声 - みる会図書館


検索対象: 平成紀
179件見つかりました。

1. 平成紀

政治家は驚かず腕を引き、その盃をあおった。平穏な顔で熱燗を満たし「ほれ」と大 きな声を出し天田原の目の前にぐいと盃を押し出す。 「先生 楠は、あたりが鎮まる大声を出した。しかし、それ以上は何も言わない。政治家は その間合いを見て、腕を伸ばしたまま「ほれ」とまた言った。 「先生ー 同じ大音響の声を出した。政治家は楠を見ずに、ほんのひととき静まり「ほれ」と もう一度言った。 「先生 . 三たび同じ声を絞り出した。 政治家は今度は十数秒間、腕を伸ばしたままじっと動かずにいた。そして、ごくふ つうに楠に目をやり「ああ、あんたか」と声を出した。腕を戻し、盃を静かに呑み干 し、佐久に「一杯くれるか」と言った。 楠は常石に「おい」と声をかけ、連れだって天田原の席へ行き「交代しましよう」 と言った。天田原はのろのろと斜めに立ち上がる。楠は自分の座っていた座布団を指

2. 平成紀

63 平成紀 とって存在感が違う。これほどニュ 1 スパリューのある人は他にないだろう」。正面 へ、煙を真っ直ぐに吐き切った。 その声は、煙草に荒らされたざらっきと、どこかぬめるような感触、そして少し息 が漏れるような響きが同居した不思議な声ではあったが、静かに抑えられている。 「奇人ーという定評は正しいかどうか分からないなと、楠は考えた。みなが政局に浮 かれている時に、孤立しつつ冷静を保つ強靭なひとかも知れない。 そのとき楠は、顎の噛み合わせがわずかにずれる感覚が自分に起きていることに気 づいた。歯茎ごと顎から浮くような、歯は歯で歯茎から浮きあがるようだ。何が原因 なのか、自分に戸惑っていたが、元寇の声以外に見当たりそうにない。 「そう嫌いな声でもないのに」と考えながら、かちかちかちと歯を噛み合わせた。何 度も噛み合わせた。吉野が顔を上げて楠を見た。 秋の長雨のはじまりのような朝、楠は赤錆の官舎の門を入った。

3. 平成紀

て総理の顔から視線を外した。広い窓の外に、明るい緑の枝がゆっくりと揺れている。 「引っ張れば引っ張るほど、この人の力が際立っていく。 焦らしに焦らされて名指し をいただく新総理は、言いなりになるほかない。 この人は相も変わらず、自分のこと ばかりだ」。大きな記事になるか、それとも段落が一つもない短い記事にしかならな いか、楠自身はそのことばかりである。 突然に、総理が声を張りあげた。裏返ったように甲高い調子が、それまでのどの言 葉からも外れている。 さんぜん 「天皇陛下は天空に燦然と輝く太陽のごとき存在であります」 そこで珍しく一呼吸、沈黙してから声を落とし「われわれは、その太陽あってのわ れわれだと知らねばならないのであります」と続けた。 もとの落ち着いた声に戻り、戦後の総決算というこの人の持論をなぞって講演は終 わった。壇上から降り、五人のとともに会場をさっと去り、殊更のように足早で 車に乗り込もうとする総理に、記者とテレビカメラの群れは習慣通りに殺到した。 「任期通りにお辞めになるんですか」 「誰を後継に指名するか決めたんですか」

4. 平成紀

110 古びたサンダルを履いているのを見て、赤錆に大声で頑張ってくださいと言いたくな った。声は出ない。 赤犬が座っている。どこかで見た表情だ。 赤錆は楠と一緒に、門をすこし出て赤犬に手を振った。赤犬は「お手ーの動作をし てクンと声を出した。 楠は、へえと声が出た。赤錆は柔和な目で「いつもお見送りをしてくれるんだよ ね」と言った。 背後から夫人が、「主人がね、表から出るか裏から出るか、それをこのワンちゃん が見抜いて先回りするんですよ」と言った。赤錆は「だから家を出る時が楽しみで ね」と頷い 赤犬の座っている場所は、雨の朝に天田原優衣が頭を撫でていたのと同じあたりだ。 楠は、赤犬の丸い小さな右目の目尻に泣きばくろがあるのを見つけた。赤錆、夫人、 赤犬に一つずつ頭をさげ、歩き出した。 地下鉄に降りる階段を通り過ぎ、足を速めた。自分を乗り物に乗せる気がしない。 年の明けた都心は穏やかに凍えている。小さな公園の濁った池を回り込み急坂を上が

5. 平成紀

和室の隅で夫人は電話を取り「ふんふんーと声を出して相手の話を聞いている。 「今、ここにという声が聞こえた。努力も策略も無駄になったことを確信した。 電話が終わり、夫人は楠を見た。「息子ですの。記者になんか、なんにも渡したら あかんて」 「はい」 「ごめんなさいね。ちょっと、きつい子で。ほんまは会うのもあかん、言われてまし たから , 「いや、きつくないです」。本心そのままだった。自分が学者の息子なら、同じこと を言ったかもしれない。 「どないしよ」。夫人は途方に暮れた顔をした。 「奥さん」 「よい、、 こめんなさいね。東京から来はったのに」 成「ばくは帰ります。帰る前に、表紙だけ見せてください」 「表紙ー 「はい、 手に取って、表紙だけ見せてくださいー

