思い - みる会図書館


検索対象: 時間の習俗
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1. 時間の習俗

時間の習俗 121 峰岡周一が自分に話した都府楼址の情景は、そのときに行ったのではなく、彼がかって訪 れたときの経験を言っていたのだ。つまり、彼がふいと都府楼址を持ちだしたのは、自分の 姿が不用意にも西鉄の前でたれかに見られた事実を聞かされて、その弁解に役立てたのだ。 では、なぜ、彼は定期券売場に立っ必要があったか。すでに彼の都府楼址行を打ち消した 以上、峰岡は普通券売場の前に立っていたのではないことになる。彼はあきらかに目撃者の 証言どおり、定期券売場に用事があったのだ。 しかし、この場合、その売場の前が閑散としていることから、人と待ちあわせていたとい うことも考えられる。が、三原はそれを除外した。なぜなら、峰岡周一が知人と待ちあわせ ていたのだったら、そのことが公明なかぎり、三原に正直に言うはずである。 それがあまり人に知られたくない人物との面会のためだったとしたらどうだろうか。いや、 それだったら、なにも人目の多い開放的な出札ロ前という場所を選ぶことはないのである。 しゃへい もっと遮蔽された場所が適切なはずだ。 つまり、峰岡周一は西鉄前では誰とも会うつもりではなかったのである。彼はそこに一人 で佇んでいたのだ。 峰岡周一はたしかに普通定期券を買ったのだ。係員がその券を作製するまで佇んで待 っていたに違いない では、この想定を起点として推定の線を延ばしてみるとしよう。 むろん、峰岡は東京の生活者だ。博多にめったに来ることのない彼か、どこに西鉄の定期

2. 時間の習俗

もし、会葬者の中に少しでも素振りのおかしい者や、おたがいの内証話に、事件のきっか けとなるようなものがありはしないかと、その中にまぎれこんだ刑事たちは、神経を集めて いたのだ。 告別式は順調に進んだ。 会葬者は最後に焼香に立ったが、それがすむと、順次本堂から帰ってゆく。 この葬式の世話人は、同業紙の社長二人だった。社長といっても社員は数名ぐらいのとこ ろばかりだから、たいそうな新聞ではない。 おおくまたっきち さはらふくた 俗 一人は『帝都交通新聞』社長大隈辰吉であり、一人は『中央自動車情報』社長の佐原福太 習ろう 郎だった。大隈は五十二歳、佐原は四十八歳だった。このうち大隈の『帝都交通新聞』は戦 の 前からの発行で、いっとう古い。 間 この二人のところにも、捜査本部からはたびたび土肥武夫の事情についてききにいってい 時 る。二人とも、土肥についてはその人柄をほめていた。本部としては、生前の交遊もあり、 このほめ方は儀礼的なものとして不満だった。 「われわれとしては、一日も早く犯人を挙げたいのです。それで故人に対しては気の毒な事 情もあるでしようが、このさい、故人の霊が一日も早く浮かばれるように、言いにくい話で も全部うちあけていただきたいのです」 本部側ではそう頼んだのだが、二人ともそれ以上のことを答えなかった。口が堅いのか、 それとも、実際に土肥のことに秘密がないのか、本部としては二人の話からは重要な手がか

3. 時間の習俗

時間の習俗 なぜなら、九州地方の人間よりも、東京方面の人間の方が被害者の身もとはわかりにくいか らである。犯人はすでに被害者の衣服から身もとのわかるような物は剥ぎとっていった。所 持品もなかった。そういう計算を持っている犯人が、すぐに身もとの知れそうな地元の人間 を使、つはずはない。 さて、被害者の青年と、手袋の女と、もう一人の人物、すなわち峰岡周一とは、岩田 屋デパートの何階かの売場で落ちあった。それからどうしたか。 それがわからない だが、水城の現場での凶行は、あたりが暗くなってから行なわれたとみてよかろう。明か るいうちだと、そんな所にうろうろしている人間は付近の農家の者に目撃されるからである。 鳥飼の手紙や捜査報告などを読んでみると、被害者らしい人物を見たと証言した者が付近 の者にいない。 それが二月七日だとすると、午後五時半ごろには、すでにあの辺は暮れかけるのではある まいか。あるいは六時かもしれない。九州というと、東京よりは三十分ぐらい日没が遅いは ずである。 ここで三原は念のため東京天文台へ電話をして、二月七日の福岡地方における日没時刻を ききあわせてみた。すると、その返答は、福岡地方では午後五時五十四分だということだっ た。してみると、水城の現場に被害者が連れてゆかれたのは、まず、六時か七時ごろであろ

