人もいたでしよう。昭和二〇年代や三〇年代は、共感してくれる人がいたし、話すこと によって気持ちが楽になるということもあったでしようが、孫に共感を求めるのは難し いものがあったでしよう。 また、それらの記億は遠い忘却のかなたへ消えてしまったという人もいたでしよう。 父が私の子供に戦争の体験を語らなかった理由はわかりません。父にそんな話をして ほしいとは言いませんでした。いや、正直に言えば、そんなことは気にも留めていませ んでした。私にとっても、父の戦争体験は関心のないものになっていたのです。 しかしあと半年で父が亡くなると知らされた時、父の人生に思いを馳せた時に初めて、 父や伯父の世代にとって、あの大東亜戦争はとてつもなく大きなものだったと気付かさ れたのです。 大東亜戦争が始まった頃の日本人の人口は約七一一〇〇万人 ( 台湾人と朝鮮人を除きま す ) です。それが三年八ヶ月の戦争で、三一〇万人という尊い命が失われました。一般 市民の犠牲者は約八〇万人、戦場で斃れた軍人・軍属は約二三〇万人です。ちなみに一一 三〇万人のうち、大正生まれが約二〇〇万人です。大正はわすかに一五年、その間に生 まれた男子は約一三五〇万人ですから、大正世代の男は約七人に一人が戦死したことに
す。また二人の孫は戦友たちの話を聞くうちに、「大東亜戦争」とはどんなものであっ たかを知ることになります。物語の最後は、六〇年の長きにわたって封印されてきたあ る謎が浮かび上がって、終わります。 『永遠の 0 』で描きたかったもの 私がこの物語で描きたかったのは、「生きるとは何かということと、「人は誰のため に生きるのか」ということでした。そのテーマを選んだのは、かっての父や母があの時 説 代をどんな思いで生きてきたのか、という思いからです。 美 私を含めて現代に生きる人たちは、「自分は何のために生きているのか」を見失って にいる人が多いように見えます。また「家族」というものに、拠りどころを得られない人 0 も少なくないように思います。中には、「生きる意味さえ見失っているように見える の 遠人もいます。 しかし、かって七〇年前の大東亜戦争の時代、日本人の誰もが「生きる」ということ 二かいかに素晴らしいことであるかを知っていたように思います。また「自分は誰のため 第 に生きているのかーとい、つことを考えない人はいなかったでしよ、つ。 1 幻
とおっしやった方もいました。 戦わなければならない 七十数年前、日本を守るために命懸けで戦い抜いた男たちの言葉を、私たちは重く受幻 け止めるべきだと思います。 もし、この本を読んで、「百田尚樹は戦争をしたがっている」と非難する人がいるな ら、その人にはもう何も一言うことはありません。彼らは「九条を守る、以外の言葉を吐 く人間はすべて「軍国主義者」に見えるのでしよう。そういう人にもはや会話は通じま せん。 よく「日の丸、を見ると、戦前を思い出すという人がいますが、彼らは前世の記憶で も持っているのでしようか。また「君が代」を聞くと、「軍靴の音が聞こえる、という 人がいますが、今すぐ耳鼻科へ行くことを勧めます。もっとも幻覚や幻聴は耳や目の問 題ではなく、精神的な病ですから、行くべき病院は別かもしれません。 日本人にリアリストが一人でも増えることを希望します。特にこれからの日本を背負 っていく若者たちにリアリストが増えていくことを願って、筆をおきます。
に撃たれて死ぬかもしれません。こんなことを望む人間がいるなら、頭がおかしいとし か言いようがありません。私の周囲にいる改憲派の人たちも、誰もそんなことは望んで はいません。 それで私は護憲派の人たちに、逆に尋ねます。 「日本が侵略戦争をするとして、どこの国を侵略すると考えているのですか ? 」 この質問に対して、明確な答えが返ってきたことは一度もありません。 つまり護憲派の人たちは、具体的なことなど何も考えていなくて、ただ改憲派の人た ちを「戦争をしたがっている」と罵っているだけだったのです。これは一種のレッテル 貼りに過ぎません。 告では、私が護憲派の代わりに具体的に考えてみましよう。 派 まず中国を侵略するというのはどうでしよう。これはまるで現実的ではありません。 憲 わすか一億二〇〇〇万人しかいない日本が、一三億人 ( 実際にはもっと多いと言われて 三います ) も国民がいる国をどうやって侵略できるのでしようか。しかも相手は日本の二 倍以上の軍備を持ち、大量の核まで保有しています。どう考えても勝てません。 2 月
