れなさい。天皇報道は、 終わったんですよ。あなたは外信部に移られたし、いずれ海外赴任だし、人生はこれ からじゃないですか . と言った。「結婚して、犬でも飼って、面白い取材をいつばい して、ついでに偉くなるんですよ」 「あの赤毛のワンちゃん、元気ですか」 成死にましたよ、と赤錆は唇を動かさずに言った。 「自粛して、鎖に繋いでから、することがなくなってね、あっという間に弱りました。 赤毛がどういうわけか白くなってね。裏口に繋いだから楠さんも顔を見ることがなか
「佐久記者がね、社を辞めたいと言ってるんだよ、 天皇報道が終わったあとに辞表を提出したいと政治部長に申し出たという。 「あんた、ちょっと何とか時間を見て、本人に聞いてみてよ。わが社に移ってきて、 すぐ辞めたくなったっていうんじゃあなあ」 承諾して官邸に戻った。佐久が張り番をしている官邸本館の廊下へ歩いていくと、 ちょうど本人が歩いてくる。そして楠が一言うまえに「楠さん、ちょっと聞いてほしい ことがあるんです」と言った。 天田原を思い出して封じ込めている記憶が動いた。それは抑えて「じゃ喫煙室へ行 こうか」と言った。話を静かに聞ける場所は、そこしかない。 喫煙室は幸いに一ⅱもいなかった。佐久は楠の顔をあまり見ずに、社を辞めると言っ 佐久がその理由を話すまでにそう時間はかからなかった。「羽島さんに、食事に誘 われたんですー 「食事って、二人きりじゃないだろ」 「他に人はいました。でも同じことでした」
ホリディさんは、ふふと笑った。 「その通りです。辞めるまえに、こんな話ができれば良かったです 「しかし、辞めるまえに言った人がいたんだよ」 意味が分からない。 「天田原という珍しい名前のテレビ記者だよ。女の人だけどね。どういうわけか、あ る学者の考えた元号案だけは七つの全部を持ってた。俺から裏をとって、今すぐ報道 したいというわけだ。キャップの至上命令です、とか言ってたな」 楠は目を見開いた。「キャップの指示のはずはないですーとほとんど無意識に応え 「そうかい ? どうして」 「元号案を事前報道する勇気は、どこの社にもなかったと思います」 「ああ、そうだね。じゃ、あの女性記者の暴走かね。しかしそれは俺と関係がない。 成俺は、どうしても止めなきゃいけなかったから、元号はもう決まっているんじゃない かな、その七案とはまったく別じゃないかと勝手な、根拠のない、個人的な独り言を、 その一言だけは呟いたんだよ」
政治家は「ほほおーとのけぞり「じゃあ、日本人と言えないじゃないか」と大声を 出した。 天田原はストレートに悲しそうな表情を浮かべ「いえ、私は日本人です。家のなか では、 ) しつも日本語しか話したことがありません」と言った。佐久が「そうですよ、 先生。優衣ちゃんは、私なんかよりずっとちゃんとした日本人よ」と、にこりともせ ずに言った。 佐久は男性記者のあいだで「小さな体して、男を男とも思わないやっ」と評されて いる。楠は、まだほとんど会話も交わしたことがない。常石が「どこか腹の据わった 感じのする女性なんですよ。俺と同い年の二十三歳だけど自分を持っているなあ」と 話したことがある。 幹事社の記者がようやく「先生、通産大臣だって狙えそうじゃないですか」と出す べき話題を出した。政治家はそれまでのことが嘘のように、男性陣との会話に熱中し 始めた。楠の隣の常石が「先生、いかがですか、感触は」と稚拙な質問をした。ああ、 上から言われてきたなと楠は思い、黙って冷酒のピッチをあげている。天田原が真っ
そのためにわざわざ伝説の大記者は、こんな時間に出社したのかと楠は思った。社 にとって、天皇陛下の発病を抜かれたことがどんな事態であるか理解できた。 われわれは政治権力の監視人でしよう。天皇は政治権力じゃない。社会部の仕事で はありませんか ? この言葉は頭に一応、よぎらせただけであった。分かりました、そう言うほかはな いと思った。 「元寇さん、一つだけ聞いていいですか」 「ああ、もうどうぞ、どうぞ。一つと言わず、いくつでも」 「天皇陛下も、われわれと同じくいっかは来るべき時を迎えられます。その自然なこ とが、それほどまでに大ニュースなんですか」 やがて来る「 >< ディ」と称するものが、日本のすべての報道機関にとって長いあい だ、どれほど大きな隠れた課題になっているかは知っている。それだから余計に、 の素人じみた質問だけは聞いておきたい。 元寇は「ああ、分かるよ」と表情を変えずに、答えた。「しかし、あの天皇だから ね。第二次世界大戦、戦後日本の復興いずれを考えても、この国だけじゃなく世界に
李は言葉を切った。黙った。 「その兵士の親にお会いになったのですか」と聞いた。佐久がまた楠の顔を見る。楠 は通詞を待たずに、英語に変えて同じことを言った。 李は顔が白くなった。「そうだ、会ったよ」と英語に変わった。「しなくてもいい苦 労をさせて、出さなくてもよい犠牲を出した。今になれば、わが軍と戦いながらあの コンクリ 1 ト量を破壊することは無理だと気がつく。ものが見えなくなるときがある のだ。秀吉が遠い過去の日本人だと分からない気分のときもある」 うな 楠は、無意識に低く唸った。将軍は「楠さん、あなたはいつもとすこしだけ違いま すね」と声を落として言った。 「李さん、わたしは海軍少佐の言葉を、ほんとうはすなおに聞いたのです」 李は、わずかに間を置いて、頷いた。楠は「あなたは公平な人ですね。わたしは社 交辞令が不得意です。しかし今は、社交辞令かと思われるのも承知で言いたくなりま した」と続けた。 李は窓を向いて照れた表情を浮かべた。 「わたしは、民族分断の悲しみを分かっているとは、とても言えない。西暦一九六一
戸惑った。 「キャップが、どうしてもって、しつこいのーと続け、階段で天田原を品定めしたス ター政治家の名を口にした。 「ああ、やつばり、言ってきたか」 「そう、もう去年から 天田原は髪を顔から振り払い、楠を真っ直ぐに見て「ちゃんと話します」と言った。 天田原は昨年十一月の終わり、上司である民放テレビ局官邸キャップに西麻布のイ さわのゆきなり タリア料理店へ食事に連れていかれ、そこになぜか、日本公共テレビの沢野行成記者 が待っていた。 沢野は、自分は新総理の派閥で重きをなす存在だと、ためらいなく話した。担当記 者であるにとどまらず、派閥内の人事にまで影響を及ばしていると言いたいらしかっ た。そして、新総理を支える若いスター政治家がいかに素晴らしい「改革者」である 成かを力を込めて喋った。 天田原は二人の真意が分からず、食事の味が分からなかった。 料理店を出ると雨が降っていた。キャップは社旗を付けたハイヤ 1 で自宅まで送っ