忠孝ノ一一者ハ人倫ノ大本ナリ殊ニ皇國ニ生ル、者ハ朕 ガ惠愛スル所ノ臣民ナレ・ハ萬世一系ノ帝室ニ對シ常ニ 忠順ノ心ヲ以テ各ンノ職分ヲ盡シ自己ノ良心ニ愧サ ルヲ務ム・ヘキナリ 父ハ子 / 天ナリ君ハ臣ノ天ナリ臣子ニシテ若シ君父ニ 對シ不忠不孝ナレ・ハ罪ヲ天ニ得テ逃ル・ヘカラズサレ・、 又忠孝ヲ盡ストキ ( 自ラ天心ニ合ヒ祉ヲ得ルノ道ナ リ或ハ不幸ニシテ忠孝ノタメニ禍害ラ蒙ムルコトアル モ美名ハ自然ト萬古ニ傳ハリテ長ク朽チズ後世子孫必 ラズ共餘慶ヲ受クへキナリ 敬ノ心ハ人々固有ノ性ョリ生ズ恰モ耳目ノ官ニ視聽 ノ性アルガ如ク又木理石絞ノ如ク倉よ利リ去レ・ハ倉【 顧ハレ出ヅ斯ノ心君父ニ對シテハ忠孝トナリ社會ニ向 へ・ハ仁愛トナリ信義トナルチ萬善 / 本源ナリ教育ノ 根元ナリ 深夜暗室ノ中ニ生ズル一念ハソノ善ソノ惡皆天地神明 ノ昭監スル所ニシテ靑天白日公衆ノ前ニ發現シテ掩フ ペカラズ天人一致内外洞徹顯微間ナシ禪人ノ間感應影 響ョリモ捷カナリ人々共獨ヲ愼ミ之ヲ長レザル〈ケン ャ 吾ガむ、中 . , 示ノ舍スル所ニシテ天ト通スルナリ天ヲ敬 シ神ヲ敬センニ ( 先ヅ吾ガ心ヲ淸淨純正ニセザルへカ ラズ苟モ吾ガ心淸淨純正ナラザルトキ ( イカ = 外面ヲ 裝〈ルモ天意ニ協 ( ズ君父ニシテ忠孝トナラズ世間 ニ向ヒ仁愛トナラズ信義トナラザルナリ 善ヲ好ミ惡プ惡ム ( 人性ノ自然ニ出ヅ而シテ善ニシ 活ニスル ( 天道ノ常ナリサレ・ ( 動善懲惡ノ敎規ニ服 シ身ノタメ國ノタメ調ヲ避ケ細ヲ求ムル ( 人々須臾モ 怠ル・ヘカラザル務ナリ故 = 苟モ帝国ヲ愛護シ帝室 = 忠 順ヲ致サント誓フ者 ( 皆皇國ノ善良ナル臣民ナリ 今日皇東ノ臣民タルモノ ( 忠君愛国ノ義ヲ拳々服膺シ 仁愛信義ノ道ヲ念忘ル・ヘカラズ智徳並ビ長ジ品行完 ナル人民トナリ国ノ品位ヲ上進セシメ外人ヲシテ望 ンデ長レ敬セシムルヲ期スペシ 獨立ノ良民トナリ團體上ョリ富強ノ國タルヲ期シ艱難 6 辛苦ヲ忍ビ以テ一身一家及ビ社會ノ祉ヲ造ル・ヘシコ レチ人々自己ノ任ナリ決シテ他人ニ委ヌペカラズ 国ノ強弱 ( 人民ノ品行ニ係ルコトナレ・ハ今日萬對峙 ノ世ニ在テハ人民各自ニ忠信ヲ主トシ禮義ヲ重ンジ勤 儉ヲ務メ剛勇忍耐ノ氣象ヲ養ヒ奪貴ナル品行ヲ植立ス ルヲ要ス而シテ輕薄怠惰詐僞驕佚等ノ惡行ノ萠芽ヲ發 生セシメザルコトヲ務ムペシ然ラザレ・ ( 是レ国ヲ弱 ニイレ萬国ニ對峙スルコト能ハサルノミカ長ク強者 ノ餌トナリ獨立ノ良民トナルコト能 ( サル・ヘシ深ク畏 レ痛ク試メサルペケンヤ
我が國教育の由來如何 と云ふ二大問題に思考を凝らしたる末、逑に草案を起こして之を陛下に奉り、又屡々參内 天顏に咫尺して、御示指を仰ぎ奉ったのであって、余は國務尚書として、聊か献替するの光 榮を有したのである。尤其の起草に付いて主として相談相手としたのは、當時法制局長官た りし故井上毅子で、同子は從來此方面には、大に注意して居り隨って餘程意見を有ってをつ たのである、而して當時、斯の箴言を編むに就いては、仁義忠孝を以て本とするといふに就 き、隨分有力知名の士の反對もあった、勿論余は余自身の一家言を立てるのではないからし て、成るべく自己の偏見を去って、汎く他人の意見を採用しようと決心して居ったが、ロた 確固たる一の大信念があった、それは 道の本體は唯一にして古今内外の差別無く、唯時代の趨勢に適應せんが爲に、其形式を殊 にするのみ といふのであって、何人の意見たりと、此の反對思想には、断乎として反抗したのである、 故に余は此信念を以て、當時の反對論者に應戰したのであるが、今其一二を回顧せんに、忠 信孝悌などは支那の道德であるといふ反對論もあった、勿論忠信孝悌など、いふ文字は、支
