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検索対象: 新説・明治維新 : 西鋭夫講演録
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1. 新説・明治維新 : 西鋭夫講演録

イギリスは、アフリカ、中東、インド、パキスタン、 バングラデシュまで、世 界中のあちこちを植民地にしていきます。手向かえば殺された。 もっとも深刻だったのが、当時、一番裕福だった大清帝国、すなわちチャイナ アメリカは 18 0 0 年代モルヒネ中毒でしたが、イギリスは紅茶中毒です。 紅茶は当時、中国・清国でしか作れなかった。日本で好まれる緑茶も、紅茶と 同じ木から作られます。ただ、作る工程が違う。 イギリスは中国のお茶が大好き。もう一つ中国のもので大好きだったのは、固 くて金属的な陶磁器です。陶磁器もヨーロッパでは作れません。中国にしかあり ませんでした。 日本人も、茶道のときに器を非常に大切にします。百万円しようが 1 億円もし ようが、買う人がいる。同じように、イギリス人も紅茶を飲むときに、美しい陶 磁器で飲みたかった。これが高い。 イギリス人は、美しい中国の陶磁器で、すばらしい中国のお茶を飲みたかった。 インドから、中国の広東、 そのために商船がロンドン、それからシンガポール、 今の広州 * 7 にどんどん人ってくる。清国は鎖国をしており、広東には長崎のよ うに出島があった。 広東からお茶や陶磁器を積んだ船がすっと南に下り、アフリカの喜望峰をく * 7 広州 北京、上海に並ぶ中国三大 都市の 1 つ。香港に隣接す る海浜都市。

2. 新説・明治維新 : 西鋭夫講演録

アヘンがどれだけお金になるか。世界の 7 つの海を牛耳っていた英国艦隊 これの年間予算の。、 ーセントはインドアヘンで賄われていました。 イギリスはアヘンで大帝国を築いた。アヘンなくして大英帝国は存在しませ ん。インドのアヘンなくしては、イギリスの大帝国はあり得ない。 それを知らないはずの薩・長・土佐がなぜ情報を得ていたのか。 薩摩は奄美大島の黒砂糖の密輸をしていました。沖縄は薩摩と近いと思うで しよう。ところが、当時の沖縄が一番近いと思っていたのは、中国・清国でした。 琉球の衣装を見たらおわかりでしよう。 当時の清国は、アヘンが合法になっていました。第二次アヘン戦争のあと、ア ヘンは合法。現在の日本のタバコやお酒と同じような感覚です。 広東と沖縄がどれだけ近いか。ヨーロッパの商船がもうわんさと広東にいた。 わんさと。 みなさんよくご存じの、これまた維新の風雲児・高杉晋作 * 彼は歳のとき、 幕府の視察の一員として、なにかいいビジネスチャンスはないかと、船に乗って 清国に 5 3 。 1 人て出かけて行った。 そこで晋作が見たのは、 2 回のアヘン戦争に敗れた中国の民の姿です。そして 欧米列強の将兵、ビジネスマンたち。 晋作が見た広東の街の状態は、吐き気がするほどの凄まじさです。広東に入っ 第三章明治維新に隠された「謎」 * 高杉晋作 長州藩士。尊王攘夷の志士 として活躍。長州藩に「奇 兵隊」を創設した。 1862 年に幕府使節随行員として 長崎から中国・上海へ渡航、 列強に蹂躙された当時の中 国の様子を日記『遊清五 録』に残した。肺結核によ り四歳で他界。 ( 1839 ・、・ 1867 ) 国立国会図書館蔵 四

3. 新説・明治維新 : 西鋭夫講演録

1 グラム、 2 グラムで吸っているのが 7 0 0 0 トンです。もう中国全土がアへ ン中毒です。さあ大変だ。 「あいつらをこらしめろ。打ち首にせよ ジャーディン・マセソンがアヘンで儲けすぎ、アヘンを大量に持ち運んだため りんそくしょ に、北京にいる清国の皇帝が大激怒。そして歴史に残る清国最後の星・林則徐 * 1 という逸材を広東に派遣した。 林則徐は広東にいるイギリスのアヘン 業者たちを襲撃して、アヘンを「出せ」 と脅かした。 2 万 5 、 6 0 0 0 箱のチェ ストが出てきて、歴史の本を読むと、こ れを「焼却した」と書いてある。ただし、 実際には次のようなやりかたで処分し 0 、、レヾ、 ( 珠江 ) の河口に 広東のノ 庫檻のようなものを作って、アヘンをその 倉 ン なかへ投げ込み、消石灰をばらまいて化 へ ア の学反応を起こして、モウモウと煙を出さ せて処分したのです。 第二章大英帝国の繁栄と欲望 1 C. P. C. Photo * 林則徐 ( - 〔イ 8 -0 ・、。 18 -00 ) 中国清代の官僚、政治家。 歳で科挙に合格し、地方 官を歴任。農村の再建と治 水事業に取り組み、不正官 吏の大量処分を断行するな ど、その行政手腕は今日で も高く評価されている。

