87 平成紀 直ぐにこちらを見ていることに気がついていたが応えなかった。確信はないが、天田 原はある助けを求めてこちらを見ているのかもしれない。自分が卑劣な男だという感 覚が少しずっ込みあげてくる。 政治家の酒のピッチが上がっている。「とにかく、あいつがもっと酔っぱらってか ら常石を連れて横へ行って、盃を出して」と楠は考えた。入閣があるのかないのか聞 かないわけにいかない。それを理由に、とにかく政治家と天田原の間に入ることがで きる。 そのとき政治家が突然、「ほれ」と高い声をあげた。「あんた日本人だろ」。盃を、 天田原に突き出している。交わし盃をしようというのだろう。楠は「こいつはまだこ だわってるな」と思った。天田原は首を振った。政治家は信じがたいものを見る目を あっかん してから空の盃に手酌で熱燗を注ぎ、自分の上唇をたつぶりと浸してから、ぐいとあ おった。もう一度手酌で注ぎ、突き出す。「ほれ。これだよ」 目の前で俺が盃を干して酒を注いだ以上、呑めないと言うなら、俺を愚弄している ことになるぞ。 政治家は目でそう言っている。天田原は「いただきません」と明瞭な一声を出した。
部屋の扉を叩いてみてはどうだろうか。いや駄目だ。この部屋は赤錆さん専用では ない。他の事務方も何人もいる。 時計はあっという間に午前七時を回った。 階段を佐久木綿子記者が、他社の応援組の四、五人と一緒に駆けあがってきた。 「楠さん、もう崩御されてるって噂を知ってるでしよ」と言った。 佐久は、楠が鼻を押さえた手を見ながら何か聞きそうになる。ハンカチよりも手の 甲を見ているように楠には見えた。甲にまで血がついているのかと思った。佐久は他 社の記者に後ろから突き飛ばされながら、一緒にそのまま廊下を駆けて消えた。 階段を二段ずっ飛ばして駆け降りた。前庭に走り出て、天田原が使っていた公衆電 話に取りついた。赤錆の自宅にかける。夫人が出た。鼻を押さえているために滑稽な 鼻声だ。 「奥さん、お願いがあるんです。官邸に電話して、ご主人に、天皇陛下が崩御された 成かどうかと、その時刻を聞いてください」 夫人は絶句した。やっと「なぜ、そんな」と言った。 齠「ばくは、ご主人の仕事が邪魔できないんです。こんな正念場に邪魔できません。と
「佐久記者がね、社を辞めたいと言ってるんだよ、 天皇報道が終わったあとに辞表を提出したいと政治部長に申し出たという。 「あんた、ちょっと何とか時間を見て、本人に聞いてみてよ。わが社に移ってきて、 すぐ辞めたくなったっていうんじゃあなあ」 承諾して官邸に戻った。佐久が張り番をしている官邸本館の廊下へ歩いていくと、 ちょうど本人が歩いてくる。そして楠が一言うまえに「楠さん、ちょっと聞いてほしい ことがあるんです」と言った。 天田原を思い出して封じ込めている記憶が動いた。それは抑えて「じゃ喫煙室へ行 こうか」と言った。話を静かに聞ける場所は、そこしかない。 喫煙室は幸いに一ⅱもいなかった。佐久は楠の顔をあまり見ずに、社を辞めると言っ 佐久がその理由を話すまでにそう時間はかからなかった。「羽島さんに、食事に誘 われたんですー 「食事って、二人きりじゃないだろ」 「他に人はいました。でも同じことでした」
