那で出來た文字である、けれ共忠信孝悌といふ思想は、我が國民自有の道德にして、開闢以 來盛であったことは國史の明證する所である、君國に忠、親に孝、同胞に睇、朋友に信、夫 婦相和なるの道に至っては、苟も人類あらん以上、内外古今の別なく、必す行はるべき大道 である、殊に忠君の至道に就ては我が帝國臣民たるもの、、身命を賭して確守すべき所であ って、其方法こそ時所位に依て變更すべけれ、其本體に至っては、海は裂け山はあすとも、 到底易ふべからざる所であると論じた、又或は、成程忠信孝睇の教は善い、然れどもこれを ロく、仇討を復興するといふ弊に陷りはせぬかと憂慮する者も 奬勵するに於ては或は昔日の女 あったのであるが、余は、これは實に一の杞憂たるに過ぎぬと辯明した、熟々昔日の國情を 察すれば、當時の臣子たるものは、是非共復讐を爲さねばならぬ事であった、といふのは、 例へば德川幕府時代の如き覇政の代に於ては、議論の上に於てこそ德川幕府に依って、一統せ られ、一法律に服從すとはいへ、事實上では、天下は三百の小天地に分割せられてをつた、 故に非理非道に人を殺して逃去する罪人があったとする、若しそれが雄藩大封の主人に保護 せられたならば、何人といへども一彈指をもこれに加ふることが出來ぬのであって縱令幕府 の命があっても、弊藩には左樣の者は居りませぬと、一言斷して言明せらるれば、これを如
如き風を爲したるぞ殘念なる。これと同時政治上の議論にも歐米の理論を採用して日本國体に容る べからざる議論を唱ふるものある程のことになり行きたり。されば一時は敎育に儒敎主義を復して計 樊を矯めんとせしかども是亦所調枉れるを矯めて直きに過ぐる所あり、共樊なしとせざれば久しから すして止みたりき。今日となりては漸く西洋の事を知ること深きに及びたると共に共國には必す共國 民の資格なかるべからざるを悟るもの多きに至りしが如くなりと雖も、敎育の上には如何なる主義を 以て共精とすべきやといふ事は更に明かならざるのみかは、從來當局大臣の更迭に從て共方針に 更ありたるにより甚だしくこれを言ば恰も大洋に航して磁針無く茫乎として共方針を得ざるの槭みあ りたるに、今回の勅訛にて共方針を示させ玉ひしこと誠に有り難き事共な 勅訛に宣はせたる父母に孝に見弟に友に夫婦相和し朋友相信しといふが如きは即ち倫理綱常の事にし一 て儒敎に於てもこれをく所なりと雖も我國体は臣民忠孝の大義を重んするに成りたるに依て斯く勅 。又儒敎は道德を保つに裨補ありと雖も知 させたるものなれば是れ儒敎主義に非すして國体主義た 。是れ實に迸徳 識の啓發に缺くる所あるに勅には智識才能を發達して世に益すべき旨を詔らせた 智能共一を缺くべからざるをさせ玉ひしものにして敎育の方針斯くありてこ共完全を得たるもの 聞くが如くなれば明治十五年の初めに軍隊に勅諍を垂れさせてより軍隊は共標を といふべきた、ー くにして依て以て日本人の 得て一帝室の干城たるの精訷を增せしと云へり。今回の勅諡も父此の如 資格を失はざるの人民を作り出すことを得べしと信じ奉るなり。 ( 東京日日新聞一一十三年十一月二日社説 ) 100 ー
