「反中同盟」の構成メンバ 米中の狭間で揺れるフィリピン ドウテルテ大統領の戦略 フィリピンは「反中同盟」から脱落 フィリピンとの同盟関係は困難 北朝鮮論 平和が戦争につながる 「戦略」は「政治」よりも強い 平和は戦争につながる 北朝鮮への日本の態度 北朝鮮への降伏 北朝鮮への先制攻撃 「まあ大丈夫だろう」が戦争を招く 「降伏」も選択の一つ シリア内戦の真実 日本政府は自ら動くべしーーー「降伏」と「先制攻撃」 「抑止」と「防衛」 いすれかを選択すべし 10 )
日本は、一九四一年一二月に戦争を始めた時点で、同盟国を持っていなかった。日独伊 三国同盟は存在していたが、これは、名ばかりの同盟関係だ。たとえば、ドイツは、軍を 太平洋にまで派遣できなかったし、日本がドイツから獲得できたのは、せいせいの 試作品のエンジン、わずかな金塊、それに天然ゴムくらいだ。 ディシプリン イギリスは、強力な「規律」を持ち、「戦略」にそれが不可欠であることを知ってい た。「大戦略」のためには、時に極めて不快なことも受け容れる必要があることを知って いたのである。ワーテルローの戦いが、その一例だ イギリスの同盟工作 一八一五年、流刑地エルバ島から帰還したナポレオンは、再び皇帝の座に就き、一二万 の兵を率いてベルギーに進攻した。イギリスは、オランダ、プロイセンなどと連合軍を結 成してこれを迎え撃ったのだが、注目すべきは、この決戦の前に、イギリスが行った同盟 工作である。 このときイギリスは、同盟の仲間を集めるために、フランスの支配地を通り抜けて使者 を送って交渉し、ときには金を払うなどして、苦労を重ねている。それでも、実際に戦場 146
日本は、世界の中でも独特な場所に位置している。世界の二つの大国と、奇妙な朝鮮半 島の隣にあるからだ。これは、イギリスとフランスという、近くに規模も大小さまざまで、 敵にも味方にもなる隣国を持つ、二つの密接な関係を持った国同士とは大きく異なる状況 に置かれていることを意味している。 英仏を始めとするヨーロッパ諸国とは対照的に、日本は、歴史的にはごく最近まで、敵 国も同盟国も持たすに発展してきた。日本を守ったり脅したりするような「大国」は存在 せす、〔「大国」とは言えない〕中国が、重苦しい存在感を示していただけだったのだ。 こうした日本の際立った歴史的な戦略的孤立状態は、一八五四年の二度目のペリー来航 と「日米和親条約」によって、突然破られたわけだが、この戦略的孤立状態が本当に終わ ったのは、一九四五年のことであった。 その後の日本は、敗北、破壊、占領から立ち上がって、まったく新しい状況に直面した。 日本の読者へーーー日本の新たな独立状態と平和
もしこの人工島が軍事基地として存続すれは、ベルシャ湾や欧州に至る日本のシーレー ンにとって脅威になるし、ベトナムにとっては直接的な脅威になる。ベトナムは、日米に とって非公式だが強力な同盟国となりうるし、フィリピン、インドネシア、マレーシア連 邦なども、潜在的な同盟国である。 このような同盟関係を築いても、戦争勃発の危険を高めることにはならない。そうしな ければ、むしろ戦争勃発の可能性が高まる。「効果的な抑止」以外の選択肢というのは、 「暖かな平和」ではない。それは、「慢性的な不安定」であり、あるいは「戦争」かもしれ ないのだ。 もちろん日本は、手厚い児童手当によって人口問題に対処すると同時に、予測不能な自 こうした問題を別にすれは、日本の国民は、平和を 然災害にも対処しなければならよい。 愛する人々であり、寛大な対外援助も行っており、外国の脅威に不安を覚えながら生きる のではなく、安心して平和に過ごすだけの資格が十分にあるのだ。 二〇一七年三月一四日メリーランド州チェビー・チェイスにて エドワーにー・ルトワック
は、日本には何の得にもなっていない。 もし一九四一年の段階で、日本が本気で軍事的勝利を収めようと考えていたならば、ハ ワイからさらに進んで、カリフォルニア州に上陸し、北米大陸を横断してシカゴを陥落さ せ、ワシントンに攻め込んで講和条約を締結させるまで戦うべきだった。もちろん、そん なことは不可能である。ここから導かれる教訓は、すべてを軍事的な方法で行うのは、不 可能だということだ。 将徳川家康の戦い方を分析していくと、こうした「同盟」のロジックを知り尽くしていた 戦ことが分かる。その典型が関ヶ原の合戦だ。敵の陣営にいた勢力を味方に変えることで、 一予め負けることのない同盟関係を築いていたのである。 制家康の優れている点は、たとえ相手が小国であっても、「同盟」の重要性を忘れていな て いことだ。 す 大河ドラマ『真田丸』でも取り上けられた上田合戦を見てみよう。よく知られているよ 盟うに、関ヶ原に向かう三万八〇〇〇の徳川軍本体が、真田昌幸・信繁 ( 幸村 ) 率いる二〇 同 〇〇の軍勢に足止めされた戦いであり、従来は、真田家の武勲、戦術的な巧みさが強調さ 7 れてきた。 1 一口
