セイム 進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ その上に公共の利益を増進し、世の中のた めになる仕事をすることが大切です。 ぜん 禅 海 豊前の中津から南へ三里、激流岩をかむ山国 川を右に見て、川沿の道をたどっていくと、左 みち 手の山は次第に頭上にせまり、つ いには路の前 面に突っ立って人のゆくてをさえぎってしまう これからが世におそろしい青のくさり戸である それは山国川に沿うて連なる屏風のような絶壁 をたよりに、見るから危なげな数町のかけはし むかし を造ったものであるが、日からこれを渡ろ、つと して水中に落ち、命を失った者が幾百人あった き」ミ・はう ころ か知れない。享保の頃の事であった。この青の くさり戸にさしかかる手前、路をさえぎって立 っ岩山に、毎日毎日根気よくのみを振るって、 余念なく穴を掘っている僧があった。身には色 ぎぬ 目も見えぬ破れ衣をまとい 日にやけ、仕事に やつれて、年の頃もよくわからないくらいであ ススンデコウエキ ヒ一フ ぜっぺ、、 るか、きっと結んだロもとには意志の強さか表 われている 僧は名を神海といってもと越後の人、諸国の 霊場を拝み巡った末、たまたまこの難処を通っ て幾多のあわれな物語を耳にし、どうにか仕方 はないものかと深く、いをなやました。さていろ いろと思案したあげく、ついに、いを決して、た とえ何十年かからばかかれ、我が命のある限り 一身をささげてこの岩山を掘り抜き、万人のた めに安全な路を造ってやろうと、神仏に堅くち一 かってこの仕事に着手したのであった。 あっか 、 ) らカ これを見た村人たちは、彼を気違い扱いにし て相手にもせす、ただ物笑いの種にしていた。 子どもらは仕事をしている老僧のまわりに集ま とはやし立て、 って「気違いよ、気違いよ」 中には古わらじや小石を投げつける者さえあっ たしかし、畄日は、、 ) お ~ かえりもせす、ただ黙々 としてのみを振るっていた。 やましぼうす そのうちにだれ言うとなく、あれは山師坊主 で、あのようなまねをして、人をろうらくする のであろう、といううわさが立った。そうして ー 180
今敎育に關する勅語の燠發せらるゝあり。共最も直接せらるゝ所は學校敎育の指針たるに在り學校教 育の主義たるに在り、靑年子弟を敎育し土 ( た靑年子弟の服膺すべき所たるは明けしと雖も單に之を以 て靑年子弟の爲に發せられたるなりと云ひ、單に之を以て靑年子弟若くは敎育者共者のみの服膺すべ き所なりとするに至りては過れるもまた甚だしと云ふべし。 現に彼の勅語には抑も何とか宣はせられたる「爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信恭儉 己れを持し博愛衆に及ほし學を修め業を習ひ以て智能を啓發し德器を成就し進て公益を廣め世務を開 き常に國憲を重し國法に遵ひ一旦緩急あれは義勇公に奉し以て天壤無窮の皇運を扶翼す〈し」と。是 れ豈單に靑年子弟のみの服膺すべき所ならんや、敎育者のみの服膺すべき所ならんや、我日本臣民た るものゝ攀げて服膺遵守すべき所なり。決して單に靑年子弟敎育の爲のみなりと忽視して共關する所 の大なるを知らす、末を知るも本を知らす、何ぞ共観察を誤るの甚だしきや。社會の風教如何、是れ 敎育の本にして學校敎育の如きは寧ろ末のみ。如何に末なる學校敎育を勵精するも本なる社會の風教 にして立たざらしめば、安んぞ能く共道を生するを得んや。本なる社會の風教淳良にして初めて學 ( 朝日新聞二十三年十一月五日社設 ) 敎育の完美を見るべきなり。 ー 102 ー
