した ) 。 父は私と妹を大学まで行かせてくれました。水道局を定年後も小さな会社に再就職し、 七〇歳近くまで働いていました。そんな働きづめの人生を送った父があと半年で死ぬの かと思、つと、なんとも言えない気持ちになりました。 実はその少し前、私の伯父 ( 母の兄 ) がやはりガンで亡くなっていました。伯父も大 東亜戦争で兵隊として戦った男です。 その時、私は思いました。「あの戦争を戦った男たちが、歴史から消えようとしてい 説 るのだな」と。ならば、彼らから戦争の話を聞いた世代として、それを次代に語り継い 美 賛でいかなくてはならないと思ったのです。 鹹私は昭和三一 ( 一九五六 ) 年生まれです。早生まれなので、三〇年の学年です。つま のり戦争に負けて一〇年経って生まれた世代です。私が子供の頃は、正月には親戚が集ま 遠りました。八人きようだいの母の一番上の姉のところに、妹や弟たちが家族を連れて集 うのが年中行事となっていました。 章 小学生の私は伯父や伯母が昔話をするのをばんやりと聞いていました。その話は戦前 3 第 の子供時代の話だったり、学校時代の話だったりするのですが、そんな話の中には必す
まったく変わりはありません。 1 + 1 は永久に 2 です。しかし法律というものは、人類 共通の公式があるわけではありません。それは国や民族によって法律が違うことからも わかります。また同じ国であっても、時代が変われば法律も変わります。現代の日本が 江戸時代の法律でやっていけるわけがないのは誰が考えてもわかります。江戸時代であ っても平安時代の法律ではやっていけません。これは憲法も同じです。時代の変化、国 民の生活や意識の変化、また国際状況の変化に伴って、修正していくものであるのは当 然です。ところが日本国憲法は施行以来七〇年が過ぎても、一字たりとも変わっていな いのです。 これがいかに異常なことかは世界の憲法を見ればわかります。世界中の国は戦後にお いても何度も憲法を変えています。二〇一七年現在、アメリカは , ハ回、フランスは二七 告回、カナダは一九回、韓国は九回です。ちなみに日本と同じく占領軍に憲法を押し付け 派 られたドイツは六〇回も改正して、自分たちの憲法に作り変えました。 護 日本国憲法に関して、面白い話が残っています。日本国憲法が施行されてから、三七 三年後の一九八四年、憲法学者の西修氏がアメリカに渡り、日本国憲法の草案を作った元 民政局のメンバ 1 の何人かに会って、当時のことを訊ねています。この時、会っ 795
衆を虐殺することが稀有だったことに起因しているのではないかと考えています。 日本史にはさまざまな戦がでてきます。江戸時代以前、戦国時代には日本中で戦が起 こっていたように思っている方もいらっしやることでしよ、つ。たしかに、日本全国で大 名たちが争っていたのは事実です。しかし、実は戦死者はとても少ないのです。単一民 族同士の戦いだから、ということもその理由のひとっかもしれません。 ーセントを失えば勝負は決しました。武田信玄と上杉謙 戦国時代の戦では、軍の一ヾ 信が戦った有名な川中島の戦いでは、濃霧の中の遭遇戦になった第四次の戦い以外では、 ほとんど戦死者が出ていません。 明治以前で最も大きな戦といえば、関ヶ原の戦いです。東西合わせて二〇万人近い兵 ン マ隊が激突した戦ですが、半日ほどで終結し、戦死者も , ハ〇〇〇 5 八〇〇〇人と言われて グ います ( 全体の数パーセント ) 。この戦死者数については諸説あるようですが、敗けた 西軍が皆殺しにされたりはしていません。 ロ ゼ 世界の戦争の歴史を見れば、敗軍の将はもちろん兵士も皆殺しとなることのほうが多 一いのです。前述のハンニバルはロ 1 マ軍を何度も包囲殲滅し、何十万人と殺しています。 また戦争では一般市民も虐殺されるケースが珍しくないというか、むしろ普通のことで