られています。理屈をいくら説いても、洗脳は抜けません。潜在意識の深いところに入 っているからです。洗脳というのは、本当に怖ろしいものです。ちなみに「洗脳」とい う言葉は、中国共産党が作ったと言われています。彼らは捕虜に睡眠を与えず、何度も 何度も同じ教義を吹き込むのです。最初は理性で拒否しても、ついに脳の防波堤が壊れ、 教義が脳細胞の深いところに浸透してしまうのです。そうなれば、もう終わりです。 私の周囲を見渡すと、 , ハ〇歳以上の人の多くは洗脳を受けているという実感がありま す。団塊の世代はほば洗脳を受けていると言っても過言ではありません。高学歴である 人ほど洗脳率は高いようですが、こうした人たちは、もう容易なことでは洗畄は解けな しという実感があります。 ですが、私は絶望はしていません。五〇代以下のまだ洗脳の浅い世代、特に二〇代以 告下の若者たちにはそうした洗脳を受けていない人たちが少なくないからです。また洗脳 派 を受けている人たちも、それは浅く、抜け出すことは十分に可能です。 憲 護 ですから、この本も五〇代以下の世代の人たちに向けて書いています。 章 第 207
度も指摘してきました。するとほとんどの人が納得してくれるのです。「なるほど、そ ういうことだったのか。説明を聞いてよくわかった」という人も何人もいました。 ところが、です。そう一一一一口うほとんどの人が「改憲派」にならないのです。 やつばり九条って大事だと思う」 「百田さんの一言、つことはもっともだと思、つけど : このセリフを何度聞いたかわかりません。 そして、私が「なぜ、九条が大事なのですかーと訊いても、彼らは答えられないので す。 でも最近になって、ようやくその理由がわかってきました。彼らはかっての義和団の 信者と同じ、「九条教ーという宗教の信者だったからです。 戦後七〇年にわたって、朝日新聞をはじめとする大メディア、そして日教組、さらに 市民活動家、進歩的文化人と呼ばれる人たち ( 実は左翼主義者 ) が、新聞や雑誌やテレ ビで、「九条は正しい」「日本の平和は九条によって守られてきた」という布教を続けて きたのです。そして知らないうちに「九条教」という世界でも例のない不思議なカルト 宗教の信者を増やしてしまったのです。 洗脳されたカルト宗教の信者を逆洗脳するのは、とてつもなく難事であるのはよく知 206
に出撃しましたが、 その間の海上には何十隻も潜水艦が配備されていました。その間に 不時着したら、すぐに救助できるようになっていたのです。実際に潜水艦によって助け られた四の乗員は二〇〇〇人以上とも言われています。アメリカ軍は撃墜されたパイ ロットたちから、その時の状況を聞き出し、その教訓を防御に反映させました。 この発想は日本にはありませんでした。搭乗員はやられたらそれでお終いです。日本 のやり方が非常に不条理なのは、少数精鋭の搭乗員を育てながらも、彼らを使い捨てて いく戦法を取り続けたことです。 私の友人で会社を経営している人から、面白い話を聞いたことがあります。彼の会社 には、ずば抜けた成績を挙げるエース級の営業マンがいるそうです。彼一人で営業所が ン マもっているというくらいの存在だといいます。 グ「ということは、そ、ついう人間を何人か作れば、会社がうまくいくなあ 戦私がそう言うと、友人は即座に否定しました。 「百田さん、それは違うんや。エース級の営業マン一人で成績がグーンと伸びるような 一事態は、実はとても怖いことなんや。だって、そのエ 1 スがいなくなったら、ガクッと 成績が下がることになるから。工 1 ス一人に頼るようなシステムは危険だから、企業は