己れを持し博愛衆に及ほし學を修め業を習ひ以て智能を啓發し德器を成就し進て公益を廣め世務を開 き常に國憲を重し國法に遵ひ一旦緩急あれは義勇公に奉し以て天壤無窮の皇蓮を扶翼すへしと宣はせ たるは、これを概評し奉る時には倫理綱常を重んじ道德を失はざるを經とし、智識才能を養ふを緯と し、平素は國法を守りて國家に世務に盡し、事あるに當りては日本國民が固有の義勇を振て公に殉ぜ ざるべからざるを示させ玉ひしものにして、一言以て之を掩へば日本の敎育は日本の歴史よりせる國 体を以て共精祚たらしめ而して日本國民の資格を有せざるべからすト云ふの大御心たること共詔勅に 於て昭々たりと云ふべし。 顧るに幕府時代に行はれたる信教主義は事ら理綱常を重んじたるに依り共道德を保たしむるには裨一 益ありたりと難も、共美や迂濶に流れ固陋に陷り世務人事に益せざるが故に學問と云へば殆んど世外 のものと見做さるゝに至りたりき。維新の後米の學問日本に入り來れるに及び教育は全く前日と反 甚だし 對にて事ら智識の一方に傾きけるにぞ共及ぶ所は道德の如きは殆と措て問はざるものとなり、 ( カ ) きは父子見弟の間に權利を爭ひ朋友相欺くを意とせざるが如き輕薄の風となりて大に讀者をして憂慮 せしむるに至りたらき。殊に西洋の文化を知ると共に前日これを夷狄と斥けたるに反して俄に歇人を 崇拜し西洋の事といへば何事にてもこれを善しと思ひ共身は日本人でありながら心は西洋に降れるが
山県総理から中村草案を受取った井上毅は大いに困惑した。そして、勅語案起草がどんな に困難であるか、また、かかる勅語の公布についても多大の問題点がある、そして文部省立 案は勅語として不適当である、井上案を試みに起草した、という返事を五月二十日に山県総 理へ送った。この結果、文部省立案の中村草案は不採用と決定した。以後、この井上草案が とりあげられ、二十三回の修正を経て教育勅語として完成するのである。 ( 六月一一十日山縣宛井上書翰 ) 被仰付候教育主義ノ件ニ付遲延ノ罪恐縮奉存候實ニ此事ニ付テハ非常ノ困難ヲ感シ候テ兩三 日來苦心仕候其故ハ 第一此勅語ハ他ノ普通ノ政事上ノ勅語ト同樣一例ナルべカラズ天生聰明之君爲之師トハ支那 ノ舊説ナレトモ今日ノ立憲政體ノ主義ニ從へハ君主ハ臣民ノ心ノ自由ニ干渉セズ ( 英國露國 ニテハ宗旨上國教主義ヲ有シ君主自ラ敎主ヲ兼ヌハ格別 ) 今勅論ヲ發シテ教育ノ方嚮ヲ示サ ル、ハ政事上ノ命令ト區別シテ社會上ノ君主ノ著作公告トシテ看ザルべカラズ 陸軍ニ於ケル軍事教育ノ一種ノ軍令タルト同ジカラズ 第二此勅語ニハ敬天尊訷等ノ語ヲ避ケザルべカラズ何トナレバ此等ノ語ハ忽チ宗旨上ノ爭端
第三十す 仁徳天皇から御十八代目の天皇を、 おんおい 古天皇と申し上げる。天皇は御甥にあたられる せっしよう 聖徳太子を摂政として、政治をおさせになった。 太子は御生まれつきすぐれて賢い御方で、一 時に十人の訴をあやまりなくお聞きわけになっ たとさえ広えられている。しかも、朝鮮の学者 おさ などをお召しになって、深く学問をお修めにな いろいろ新しい政治をおはじめになって、 力いしん 後の大化の改新の基をお開きになった。また十 + ・ぼう 七条の憲法をお定めになって、臣民の道をおさ としになった。 つかわ 太子は使いを支那にお遣しになって、外国と ころ のつきあいをおはしめになった。その頃、支那 には隋という国があって、勢いも盛んであり学 問も進んでいたので、自分から高ぶって、他の ぞっこく 国々をその属国のように取りあっかっていた。 しかし、・太「十は少一しゞもはばかり。、つことなく、 ひ 隋にお送りになる国書にも、「日出つる処の天子、 つつが ひぼっ 書を日没する処の天子にいたす、恙なきや。」 