修身 - みる会図書館


検索対象: 教育勅語絵巻物語
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1. 教育勅語絵巻物語

至リ兼可申貴兄ニモ御辭退之由御沙汰ニテ拜承致シ實ニ御尤ニ奉存候併モハヤ是迄ニ相成 候上者出來候丈ケ棈訷ヲ盡シ申度既ニ老拙へ被仰付候上ハ愚味ナカラ考案ヲ運ラシ則別紙原 稿ニ意見ヲ加へ修正致シ候間一應御内見へ入申候貴兄御立案ハ御断ニ候得共何卒老拙之爲メ ニ御助カ被下別紙修正案御一見無御遠慮御叱正被下度相願申候幸ニ首尾之文ハ貴兄之御初稿 ヲ存シ有之候老拙モ素ョリ御同案ニテ間然無之候處中間修身之條目ヲ掲ケ候最緊要之處聖 慮ニ叶ヒ不申則旨ヲ奉シテ改正致シ候得共文意適當モイカカト恐布仕候申候迄モ無之此度之 勅論ハ則未文之通ニ萬古不易之道ヲ御親喩被遊候事故當世之風潮ニハ決シテ御顧念無之被 中で立案を辞退している ) 、天皇の勅語草案に対する御感想 ( 首尾の文章は意義がないが、中 間の父母ニ孝ニ : : : 以下の修身の條目の處が叡旨にかなわなかった ) 、元田永子の修正の苦 心が歴然とにしみ出ている。 ( 八月二十六日井上宛元田書簡 ) 拜啓爾來御疎遠ニ經過愈御淸榮奉欣賀候然者先頃御内示之敎育勅論文近日上奏ニ相成候由ニ テ老拙儀へ御下問被爲在、段々思召被爲在候而熟考申上候樣御内命ヲ蒙リ候故不得止御受申 上候然處右者過日モ御内話申候如ク實ニ重要之勅論ニテ誰カ草案致候而モ批難無之樣ニ、 ノ

2. 教育勅語絵巻物語

世の儒者・宗教家は文明東漸の勢力に壓せられ、志氣沮喪し、一も世間の風潮に抗して已が 信ずる所を主張せんとする者なし、又新規發布せる學制なる者は、歐洲殊に米國の學制を採 りて、是を編制したるものなり、彼國の學制には、其修身道徳を教ふる爲に、必ず耶蘇教を 加へありしに、耶蘇教の我邦に不適當なるを以て特に是を除き、其迹に代るものなきを以て、 我邦の新學制は大に修身・道徳を輕んするの外觀あり、尤も學科の内には修身の科あれども、 既に儒教を廢したるを以て、修身の教に根礎とすべき者なし、是に於て人心の歸向する所は 修身・道德を蔑視するの方に向ひ、又封建時代の種々の束縛を解きしを以て、國内の人心肆 然として放恣となり、其流弊の極まる所を知らす、余大に是を憂ひ、自ら其力を揣らず、獨 立を以て國民の道德を維持せんと欲し、明治八年の頃に至り、之を諸友人に謀る、友人これ を可とする者多けれども、進んで其事に當らんとするものなし。』 元田侍講は聖旨をうけて早速教科書の編纂に著手した。文学御用掛の高崎正風、仙石政固、 児玉源之丞等を助手とし、和漢の歴史、経書に材料を求めた。そして二十の徳目、すなわち 孝行、忠節、和順、友愛、信義、勤学、立志、誠実、仁慈、礼譲、倹素、忍耐、貞操、廉潔、 敏智、剛勇、公平、度量、識断、勉職をえらんだ。この徳目の意義は孝経・四書・五経で釈

3. 教育勅語絵巻物語

修身、日本歴史及ビ地理停止ニ關スル件 ( 假譯 ) 昭和一一十年十一一月三十一日聯合國軍最高司令官總司令部參謀副官發八號 民間情報教育部ョリ終戦連絡中央事務局經由日本帝國政府宛覺書 ) 一昭和一一十年十一一月十五日附指令第三號國家神道及ビ教義ニ對スル政府ノ保障ト支援ノニ關スル民間情報教育 部ノ基本的化ニ基キ且日本政府ガ軍國主義的及ビ極端ナ國家主義的觀念ヲ或ル種ノ教科書ニ執拗ニ織込ンデ生徒 ニ課シカカル觀念ヲ生徒ノ頭脳ニ植込マンガ爲メニ教育ヲ利用セルニ鑑ミ茲ニ左ノ如キ指令ヲ發スル ( イ ) 文部省ハ曩ニ官公私立學校ヲ含ム一切ノ教育施設ニ於イテ使用スベキ修身日本歴史及ビ地理ノ教科書及ビ教師一 用參考書ヲ發行シ又ハ認可セルモコレヲ修身、日本歴叟及ビ地理ノ總テノ課程ヲ直チニ中止シ司令部ノ許司アル 迄再ビ開始セザルコト ( ロ ) 文部省ハ修身、日本歴叟及ビ地理夫々特定ノ學科ノ教授法ヲ指令スル所ノ一切ノ法令、規則又ハ訓令ヲ直チ一一 停止スルコト ( ハ ) 文部省ハ本覺書附則 ( イ ) ニ適要セル方法ニ依リテ處置スル爲メニ ( 一 ) ・ ( イ ) ニ依リ影響ヲ受クベキアラュル課程 及ビ教育機關ニ於テ用イル一切ノ教科書及ビ教師用參考書ヲ苗集スルコト 修身、日本歴史及び地理停止の占領軍 (OIO) 指令 113 ー

