視すれば、当然、爆撃機と攻撃機を多くするでしようし、防御を重視すれば戦闘機を増 やす必要があります。この比率が、日米では見事に異なりました。日本は爆撃機と攻撃 機が多く、アメリカは戦闘機が圧倒的に多かったのです。つまりアメリカは防御中心だ ったのです。 大東亜戦争で日本海軍とアメリカ海軍の空母同士が何度か対決していますが、日本が 攻撃中心だったのに対して、アメリカ側は常にガードを固める戦術でした。 このような防御中心のアメリカにとって、命を捨てることを前提にした神風特攻隊な どはまったく理解できないものだったことでしよう。 ン マ原爆並みの開発費を投じた >k—信管 グアメリカが防御をどれだけ重視していたかをよく示す兵器があります。近接信管を装 備した迎撃砲です。これは「信管」とか「マジックヒューズ」とも呼ばれる、アメ ゼ リカが開発した画期的な兵器です。 一爆撃機や攻撃機がやってきたとき、迎え撃っ空母の側はます高射砲を撃ちます。これ は簡単に言えば、遠くまで飛ぶ爆弾のようなものです。信管開発以前の高射砲の弾
「テロリストだとーーふざけるのもいい加減にしろ。自爆テロの奴らは一般市民を殺戮の対 象にしたものだ。無辜の民の命を狙ったものだ。ニューヨークの飛行機テロもそうではない のか。答えてみろ」 「そうです。だからテロリストなのですー 「我々が特攻で狙ったのは無辜の民が生活するビルではない。爆撃機や戦闘機を積んだ航空 母艦だ。米空母は我が国土を空襲し、一般市民を無差別に銃爆撃した。そんな彼らが無辜の 民というのか」 高山は一瞬答えに詰まった。武田は更に続けた。 「空母は恐ろしい殺戮兵器だった。我々が攻撃したのは、そんな最強の殺戮兵器だ。しかも、 特攻隊員たちは性能の劣る航空機に重い爆弾をくくりつけ、少ない護衛戦闘機しかつけて貰 えすに出撃したのだ。何倍もの敵戦闘機に攻撃され、それをくぐり抜けた後は凄まじい対空 砲火を浴びたのだ。無防備の貿易センタービルに突っ込んだ奴らとは断じて同じではな この後、武田は高山の新聞社を非難します。これも本文から引用しましよう。 730
アメリカは防御重視 攻撃重視か、防御重視か。その思想の違いは、兵器の設計だけでなく、戦術にも現れ ています。 空母には艦上爆撃機と艦上攻撃機と艦上戦闘機という三種類の飛行機が載っています。 爆撃機の仕事は、名前の通り「爆撃ーですつまり、高度何千メートルといった高いと ころから急降下して、敵の艦めがけて爆弾を投下する。攻撃機は魚雷を搭載しています。 こちらは水平線すれすれに飛行して、敵の艦めがけて魚雷を発射する。艦艇にとっては 一一つとも怖ろしい飛行機ですが、両機とも共通の弱点があります。爆撃機も攻撃機も爆 弾や魚雷を搭載している分、重いので動きが鈍いのです。 それに比べると戦闘機は、動きが俊敏ですから、爆撃機や攻撃機を簡単に撃墜するこ とができます。実際の戦場では、自軍の爆撃機と攻撃機を守るために護衛戦闘機が戦う ことになります・。 さて、問題はこの三種類の飛行機をどう配分するかです。空母に載せられる機数は限 られていますから、その配分は戦術を決める上で重要なポイントになります。攻撃を重
ら、相手に撃たれることが滅多になし 前述の通り、図抜けたスピードと旋回能力があ るので、それをフルに活かせれば、相手はゼロ戦の背後に回ることすらできなかったの です。 しかし問題は、そういう優秀な熟練搭乗員がある時期からどんどんいなくなったこと です。それが昭和一七 ( 一九四一 D 年のガダルカナルの戦いでした。 ガダルカナルの消耗戦 米軍に奪われたガダルカナル島の飛行場を何としても奪還しようと考えた日本軍は、 ラバウル航空隊を毎日のようにガダルカナルに向けて出撃させました。その主力は一式 陸上攻撃機 ( 一式陸攻 ) という爆撃機で、ゼロ戦はその護衛です。 ところがこの攻撃は搭乗員たちに恐ろしい負担を強いるものでした。というのはラバ ウルからガダルカナルまでの距離は約一〇〇〇キロもあったからです。一式陸攻もゼロ 戦も長大な航続距離を誇る飛行機でしたが、それでも往復二〇〇〇キロはギリギリです。 片道三時間以上、往復七時間近く飛行機に乗り続けるわけですから、この過酷さは想 像もできません。ゼロ戦の搭乗員たちは民間航空のパイロットとして操縦しているので 5