4. 新説・明治維新 : 西鋭夫講演録

・イギリス、インド、清国間の三角貿易 ギ 陶磁器 綿織物 茶 絹 主月 もう 1 つ、インドの西側、ポンべイ のあたりにも同じくらいの大きさのア 〕〈ン農場が作られました。 そこで作られたインドアヘンは、東 インド会社のブランドの判を押され て、箱に入れられて広東に運ばれま す。製品コントロールがしつかりされ た、すばらしい純度のアヘンです。そ んなアヘンが、ワーツと清国へと人っ ていった。 アヘン ッ

5. 新説・明治維新 : 西鋭夫講演録

ヘン用です。 アメリカは、トルコのアヘン業者にはつばをかけます。 「お前たち、つくれるだけつくれ。オレが全部買う それを船に乗せて、地中海を出てアフリカへ下って、そこからガーツと広東に 持っていく。 インドで買うアヘンにくらべて、トルコのアヘンは品質がちょっと落ちます。 そのかわりに、非常に安い。中国でアヘン中毒になっている人々は、インドアへ ンだろうがトルコアヘンだろうが関係ありません。もう早く欲しいばかり。 こうしてイギリスのマネをしてトルコアヘンを清国へ持ち込んでいたアメリカ は、イギリスと清国のアヘン戦争で漁夫の利を得ました。 アヘンが歴史を書き換えた 南京条約では、中国の揚子江や長江といった川を上って内地には入れない取り 決めになっていた。イギリスはこれが気に食わない。 「やり直し ! これ書き直そう ! 」 清国は 「嫌だ ! そんなの嫌だ !

6. 新説・明治維新 : 西鋭夫講演録

中国侵略に利用されたアヘン 置にケシ坊が来て、ちょいちょいと作業がでぎます。 ヘラで集めた乳液は、熱湯に人れて一度ゆでられ、上に浮くごみを捨ててから、 布を通して漉します。漉した水にはもちろんアヘンの成分がいつばい人っている ので、こちらは薬として飲みます。布の上には、粘土のようなやわらかい茶色の しよう お餅のようなものがたまります。これを「生アヘン」といいます。 これを集めて 1 週間ほど乾かすと、中国人が好んだキセルに詰めて吸えるアへ ンができます。 さあ、アヘンを発見したイギリス。 「これをどうするんだ ? , とインドに聞きました。 「ときどき中国に持っていきます イギリスは「ちょっと調べてみようと清国に行ってみることにした。当時、 清国は鎖国していて、ポルトガル領の広東とマカオだけが開いている。そこに船 で出かけていって、アヘンについて根掘り葉掘り調べだした。 「どこに売るんだ ? 「北京に持っていきますー

7. 新説・明治維新 : 西鋭夫講演録

当時の清国の通貨は銀でした。金 ( ゴールド ) で払おうとしても、銀に替えて 持ってこいと言われます。 イギリスが支払う銀はどこから出てきたか。 メキシコです。ニューメキシコと言われている今のメキシコ。イギリスは、ス ペインが支配していたメキシコから銀を一生懸命、買いました。 メキシコドレ * 9 、 スペインドルというのは、直径 4 センチほどの重たい銀貨 です。アメリカの独立宣言のなかにも「ドルという言葉が出てきますが、これ はスペイン銀貨・メキシコ銀貨のことを指しています。 イギリスは金でメキシコ銀貨を調達し、それを中国の広東に持っていき、お茶 と交換した。お金が出ていくばかりのイギリスは、それが面白くない。 とうとうお金持ちだったイギリスが赤字に転落。イギリスは膨大な海軍を抱え ロンドンには、もはやお金がなくて火の車。 ているので、軍費が捻出できない。 さあ困った。 ところが、紅茶輸人だけはやめない。 アヘンの製造工程 いつぼうで、イギリスはインドに侵人して、ジャマになる男女をぶつ殺して、 * 9 メキシコドル メキシコを中心にラテンア メリカ各国で鋳造された 8 レアル銀貨。貿易決済に用 いられ、ヨーロッパや東ア ジア諸国でも大量に流通し た。額面は 8 レアルだが、 アメリカでは 1 ドル銀貨と して用いられたことから 「メキシコドル」と呼ばれ るようになった。 1894 年のメキシコドル