132 夫人は意外に機敏な動作で立ち上がり、襖を開いて去った。襖が再び開いたとき、 手には何もない。楠はただ微笑していた。 「昭和四十九年に、内閣の内政審議室というところからお人が来てます。それが最初。 その次に来たんが、さっきあなたが言うてはった時やね。昭和の次の元号を三つ、考 えてくれて言うて、ここに座ってはった」。夫人は自分の座っている座布団を指した。 「主人は、そのお人が帰ったあと、そこに座って考えてました」と夫人は楠の背後の 小部屋を見た。和室に続く小部屋は、ステンドグラスの出窓を持っ不思議な箱のよう な洋間だった。質素な薄茶のソフアがある。 「座って、 しいですか」と聞くと、夫人はびつくりしたように楠をしばらく見てから 「ええ、ええ、どうぞ。そこは主人がものを考える場所でした」と言った。 手作りのステンドグラスの光を浴びながら身が縮まる思いだった。「そこにお人が 座るのを見たんは何か月ぶりやろ」と夫人はうっとりと言った。楠は浅く座っている。 背は自然に伸ばし、足を軽く組み、黙っていた。 「持ってきましようね」と夫人が立った。襖を開こうとしたとき電話が鳴った。 ああ駄目だと感じた。
国防省本館に入ると、待機室へ通された。 「飾りが増えた」と楠は呟いた。佐久は黙って窓際を見ている。そこに白木の棚がっ くられ、虎が踏み出す盾や、刀身に龍の寝そべる長剣が並んでいる。楠はこうした類 のものを各国の軍司令部で見慣れている。だが、い くぶん体を引く感覚が起きた。兵 器が嫌いな少年であった自分を、短く思い出した。 すす 待機室には雨音だけが響いている。鼻を頻繁に啜りあげていると案外、簡単に血は 奥で固まりつつあった。出血の始まりの量感とは裏腹で、すこし奇妙に感じた。鼻の 外から塊を押してみたい欲に困惑していた。 佐久は、膝に置いた大きなメモ帳の白い表紙をじっと見ている。 やがて肩の張った副官が現れ、灰色の廊下を将軍の執務室へ案内された。執務室は 簡素な佇まいが変わらない。窓がなく堅固な守りの空気は漂うが、楠は息苦しさを感 成 平じたことがない。 ききよ、つ 白桔梗を描いた小さな絵が、机の背後の壁に掛けてある。楠には、初めて見る絵で
116 ようだ。楠は、それを見ないようにしていた。 天田原は楠の目しか見ていない。「さっきキャップに、言われたの、おまえ楠陽っ て奴と付き合ってるのか。もの凄い、噂になってるぞ。官邸を一緒に出ていくの、何 回も見られてるぞ。おまえ、カナダに亭主持ちだろうが。あいっと付き合ってるなら、 もういいじゃないか。どうせカナダには、ばれないと思ってやってんだろ。総理にな れる政治家と付き合わずに、あいつだけと付き合うなんて阿呆か、おまえはって言わ れたの」 楠は、長身の男が近づくのを感じた。べテランの新聞記者だ。 「どうしたの、具合でも悪いの」と聞いてくる。 「いや、違いますーと楠が答えた。 記者は楠と、顔を髪で隠した天田原を交互に見て、にやついて笑いを浮かべた。 「じゃあ何してるの、こんなところで、お二人で」 「ちょっと話をしているんです。おかしなことはありません」と楠は、相手の眼を見 て言った。記者はふだんの顔に戻り「分かった , とだけ言って、会見室の方向へ歩い ていった。天田原に向き直る。
写真の額がびっしりと 秘書官の右手は、壁が天井に接するあたりを指さしていた。 隙間なく並べられている。楠が四方のどこを見ても全て、埋まっている。その大量の 写真は一枚の例外もなく、天皇陛下と中曽根康弘総理が一緒に写った写真であること に気がついた。「全部、ツ 1 ショットですね」と秘書官の顔を見た。 「海外から賓客を迎えたり、儀式に同席したり、いろいろあるけど全部、陛下と総理 秘書官は二度、深く頷き「これがあの人なんだよ。我は臣なり。陛下の前では、た だ、我は臣なりがあるだけだよ」と言った。 「軽井沢の講演もそうですね」と言ってみた。