ワなコウソコウソウ 朕惟フニ我カ皇祖皇宗 ごせん めいじてんのう 明治天皇がお考えになるのに、天皇の御先 祖が、 ( 天皇は御自分のことを朕とお呼び になります ) あまてらすおおみかみ 天照大祚 ごせんぞ 天皇陛下の御先祖を天照大神と申し上げる。 は、伊壯 ~ ・伊睡一一権の訷が、天下 きみ の君としてお生みになった限りなくと、つとい一小 であらせられる。 おんかた おんとく 大訷は、きわめて御徳の高い御方で、はしめ て稻第などを田畑にお植えさせになり、蚕を ばんみん おかわせになって、万民をおめぐみになった。 すさのおのみこと 大訷の御弟に素戔嗚尊という御方があった。 たびたび々しいことをせられたが、大神はい つも窰を御弟としておいつくしみになり、ほと んどおとがめになることはなかった。しかし、 しんせい はたや ある時尊が大祚の訷聖な機屋をおけがしになっ チンオモウ たので、さすがに大訷もおいきどおりになり、 ルの岩屋にはい「て、御身をおかくしにな「た。 世の中は急にまっ暗になってしまった。 大勢の訷々は、たいそうお困りになり、何と いわと かして大訷にお出ましを願おうと、岩戸の外に 集「ていろいろ御相談にな「た。八咫・や応 かぐら にのまがたま そう 瓊曲玉などをの枝にかけて神楽を奏し、ひた オこ、つした すらに大神をおなぐさめ申し上げこ。 示々の御心が大神に通したのであろう、大神は ふたたおんすがた 再び御姿を岩戸の外にお現しになった。世の中一 はもと通り明かるくなり、訷々は、つれしさに わず声をあげてお喜びになった。 素戔島琳は、これまでの御行ないを後畆され いずも ひのかわかわかみやまた て、出雲におくだりになり、簸川の川上で八岐 き の大蛇を斬って、人々の苦しみをおすくいにな つるぎ ひと った。この時、大蛇の尾から出た一ふりの劍を、 尊はとうとい劍とお思いになって大神に御上 あめのむらくものつるぎ になった。これを天叢雲劍と申し上げる。 おおくにぬしのみこと 素戔嗚尊の御子大國主命は、たいそう勇気が おろち さかさ
菅原道真 第五十フだ 九代宇多天皇は藤原氏の勢いがあまりに強 いので、菅原道眞を重く用いて、これをおさえ ようとせられた。道眞は、学者の家に生まれ、 幼い時から学問にはげんで、十一二歳のころに おどろ は、すでに詩を作って人々を驚かした。やがて 名高い学者となったが、心の正しいりつばな人 ちょ、フていっか であったから、朝廷に仕えては、天皇の御信任 億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セ ルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育 の淵源亦實ニ此ニ存ス 国民全体が心を一つにして、代々忠孝の美 風をつくりあげてきたことは、日本の国柄 のもっともすぐれた美点であって、教育の 根本とするところもこの点 ( 忠と孝 ) にあ ります。 オクチョウココロ エンゲンマタジッ ワコ すがわらのみちざね ワがコクタイセイカ ソン ョョソ だいだい キョウイク くにがら もはなはだあっかった。 宇多天皇に次いで、十ル醍醐天皇が御位にお 即きになった。天皇はいたっておなさけ深い御 方で、ある寒い夜、おそれ多くも御衣をおぬぎ たみ になって、貧しい民のつらさをしたしく思いや りあそばされた。また御父宇多天皇の御志をお 、つだいじん 受けつぎになって、道眞を右大臣にのばらせ、左 と - ひ、ら だいじん 大臣藤原時平と並んで政治を行なわしめられた。 ところが時平は、よい家がらの生まれではあ るが、年か若い上に学問はとうてい道眞に及ば 4 す、道眞が重く用いられるのを見ては、ねたみ一 心もしだいにつのり、とうと、フこれをおとしい ちくぜん れてしまった。これがため道眞は、遠く筑前の 太宰府にうっされることとなった。 ひ 1 」ろ 道眞は家を出る時、日頃愛していた庭の梅に お しっしゅ も名残を惜しんで、一首の歌をよんだ。 こちふかばにほひおこせよ梅の花 あるしなしとて春をわするな ちくぜん 海を渡ってはるばる筑前に下った後は、門を堅 くとざして一室に閉しこもり、かた時も天皇の 、つめ かた