しめ とお日きになって、わが国威をお示しになった うったえ しようとくたいし 聖 太 子 ところ 0 はどな 隋の国王は、これを見て、いに怒ったが、 く使いをわが国へ送って来たので、太子もあら リゅうがくせい ためて留学生をお遣しになった。その後引きっ したが ついてルいにゆききをするようになリ、 ってこれまで朝鮮を通ってわが国に渡って来た 支那の学問などが、直接にわが国にはいるよう さきに、太子の御祖父二肝欽明天皇の御代 小つきよう に、仏教がはしめて百済からはいって来たが、 しんこう 太子は特に信仰の深い御方で、寺を建て教えを一 お説きになって、仏教のためにおっくしになり 仏教はだんだんと国内にひろまった。それにつ一 けんちく れて、建築その他の技術が目立って進んだ。当 はうリゅう 時建てられた寺の中で、名高いのは大和の法隆 寺で、そのおもな建物は、今も昔のままである といわれている。わが国はもとより、世界でも 一番古くて美しい木造の建物である かように、太子は推古天皇をおたすけになっ て、内にも、外にも、大いに国のためにおはか りになった。そうして御年四十九歳でおなくな りになった。国民はまるで親を失ったように、 0 なげき非 5 しんだとい、つことである 0 くだら 0
ジョウムキュウ 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天 壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スへシ もしも我が国に非常の場合が起った時は、 くんこく ふる 勇気を奮い、一身をささげて君国のために とも かぎ 奉仕して、天地と共に限りのない皇位の御 せいうん 盛運をお助け申し上げるのが国民としての っとめ 務であります。 元寇 いしたがさら ちょ、 1 せん ーも、 1 , 」お、フ 蒙古王は、朝鮮半島の高麗を従え更にわが国 をも従えようと、ます高麗王に命じてわが国に ときむわ 手紙を送らせた。執権北条時宗は、その手紙の 無礼なのを見て大いに怒り、使いをただちに追 いかえしてしまった ー ) な ま、もなく、 蒙古は支尻の半ばを攻め取って、 国の名を元ととなえた。第九十後宇多天皇の文 永十一年に、元は、高麗の軍を合わせ、四万の ・ 4 ッタンカンキュウ コウウン 0 ギュウコウ フョク なか ホウジモ おか さらちくせん っしま 大軍をもって、対馬・壱岐を侵し、更に筑前に おし寄せて、博多附近に上陸した。わが将士は 少しもひるます、必死となってよく戦いよく防 に いだので、元の兵はとうとう逃げ去った世。 ぶんえい これを文永の役といっている。 ふたた その後、元は勢いかいっそう強くなり、再び 使いをわが国に送ってきた。しかし、時宗の決 かた 心はますます堅く、今度は家来に命じてその使 はかたわん いを斬り殺させた。そうして、博多湾の海岸に一 せ強、るい 石畳を築いて敵軍にそなえると共に、進んで敵毬 地に攻め入る計画をも立てた。 この間に、元は全く支尻を合わせ、勢いに乗 じて紀元一千九百四十一年 ( 皇紀 ) 、弘安四年 に、四万の兵を朝鮮半島から筑前に向かわせ、 別に支尻から十万の大兵を送って来た。朝鮮半 はかた おか 島から来た敵兵は、壱岐を侵して博多に攻め寄 せて来たので、わが軍はこれを防ぎ戦ったが、 強 - ′、ち・たはリふさ こ、 1 のみちありたけざきすゑなが 特に菊池武房・河野通有・竹崎季長らの勇士は、 せきるい 或いは石畳にたてこもってこれを防ぎ、或いは はかた まった