の心も自然と定まる。これを教えるのは幼童のときである。汝、文学御用掛と一書を編纂し て幼童の教科書とせよ。』 と仰せられた。このころは、明治維新の大変動とそれに続いた学制発布から間もない思想 の一大混乱期であった。明治天皇の、『幼童の教科書を編纂せよ』との聖旨の意味を理解する 上の参考として、当時の大学者であった西村茂樹 ( 小学修身訓、その他の著書多数あり ) の 話を聞いてみよう。 『明治五年太政官より學制の頒布あり、序文に洋々數千言に渉る太政官の布告を載たり、其 文を熟讀するに、學問は身を立つるの財本なりといへる主意にして、專ら生を治め産を興す ことのみを説き、一も仁義・忠孝を教ふるの語なし、余當時民間に在りて是を讀み心大に是 を疑ふ、蓋し政府にて此の如き教育法を行はんとするは、從前の武士敎育が、唯道德のみを 教へて、實業に迂濶なるを以て、是を矯正するの意なるべきも、全く仁義・忠孝の事を説か ざるは、亦一方の極端に走るものにして、恐くは其弊に堪へ難きものあらんと余が文部に入 るに及び、此意は容易に發言せす、竊かに文部諸官員及び世間の意見を探りしに、政府の官 員は何れも西洋の文明に眩惑し、本邦從前の敎育は固陋にして、一も採るべき所なしと思ひ、 へんさん
謹んで准るに今上陛下は御登極以來、深く教育の事に大御心を注がせ給ひ、明治五年には 百事草創の際なるにも係らす、學制の如き大規模の敎育制度を立てさせ給ひし事は、世人の 洽く知る所であるが、敎育に就ては特に德育に重きを置かせ給ひ、侍臣に命して幼學綱要を 編し、又皇后陛下には婦女鑑を編せしめ給ひて、これを全國に頒たせ給ふなど、深く是に 御軫念あらせ給ふ樣に拜承してをるのである、而して我國道德の大本たる敎育勅語の現はれ たのは、誠に叡慮と民心との合體に依ったことと信するからして、少しく當時の模樣の概略 」五ロら、つ = = ロ 抑々維新の當初、開國進取の大方針を立てさせられてより、新文明の空氣は全國に普及して、 偏に西洋の物質的文明を輸入する事にのみ熱衷し、仁義忠孝の道の如きは殆んど國民の念頭 に上らす、又偶々これを口にするものがあれば、迂遠にして時勢を知らぬものとして世人に 嘲笑せられたのである、然れども明治維新の當初には、仁義忠孝の敎を受けた者が多かった から、其人々は縱令これらを口にせすとも、兎も角これを實行してをつたから、左程の害も 無かったのであるが、さういふ人は段々と凋落して、明治時代に生れたものが漸く世事に當 る樣になれば、人の人たる所以の教育を受けない者が社會の表面に立って國民を指導すると
いふ事になるのであって逑に衆人稠坐の中に立って、仁義忠孝など、古めかしき事は、今日 文明人の重んする所ならすと、公言して憚らぬ者すらもあるに至った。 明治聖代の率先者たるべき、明治の新教育を受けた者の精訷が、右の如き有樣であるからし て、國學者とか、漢學者とか、舊風の學問を修めた者は默って居られない、起て囂々と其非 を咎めた、隨って又耶蘇教者とか、哲學者なども、夫々所見を述べたからくして、海内國民の 棈訷は四分五裂して麻の如くに亂れた、然るに明治一一十三年の二三月頃、内務省は地方官會 議を召集した、尤も此會議は以前から有ったもので、今日も尚ほ繼續してをるのであるから、 云はゞ二十三年の例會と見るべきものであるが、民心の離乘を奈何とは、此の會議の重要問 題であった、當時内務大臣は山縣公爵で、余は次官であったか、甲論乙駁、隨分八釜敷い議 論があって、途に、 一體民心を統一する方針は、文部省で立つべきものであるから、文部大 臣に意見を問・ふといふ事になった、そこで地方長官が大擧して文部省に逼ったから、當時の 文部大臣榎本イ爵も、隨分當惑せられたとの事であったが、地方長官達は、方今の情況では、 孝悌忠信の道は地を拂って空しいと云ふべき實況であって、國民は己を修め世に立つに於て、 其準據すべき所に迷ってをる、然れども文部大臣は國内の人心を統一するに就て、固より相
えを忘れている。これでは君臣の大義、父子の親しみを失うようになりはしないか 二つは、学校は高尚の空論で、実際の役に立たないことを教えている。甚だしいのは、上 これでは卆業して家業につ 手に英語をしゃべっても、それを日本語に訳すことができない いても、官史となっても役に立たないであろう。 そしてこのような教育を矯正する方法として次の二つをお示しになった。 その一は、仁義忠孝の心は人はみんなこれを持っているから、幼少の時からその脳髄に感 覚せしめること。 その二は、空理空論でなく、農商には農商の学科を授けて、卆業後その仕事に励み得るよ 、つにすべし。とい、フことであった ⑦幼学綱要 聖旨教学大旨で明治天皇の教育に対する叡旨を拝承したが、さらに天皇は翌十二年に元田 侍講に対して、『教学の要は道徳の本末を明かにすることである。本末が明かになれば、民