ゼロ戦と戦って、穴だらけにされてガダルカナル飛行場に戻ってきたグラマン 4 の写真が残っています。まさに蜂の巣状態です。これを「グラマンがこてんばん にやられた証」と見るべきでしようか。いやむしろ、ここまで穴だらけにされても戻っ てきている点に注目すべきでしよう どれほど機銃弾を撃ち込まれても、飛行能力を維持し、パイロットを守り抜く、グラ マンの頑丈さには目を瞠るものがあります。グラマンに限らず、米軍機は 総じて防御力を重視した作りになっていました。この点については、後でまた触れます。 ゼロ戦と日本刀 そもそも日本海軍の方は、あれだけ速度や旋回能力には厳しい要求をしていたのに、 防御力、防弾能力については特に何も設計者には言っていなかったようです。それゆえ に防御力は非常に低かったのですが、前述したように、ゼロ戦の攻撃力は凄まじいもの がありました。二〇ミリ機関砲は一発当たれば、そこで破裂するのでどんな大きなアメ リカの爆撃機でも撃墜できるほどの攻撃力がありました。当時の大型爆撃機片ですら 撃墜することが可能だったのです。
と壁で四方を覆った作りになっていたということです。 一方、アメリカ海軍の空母は開放式格納庫でした。壁はあるものの、開閉式の扉が両 側にあるので、二つとも開けると素通しのようになります。アメリカも当初は閉鎖式格 納庫を採用していたのですが、途中で開放式格納庫に変更しました。その理由は、攻撃 を受けた際のダメージを減らすためです。 閉鎖式格納庫の場合、爆弾が内部で破裂すると、その力が全て艦内に大きなダメージ を与えます。ところが開放式格納庫ならば、爆発で扉が吹っ飛ぶために、衝撃の多くが 外に逃がされます。扉は破壊されても、艦内への圧力は弱まるため、ダメージは小さく なるのです。 格納庫内部は、基本的に常時危険物だらけと言ってもいいような状態です。魚雷や爆 弾も山のようにあります。ガソリンなど可燃性のものもあります。ここでもし飛行機が 燃え、消火できないとしたら、それを格納庫から外に出す必要があるのですが、閉鎖式 格納庫の場合、そのためにはエレベーターを使わなくてはなりません。しかし、そもそ も燃えている飛行機をエレベーターに載せるだけで一苦労ですし、その時点でエレベー ターが動くかどうかも怪しい。故障している可能性は大です。
真珠湾攻撃で N 旗と同義の旗を挙げたのは、それだけ重要な戦いであるという認 識を持っており、なおかっ縁起を担ぐとい、つ意味もあったのでしよ、つ。そして、マリア ナ沖海戦では日本海海戦以来の旗が掲げられました。いかにこの戦いを重視していた かかわかります。 この戦いに注入された日本の兵力は真珠湾攻撃を上回るものでした。当時の日本海軍 の持てる力を全て注ぎ込んで、米海軍を迎え撃ったわけです。 この時に、指揮を執った小沢治三郎第三艦隊司令長官が取ったのが、「アウトレンジ 戦法ーと呼ばれるものです。日米の飛行機の航続距離を比べた場合、アメリカよりも日 本の方が長い。つまり、アメリカが攻撃できない地点から日本が攻撃すれば、絶対に勝 ン マてるーーこう考えたわけです。ボクシングにたとえれば、相手のリーチが届かない距離 グ からパンチを打つようなものです。 と 戦 この海戦で、日本軍の偵察機はアメリカ軍の飛行機の攻撃圏外にいるアメリカ艦隊を ロ ゼ 発見しました。日本軍は大編隊の攻撃隊を米機動部隊に向かって出撃させます。敵の攻 一撃機は届かないのですから、参謀たちは勝利を確信したでしよう。 しかし、結果としてこの作戦は大失敗に終わります。