朝日新聞教育勅語の渙発を絶賛恐懼して聖意を奉体す 德育問題、國家的敎育、個人的教育、是等の問題は春來頓に盛んになりし所にして、今荷ほ共社會に 凡そ敎 於ては、嘖々として唱論する所、「國家敎育」なる一雜誌の如きも此嘖々中よ生れ出でた 育なるものは、國なるもの既に成立てる社會にける敎育なるものは、決して一の人類なる動物を養 吾人本年六月の初旬「德育問題」と 成するものに非すして、一の國民なる性格を養成するものなり。 題して此種の所見を開陳せる中に言〈るありき。日く「蓋し道悠亦個人的國家的の二あり。但し絶對的 ~ 。個人的首德とは 兩的なるの調にあらす、道德中別けて個人的國家的の二と爲すことを得るの謂な ) 即ち各個人々身を修め己を正くするより以て博愛愛敬、父子夫婦兄弟朋友の關係、殺す勿れ、盗む勿 れ等に及ぶ亦稱して社會的と云ふを得べし。要するに國家と直接の關係を保たざる側に属するものに して、國家なきも之れなかるべからす、一身乃至社會の爲に存するの徳敎なり。國家的道德とは、國 家を待って始めて生するの德教にして、各人々が國家に對するの關係なり。之を換言すれば忠君愛國 等なるものにして國家なき社會に朎て之が要なく、國家を爲さゞる人類に於て之が必要なく、國家を 成さゞる人類に於て之が關係なきことなれども、既に國家ある以上は個人的道德と相俟って甚だ必須 なるものとす。」と。既に我は日本帝國なる國家を成して此國家に包藏せらるゝ國民なり。決して單
ばらえつけん 益軒には、とりわけ大切にしている牡丹があ って、今をさかりと庭先に咲いていました。 ある日、益軒がっとめに出たあとで、るすい をしていた書生が、隣りの友達と庭ですもうを 取り始めました。 、に「えいや、えいや」と もみ合っている、っちに、どちらかど、つしたはす みであったか、その牡丹を折ってしまいました。 「しまった′ と、書生が思った時は、もうだめでした。相手 の友達と、あわてて枝を起してみたり、花をつ ないでみたりしましたが、もちろん、折れてし まったものはど、つにもなりません。しばらくお ろおろしていた末に、隣りの主人にたのんで、 わびてもらうことにしました。やがて、益軒か 恭儉己レヲ持シ 他人に対しては礼儀を守り、自分に対して つつし つね は常に身を愼み、 貝原益軒 キョウケンオノ れいぎ とな ばたん 帰って来ました。隣りの主人は、書生を連れて 益軒の前に出ました。書生は何と言って叱られ るかと思って、身をちぢめていました。 ところが、隣りの主人から話をきいて、益軒 静かにこ、フ一言いました。 「私は、楽しむために牡丹を植えておきまし た。牡丹の事でおころうとはいません 益軒のけんそん こうし夕、 若い男が、さもとくいそうに、経書の講釈を 3 始めました。 むかし 昔の乗合船の中のことです。乗っている人は、 ひやくしよう 二十人もありましようか。見たところ、お百姓 だいく か、大工さんか、商人らしい人ばかり、あとは 女が二・三人です。若い男は、ロにまかせて、 しゃべりたてました。 つい調子にのると、 いいかげんなでたらめ も出て来ます。しかし、そんなことに気のつく えらそうな人は、一人もいないと、若い男は しか
