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検索対象: 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱
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1. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

この永仁の南都闘乱において、一乗院・大乗院の双方の実働部隊として活躍したのが、衆 徒である。もともと衆徒は、大衆 ( 寺僧集団 ) と同義であった。しかし、前述のような身分 差が生まれてくると、興福寺内で衆徒Ⅱ大衆としての一体性が失われていった。鎌倉中期に なると、学問に専念する僧侶は、大衆の中でも特に「学侶」と呼ばれるようになり、これに 対し武装する下位の僧侶は「衆徒」として区別された。 ろつぼ . っ さらに鎌倉末期には、衆徒の中から中位の僧侶たちが「六方」として分出した。一方、下 かんぶのしゆと 位の僧侶たちは「官符衆徒 ( 官務衆徒 ) 」という武装集団を構成した。本書でいう「衆徒」は、 基本的にこの官符衆徒を指す。彼らは興福寺の僧侶であったが、一方で興福寺領荘園の荘官 などを務めていた。興福寺内で仏事に関わることはほとんどないので ( 資金調達はする ) 、実 和態としては武士と変わらない。ただ頭を丸めているというだけのことである。 既彼ら衆徒は興福寺の軍事警察機構として、学侶・六方の指揮下にあった。しかし永仁の南 都闘乱など、興福寺内で武力衝突が頻発するようになると、次第に発言権を強めていった。 びやくえじにん こくみん 内同様の存在として国民が挙げられる。国民とは春日社白衣神人のことで、他国の「国 まっ 人」 ( 地元武士 ) と階層的には共通する。春日社は藤原氏の氏神を祀る神社であり、中世に 一おいては興福寺と一体の存在であった。このため国民は興福寺にも従属しており、興福寺・ 春日社の暴力装置として機能した。衆徒と性格が似通っているため、「衆徒・国民」と並び

2. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

御命令いただきたい。 というものであった ( 「満済准后日記」 ) 。経覚は既に興福寺別当の地位を一乗院昭円に譲って いたので、経覚の威令は大乗院門徒にしか届かなかった。そこで経覚は幕府の権威を後ろ盾 に、沢・秋山討伐を進めようと考えたのだ。 二月二日、幕府の両使が下ると、一乗院や多武峰も出陣した。二月四日、大乗院方の武士 よいまら とね はせでら うだ たちは長谷寺周辺で激戦の末、「宇多土一揆大将」である「榛原の刀禰という者兄弟」を討 ち取った ( ちなみに近鉄大阪線の長谷寺駅の次が榛原駅である ) 。その後も長谷寺周辺で攻防戦 が続いたが、衆徒・国民が奮戦して抵抗を排除、これにより宇陀郡への進人ルートが確保さ 大れた。もっとも一乗院の坊人たちの士気は低かったようで、経覚は満済に書状でぼやいてい しはいもんじよ 取る ( 「満済准后日記紙背文書」 ) 。 経覚は二月十一日に上洛、十三日には義宣に謁見し、沢・秋山討伐への貢献について感謝 内の言葉を賜った。これを受けて経覚は学侶・六方衆に宇陀郡進攻を諮り、承認を得た ( 「満 済准后日記」 ) 。 二月二十三日、衆徒・国民が宇陀郡に攻め入り、沢・秋山は一矢も交えすに自ら城を焼い 彼らこそが宇陀土一揆を て逃走した。だが宇陀郡には沢・秋山を支持する土民たちがいた。 ,

3. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

同年六月二十日、興福寺の要望を受ける形で幕府は衆徒二六名・国民二八名に対し、翌月 じようら′、 五日までに上洛するよう命した。七月八日、上洛した衆徒・国民に対して幕府は七ケ条の 要求を突きつけた。主な内容は「今後、幕府の命令なく合戦した者は、大和から追放し、所 領を没収する。加勢した者も同罪。両門跡からの指示があっても動くな。何か問題が起きた 時は幕府に訴えよ。逆に幕府から討伐命令が出た場合は対象が親類でも容赦するな」といっ きしょ - つもん じいんの一」とじよ・つじよ・つききがき たもので、衆徒・国民は起請文を提出して遵守を誓った ( 「寺院事条々聞書」 ) 。 起請文の中には興福寺への忠誠を誓う条項もあるので、「幕府の衆徒・国民への措置は興 福寺としても望むところ」と捉える研究者もいる。しかし、幕府を頼ったことは、やはり興 福寺の弱さの表れであろう。もはや興福寺は、幕府の後ろ盾なしでは衆徒・国民の暴走を抑 えられないのである。現に、幕府は十月には学侶二四名にも上洛を命し、私利私欲に走らす ちょうりようばっこ 仏道修行に励むことを誓わせている。学侶の腐敗こそが衆徒・国民の跳梁跋扈を生んでい ると、幕府は見抜いていたのだ。 後南朝勢力の蠢動 室町幕府が大和の混乱に神経を尖らせていたのは、この時期に後南朝問題が発生してい たからであろう。 しゅんどう が ごなんちょう

4. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

ていはっ 称されることが多かった ( ただし国民は僧侶ではないので、衆徒と異なり剃髪はしていない。ま 、ほうじん た衆徒よりも興福寺からの自立性が強い ) 。彼らは一乗院、あるいは大乗院に属して「坊人」 とも呼ばれた。 わかみや 彼ら大和の武士たちは、毎年九月十七日 ( 現在は十二月十七日 ) に開催される春日若宮祭 ゃぶさめ ひらた ながかわ 礼 ( おん祭り、第五章で詳述 ) において流鏑馬を共同で勤仕した。当初は平田党・長川党と他 はせがわ いめいわき かつらぎかみ 国の武士が参加、十三世紀半ばから十四世紀初めにかけて長谷川党、乾脇党、葛上党が参 さんざい 加、鎌倉末期—南北朝期に散在党が参加した。余談ながら、永仁の南都闘乱は、永仁元年 ( 一二九三 ) のおん祭りの最中、流鏑馬の行列にまぎれこんで奈良に入った大乗院方の武士 たちが一乗院を襲撃し、これに一乗院方の武士が応戦したところから始まっている。 散在党が参加する頃から、他国の武士の参加が見えなくなり、大和国の武士が独占的に流 鏑馬を勤めるようになった。やがて国民層を中心に、長川・長谷川・平田・葛上・乾脇・散 在の六党がローテーションを組んでおん祭りの流鏑馬を奉仕する体制が確立したのである。 先行研究は、興福寺はおん祭りを通して大和国内の武士たちを組織・編成した、と説く。 その事実を否定はしないが、それ以上に、おん祭りでの流鏑馬勤仕は衆徒・国民たちの連帯 強化につながったと考える。興福寺の大和一国支配の進展と見るよりも、衆徒・国民の団結 と台頭を評価する方が妥当だろう。次節では、彼らの行動を中心に、動乱に揺れる大和の歴

5. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

市氏を官符衆徒の棟梁にしなければ、奈良の防衛はおぼっかない。何しろ義就の軍勢は河 内・大和両国合わせて一万にも及ぶというのである。 ところが尋尊が古市澄胤を官符衆徒棟梁に任命しようとすると、「私ひとりを棟梁として 下さるのなら、お受け致します」と返答してきた。康正元年 ( 一四五五 ) 九月に古市春藤丸 ( 胤栄 ) が官符衆徒の棟梁に就任した際には二七六頁 ) 、豊田・高山氏らも棟梁になってお 、棟梁は全員で五人であった。今回も豊田・高山らが棟梁の地位を要求しており、尋尊は 板挟みに遭った。だが尋尊は「古市以外の人間に奈良の治安を守らせようとしても上手く くまい」と考えた。相変わらす尋尊は冴えている。以後、尋尊は文明九年十一月に古市氏を 通して畠山義就に河内平定を祝う書状を酒樽などの贈り物と共に送るなど、義就との友好関 係の構築に腐心している。 畠山義就と越智家栄の推薦もあり、文明十年正月、尋尊は筒井順尊の代わりに古市澄胤を 官符衆徒棟梁に任命した。筒井方が反発したものの無力であった。同年六月には越智家栄の 娘と古市澄胤との政略結婚が成立し、古市氏の権力は一層強化された。 ふくすみ 一方、筒井順尊は反撃の機会をうかがっていた。順尊の長男が東山内の福住郷 ( 現在の奈 良県天理市福住町 ) を支配する福住氏の養子となっていたため、福住郷を拠点に抵抗活動を かくらん 行った。文明十一年九月以降、筒井方は足軽を雇って奈良市中を攪乱した。足軽たちは神出 210

6. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

南北朝期の大和 かっての研究では、一乗院は南朝方、大乗院は北朝方という形で、興福寺は南北朝の動乱 つねただ によって二分された、と言われていた。これは、一乗院実玄の父である近衛経忠が南朝方で あった事実などからの推測と考えられる。しかし安田次郎氏が明らかにしたように、興福寺 は全体として常に北朝方、すなわち武家 ( 室町幕府 ) 方である。幕府も興福寺に遠慮して大 和には守護を設置せす、興福寺が事実上の守護職を保有した。そして一乗院と大乗院は、南 取朝対北朝という対立構図とは無関係に激しい抗争を繰り広げたのである。 た特に観応二年 ( 一三五一 ) の「両門跡確執。は大きな画期となった。一乗院と大乗院の争 内いは断続的とはいえ、三〇年以上に及んだ。興福寺、そして衆徒・国民は完全に二分された。 両門跡は武力を有する衆徒・国民を自派に取り込むために、競って恩賞を与えた。この結果、 けいがい 一一乗院領・大乗院領は衆徒・国民の手中に落ち、門跡による荘園支配は形骸化していった。 十五世紀後半の大乗院門主で興福寺の歴史を研究していた尋尊は「この戦乱が興福寺減亡 史を見ていきたい。 2 動乱の大和 しゅごしき じっげん

7. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

融和路線に見切りをつけ、開戦を決意したのである ( ただし「寺院事条々聞書」は所領問題が 蜂起の原困とする ) 。 きようごくもちみつときもちます いっしきよしのり 応永二十二年四月中旬、幕府は京極持光・土岐持益・一色義範に北畠討伐を命じた。討 おうみ すずか 伐軍は近江から鈴鹿峠を越えて伊勢に人ったが、激しい抵抗に遭い苦戦を強いられた。しか も、伊勢国と境を接する大和国宇陀郡には北畠氏の影響力が浸透していたので、宇陀郡の 沢・秋山も北畠に荷担して挙兵した。そこで幕府は衆徒・国民に沢・秋山退治のため宇陀郡 への出陣を命じた ( 「寺院事条々聞書」 ) 。 はたけやまみつのり 同年六月十九日、沢・秋山の活動が沈静化したのを見て、義持は畠山満慶に大和国宇陀 郡経由で伊勢に進撃するよう命した ( 「満済准后日記」 ) 。その数はわすか百二、三十騎ほどだ ったと言うので、衆徒・国民の兵力に期待していたのだろう。だが同月二十四日、宇陀郡の っちいっき 石破あたり ( 現在の奈良県宇陀市榛原赤埴か ) で畠山・衆徒・国民ら幕府軍は土一揆の襲撃を ひょ・つろ・つまい ことごと 受け兵粮米以下悉くを奪われてしまった ( 「寺院事条々聞書」 ) 。それでも畠山軍は伊勢に向 かったが、衆徒・国民は引き返してしまった。 くすのき かわちのくに 七月には北畠氏に呼応して楠木某も挙兵し、大和国宇智郡・河内国に侵人、家々を焼き 払った。大和武士の中にも楠木に通した者がいたという ( 「寺院事条々聞書」 ) 。七月十九日、 畠山満慶は一隊を割いて河内に派遣している。同二十四日、楠木某は討ち取られた ( 「満済 0 2

8. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

だいきょ・つ のは当然として、多数のお供が付き従い、華々しい行列を組んだ。「大饗」という儀礼的な 宴会も行われた。 これらに要する莫大な費用は、基本的に大乗院領の諸荘園にかける段銭によって賄われた。 段銭とは、「田畑一反あたり銭何文」という形で百姓たちから臨時に徴収する税金のことで ある。 寛正三年に政覚を大乗院に迎えるにあたって、尋尊は人室段銭をかけたが、期日が来ても 納入しない荘園が多く、衆徒・国民に武力討伐を命じた。衆徒・国民は出兵には後ろ向きだ ったが、筒井や十市らは配下を送って威嚇したらしく、ほとんどの荘園は支払った。応仁二 年の政覚の受戒・方広会竪義に際しても、応仁の乱の最中であるにもかかわらす、段銭をか けた。この時も衆徒・国民の武力をちらっかせて納人させている。こうした記事を読んだ戦 後の歴史学者が、尋尊に冷淡だったのはうなずける。 文明三年 ( 一四七一 ) の政覚の慈恩会竪義においても、段銭が賦課されることになった。 ただ、学侶・六方はこれに反対だった。慈恩会とは法相宗の宗祖・慈恩大師の忌日である十 たいえ 一月十三日に行われる法会のことで、興福寺「十二大会」の一つである。しかし、興福寺随 一の法会である維摩会やそれに次ぐ法華会に比べれば格は低い。このため、段銭をかけてま で仰々しくやる必要はないのではないか、という批判が出たのだ。 たん たんせん 142

9. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

第五章衆徒・国民の苦闘

10. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

第一章畿内の火薬庫、大和 山城国 添 平下、興福寺 群 ) 郡」、添上郡 ・・ / ・ユ・ J 山辺郡 ア : 葛一、 h 参 i ・城上郡 ) 郡、 / ・高、郡 / ・ ユ市・、卍多武峰 ) 、 葛冫郡 よしみつ 足利義満によって官符衆徒に加えられたという ( 「大乗院寺社雑事記」 ) 。本来、官符衆徒の任 命権は興福寺の別当にあるので、この義満の措置は異例である。筒井が乾脇党の中で浮上し ていったのは、幕府のバックアツ。フがあったからと考えられる。 伊賀国 河 内 国 城下郡 広瀬郡 忍海郡 宇陀郡 、ノ 伊勢国 紀伊国 吉野郡 紀伊国 大和国の各郡