第二章明治天皇の教育に関する聖旨 聖旨教学大旨 明治天皇は、明治五年の九州地方御巡幸を始めとして、同九年、十一年、十三年、十四年、 十八年と、南は鹿児島から北は北、 海道まで日本全国を御巡幸になった。御巡幸中は学校教育 親しく授業を御参観になって、 には特に卸関心が深く、各府県の小、中学校に一丁幸になり、 御奨励の言葉を賜わった。 還幸の後、侍講の元田永季に御巡幸 明治十一年に東山、北陸、東海地方を御巡幸になり、 中の教育に関する叡慮を親しくお話しになった。元田侍講はそれを『聖旨教学大旨』と題し て記録し、保存しておいた。 明治天皇が特にお感しになったことは二つの点である。 一つは、今の教育はいたすらに西洋風に流れて、東洋固有の倫理思想である仁義忠孝の教
蛍倫道徳ハ教育ノ主本我朝支那ノ專ラ崇尚スル所歐米各國モ亦修実の學アリト雖之ヲ本朝 ニ採用スル未タ其要ヲ得ス方今學科多端本末ヲ誤ル者鮮カラス年少就學最モ常ニ忠孝ヲ本 トシ仁義ヲ先ニスへシ因テ儒臣ニ命シテ此書ヲ編纂し群下ニ頒賜シ明倫修徳ノ要ニ在ル 事ヲ知ラシム 右 聖諭ノ大旨讀者謹テ奉體服膺アランコトヲ要ス 明治十五年十二月 明治天皇は、聖旨教学大旨に引続き、幼学綱要の編纂と前後して〃十三年十二月に改正教 宮内卿徳大寺實則
した。そして、教師は、師範学校卆又は十八才以上の免許状所有者 ( 検定による ) でなけれ ばならないとした。 ( 自由教育令では、教師の資格は相応の学力所有者という定義で、免許 状のための検定制もなかった。 改正教育令の趣旨に基づいて出来たのが小学校教則綱領である。この教則綱領で、今まで 学科目の最下位にあった修身が首位に上って、忠孝仁義を教えるようになった。また歴史科 も、これまで世界の歴史を教えていたのをやめて、日本歴史を教えるようになった。 この教則の国史綱領については、明治天皇は起草主任の江木千之をお呼びになって、篤と 御下問になり、一つ一つの事例について内意を承わった。このようにして、従来の智育偏重、 欧米心酔の学風を改善して、東洋道徳、尊皇愛国の精神に基づく国民教育の方針が樹立され たのである。 当時を回顧して、江木千之 ( 小学校教則綱領、小学校教員心得の起草者で、後の文部大臣 ) は、明治天皇のお人柄を次のように語っている 『私は多年文部省にあって教育のことに専念し、相当進歩した意見を持っていたつもりであっ たが、明治天皇の聖旨を拝承して、その高遠なる御識見に全く驚嘆いたしました。年令を申せ
遷汨聖人 へんれき ゞ、リ寸の近くを通りか ある時、遍歴の武士カ月 , + かりました。彼は、かねて聞いていた藤樹先生 の故郷はここであったと思い出して、墓頏りを していこ、つと田 5 路のそばの畑で働いている みちしゅん 農夫に道順を尋ねました。すると農夫は、鍬を すてて仕事を止め、すぐ家に帰って手足を洗い 衣服を改めて、 「さあ、ご案内いたしましよ、つ。 しいました。武士は、なんとていねいな農夫 もあるものかと不思議に思いなからその後につ いて墓所にいきました。すると農夫は、ます礼 儀正しく墓に拝礼して、それから墓のまわりの まね 扉を開け、どうぞと武士を招きました。 あまりの礼儀正しさに武士は しんるい 「君は藤樹先生と親類なのか、それとも弟子な のか、特別の関係があるからこんなに礼儀をつ くすのだろう。」 と聞きました。すると農夫は首をふって、 とびら しいえ、私は藤樹先生とは何の縁故もない者 です。しかし、小川村の人は一人残らす先生を そんけい 尊敬しております。私たちの両親は、今日のよ じんぎらゆうこう 京うぞくぜんリよう うに小川村が風俗善良で、村人が仁義忠孝の道 をふみ行ない仲よく楽しく暮らしているのは、 藤樹先生の教えのおかげである、といつも話し てくれます」 と答えました まさらのよ この農夫の話を聞いた武士は、い うに藤樹の徳の高いのに感激しました。そして、 7 けんふつ 初めはただ見物のつもりできた自分のあさはか一 な心を改めて、心をこめて、ていねいにお墓を 手礼して帰りました。 えんこ