業ヲナス有樣ナルニ我國ニ於テハ祚道、佛教、耶蘇敎ノ一ニ偏スペカラズ而シテ宗敎ハ末世 ノコトニ亘ルガ現世ダケノコトナレバ忠孝仁義ニ止メテ可ナリトノ論ナリシが教育ニ關シテ モ同樣ノ方針ヲ採ルベキモノト考へタリ、此ノ方針ヲ以テ骨組ヲ立テ上奏シテ叡慮ヲ願ヒ凡 ソ半年餘モ此案 ( 御手本ニ止マリタリト記憶ス ) 依テ先ッ學者ヲ集メテ意見ヲ聽キテハ如何 トノ議起リ何人モ此ニ同意ナレバ陛下ニ奏上シテ御裁可ヲ得タルガ誰々ニ依囑セシカ最早 記億ニナシ唯其ノ中ニ加藤弘之ナドヲ加フルガ可ナラントノコトガアリシコトダケヲ記ス 但シ此事ハ著手セザリシト思フ榎本ハ理化學ニ興味ヲ有セシガ德教ノコトニハ熱心ナラズ其 後約一一月ニシテ五月 ( 二十三年 ) ニ芳川、陸奧等歐洲ノコトニ通曉セルモノ内閣ニ入ル芳川 ガ文部大臣ニ親任セラルルニ際シ例ノ如ク「文部大臣ニ任ス」トノ御詞アリシ後ニ德教ノコ トニ十分カヲ致セトノ御旨趣ノ御詞アリ此レ實ニ珍ラシキコトナリ榎本ノ時ニ如何ナル考ア ) シカハ能ク通ジ居ラザルガ芳川ニ至リテ案ガ出來タリ此ニハ芳川ト井上毅トガ内閣ヲ代表 セルニテ立案ニ當レリ案成リテ内閣ョリ陛下ニ差出セリ當時元田永孚ハ侍講トシテ陛 下ノ御相談ヲ受クルコト常ナリシカバ井上毅ノ氣付ニテ元田ニモ示セリ大體元田ノ意見ニ依 リテ修正シ陛下モソレヲ嘉納アラセラレシモノノ如クナルガ國憲國法云々ノコトニッキテ
忠孝ノ一一者ハ人倫ノ大本ナリ殊ニ皇國ニ生ル、者ハ朕 ガ惠愛スル所ノ臣民ナレ・ハ萬世一系ノ帝室ニ對シ常ニ 忠順ノ心ヲ以テ各ンノ職分ヲ盡シ自己ノ良心ニ愧サ ルヲ務ム・ヘキナリ 父ハ子 / 天ナリ君ハ臣ノ天ナリ臣子ニシテ若シ君父ニ 對シ不忠不孝ナレ・ハ罪ヲ天ニ得テ逃ル・ヘカラズサレ・、 又忠孝ヲ盡ストキ ( 自ラ天心ニ合ヒ祉ヲ得ルノ道ナ リ或ハ不幸ニシテ忠孝ノタメニ禍害ラ蒙ムルコトアル モ美名ハ自然ト萬古ニ傳ハリテ長ク朽チズ後世子孫必 ラズ共餘慶ヲ受クへキナリ 敬ノ心ハ人々固有ノ性ョリ生ズ恰モ耳目ノ官ニ視聽 ノ性アルガ如ク又木理石絞ノ如ク倉よ利リ去レ・ハ倉【 顧ハレ出ヅ斯ノ心君父ニ對シテハ忠孝トナリ社會ニ向 へ・ハ仁愛トナリ信義トナルチ萬善 / 本源ナリ教育ノ 根元ナリ 深夜暗室ノ中ニ生ズル一念ハソノ善ソノ惡皆天地神明 ノ昭監スル所ニシテ靑天白日公衆ノ前ニ發現シテ掩フ ペカラズ天人一致内外洞徹顯微間ナシ禪人ノ間感應影 響ョリモ捷カナリ人々共獨ヲ愼ミ之ヲ長レザル〈ケン ャ 吾ガむ、中 . , 示ノ舍スル所ニシテ天ト通スルナリ天ヲ敬 シ神ヲ敬センニ ( 先ヅ吾ガ心ヲ淸淨純正ニセザルへカ ラズ苟モ吾ガ心淸淨純正ナラザルトキ ( イカ = 外面ヲ 裝〈ルモ天意ニ協 ( ズ君父ニシテ忠孝トナラズ世間 ニ向ヒ仁愛トナラズ信義トナラザルナリ 善ヲ好ミ惡プ惡ム ( 人性ノ自然ニ出ヅ而シテ善ニシ 活ニスル ( 天道ノ常ナリサレ・ ( 動善懲惡ノ敎規ニ服 シ身ノタメ國ノタメ調ヲ避ケ細ヲ求ムル ( 人々須臾モ 怠ル・ヘカラザル務ナリ故 = 苟モ帝国ヲ愛護シ帝室 = 忠 順ヲ致サント誓フ者 ( 皆皇國ノ善良ナル臣民ナリ 今日皇東ノ臣民タルモノ ( 忠君愛国ノ義ヲ拳々服膺シ 仁愛信義ノ道ヲ念忘ル・ヘカラズ智徳並ビ長ジ品行完 ナル人民トナリ国ノ品位ヲ上進セシメ外人ヲシテ望 ンデ長レ敬セシムルヲ期スペシ 獨立ノ良民トナリ團體上ョリ富強ノ國タルヲ期シ艱難 6 辛苦ヲ忍ビ以テ一身一家及ビ社會ノ祉ヲ造ル・ヘシコ レチ人々自己ノ任ナリ決シテ他人ニ委ヌペカラズ 国ノ強弱 ( 人民ノ品行ニ係ルコトナレ・ハ今日萬對峙 ノ世ニ在テハ人民各自ニ忠信ヲ主トシ禮義ヲ重ンジ勤 儉ヲ務メ剛勇忍耐ノ氣象ヲ養ヒ奪貴ナル品行ヲ植立ス ルヲ要ス而シテ輕薄怠惰詐僞驕佚等ノ惡行ノ萠芽ヲ發 生セシメザルコトヲ務ムペシ然ラザレ・ ( 是レ国ヲ弱 ニイレ萬国ニ對峙スルコト能ハサルノミカ長ク強者 ノ餌トナリ獨立ノ良民トナルコト能 ( サル・ヘシ深ク畏 レ痛ク試メサルペケンヤ