6. 平成紀

147 平成紀 カウンターに吉野は太い腕のひじをつき「なんか嫌でしよう」と、やっと声を出した。 吉野は後輩の記者にも丁寧な言葉遣いを変えない。 すこし考えて「元寇さんですか。でも前から同じことじゃないですか。と応えた。 吉野は冷酒の最初の一口を含んだ。 「いや同じじゃないでしよう」 楠は「喉の奥までセールスマ冫と頭をよぎったままを口にした。吉野は、早春の 大和路にいるような、い つもの柔らかな微笑を浮かべて「ニュ 1 スのセールスマン」 と一 = ロった。 「でも、元寇さんの話には、嘘がないですよね」 「そう。ないよ。完全無欠のセールスマンーと吉野はなぜか寂しそうに小さな声を出 した。 楠が地下鉄の座席で「天皇陛下腸のご病気」の見出しを見てからちょうど一年後、

7. 平成紀

鮖聞くのかよーと言った。 その甲高い声を聞いて「秘書官は寝たんじゃなく帰京したのか。何かが動いてい る」と考えた。しかし、その何かが分からない。汗つかきの肉が重なる書生の首すじ を思い浮かべながら「あなたに一つだけ話したいことがあります」と言った。 「なんだよ。そんなもん、言えんなら言ってみろよ」 「われわれが興味本位で総理の就寝時刻を聞いているという気持ちがあるでしよう」 「そりや、そうだろ。寝る時間を根ほり葉ほり聞くことに、興味本位以外に何の意味 があんだ」 「馬鹿者。自分の低劣なレベルで物事を分かったように言うんじゃない」 この男にはこう言うしかないと思った。自分の強い声に嫌な気分が差す。書生が息 を呑むのが伝わってくる。 「総理大臣が、どんな個性かということが、われわれの祖国と国民の運命に関係があ るから聞いてるんだ」 楠の日々の実感であった。 「その個性は、どうやって判断するんですか。寝起きから始まって、公私にわたる生

8. 平成紀

158 楠は、陛下が個人的関心でマラソンをご覧になりたかったのではないと考えた。国 民が揃って期待していることは、お声は出せずとも御自ら応援されたいのではないか と拝察していた。 赤錆は「陛下の凄まじい責任感には、私はこの世で一番胸を打たれますね、と言っ 頷きながら、単純な責任感だけとは言い切れないと考えていた。 「陛下は、昭和のすべてを黙して背負っておられるのではないですか、と問うてみた。 赤錆は珍しく腕組みをして楠を見つめている。 「陛下は、身体の外に出されるお言葉は常に憲法の定める範囲内です。敗戦後の憲法 ではもちろんですが、明治憲法でもそうだったのでしよう」 赤錆は無言で頷いた。 「だけども、ご自身の内なるお声は違うのではありませんか、 そして京都御所の高からず低からずの塀のこと、お堀をはじめ守りが何もないこと を話した。赤錆は「私もこれが終わったら京都へ行きましようかね」とだけ言って楠 の顔をまだじっと見ていた。

9. 平成紀

を着ている。 官邸記者クラブで、他社のプ 1 スに入る記者は滅多にいない。女性記者もまだ多く はなかったから、吉野キャップが珍しく驚く顔をした。電話をかけようとしていた楠 が慌てて受話器を置くと、天田原は「お茶、飲みませんか」と明瞭な声で言った。十 人いるメンバーのなかで、たまたま吉野と二人だけだったことに感謝した。とにかく 立ち上がり、吉野に目顔で許可を求めると吉野は微笑している。 連れだって官邸前庭の広いコンクリートを歩きながら、前屈みに急ぎ足になってい る自分に気づき、足をゆるめて背筋を伸ばした。 が詰めている正門を真ん中から出ながら天田原に「官邸にカフェテリアはない ですから」と言った。天田原は「出ちゃうんですか」と意外そうに聞いたが、そのま まついてきた。 正門を右に折れ、坂を下りはじめて天田原は「大丈夫かな」と暗い顔をした。 「おたくのキャップが文句言うかな」 成 平 「はい しいですーと明るい声で言っ と、こっくり頷いてから、顔をあげて「でも、 た。目が陰っている。

10. 平成紀

匂いが土から立ちのばる。鼻孔から体内に染みわたる感覚がある。 夜九時を回ったとき、楠は常石に「メシ行くぞ」と声をかけた。客がいるとしても 先回りして潜むような客なら、総理番がいる間に出てくるはずはない。それに、常石 が白樺の幹の皮をむしっている姿に声をかけずにいられなかった。軽井沢の森は唐松 がほとんどである。白樺は数えるほどしかない。タクシーに乗り込んでから「皮むし りはやめような。白樺に責任はないんだから、と常石に微笑しながら言った。「そう っすよ」 「おまえのその口癖、嫌いじゃないよ」 「そうっすよ」 常石は退屈で、脳からふくらはぎまでふやけたのだ。楠にも覚えがある。しかし今 、もどかし 夜は「天皇陛下は太陽ーという甲高い一言を、指先が届きそうで届かない、 い刺激のように感じていた。 総理番マニュアルによれば、総理の就寝を確認してから引き揚げることになってい る。それは別荘の場合、午後十時ごろだ。実際には、総理がその時刻に寝るはずはな ゝ 0 、い 総理が寝室に入った時刻をもって「就寝」とし、各社へ流す。だが総理は午前一