4. 時間の習俗

「こんなふしぎなことは初めてだ。峰岡周一の周辺をどんなに洗っても、その女が出てこな い。土肥武夫は峰岡と違って、いろいろと女関係が多かったようだが、相模湖畔の女だけは いったいど、つい、つことだろ、つ ? 生前の交際から発見されない。これは、 それに、その女が死んだか生きたかもさつばりわからないのだ。だから、気の早い刑事の 間では、もう、女の死亡説も出ている。犯人が女のロをふさぐために土肥といっしょに片づ けたという見方である。これもむげには退けられない説だ。いや、大いにありうべきことか もしれない。その事態に備えて、三原は都下の女の変死体にも十分手配をさせている。が、 俗めほしいその報告はいまだに手もとに着かない。 習 「主任さん の と、一人の刑事が言った。 間 「女はわからないような所に埋められているのかもしれませんよ」 時 しかし、その場所の推定がっかない 。これでは自然に死体が発見される報告があるまでお 手あげということになる。それよりも当面の問題は、女の正体を一日も早く知ることである。 もし、彼女が家を出たまま失踪したとなると、その届け出がなされていなければならない。 よ・つほう この点から、管下の家出人捜索願いは全部三原も眼を通している。ことに、容貌の特徴、年 ちょうふ 齢、服装には気をつけた。それらしい届け出があれば、それに貼付された家出人の写真を刑 へきたんてい 事たちに持たせ、相模湖畔の碧潭亭ホテルの女中や、被害者と女を乗せたというハイヤーの 運転手などに見せている。 145

5. 時間の習俗

時間の習俗 296 されるシートを待って、絶えず何人か集まっている。峰岡がその中の一人に大阪、福岡間の リザープ券を譲ったとすれば、飛行機は異状なく満席となる。こんなことは当人同士の間の ことで、むろん、係員は知らない。ゲ 1 ト・パスの係員も、機内のスチュワーデスも、当人 が別人と代わったかどうかはたしかめるわけではない。 リストの人数と員数さえ合えばよい 峰岡は十六時五十五分、伊丹着の飛行機から降りて、リザ 1 プ券を譲りわたし、十八時五 分発の羽田行に乗りこんだ。この前に十七時五分発の羽田行が出ているが、もちろん、これ には間に合わない。彼は、十七時十分発の板付行で自分の身代りとなった客が出発するのを 見とどけてから、落ちついて東京に引きかえしたのであろう。 そうだ、峰岡は必ずこの方法を採ったのだ。これで初めて大阪、福岡間の幽霊が突きとめ られたのだ。 「これでいよいよこの事件も大詰にきたような気がします」と、三原は眼を輝かせて言った。 「鳥飼さん、あなたは鐘崎という所を知っていますか ? 」 「はあ、知っとります」鳥飼はうなずいた。「ときどき、署の方のピクニックにみんなと行 くことがありますたい。景色のよかとこですよ」 三原は、さっそく、資料部に行って、鐘崎地方の五万分の一の地図を取りよせた。 なるほど、今の回答のように、海岸線は小さな出入りを繰りかえしている。地図面にもた しかに織機神社というのがあった。 くるま 峰岡周一は、板付からタクシーを飛ばしてこの近くまでやってきたが、乗ってきた自動車

6. 時間の習俗

時間の習俗 「そうすると、その一行に見知らない男の顔があっても、誰も妙には思わないわけですね ? 」 「そうです。事実、そんな例はよくありますよ。同人の誰かが連れてきた友だちだったり、 また入会希望者だったりしましてね」 三原は、家の中から見えている外の景色が、急に明かるくなったように田 5 えた。 彼は白葉に何度も頭を下げて警視庁に引きかえした。資料室から福岡県の地図を借りた。 おんががわ ″鐘崎 ~ は、福岡の東北から遠賀川の河口に至る線が、玄界灘に向かってふくれあがってい る中央あたりにあった。赤間駅に降りるのが便利なのであろうか。地図の上では直線コース とはなっていないが、道の順序がよいのかもしれない。 むなかた 小さな島があった。大島だった。また、その近くには有名な宗像神社がある。鐘崎は、そ の宗像神社のある場所からも東北に約四キロほど寄っていた。 三原は、地図を閉じてじっと考えた。 峰岡周一がこの″予告 ~ を見て、四月二十五日の午後一一時半に赤間駅に降りたとする。多 、。筆岡もその中にはいる。 分、鐘崎まではバスで行ったに違いなし山 この場合、同人たちは顔を知っているが、知らない男がはいりこんでも、誰かの紹介者ぐ らいに田 5 って気にもとめないでいる。 峰岡は現地に着く。そこで同人たちはばらばらに別れて景色を見ながら苦吟にふける。む ろん、その一行の中に梶原武雄もいた。峰岡は、こっそり梶原の後ろに立って、適当な機会 たた をみて、軽く背中を叩く。 両人は、俳句について話しあう。あるいは、それはなごやかな世 ふたり