8. 新説・明治維新 : 西鋭夫講演録

らです。スペインとポルトガルでもこうして吸っており、中国はスペインとポル トガルからキセルで吸うやり方を教わりました。 じつは、それまでアヘンは飲まれることのほうが多かった。生アヘンは水には 溶けないが、アルコールには溶けます。ですから、アレクサンダー大王の昔から、 人間はアヘンを薬や痛み止めとしてワインに溶かして飲んでいた。アヘンと人間 の付き合いはそれほど古い きゅういん 今でも専門家のあいだでは、アヘンを吸うことを「吸飲」と書きます。私の場 きゅうえん 合、アヘン戦争では「吸って」いましたので「吸煙」と書きます。ただし、本が と怒られないように、きちんと断りを入 出たときに「あいつはモノを知らない , れるようにしています。 「薬」から「麻薬」へーアヘン戦争の勃発 歴史の物語には、アヘンの話はほとんど出てきません。 イギリスから清国に持ち込まれたアヘン 1 箱肥キロのチェストが清国にど ・ : と増えて んどん人りまくって、 5 0 0 0 トン、 6 0 0 0 トン、 7 0 0 0 トン・ いった。本来は薬として使われていたものが 7 0 0 0 トンも広東に運ばれて、そ こから麻薬になったんです。 * サッスーン商会 バグダード出身のユダヤ 人、ディヴィッド・ スーンによって 18 3 2 / 年 にインド・ポンべイに設立 された。イギリスのアジア 貿易に貢献し、その功績が 認められて 18 5 3 年にイ ギリス国籍を取得。ディ ヴィッドの・息子アブドウッ ート ) はイギ ラー ( アルバ リスで準男爵となり、現在 のサッスーン財閥を形成し 創業者ディヴィッド・ サッスーン

9. 新説・明治維新 : 西鋭夫講演録

でも、金は誰が出したんじゃい、オイ。龍馬、おまえのスポンサーは誰だ ? 明治維新を起こすためのお金は誰が出した ? 私が声を大にして言いたいのが このことだ。 私がアメリカで勉強しているとき、最初に教授から習ったのは、「 Fo ま w the お金がどう動いたか、そのあとを追いかけろということです。 Money 」 勉強していると、人間関係、政治関係、いろんな問題でわからないことが出て くる。そういうときには、「金の動いた道を追いかけてごらん。いろんなことが わかるよ。と教わりました。 グラバー邸の「隠し部屋」 さて、私が前章でアヘンの話をしたのは理由があります。 維新の志士たちが武器を仕人れていたのは、長崎のトーマス・グラノ らです。彼は一体、何者か ? 中国の広東で会社を立ち上げたジャーディン・マセソンは、第一次アヘン戦争 の影の仕掛け人であり、責任者でもありました。そのジャーディン・マセソン商 会の長崎支店長にあたるのが、トーマス・グラノ ヾーなのです。 長崎に旅行に行くと、みなさんグラバー邸を見学に行きます。私も修学旅行で ヾ、 * 2 、 * 2 トーマス・グラバー ( — 8 つ 8 」、・ 10 、 11 ) スコットランド出・彗。 18 5 9 年、上海でジャーディ ン・マセソン商会に入社後、 長崎に移り、 2 年後に同社 長崎代理店として「グラ ー商会」を設立した。晩 年には外国人として破格の 勲二等旭日重光章を授与さ れた。

10. 新説・明治維新 : 西鋭夫講演録

か。インドは英語ができるって、なんの話か。 イギリスがインドの植民地化を進めていたとき、大反乱が起きました。クリミ ア戦争が終わって、イギリスが海軍を中国・広東へ派遣しようとしていたときで す。第二次アヘン戦争の少し前、 18 5 7 年から 18 5 9 年にかけてです。 万人のセポイ兵 * 2 ( インド兵 ) のうち万人が銃をとって、イギリス兵、 ヨーロッパ人を見つけしだい、撃ち殺しました。家族も殺した。子どもやべイ ビーも含めて、全員殺した。 それを聞きつけた英国艦隊は、インドのカルカッタとポンべイに上陸して、村 - ヘイビーまで殺した。 から村へと組織的な皆殺しを始めた。 殺し方が非常に上手で、どんどん征圧していく。しかし、征圧するのに、殺し まくって丸 1 年かかりました。 それからまたほぼ 100 年、インドは植民地。 日本もこれからあと 10 0 年、どこかの占領地になれば、みんな英語をしゃ べっているでしよう。 いま日本の大学・高校で、英語ができないと、有名校には人れません。お受験 でしつかり英語をやっていないと、有名校に人れません。 現在の日本で英語ができなかったら、「おまえバカか、白痴か、教育を受けて いないのか、と言われる。「英語は必修、今度は小学校からやろう」。まるでイン * 2 セポイ兵 セポイとは、もともとベル シア語の「兵士、軍人」を 意味する「スイバー ーヒー」の英語表記 「 sepoy 」をローマ字読みし たもの。インドではセポイ は歩兵を指し、騎兵のこと は「サワール」と呼んで区 別された。