地谷、丁 - :. 第一市 戔ニ金部一刊タ・物定第蓄 地者 大ー・ 前九時よ 事下 一、壽中央協力 言上し、第楽曜の奪によって一君が代一を・ で斎は再び座の御前に參豐て式、 き雫には 一優渥なる勅語を賜ふ 天璧より賜はりたるをるをーあらせ 代教育勅語換發記念式典「 = を纓 , ー」 " 。穿 た、いでをし、最後にの を奉挫、かくて式をち下には十一時一一十五分全 けふ三十日、教ー五十年記の式はくも天早応文部耳亂袋學長官にをひ、同 ーソ、御らせら・醫十一時四十懌倒 舅御名代として閑院下の ~ を第、《地の十時五十五分トの羅に式場に ~ 験手一真一千列のと、明治籘記 ( 0 かくて十一時、猶文相は御座の御削に進して発式の旨手 盛大に行、・、式山なる下のあって参列者一 くイ心遊ばされ明治一一十三免れなかったのでいます買市することは正 同じめ《物民は箞、髻のトに文部大臣式辭 年十月三十艮く勅渙 が、は炳として昂の如命と仔に手、今一 奉らんー」新にした 本日茲に天早下御院して銀崇の御をく冨に製の大噌針とな局に際し・ Ki この屋 0 熊の一では午削七時半申、千一一百仁親工、ムの下に暇げて臨あ大本を爪あらせり上下拳々服に一」れ努め以ることがやがて翌 れ・参掲したのみめとして大県・五百五十名育に関するー五十年記ったので御座いま支・くて體の第 , 嘉し来ったで御いますこと ( 今 ( 典峯行致しますことはて敎學の霧が明かとなので御座います 一設一午余各、その官等の煮も十時までには所 しく無上の巖 渹にのでいり民心のふ所一・のんでへまするに等に 男に同十時 = 工式に先立って巖明治 ところで御座いま亠 ます 無風大いに振ひましてはする動語は壑ゐ・を 宮ー、↓亠の式久とー製へのをこめた獸 価んで惟ひ・るに明お人非のを遂けたので御昭小し給へるェロ不の大典茲に式典を攀ぐる ~ を第けた、その後、のお待ち申し上ぐろに は御のに大います で御座いましてし給はりて斯の十訓に杢 皿糶静下には同十時 = 下務を御内あらせられ、同御心を垂れさ殊に蠍米のせられましてよわま」「斯ノ」は實に至公學の刷ーに第 の衛に伴ふ思茲に五十年其の関時代の移至大中外古今をじてるこの本義を顳現し以 のによわ戻まに迷っ内外のに因わましてとな・、」となき天地の公恩にへ奉らんこ、 一Ⅷ体所に入らせられて近、籬を式て呂わましたことに 0 〕ての思回は時に靄あろで倒座〕ます、 ~ ・、をに久第で倒座〔ます 新マッダ朝 ランプ 0
もの 頼春水 兄弟姉妹は両手のようなものであり、また えだ を同じくして連なった枝のようなものである 同じ父母から生まれ出て、骨肉の親しみは断っ に断てないものであるから、兄弟姉妹はルいに 友愛の道をつくさなければならない 頼春水は安芸の竹原の人である。家は代々染 ころ 春水は幼い頃から学問を好 物を業としていた。 み群童に優れていたので、春水の父はむを者 にしようとってよい師を求めたが、田舎のこ ととてそれを得ることが出来なかった。そこで 父は春水を大阪に遊学させることにした。春水 は大阪に出て、当時学問詩文を以って聞こえて っと いた人びとを師友として交わり、講学に努める こと数年、学業著しく進み、ついにそこに門戸 でし を張って弟子を教え、その名を遠近に知られる ト小、つにかよっこ。 しゅんぶう空ちへ、 春水に春風・杏の二人の弟があ「た。母は 春水がまだ家郷にいる頃に歿した。その時春水 しゅんすい いらじる ばっ そめ は十七才、春風は十才、杏坪は七才であった。 母なき後は春水はとくに二弟をいたわり、その 教養に力をつくした。父は之を見て、「春水が と一一 = ロって いるので自分は教えなくてもよい 喜んだ。 