でしようか。たしかに二〇キロ離れたところから魚雷を撃って、それが命中すれば無敵 でしよう。しかし実際の戦場では相手も動き回っています。戦艦が全速力で動けば、一一 八ノット ( 時速五〇キロ ) くらいは出ます。全速力で動き回っている戦艦の動きを予測 し、二〇キロ以上も離れたところから撃って命中させるのは至難の業でしよう。酸素魚 雷は最速五〇ノットの速度を出せましたが、それでも二〇キロ先に届くには一〇分以上 はかかります。その間、敵艦は速度を上げたり緩めたりしながら航行するのです。現在 のように追尾する装置はないので、常識的に考えて命中するとは考えられません。 だから、必死で開発した人たちには申し訳ないのですが、「ロングランス」と呼ばれ た驚異的な性能は少なくとも当時の戦闘ではあまり役に立たなかったと言わざるを得ま ン マせん。 グ データ重視の弊害 ロ ゼ 日本海軍の兵器を見ていると、どうも「敵からの攻撃が届かない距離から攻撃でき 一る」という性能を非常に重要視していたという気がします。 たとえばゼロ戦と同じ時代に活躍した九九式艦上爆撃機 ( 九九艦爆 ) も九七式艦上攻
戦争の話がありました。今でこそ大東亜戦争は七〇年以上前の出来事になりましたが、 当時はまだ戦争が終わって一〇年ちょっとしか経っていなかったのです。 伯父の一人はビルマで部隊の三分の一くらいが死んだ厳しい戦闘について話します。 もう一人の伯父はラバウルでの話をします。すると伯母たちも大阪の空襲の激しさを 話します。私はそんな話を聞きながら、戦争というものをばんやりと学びました。 戦争の話をするのは伯父や伯母だけではありません。町の八百屋や散髪屋のおじさん たちも多くは戦争体験者です。小学校の先生の中にも元兵隊はいくらでもいました。ま た父の友人が遊びに来た時も戦争の話はよく出ました。私はそうした人たちからも戦争 の話をよく聞きました。もちろん父も母も戦争の話は日常生活でよくしました。 私が生まれ育ったのは大阪市の東淀川区というところですが、淀川の河川敷にはアメ リカの爆撃機四が落とした爆弾の跡がいくつもありました。そこに水が溜まった池を、 私たちは「爆弾池」と呼んで筏を浮かべて遊んでいました。また浄水場や国鉄の壁には、 アメリカの戦闘機の機銃掃射の跡が残っていました。当時は梅田や難波の繁華街に行く と、地下道や歩道橋などに、白い傷病服を着た傷痍軍人がすらりと座っていました。要 するに昭和三〇年代になっても、戦争の傷跡は町の至る所にあったのです。 月 4
本軍のほうが、熟練搭乗員の命に対して無神経だったのはご説明した通りです。 救命ポートに釣竿も完備 日本軍の場合、遠方に出撃する搭乗員は落下傘すら持たずに出撃していました。自軍 近くでの迎撃戦では落下傘を搭載していましたが、それ以外の時は、戻ってこられない ならば死を選べということだったのです。だから攻撃を受けて、自軍の基地に戻れない となると簡単に自爆していました。捕虜になるくらいなら死んだ方がマシだ、と考えた わけです。 アメリカ軍は、普通のレベルのパイロットですらとことん大事にしました。。 セロ戦よ りもグラマンの方が防御能力が高かったことはすでに説明しましたが、アメリカ軍では 飛行機が撃墜された時の対策もきちんと考えられていました。 ハラシュ 1 トを積むのは当然でしたし、グラマン 4 には水上に不時着したことも 考えて救命用のゴムボートや救急セット、海水を真水に変える装置まで積んでいました。 さらに笑い話のようですが、釣竿まで用意してありました。いざとなったら魚を釣って 生き延びろ、ということです。救命ポートの中には無線も積んでいるので、救助を求め