唇へ動く。楠も天田原の唇を見た。眼が暗がりに慣れはじめ、いつもよりずっと赤い ことに気がついた。薄い唇に、ふだんにない厚みがある気もしている。厚いというよ りは小さく丸く膨らんだ唇であった。 みろくぼさっぞうしゆい 天田原は右のひとさし指と中指を揃え、まるで弥勒菩薩像が思惟する指のように下 唇に向け、触れるか触れないかのところで止めた。天田原がその指先を一瞬だけ唇に 含んだようにみえた。白い歯が見えて隠れた気がする。 暗いなかで階段をゆっくりと登る。登り詰めて、顔をほとんど触れそうに近づけた。 天田原は身じろぎもしない。 天田原の唇はやはり微かに開いている。二本の指は唇を離れて、喉元にある。楠も 唇をすこし開く。天田原の目を覗き込み、天田原の睫毛が自分の睫毛に触れそうだと 意識している。 二人はそこで動きを止めた。 吐く息だけが交錯し、髪も、唇も指も触れないでいる。 天田原が音のない声をあげた。柔らかい脇腹近くにナイフを危うく受けるサーカス の少女のように、白い顎があがり、歯が覗く。息だけで「陽」と呼ぶ。楠が唇の形で
キャップはひと月のあいだ、「女性記者なら誰でもやってるって」と言い続けた。 天田原はこの話題になると、常に一言のもとに退けた。 キャップは「政治部じゃなくても、社会部のサッ回りでも、女性記者はみんなサッ 幹部に喜んで付き合っているよ。それがこの国なんだ。だから帰国子女は嫌なんだ、 俺は」と厚めの唇を震わせた。 ここまで聞いて、楠は「どうして今まで俺に相談しなかったの」と聞いた。 天田原の乾いていた両目に、涙が噴きこばれる。楠は自分の言葉に棘があることを 知った。驚いたことに、それはスタ 1 政治家への嫉妬であった。 俺もまだ、食事には一度も行っていない。天田原には夫があるし天皇陛下の容態不 安もある。けど、この政治家だって、まだだ。なぜ嫉妬しているんだ。 そう考えていると、天田原が「私にも、受けた方がいいんじゃないかという気持ち があるから相談できなかった。あなたは、それに気がついてるんでしよう」と言った。 成反射的に頷く。 「どうして話す気になれたの」と、天田原の手を見た。握ってやりたい。記者会見の 時間が迫り、さっきから喫煙室の入り口あたりを頻繁に記者や官僚が行き来している
日本語は事実そのものではなくて、相手との関係。これが違いなんだ。ばくも英語を 話すときに、これを間違えることがあって困る」 「なぜ相手の言い方に合わせるの」 「それが日本なんだよ」 「問題は事実かどうかじゃない」 「そりやそうだけど」 天田原は楠の言葉の途中に割り込んで「それは言葉としておかしいな」と言った。 「おかしいと言ってもしようがない。それがわれわれの文化なんだから」 不機嫌な声の色に、天田原は楠の目を覗き込んで「ううん、おかしい」と言った。 午後三時すぎ、天田原と肩を並べて官邸へ戻る坂を登った。イエス・ノー論争があ っても少しも違和感がないことが不思議だった。 官邸の塀の脇を歩きながら、楠は「京都支局にいた夏休みにね、ラテンアメリカを 紀すこし歩いて、プエノスアイレスにも行ったんだ」と話した。 平 「そう」 天田原は嬉しさいつばいに微笑んだ。
「官房長官の会見時間だから、二人とも行かなきや仕方ない。 きみは会見に出なかっ たりしたらキャップに何を言われるか分からない。あとで、きちんと話そう」 天田原は浅く頷いて、鼻を啜った。薄い黄色のジャケットのなかで白いニットの胸 が上下している。俺は鈍い男だ、馬鹿だと思った。噂になって天田原を苦しめている だけで、実際には細々と坂下の喫茶店に通うことしかない。それもトルココーヒ 1 を 飲んで向かい合いながら天田原の苦しみに気づかなかった。いや、何かあると思いな がら天皇の容態がもう少しはっきりしてからと聞くことを先延ばしにしていた。 会見のあと、短信を一本書いてから天田原のいるプ 1 スに電話をした。他の記者で はなく天田原が出る気がしていた。天田原の声に「佐久さんに話しても ) しいか」と聞 いた。「分かりました」とだけ答えて切れた。 佐久の通信社のプ 1 スに「ちょっと話をできますか」と電話をすると、佐久は「は とあっさり答え「じゃ喫煙室で」と言った。 成喫煙室に入ると、いつも動作がきびきびしている佐久らしく、すでに座っている。 会見の前まで楠が座っていた椅子だ。すこし迷ってから天田原のいた椅子に座った。 佐久は小さく笑った。
吉野に告げる前に、天田原のプ 1 スへ電話した。吉野から京都行きのが出るこ とは分かっていた。天田原のキャップが出た。自分の名前を告げて、代わってくれる よう頼んだ。キャップは沈黙した。つまりこいつは俺を間男だと思っているわけだ。 自分を含めて日本の男は生まれながらのコメディアンだと思った。通信社の同僚たち も、俺が間男だという噂を聞いて俺の前では知らぬ顔をしているわけだ。吉野キャッ プもそうなのだろう。 天田原のキャップに「所用がありますから代わってください。何なら、そちらにす ぐ行きましようか」と太い声をつくって言った。受話器が無言で投げ出される音がし て天田原がまるで内緒話のような声で出てきた。 「佐久さんから情報も聞いたし、ばくに作戦もある。心配ない。俺は今夜、出張に行 かないといけないけど夜に電話できるから詳しく話します」と言った。天田原が「は と小さく答えたのを確認して、すぐに切った。あのキャップなら、天田原が長電 成話をすればどんな口実に使うか分からない。 吉野とともに本社へ上がり、別室で京都の元号取材の計画を元寇に話した。赤錆の 感触や他の政府高官への取材から、京都には新元号の考案に関係した学者が複数いる