4. 教育勅語絵巻物語

進歩しているが、教育の主体である修身の学科については何も見ることが出来なかった。和 漢の学科では修身が主で、古典講習科があると聞いていたが、それがどこに設けてあるのか 見ることができなかった。そもそも大学は高等の人材を養成する所である。しかし、今の学 科では政治、治安の指導者となる人材を求めることはできない。たとえ理工科、医科等を学 んでも、内閣に入って政事を執ることはできない。今は明治維新の功臣が政事を執っている 修身の これを継ぐ人材を育成しなければならない。しかし、和漢イ がそれも永くは続かない 学科はあるかどうかも分らない。和漢の学者は固陋であるとして排撃しているか、それは和 漢の学問がそうではなく、それは学者の人となりによりけりである。和漢の道は益々拡張し なければならない。朕は徳大寺侍従長を東大に使いとして立て、渡辺総長にこの点を質ねた いと思う。渡辺総長の意見は如何であろうか。森文部大臣は、師範学校の制度を改正して、 三年後には全国の教育を改良して大いに面目を改めるのだと云っている。中学については少 しは改まるが、大学は現在の状況では、この大学から眞成の人物を育成するのは難しい。汝、 一兀田侍講はどう考えるか。』 元田侍講は自分の意見を奉答した。天皇は喜色うるわしく御嘉納になられた。この聖喩記 十ンジ

5. 教育勅語絵巻物語

第五章教育勅語の渙発と国民の感激 直接関係者の談話 : ②新聞と教育勅語・ 第六章昭和ニ十年の終戦と教育勅語取扱いの変遷 修身、日本歴史及び地理停止の占領軍指令 ②教育勅語の取扱いに関する文部省の見解・ ③教育勅語奉読停止の通達 : ④衆議院『教育勅語等排除に関する決議』 : ⑤参議院『教育勅語等の失効確認に関する決議』 : ⑥教育勅語の騰本返還についての通達・ : 後篇教育勅語絵巻物語 朕惟フニ我カ皇祖皇宗 : 2 國ヲ肇ムルコト宏遠ニ・ 3 徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ 4 我カ臣民克ク忠ニ : 5 克ク孝ニ 112 94 93 90 119 118 117 116 115 113

6. 教育勅語絵巻物語

した。そして、教師は、師範学校卆又は十八才以上の免許状所有者 ( 検定による ) でなけれ ばならないとした。 ( 自由教育令では、教師の資格は相応の学力所有者という定義で、免許 状のための検定制もなかった。 改正教育令の趣旨に基づいて出来たのが小学校教則綱領である。この教則綱領で、今まで 学科目の最下位にあった修身が首位に上って、忠孝仁義を教えるようになった。また歴史科 も、これまで世界の歴史を教えていたのをやめて、日本歴史を教えるようになった。 この教則の国史綱領については、明治天皇は起草主任の江木千之をお呼びになって、篤と 御下問になり、一つ一つの事例について内意を承わった。このようにして、従来の智育偏重、 欧米心酔の学風を改善して、東洋道徳、尊皇愛国の精神に基づく国民教育の方針が樹立され たのである。 当時を回顧して、江木千之 ( 小学校教則綱領、小学校教員心得の起草者で、後の文部大臣 ) は、明治天皇のお人柄を次のように語っている 『私は多年文部省にあって教育のことに専念し、相当進歩した意見を持っていたつもりであっ たが、明治天皇の聖旨を拝承して、その高遠なる御識見に全く驚嘆いたしました。年令を申せ

7. 教育勅語絵巻物語

主な資料の出所および引用文献は次の通りです。 表紙の教育勅語御紋付箱および裏見返しの教育勅語雙六は唐沢富太郎教授所蔵 2 教育勅語御下賜と侍講の御進講および東大行幸の絵は明治記念絵画館所蔵 3 勅語草案の図版は全部資料 4 より転載 4 英独仏漢訳教育勅語は『「漢佛英獨」教育勅語譯纂』 ( 文部省 ) より転載 5 御親署と御爾のある勅語および文部大臣訓示は実物より筆者撮影 6 山県有朋・芳川顕正談話、井上毅・元田永孚書簡は資料 1 と 2 より転載 7 明治二十三年の朝日新聞、東京日日新聞 ( 毎日新聞 ) の社説は資料 1 よリ転載 8 終戦後の教育勅語の取扱いの図版は全部『終戦教育事務処理提要』 ( 全四巻 ) よリ転載 資料 3 より転載 9 石井省一郎談話、西村茂樹談話鰺 間明治時代の就学率の図表は『国立教育研究所紀要』より転載 Ⅱ勅語絵巻は津田圭一一郎画伯作画 よ「これが修身だ』 ( 小池松次編著 ) および尋常小学国史から引用 貶絵巻物語の例話 , 提供して戴きました 国民新聞の写真は同社の御好意により、 ー 215 ー