それから二人の弟も相次いで大阪に出て学問 をすることになった。春風は父の命によって儒 学とともに医学を学んだ。数年の後、その業が 大いに進んだ。その頃、父は年老いて家に病ん ていた。 春水は嗣子であるから、帰って父の看 病をしようとしたが父はそれを許さす、なお春一 とどま 水が大阪に留って学問に励むように望んでいた きせい ので、春風が兄に代わって帰省して父の看病に 当った。春風は郷里で医を業とし、かたわら学 さす きゅうおく 問を授け、また旧屋を改築して父とともに移り 住み、厚く孝養をつくして兄が家庭をかえりみ 問に一、いになることの出来るよ、フ る心配なく学 にした。それから春水はその業ついに成り、挙 はん げられて広島藩の儒者となった。父は大阪から 帰って来た春水を見て、その素志が達せられた
己れを持し博愛衆に及ほし學を修め業を習ひ以て智能を啓發し德器を成就し進て公益を廣め世務を開 き常に國憲を重し國法に遵ひ一旦緩急あれは義勇公に奉し以て天壤無窮の皇蓮を扶翼すへしと宣はせ たるは、これを概評し奉る時には倫理綱常を重んじ道德を失はざるを經とし、智識才能を養ふを緯と し、平素は國法を守りて國家に世務に盡し、事あるに當りては日本國民が固有の義勇を振て公に殉ぜ ざるべからざるを示させ玉ひしものにして、一言以て之を掩へば日本の敎育は日本の歴史よりせる國 体を以て共精祚たらしめ而して日本國民の資格を有せざるべからすト云ふの大御心たること共詔勅に 於て昭々たりと云ふべし。 顧るに幕府時代に行はれたる信教主義は事ら理綱常を重んじたるに依り共道德を保たしむるには裨一 益ありたりと難も、共美や迂濶に流れ固陋に陷り世務人事に益せざるが故に學問と云へば殆んど世外 のものと見做さるゝに至りたりき。維新の後米の學問日本に入り來れるに及び教育は全く前日と反 甚だし 對にて事ら智識の一方に傾きけるにぞ共及ぶ所は道德の如きは殆と措て問はざるものとなり、 ( カ ) きは父子見弟の間に權利を爭ひ朋友相欺くを意とせざるが如き輕薄の風となりて大に讀者をして憂慮 せしむるに至りたらき。殊に西洋の文化を知ると共に前日これを夷狄と斥けたるに反して俄に歇人を 崇拜し西洋の事といへば何事にてもこれを善しと思ひ共身は日本人でありながら心は西洋に降れるが
、笠原流の作法も出來たのである、然るに今日は身體 昔は長袖寬袴であったからして、所謂月 にしつくり適合した洋服を着て靴を穿って居る、さういふ人が昔風の禮儀を行はうとしても、 敬意どころか、それは到底出來ぬことである、故に帽子を取るとか、握手するとか、椅子に 腰を掛けるとか、椅子を離れて立っとか、といふ作法があるのであって、なにも端座すれば 有禮、椅子に腰を掛くれば無禮といふ區別はあるまい、然るに若し作法が如何にあろうとも し、かく本體と形式とは違ふ、是を以て余は 敬意を失ったならば、禮と稱することは出來ま ) 當時「道の本體は唯一にして古今内外の差なく、唯時代の趨勢に適應せんが爲に、其形式を 殊にするのみ」と主張したのであった、而して余の此の確信は、國家道德上の大皇謨を立て、 又國内民心の歸向にも適して居ったかと思はれるのである、それは兎も角、斯の勅語は實に 天意民心の合體一致して出來たもの であって、然かも我が國に於ては、經國濟民の大規模は、古來天意民心の合體一致に由って 成ると思ふ、斯の勅語に於て 朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ と仰せられ給うたのは、即ち天意民心の合體一致を庶幾し給うた叡旨と恐察し奉るので