この一週間は秘書官宅へほば毎晩、夜 回りに行き、「天皇陛下は太陽、の発言の意味をできるだけさりげなく装いながら問 うている。秘書官は必ず「さあ、あの講演は原稿なしだからね。われわれには分から んよ」と判で押して答えて横を向いた。 楠は軽井沢から帰って、天皇陛下の歩まれてきた道程をあらためて調べてみた。四 平 か月前に皇居の豊明殿で八十六歳の誕生日の宴が催された。二十五歳で即位、四十四 みことのり 歳で終戦の詔を発され、四十五歳で日本国憲法を公布された。四十年間の敗戦後を
ている。二人とも自宅は遠い。まだ朝の六時五十分である。 元寇さんは会社に泊まり込んでいたんだろう。それなら朝四時半ごろにはあの記事 の載った朝刊を見る。見て、迷いなく官邸首脳陣の二人に呼び出しをかけ、二人が到 着してすぐに協議して、俺を呼び出すことを決めたのかな。そう楠は考えた。 元寇は「あ、そこに座って」と背もたれが斜めに取れかけた椅子を指した。楠が浅 く掛けると目の前の机に、クリ 1 ニング店の透明なビニ 1 ル袋が原稿用紙や新聞やら と一緒に放り出してあった。薄黄色の縞が縦に入ったトランクスと、黒が剥げたよう なプリ 1 フ、真新しい白いランニングシャツが入っている。 「元寇さんは下着まで洗濯屋に出して九階に住んでる」と吉野キャップが言った言葉 は、この人らしく誇張がなかったんだと吉野の顔を見た。吉野はいつもの穏やかな表 清でいる。 元寇は、前歯が二本ばかし消えている隙間に煙草を刺し、火をつけないまま「楠ち いきなり一 = ロ ゃんね、あんた、総理番は今日から外れる。天皇班に入ってもらう」と、 った。腫れた歯茎が見える。「あなたは馬力がある。社会部が腸のご病気、抜かれた の、読んだろ。あんたは官邸の大事な高官に食い下がってる」
166 「ほかの連中は黙ってたのか」 「はい」 佐久はその性も仕事も私生活もすべて侮辱されたのだ。楠は言葉をどうにか捻り出 そうとしたが憤激が先に立って出てこない。佐久は目を外して立ち上がり、無言で喫 煙室を出ていった。 すぐに羽島に電話をかけ、再び、本社地下の喫茶店で会った。 「話を聞きました」 「ほおお、早いねえ」 そこで言い淀んだ。今は天皇報道の戦場のなかにいるのだ。こんなことを阿呆らし くて、そう簡単に言えるか。そう腹のなかで呟いた。 羽島が「やつばりな、そうじゃないかと心配してたんだ」と言った。 顔を見ると、にやにやと笑っている。「おまえさん、女生に手が早いんじゃないの。 なんか民放のきれいな人妻と、この忙しいさなかに噂があったんだって。情報は掴ん でるぞ。可哀想に、その人妻は局を辞めて南米かどっかに行ったらしいじゃないか。 そのあとに、これかね。駄目だよ、佐久みたいな純な子をかどわかしちゃーと淀みな
「そう。なにか不思議な感じがして今でも覚えてる 「顔もー 「いや、顔は陰になってよく見えなかった。髪はうしろで結んでた」と、天田原のぎ ゆっと結んだ黒く光る髪を見た。 「ああ、アルゼンチンは黒い髪のひとが多いから、私と似てた . 「おなじだ」 天田原は、ふふと笑い「私が汗をかいてたの ? 寒い夜の汗か。なんだか辛そう ね」と楠の目を見た。「ラ・ポカの安い酒場からタンゴは生まれた。知ってるわよね」 楠が頷くと「ポカのあたりは夜、治安が良くないから私たちは男の子と一緒でも行 かなかった。あなたは誰と行ったの」と聞いた。 「ひとりだよ。ずっと一人旅」 天田原が足を止めた。「結婚してると思ってたけど、してないんですか 成「え、だってまだ二十代だし」 天田原は黙っている。 「なんで ,