第三章護憲派に告ぐ 護憲派の人たちだけが、「九条を失くせば、日本は戦争をする ! 」と思い込んでいる のです。 しかし護憲派の人たちが言う「改憲派の人たちは戦争をしたがっているーという言葉 は、一部に正しいところがあります。それは私たち改憲派が「もし他国の侵略を受けた 時、武力でもって抵抗できる国にしたい」と考えているからです。ただ、これは「戦争 をしたがっている」のではなく、「自衛戦争ができる国にしたい」と思っているのです。 そして、これはまことに奇妙なことなのですが、護憲派の人たちも改憲派の人たちも、 実は同じ目的を持っているのです。それは「日本が平和な国でありたい」というもので す。改憲派と護憲派の目的が共通しているとは不思議でしよう。 問題は、同じ目的を持ちながら、なぜ、まるで違う考えになるのか、です。それは 「リアリスト」であるか「ロマンチスト」であるかということなのです。 ここに異なった憲法を持っ二つの国があったとしましよう。その一つはこういう憲法 「私たちは決して侵略戦争をしない。しかしもし他国から侵略されたら徹底して戦う」 幻 5
という思いで戦ったはす 戦場にいる男たちは、皆、「生きて家族の元へ帰りたいー です。また夫や恋人を送り出した女たちは、愛する人の帰還を、毎日、祈る思いで待っ ていたことでしよう。戦場で斃れた男が二三〇万人いたということは、ついに再び愛す る人に会えなかった女や家族はその何倍もいたのです。 私の母は大正一五 ( 一九二六 ) 年の生まれです。結婚したのは昭和二九 ( 一九五四 ) 年、 二九歳の時でした。当時としては完全に行き遅れです。母に尋ねたことはありませんが、 もしかしたら愛する男性を戦争で失ったのかもしれません。そんな話は一度も聞いたこ とがありませんが、そうだとしても、母がそれを私に語ることはないでしよう。 読者の方はもう察しがつくとは思いますが、『永遠の 0 』の構造は、私の個人的な思 いが入っています。宮部久蔵は私の父や伯父の世代です。そして彼がどんな男であった のかを訊ねてまわる二人の孫は、私の子供の世代です。私はこの二つの断絶した世代を、 『永遠の 0 』という物語で結びつけたかったのです。 こんなことを作家が書くのはル 1 ル違反ですが、私は『永遠の 0 』を書きながら、何 度も泣きました。自分が書いている作品の登場人物たちが永久に家族と会えないという ことが辛くてたまらず、涙が止まらなかったのです。同時に、何百万人という人をこれ 722
時の海軍航空隊の中にあって、「何としてもこの戦いを生き延びて、妻と娘のもとに戻 るーという信念を持ち、それを公言していた男であったからです。おそらくこの気持ち は当時の多くの搭乗員がひそかに思っていることでした。ただ、それを口に出して言う 空気は当時の軍隊にはありませんでした。 しかし宮部のその夢は叶えられませんでした。戦争があと数日で終わるという時に、 彼は神風特攻隊として散華します。残された宮部の未亡人は戦後、ある男性と結婚し、 平和な生活を送り、約五〇年後に亡くなります。彼女の二人の孫は、その時初めて、自 分がずっと祖父だと思っていた人は本当の祖父ではなく、血のつながった祖父は宮部久 蔵という名前の男で、戦死した軍人であったと知ります。 のちに二人は、自分たちの実の祖父はどんな人であったかを知りたいと考え、戦争中 に宮部とともに戦った元兵隊を訪ねて、「宮部久蔵という人はどんな人だったのか」と 訊きます。「海軍一の臆病者」と罵る者もいれば、「自分が生きているのは宮部さんのお 陰だ」と感謝を述べる者もいて、その人物像はまさしく毀誉褒貶です。 ただ、どの戦友も「宮部ほど命を大切にする搭乗員はいなかった」と言います。なの 。聞けば聞くほど、謎が深まっていきま に、なぜ特攻隊員として死地に赴いたのか 720