足利義政 - みる会図書館


検索対象: 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱
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1. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

氏再興を進めた義政の側近グルー。フを敵視している宗全にとっても、この縁談のメリットは 大きかった。 期波義廉は畠山義就との提携も模索した。寛正六年十一月、畠山義就が天川で旗揚げする たち と、朝倉孝景が義就に馬と太刀を贈って祝意を示している ( 「大乗院寺社雑事記」「経覚私要 鈔」 ) 。この頃になると、斯波義敏の家督復帰が現実味を帯びてきていた。一人でも多くの味 方を得ようと、義廉は焦っていたのだろう。 文正の政変 じようどじぎしんげんぞく よしみ 寛正五年 ( 一四六四 ) 十二月、足利義政の弟の浄土寺義尋が還俗し、足利義視と名乗った。 男子のいない義政が自身の後継者になってほしいと弟に頼んだのである。しかし、寛正六年 よしひさ 十一月、義視の元服直後に、義政の実子 ( のちの義尚。以下義尚で統一 ) が誕生したことで、 事態は複雑化した。義政は義視↓義尚という順での将軍継承によって解決しようとしたと見 られるが、当時の幕政は義政の鶴の一声で動かせるものではなかった。 この時期、幕府には三つの政治勢力があった。第一は、伊勢貞親 ( 六七頁 ) を中心とする めのと 義政の側近集団である。義尚の乳父 ( 養育係 ) である貞親は、義視の将軍就任には反対であ った。義政が将軍を続け、成長した義尚が後を継ぐことこそ望ましい

2. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

も面会しようとしなかった。表面的には義尚への政務委譲の約束を果たしたかに見えるが、 実のところ突然の引退表明だったようで、周囲は困惑した。寺社本所領返還命令に応じない あつれき とくだいじきんあり 大名たちとの軋轢、正妻の富子との不仲、息子義尚との不和 ( 徳大寺公有の娘を父子で取り合 のぶたわ う ) などが原因だったようである ( 「大乗院寺社雑事記」「長興宿禰記」「宣胤卿記」 ) 。 政務委譲というより当てつけ的な政権投げ出しに義尚は反発し、再び本鳥を切り、人々の 年賀の挨拶を拒否した。天下を治める立場にある足利将軍家の父子が共に引きこもるという 前代未聞の事態に、尋尊は「ただ事に非ざるものなり」とあきれ返った ( 「大乗院寺社雑事 記」 ) 。このため、義政を補佐していた日野富子が政務を代行した。ただし、関所を乱立させ たり高利貸しを営んだりと私財の蓄積に狂奔する富子の評判は以前から悪く、長く続けられ る政治体制ではなかった。 同年十月、足利義政は京都北郊の長谷 ( 京都市左京区岩倉長谷町 ) の聖護院に隠棲した。 命令に従わない諸大名、行状が一向に改まらない息子義尚に愛想が尽きたというのである。 翌文明十四年五月、足利義尚は義政の捨てた小川御所に移る。そして七月、義政は正式に政 務の委譲を宣言し、義尚の執政が開始された。けれども、次節以降で見るように義政はなお も幕府の最高権力者としての地位を維持し、義尚の権力を制約し続けた。 ながたに しようごいん 218

3. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

事件後、足利義政は政務への意欲をますます失い、「私の命令を聞く者など誰もいないの 2 だから、今後は政治には一切関わらない と周囲に漏らすようになった。長享元年 ( 一四八ち しゅ - っざんと・つき ばんしょ - つけん むかさのしょ・つ 七 ) 七月、相国寺万松軒の住職である宗山等貴が義政に対し、若狭国向笠荘 ( 現在の福井 県三方上中郡若狭町向笠 ) の直務支配 ( 反抗的な現代官の追放 ) を認めてほしいと訴えたが、 義政は「もう訴訟は受け付けないことにしたのだ」と門前払いした ( 「蔭凉軒日録」 ) 。この結 しゅうれん 果、義政と義尚に二分されていた将軍権力が義尚へと収斂していった。 ただし義政は必すしも初志貫徹せす、以後も気まぐれに政治に口を出した。足利義尚が奉 さたけみつあき にしやまぐち 公衆の佐竹光明に対し相国寺領美濃国西山口郷代官を務めることを承認したにもかかわらす、 相国寺の異議申し立てを受けて義政が義尚の裁定を無効にした一件などは、その典型である ( 「蔭凉軒日録」 ) 。義政は義尚に裁定を撤回するよう求めたが、義尚に拒否されたため、西山 ロ郷を相国寺に返還するという裁定を独自に下したのである。この種の″口利き″を行うと、 寺院側から礼銭 ( 謝礼 ) がもらえるので、義政は権力を完全に手放そうとはしなかったのだ。 義尚の将軍就任後も義政が政務に関わったのは、もともとは年若い義尚を後見することが 理由だったと思われる。だが義尚が成長しても、義政は幾度も引退を宣言しておきながら、 よ - つかい 義尚の執政に容喙し続けた。唯一絶対の将軍による一元的な支配を目指す義尚にとって、父 義政の存在は、今や障害でしかなかったのである。

4. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

してみれば、そろそろ終戦に持ち込みたいところである。 終戦工作を担ったのは、新将軍足利義尚の母方の伯父、日野勝光であった ( 一一九頁を参 照 ) 。尋尊は勝光を「新将軍代」と呼んでいるが、政治の実権は依然として足利義政が握っ ており、勝光は実質的には義尚ではなく義政の代官であった。義政の最側近であった伊勢貞 親は文明三年四月に失脚し、同五年正月に既に没していた。また細川勝元も既述の通り、今 やこの世の人ではない。義政が頼れるのは勝光の他にいなかったのである。勝光は大内政弘 や畠山義就と接触するが、足利義視の処遇が決まらないこともあり、交渉は進展しなかった。 西軍諸将は義視を擁立した手前、彼を見捨てて降参することはできなかったのである。 文明七年二月、西軍の甲斐敏光が降伏し、足利義政から遠江守護代に任命された ( 「大乗 院寺社雑事記」 ) 。甲斐の主君である期波義廉も同年十一月に尾張に下った ( 『和漢合符』 ) 。義 廉のその後の動静は不明である。かくして越前は完全に東軍の手中に落ち、西軍は一層不利 に陥った。西軍の降伏は間近かと思われたが、文明八年六月に日野勝光が死去し、終戦工作 結 終 は暗礁に乗り上げた。 大 文明八年九月、足利義政は大内政弘に御内書を送り、終戦への協力を求め、受諾を得た くろおかたてわき 六 ( 内閣文庫所蔵「古文書」、「黒岡帯刀所蔵文書」 ) 。政弘の在京は一〇年近くに及んでおり、さす がに本国が心配になってきていた。十二月、おそらく大内政弘の進言に基づき、足利義視は 19

5. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

道 の の 応 第 九。七月二十八日、宝徳に改元 ) 四月、三春は一四歳で元服し、征夷大将軍に任命された。こ れが足利義政である。 将軍就任当初は管領が政務を代行していたが、次第に義政は自分の政治的意思を発揮する ようになる。細川氏が山名氏と提携すると、畠山持国は足利義政に接近した。このため、享 徳三年 ( 一四五四 ) に勃発した畠山氏の御家騒動において、義政は持国・義就を支持し、持 国の求めに応じて弥三郎討伐の命令を出 蔵 ただ、義政の持国・義就支持は不徹底 博で、八月二十一日の武力衝突の際には、 い国諸大名を動員して将軍御所を守らせただ 京 東けであった。二十八日に持国が隠居し、 象弥三郎の勝利が確定すると、弥三郎と面 政会し、家督相続を認めた。また、弥三郎 討伐の命令も撤回している ( 「師郷記」 」 , ・一、足「康富記」 ) 。義政は情勢に流される傾向 があり、その優柔不断さが混乱に拍車を

6. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

第三章大乱勃発 送った。「不本意ではあろうが、天下のために山名宗全と相談の上、おのおの分国に帰るよ うに。河内国は義就と政長の二人で分け合うように」という内容だった ( 「畠山文書」 ) 。 足利義政は依然として、大乱の根本要因を両畠山の争いに求めており、政長と義就を和睦 させれば戦乱は収まると考えていた。何しろ東軍の 大将である細川勝元と西軍の大将である山名宗全は、 ふぐたいてん 不倶戴天の仇敵どころか前年まで手を結んでいたの である。一〇年以上にわたって内紛を続けているの は畠山氏だけであり、畠山問題さえ処理できれば事 態は解決に向かうと義政が判断したのも無理はなか だが、足利義政の講和案は時機を逸していた。大 内政弘が入京した今、畠山義就が身を引く形で戦乱 を終結させることは不可能だった。西軍は講和案を 無視して東軍に猛攻をかけた。特に十月二—四日の しよ、つこ / 、じ 合戦は壮烈で、将軍御所の東に位置する相国寺の がらん 伽藍はことごとく焼け落ちて、将軍御所も半焼した ーミ , イなこ 相国寺 101

7. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

第二章を参照 ) 。 ところが応仁の乱終結後、大名たちは次々と分国に帰っていった。朝倉孝景に越前を乗っ 取られた期波義敏・義寛父子を見れば分かるように、守護が守護代などに分国統治を任せ京 都に滞在することは、もはや百害あって一利なしだった。前述のように、赤松政則に至って は、重臣の浦上則宗を京都に残して自身は下国する始末で三一九頁 ) 、いわば " 逆転現象。 が起きていたのである。この結果、文明十五年には在京している大名は細川一族と一色義直 だけになっていた ( 畠山政長は義就と交戦中 ) 。そして大名たちが京都からいなくなった分、 奉公衆と奉行人の幕府内での存在感は相対的に高まったのである。 こうなると、奉公衆と奉行衆との間で主導権争いが生起するのは当然だ。だが平時におい ては、事務官である奉行人たちの方が明らかに有利である。押され気味の奉公衆が、足利義 幕政に頭を押さえつけられている義尚に接近していったのも、これまた必然と言えよう。義尚 町 は、自分が決裁しても奉行人たちがすぐに文書を作成せす、「東山の御所 ( 義政 ) へそっと 室 まつお 後そっとうかがい申し」て義政の許可を得ようとすること ( 「松尾神社記録しを不快に思って いぬおうものたかカ いた。しかも義尚は文化系の義政とは対照的で、犬追物や鷹狩りを好むという武張った人間 七だったから、奉公衆と親しみやすかった。義尚と奉公衆が鬱積した不満を爆発させたのが、 布施英基殺害事件であったと考えられる。 231

8. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

で足利義政を隠居させる意図もなかった。足利義政↓義尚という伊勢路線でもなく、足利義 政↓義視という山名路線でもなく、足利義政↓義視↓義尚という既定路線の維持が勝元の真 意であったと考えられる。代々、穏健中道を歩んできた細川氏ならではの政権構想と一一一口えよ これまで見てきたように、足利義政は討伐命令を出したかと思えば赦免し、あまっさえ家 督をすげ替える、といった行為を繰り返した。義政が決定を二転三転させることが政治・社 会の混乱を生んでいることは疑いなく、尋尊も「大乗院寺社雑事記」の中でしばしば批判し ている。しかし、義政の気まぐれで周囲の意見に流されやすい性格だけが朝令暮改の原囚で はなく、より本質的な要因は、三つの政治勢力のせめぎ合いにあった。 ていりつ ぶんしよう 伊勢・山名・細川。 この三者鼎立の構造がついに崩れる時が来た。文正元年 ( 一四六六。 きけいしんすい 寛正七年二月二十八日に改元 ) 七月、伊勢貞親や禅僧の季瓊真蘂ら側近たちの申請に基づき、 よしなお 足利義政は斯波氏の家督を義廉から義敏に替えた。これに対して山名宗全は一色義直・土岐 しげ・より・ まさひろ 成頼と共に義廉支持の動きを見せる。また貞親は、細川勝元と対立していた大内政弘を赦免 したため、勝元は隠居を願い出るなど不満の意を示した ( 「大乗院寺社雑事記」 ) 。 尋尊は光宣からの楽観的な情報を信し、義敏への家督交替はそれほど大きな波乱を生まな いと高をくくっていた。だが朝倉孝景と連絡をとっている経覚は、山名宗全らがこのまま黙

9. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

おなりはじめ 毎年正月二日に将軍が管領邸で饗応を受けるのは恒例行事であり、これを「御成始」とい 将軍の御成を迎えることは、将軍との緊密な関係をア。ヒールする絶好の機会であるから、 いんぎゅう 御成の中止は政長にとって大打撃であった。「両方引汲ー ( 政長・義就の双方を取り立てる ) という無節操さを示す義政に、尋尊はあきれている ( 「大乗院寺社雑事記」 ) 。 正月五日。この日は毎年、畠山邸への御成の日だった。だが足利義政は、畠山政長ではな く、畠山義就への御成を行った。畠山邸は政長に押さえられているため、義就は山名宗全の 屋敷を借りて義政を迎えた ( 「後法興院記」「斎藤親基日記」 ) 。足利義視や諸大名も義政に随行 し、加わらなかったのは畠山政長・細川勝元・京極持清のみであった ( 「大乗院寺社雑事記」 ) 。 翌六日、義政は政長を管領職から罷免し、屋敷を義就に引き渡すよう命した ( 「大乗院寺社 雑事記」「斎藤親基日記」 ) 。なお、この日、政長不利の情勢を知った成身院光宣が手勢を率い て奈良から京都へ向かった ( 「経覚私要鈔」 ) 。だが八日には斯波義廉が管領に任命され、十一 日には新管領義廉の出仕始が行われた ( 「後法興院記」「大乗院寺社雑事記」「経覚私要鈔」 ) 。 当初、政長を支持していた義政が義就支持に転したのは、義就上洛によって山名方が軍事 的優位に立ったことを悟ったからだろう。そこで十五日、畠山政長・細川勝元・京極持清・ 赤松政則らは軍勢を率いて将軍御所に押し寄せ、義政から強引に義就討伐命令を引き出そう ごしょまき と計画した ( このような諸大名による将軍脅迫を「御所巻」という ) 。ところが、この企みは宗 0 きょ・つお・つ

10. 応仁の乱 : 戦国時代を生んだ大乱

義視を侮っていたのではないだろうか。細川勝元は義視に出家を勧めたというが ( 「大乗院 寺社雑事記」 ) 、それは義政の意向をくんだ提案でもあったはすだ。ついこの間まで東軍の総 大将を務めていた義視が西軍に担がれるという事態は、義政にとって想定外だったと思われ る。 足利義視は実績作りのために西軍討伐に意欲を示したこともあったが、実戦には参加して 舌前の義視 いないし、山名宗全を嫌っていたわけでもない。家永遵嗣氏が解明したように、し」 と宗全はむしろ親しかったのである。そして西軍にとって、義視を擁することで反乱軍とい う負い目が消える魅力は大きかった。義視と宗全の利害が一致したことで、親睦と打算によ る驚くべき結合が生まれた。 これまで見てきたように、足利義政は情勢に流されて東軍寄りの立場にいたが、西軍討伐 には必すしも積極的ではなく、むしろ和睦の可能性を探ってきた。けれども、西幕府の成立 によって、義政の態度は一変する。十二月五日、義政の奏上により、朝廷は足利義視および 義視に同調した公家たちの官位を剥奪した ( 「公卿補任」 ) 。さらに足利義視治罰の院宣が発給 され、義視は「朝敵」となった ( 「大乗院寺社雑事記」 ) 。平和はますます遠のいてしまったの である。 104