私も、ひと時代前なら、竹山氏のように表舞台から葬り去られたかもしれません。 パ 1 など様々な しかし現代はネットがあります。また地上波テレビだけでなく、スカ 発信媒体があります。ツィッターやフェイスブックなどの (-nZco もあります。私はそこ でメディアの間違った指摘に対して、堂々と反論することができます。もちろん、その 反論に対して攻撃を加えてくる人もいます。でも、賛同して応援してくれる人もいます。 かってはこういう人たちの声は表に出てくることはありませんでした。 現代はあらゆる人がネット空間で自由に発言でき、また批判できる時代になりました。 説 それまで世界に向けて発信することができなかった人たちが、大メディアに対して堂々 美 賛と意見を言えるようになってきたのです。 鹹私がメディアに散々に叩かれながら、今も尚こうして本を書いていられるのは、支え てくださるファンや書店に加えてインタ 1 ネットのお陰だと思っています。 の 遠 永 右翼と戦記マニアからの非難 章 これは少し本質からは逸れる話ですが、実は『永遠の 0 』は右翼からも叩かれました。 5 第 それは軍部 ( 特に海軍 ) を辛辣に非難したからです。私に対して左翼のレッテルを貼っ
戦争は遠い歴史になった ところが時が経つにつれて、父も母も戦争の話はしなくなりました。東京オリンピッ クがあり、昭和四五 ( 一九七〇 ) 年の大阪万博があり、高度経済成長の時代を迎えて、 両親にとっても戦争は遠い過去になっていったのです。 私が大学に入った昭和五〇年頃には、家で戦争の話を聞くことは滅多にありませんで した。私が結婚し、子供が生まれた平成の時代には、もはや戦争は「古い歴史ーとなり つつありました。父は私の子供 ( 父から見て孫 ) には戦争の話は一度もしませんでした。 賛麦こ多くの人に聞いても、皆同じでした。戦争を体験した人たちの多くは、子供には 争彳 ( 戦争を語っても、孫にはほとんど語っていません。現代の三〇歳以下の若者のほとんど は、祖父や祖母から戦争体験を聞いていません。 遠これには様々な理由があるでしよう。戦争のことを何も知らない孫に語っても、理解 してもらえないという思いがあったのかもしれません。予備知識もない子供にそんな話 二を語るのは難しいものです。 また、半世紀以上も経てば、今更、辛く悲しい思い出を蘇らせることが苦痛だという 月 5
る戦闘機を設計したのです。もちろん、これだけの条件をクリアするには、並大抵のエ 夫ではできません。だからこそ、凝りに凝った設計となり、製作に手間がやたらとかか ることになりました。極限まで性能を上げるためのカープも、沈頭鋲も、鉄骨の穴も、 すべて海軍の過酷な要求を満たすためです。こうして世界最高水準の戦闘機が誕生しま した。 まだパソコンなども無い時代、飛行機はその時代の最先端のテクノロジーを結集させ たものでした。そして、その中で日本人の開発したゼロ戦は、当時、世界最高峰のレベ ルに到達していたのです。 そのため、当初、連合軍はゼロ戦の存在を信用しなかったほどでした。大東亜戦争が ン マ始まるよりも前、中国大陸での戦いで、すでにゼロ戦は実戦配備されていました。現地 グにはアメリカの義勇軍もおり、そのパイロットたちはゼロ戦と戦い、そのあまりの卓越 戦 ロ した能力に度肝を抜かれ、本国に報告をしました。とてつもなく優秀な戦闘機を日本軍 ゼ が操っている、と。 章 ところがその報告を本国の軍関係者は全く信用しませんでした。日本軍がそんな優秀 第 な戦闘機を作れるわけがないという先入観のためです。はっきり一言えば、「あんな猿み