敵に回してしまうからだ。 ディシプリン イギリスの「忍耐力」 ドイツの艦隊建造に対して、当時のイギリスのエリートたちは、どう対処したか。ます 冷酷な頭脳を働かせて、「帝国的なドイツを破壊すべきだ」と決断したのである。 ドイツ皇帝のヴィルヘルム二世が英国ビクトリア女王の孫であることを考えれば、非常 、カ に非礼なことだったが、それでも、イギリスのエリートたちは、ドイツの封じ込めが不可 何 欠だと判断したのである。 と ク では具体的に何をしたか。歴史を振り返れは、アメリカは、イギリスにとって野蛮で厄 ジ 介な「独立主義者」であった。それでも彼らが最初に決心したのは、「絶対にアメリカを ル離さない」ということだった。何があっても、英米の同盟関係は解消しないと決心したの カ シである。 キ 実際にイギリス人は、アメリカ人のひどい仕打ちを繰り返し受けた。しかしイギリスは、 ディシプリン それに黙ってじっと耐えたのである。これが「忍耐力」だ。 次は、フランスとの関係改善である。フランスは、一〇〇年以上争った相手だ。そして ち 7
アメリカと中国の同盟を強いたのが「戦略」なのだが、これは、ソ連の軍事力の規模が 一定の限界を越え始めたからだ。つまり、強大化していったソ連の軍事力が、「勝利の限 界点」を越えてしまったのである。そして米中の協力関係によって、ソ連の弱体化が始ま ったのだ。もしソ連が、軍事力の増強を「勝利の限界点」の手前で止めていれば、米中の 協力関係は生まれなかっただろうし、ソ連も、はるかに強い地位を維持できたはすなので ある。 平和は戦争につながる 「戦略」において、すべては反対に動く。 戦争で国家や国民が被害を受け続けるのは、日常生活や平時における通常のロジックと 紛争や戦時におけるロジックがまったく異なるからだ。また、そのことを理解するのが難 しいために、被害がさらに拡大することになる。 最も難しいのは、「戦争ではすべてのことが逆向きに動く」というのを理解することだ。 たとえば、「戦争が平和につながる」という真実である。戦えば戦うほど人々は疲弊し、 人材や資金が底をつき、勝利の希望は失われ、人々が野望を失うことで、戦争は平和につ 108
当時も、アフリカ、インドシナ半島、マダガスカルなど、およそ一七件の植民地・領上係 争案件を抱えていた ところが、イギリスは、交渉ですべてを素早く解決したのである。しかもイギリスは、 すべての案件で譲歩した。フランスの完全勝利だ。これによって初めて、大英帝国とフラ ンス帝国の協力関係が構築されたのである。 第三の決断は、嫌々ながらもロシアと組むことだ。 こうなると、ドイツは、三つの帝国を敵に回すことになる。唯一、同盟の可能性があっ たのは日本だが、その日本とも、イギリスは、ドイツに先がけて同盟を結んでいたのであ る。 これらの交渉で、イギリスは、譲歩に譲歩を重ねた。「ひどく稚拙な外交だ、腐ってい 帝国 る。シャンパンを飲んで、キャビアを食べているだけで、ろくに仕事をしていない。 の遺産を食いつぶしている ! 」などと国民に痛烈に批判されながらも、英外務省は、屈辱 に耐えたのである。 一九一四年にドイツとの戦争が始まると、ドイツには、最高の陸軍があり、素晴らしい 科学者がおり、史上初の毒ガス兵器やその他の人類史を塗り替える重要な技術や兵器をい 138
う戦略を実行する上では必要なことだったのだ。 アメリカとの同盟 たとえは、今日の文脈で言えば、アメリカとの同盟関係をどう考えるべきか。これには、 論理的に、二つの選択肢がある。現実のアメリカと付き合うか、それとも都合のよいアメ リカを「発明」するかだ。 論 将イギリスのケースを考えてみよう。彼らは、アメリカからかなりひどい仕打ちを受けて 戦いる。アメリカは、香港や上海などの「条約港」を持っていたという点で、イギリスを常 に非難し、何度も馬鹿にして屈辱を与えている。世界中のイギリス領で、「俺たちアメリ 制力人は、イギリスとは違って反植民地だ、俺たちが彼らを叩きだしたんだ。あいつらは本 て当にひどいやつらだ」と言いふらしたのである。 す そのアメリカも、中東に石油を求めて、サウジアラビアの権益を押さえると、イギリス 盟の参加を許さなかった。要するに、彼らも似たようなことをやったのである。 同 しかしここで一一一一口えるのは、現状以上のアメリカを望めないなら、現実のアメリカと付き ディシプリン 合うしかない、ということだ。この「規律」こそ、大戦略で必要となるのである。 161
しかし、戦略家の目で見るならは、家康の凄さは、こうした小国相手でも、一族の分断 を図り、信繁の兄の信幸と「同盟」を組んでいることである。これによって、戦闘が終わ った後の展開、すなわち戦略レベルの備えをも整えておくのだ。 家康は、人類史上でも稀に見る最高レベルの戦略家だった、と私は評価している。政治 的に安定した幕藩体制を築き上けたからだ。これこそ、まさに同盟関係によって、「敵」 を消失させる最高度の大戦略であり、その有効性は、三〇〇年近くにまで及んだ。これを 成し遂げた人物は、世界史上でも極めて稀である。 「戦術」と「戦略」を併せ持っ・・・ーー織田信長 完璧な戦術家であった武田信玄と、最高レベルの戦略家であった徳川家康の間に位置す るのが、織田信長だ 信長は、革新的な作戦家である。たとえば、長篠の戦いは、火縄銃の採用や野戦築城な どの戦法を駆使したとされるが、それより重要なのは、用兵上の革新である。農民である 足軽に火縄銃を使わせたことが、その革新だ この戦いでは、一方の武田軍は、騎兵隊による攻撃を行った。侍が鮮やかな鎧兜に身を 1 ) 8