8. 教育勅語絵巻物語

の心も自然と定まる。これを教えるのは幼童のときである。汝、文学御用掛と一書を編纂し て幼童の教科書とせよ。』 と仰せられた。このころは、明治維新の大変動とそれに続いた学制発布から間もない思想 の一大混乱期であった。明治天皇の、『幼童の教科書を編纂せよ』との聖旨の意味を理解する 上の参考として、当時の大学者であった西村茂樹 ( 小学修身訓、その他の著書多数あり ) の 話を聞いてみよう。 『明治五年太政官より學制の頒布あり、序文に洋々數千言に渉る太政官の布告を載たり、其 文を熟讀するに、學問は身を立つるの財本なりといへる主意にして、專ら生を治め産を興す ことのみを説き、一も仁義・忠孝を教ふるの語なし、余當時民間に在りて是を讀み心大に是 を疑ふ、蓋し政府にて此の如き教育法を行はんとするは、從前の武士敎育が、唯道德のみを 教へて、實業に迂濶なるを以て、是を矯正するの意なるべきも、全く仁義・忠孝の事を説か ざるは、亦一方の極端に走るものにして、恐くは其弊に堪へ難きものあらんと余が文部に入 るに及び、此意は容易に發言せす、竊かに文部諸官員及び世間の意見を探りしに、政府の官 員は何れも西洋の文明に眩惑し、本邦從前の敎育は固陋にして、一も採るべき所なしと思ひ、 へんさん

9. 教育勅語絵巻物語

徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ おさ また、天皇の御先祖は、御自身をお修めに ばんせい なり、国民をお愛しみになって、万世にわ しめ たって徳政のお手本をお示しになりました。 仁徳天皇 第十二德天皇は、おなさけ深い御方であり、 六代イ なにわ 万民をつねにおいつくしみになった。都を難波 におさだめになったが、皇居はいたって御質素 たかどの であった。ある日、天皇が高殿におのばりにな って、四方をおながめになると、民家から立ち けむり のばるかまどの煙がまことに少かった。天皇は、 たみ 「これは、きっと不作のために民が困っている ありさま のであろう。都に近い所さえこんな有様であっ てみれば、遠くはなれた地方はどんなに苦しん でいることであろ、つ。」とお思いになり、ただち おおせ およ ぜいおさ に三年の間、税を納めるに及ばぬという仰をお 出しになった。その後、皇居はしだいに荒れて みやこ きたが、天皇は御気におかけにもならす、御召 しものさえ新しくおっくりにはならなかった。 ほうねん さか やがて、豊年がつづいて、村々の煙が盛んに 立ちのばるよ、つになった。天皇は、これをごら たみ んになって、民のゆたかになったことを、この 上なくお喜びになった。皇居がたいへん荒れく すれていると伝え聞いた民は、まことにおそれ 多一いことに隸い 、税を納めて皇居を御修理申し 上げたいと願い出たが、天皇はまだまだとお許 しにならなかった。しかし、熱、いにたびたびお引 願い申し上げたので、三年の後やっとお許しに なった。喜びいさんで、われ先にとはせ集った 人々は、夜を日についで工事にはげみ、皇居は み ) 」と わすかの間に見事に出来上った。 天皇はこの外、万民のためをおはかりになっ て、を築かせたり、池を掘らせたりして、農 業をおすすめになった。国民は皆深く天皇の御 恩に感し、それぞれ自分の仕事にはげんだので おさま 世の中はまことによくムロった。

10. 教育勅語絵巻物語

三 1 附則 ( イ ) 教科査教師用參考書蒐集ノ慣旦 2 附則 ( ロ ) 代行計劃提出案 3 附則 ( ハ ) 改訂計劃提出措置 ( 一 l) 文部省ハ本覺書附則 ( ロ ) ニ摘要セル措置ニ依リテ本覺書ニ依リ影響ヲ受クベキ課程ニ代リテ挿入セラルベキ代 行計劃案ヲ立テ之ヲ當司令部ニ提出スルコト之等代行計劃ハ茲ニ停止セラレタル課程ノ再開ヲ當司令部ガ許可ス ル支續イテ實施セラルベキコト ( ホ ) 文部省ハ本覺書附則 ( ハ ) ニ摘要セル嶐ニ依リ修身、日本歴史及ビ地理ニ用フベキ教科書ノ改訂案ヲ立テ當司 令部ニ提出スベキコト 一一本下ノ絛項ニ依リ影響ヲ受クベキ日本政府ノ總テノ官吏、下僚、傭員及ビ公私立學校ノ總テノ教職員ハ本化叩 ノ絛項ノ精神竝ニ字句ヲ塰寸スル責任ヲ自ラ負フベキコト 最高司令官ニ代リテ 參謀副官部參謀副官補 陸軍大佐・・アレン ー 1 14 ー