この国では、長らく大東亜戦争を「物語」として語ることは許されない空気がありま した。大勢の人が亡くなった戦争を娯楽小説で描くということは、不謹慎という見方で す。大東亜戦争をテーマにする場合、ます描かねばならないのは「悲惨さ」であり、訴 えなければならないのは「反戦ーと「反省」、そして軍部に対する「糾弾」と「怒り」 それ以外の側面を描くことは許されないという不文律があったように思います。 違ってもエンタメ作品として作るということはあってはなりませんでした。 かしかし戦後、六〇年以上経ち、あの戦争を体験した方たちの多くが亡くなった今、よ 小うやく、あの時代を「小説」として描けるようになったのではないでしようか。幕末と 賛明治維新の時代が、大正になってようやく物語として描かれるようになったごとく。 宮部久蔵は誰よりも命を惜しむ男でしたが、実は凄腕の搭乗員でした。そしてその腕 ので、米軍機を何機も撃墜します。それは敢えて言えば、剣豪のようなカッコよさです。 遠このカッコよさは当時の帝国陸海軍の搭乗員の多くが持っていたものです。大東亜戦争 における空の戦いは、結局、圧倒的な物量と技術力の前に米軍の勝利となりましたが、 二歴戦の搭乗員は最後まで米軍パイロットを恐れさせました。宮部もまたそうした搭乗員 の一人でした。 761
機が高まっているとさえ言えます。 この不安と混迷の時代に、私たちは何としても戦争を回避し、これを抑止しなければ なりません。もし、それができなければーー日本の未来もないでしよう。 私が死んだ後も、子供たちがすっと笑顔でいられる国でいてほしいという願いを込め て、まえがきの締めとさせていただきます。 平成二九年七月 百田尚樹
とはない。しかし宮部久蔵という男はそうではなかった。奴はいつも逃げ回っていた。勝っ ことよりも己の命が助かることが奴の一番の望みだった」 「命が大切というのは、自然な感情だと思いますが ? 」 長谷川はじろりと姉を睨んだ。 「それは女の感情だ」 「ど、ついう意味でしよう ? 」 ほくは小さな声で、姉さん、と言った。しかし彼女は聞こえないふりをした。 「男も女も同じだと思います。自分の命を大切にするというのは当たり前のことじゃないで すかー 「それはね、お嬢さん。平和な時代の考え方だよ。我々は日本という国が滅ぶかどうかとい う戦いをしていたんだ。たとえわしが死んでも、それで国が残れば、 しい、と。ところが宮部 という男は違った。あいつは戦場から逃げ回っていたんだ」 「それって素晴らしい考えだと思いますけど 「素晴らしいだと ! 」長谷川は声を上げた。「戦争で逃げ回る兵隊がいたら戦いになるか」 「みんながそういう考え方であれば、戦争なんか起きないと思いますー 740
うであったように、宮部もまた未曽有の国難の時代にあって、ただひたすら家族のため に戦います。『永遠の 0 』は『壬生義士伝』へのオマージュなのです。 朝日新聞からの批判 この作品は紆余曲折を経て出版されましたが ( 出版にいたるドラマは後ほど語りまし よう ) 、出版から数年後にベストセラーになりました。 普通、ベストセラーというものは、発売と同時か、あるいは半年以内くらいに爆発的 に売れるものですが、『永遠の 0 』はロコミでゆっくりと売れていき、一〇〇万部を超 えたのは五年以上経ってからです。その後、映画化され、最終的には四五〇万部以上売 れました。 ベストセラーになると、当然、作品に対するアンチも増えますが、『永遠の 0 』に関 しての毀誉褒貶は凄まじいものがありました。 最も厳しい意見は、この作品が「戦争賛美小説だー というものです。日く「戦争を 美化している」、「特攻隊員を英雄視している」、「大東亜戦争を肯定している」というも のです。 7 幻