「そう。なにか不思議な感じがして今でも覚えてる 「顔もー 「いや、顔は陰になってよく見えなかった。髪はうしろで結んでた」と、天田原のぎ ゆっと結んだ黒く光る髪を見た。 「ああ、アルゼンチンは黒い髪のひとが多いから、私と似てた . 「おなじだ」 天田原は、ふふと笑い「私が汗をかいてたの ? 寒い夜の汗か。なんだか辛そう ね」と楠の目を見た。「ラ・ポカの安い酒場からタンゴは生まれた。知ってるわよね」 楠が頷くと「ポカのあたりは夜、治安が良くないから私たちは男の子と一緒でも行 かなかった。あなたは誰と行ったの」と聞いた。 「ひとりだよ。ずっと一人旅」 天田原が足を止めた。「結婚してると思ってたけど、してないんですか 成「え、だってまだ二十代だし」 天田原は黙っている。 「なんで ,
136 目が合うと天田原はそこを出て楠を追い越し、先を歩く。五人の記者を意識してい るのだろう。すれ違うときに目が赤く濁っていると分かった。天田原はぐんぐん歩を 速め、官邸本館から記者クラプへ戻る渡り廊下を行き、その途中にある記者会見室に 入った。 この日の会見予定を全て終えている会見室は灯りがなく、人もいない。かって大平 正芳総理が就任会見のとき、この会見室へ入ろうとして足が入り口で動かなくなった まばゅ という。ライトが照るときは世界が眩く暴かれているようであり、ライトが落ちれば 一つの社会が滅びたように暗く静まりかえる。 天田原は会見室の薄闇で足を止め、振り返ってから、カメラマン席の陰へ消えた。 カメラマン席は、記者の肩越しに総理や官房長官を撮影するために上方に位置して いる。そこへ上がる八段の小さな階段は、充分な高さのある木の仕切りで隠されてい る。ライトが照っているときも、この場所は闇のままである。 仕切りのなかへ入ると、天田原は階段の最上段で膝小僧を抱えて小さく屈んでいる。 楠は階段に足を掛けて、止まった。楠と天田原の目が暗がりのなかに浮かんで、上 と下で向かい合っている。距離は一メートルほどもない。天田原の大きな目が、楠の
で天田原に話していなかった。 奈良の学者は、電話で接触を図ると激越な口調で拒絶した。ほば委嘱は間違いない と確信した。だが壁は厚い。 天田原が名を名乗って交渉すれば、学者は会うのではな いかと思った。優衣のほかに天田原という名の人を見たことがない。学者は、天田原 優衣の家系の話を聞きたいに違いなかった。 「それをキャップに話して、私は元号案を取れるかも知れないと言ってみたら、彼は 多分フランス料理どころじゃなくなると思うよ」 「でも、 しいの ? 」 「いいよ。その代わり奈良の先生がどんな話をしたか、きみのモラルが許す範囲で教 えてほしい 「あ、そうか」。天田原は、楽しそうに笑った。「なんだ。ギブアンドティクじゃな 成赤犬の頭を撫でていた天田原の微笑を思い浮力へオし ゝ、こ。ゝま、あの笑顔がもっと晴れ やかなんだろうなと思った。 「そうだよ。地獄の沙汰もカネ次第じゃなくて情報次第だよ、天皇報道は」
天田原の表情がくつろぐのを見て嬉しかった。料理が好きなのかなと思った。 「沸騰寸前まであっためるでしよう、それからさっとカップに注いで、こうやって上 澄みだけをそろりと飲むの , 「うん 「でも、ほんとうの淹れ方じゃない」 「ああ、アラブの人みたいに木の臼で豆を潰すわけじゃないし、炭を使うわけでもな いカ 4 り ? ・ 「よく知ってますね」と天田原は目をすこし大きくしている。 天田原は楠のことをほとんど聞かない。大学を卒業して一年半、カナダのバンク 1 バーにあるテレビ局にキャスターとして勤めたあと、ことし春に帰国し東京の民放テ レビへ入社したことを話した。二十四歳、楠より二歳下であった。 「あの朝ね」 楠は言った。天田原は、何も思い出さないふうに首をすこし傾げた。 「雨の朝。ばくは正義の怒りを感じたんだよ」 天田原は楠の目を真っ直ぐに見て「初めて会ったときですか」と聞いた。俺は今日
戸惑った。 「キャップが、どうしてもって、しつこいのーと続け、階段で天田原を品定めしたス ター政治家の名を口にした。 「ああ、やつばり、言ってきたか」 「そう、もう去年から 天田原は髪を顔から振り払い、楠を真っ直ぐに見て「ちゃんと話します」と言った。 天田原は昨年十一月の終わり、上司である民放テレビ局官邸キャップに西麻布のイ さわのゆきなり タリア料理店へ食事に連れていかれ、そこになぜか、日本公共テレビの沢野行成記者 が待っていた。 沢野は、自分は新総理の派閥で重きをなす存在だと、ためらいなく話した。担当記 者であるにとどまらず、派閥内の人事にまで影響を及ばしていると言いたいらしかっ た。そして、新総理を支える若いスター政治家がいかに素晴らしい「改革者」である 成かを力を込めて喋った。 天田原は二人の真意が分からず、食事の味が分からなかった。 料理店を出ると雨が降っていた。キャップは社旗を付けたハイヤ 1 で自宅まで送っ