7. 時間の習俗

時間の習俗 235 なぞ めかり 八コマの和布刈神事のネガの謎である。これが解決できないうちは峰岡のアリバイは崩れ いや、考えてみると、これは峰岡のアリバイを成立させている物的な、唯一の壁であった。 たんがい それだけに峰岡の位置は、まことに危険な断崖に立っているわけである。したがって、峰岡 としては全力をこのフィルム・トリックにかけているわけである。 フィルムのトリック : : : 確かにこれは峰岡のトリック以外には考えられない 三原は以前に峰岡の共犯者を設定してみた。和布刈神事の写真撮影者が別にいる。東 京から福岡に飛んだ峰岡にそのフィルムを渡す役目の人物だ。 それが今では現実的には存在しないことがはっきりとわかってきた。唯一の共犯者は、女 装で相模湖畔に土肥を誘いだした名古屋のゲイ・ポ 1 イ、須貝新太郎だけである。 しかし、須貝新太郎も土肥武夫と一一月 , ハ日の午後六時ごろから七時半ごろまで相模湖にい たわけだから、これも門司の和布刈神事の撮影に間に合うはずはない。 やはり相模湖の殺人事件と、九州水城の殺人事件とは、峰岡周一の単独犯行と決めてよい。 もっとも九州の方は、峰岡が相模湖の事件を永久に隠すため、共犯者の須貝を殺害した のだから、この方は直接にフィルムとは関係がない。 どうも、カメラの問題はいつまでも苦手だった。 一方、三原警部補の峰岡に抱いた疑いが、正当なものであるらしいことは、他の方面の捜 査でわかってきていた。

8. 時間の習俗

時間の習俗 11 便は福岡まで一つの空席もなく、満席の客を運んだという調査の結果を知らせたのだ。 、、こが、諦めるのは早い。 東京から福岡に行く旅客機は、 311 便のあと十八時十分発と十九時発の便があり、さら に翌日の零時三十分出発のは板付着が四時四十分、一時三十分出発のは五時十分に板付に着 く。いわゆるムーンライト号である。 もし、犯人がこの便を使ったら、どうなるだろう。 これだと、犯人は二月六日十八時五分の 132 便で大阪から東京に引きかえしても、翌七 日の午前五時には東京から福岡に着けるわけである。 ただし、この場合でも、もちろん門司の和布刈神社の神事には間に合わない。 だが、これだと和布刈神事は抜いても小倉の大吉旅館に八時にはいるのは十分に可能であ 日航機の時刻表は次表のとおりだ。 すなわち、 311 便で大阪に行き、そこで降りて、次の折返し 132 便 ( 十八時五分 ) を 利用すれば、東京に十九時三十五分に着けることは、前に三原が考えたとおりだ。が、これ は車を利用して現場の相模湖に十時三十五分に到着する勘定になるから、九時から十時とい 、つ犯一丁寺刻には間に合わないことになる。 旅客機といえば、むろん、全日空機もはいる。日航に乗ったという峰岡の供述であるが、 四念のために全日空を考えてみよう。しかし、峰岡が会社を出た以後に利用しうる全日空機と る。

9. 時間の習俗

しょはっ もえいず また、和布刈の意義について、「古伝』に、 「和布は陽気初発し万物萌出るの名なり。その もち 草たるや、淡緑柔軟にして、陽気発生の姿あり、培養を須いずして自然に繁茂す。昔、彦 ほほでみのみこと これ 火々出見命海神のに到り、宝珠を得て天下を有ち、之を子孫に伝えて万世絶えず。誠に 慶の至りなり。此を以て祝々除夜を以て海に入り延蔓絶えざる所の藻を採りて、元旦之 しんし しか を神祠に献じ、而して後、皇朝に奉り、また邦君に進むることも、更にまた慶の至りなり。 ただ とうと 此神事を以て、只その神秘なることを知って、而してその実に嘉福喜ぶべく、敬ぶべきこと なり を知らざる也」 とある。 うろくず 習 謡曲にも『和布の一曲がある。それは、早鞆の沖にすむ鱗の精というものが出てきて、 の 「今夜寅の一天に、広原海の都より、竜神波門を分け、なんとなく現れ出て海上を陸地の如 間びようびようまさご たいまっ く平々と真砂になし申すを、その時刻を相待ち、神職の人出合い、松明をとばし真砂地に下 時 り立って、海中の和布を刈取り神前に供えば、神はび納受ある : と、神徳をたたえて、 つかまっ 一曲仕るというのである。 さて、午前一一時が近づいた。 しかし、干潮になりきるまでには、まだ少しばかり時間があった。 社殿では、兄司ゞ、 守言力しっそう高らかに読みあげられる。このとき、見物人はいよいよ数がふ いしがきょ え、境内の石短に拠って海面に身体を乗りだしていた。 しぶき この からた め も よろこ お ひこ

10. 時間の習俗

時間の習俗 のも珍しくはなかった。 《和布刈神事》として俳句の季題にもなっていることだ。 『季題』の解説によれば、次のようにそれは出ている。 たきび 「門司の和布刈神社で陰暦の元旦未明に行なわれる神事。境内で大焚火をし、神楽を奏する ねぎ たいまっかまおけ なかを、三人の禰宜が松明・鎌・桶を持って海へつづく長い石段を降り、渚で祝詞を奏し、 しおさい かくれいわ 潮騒の礁を探って若布を刈りとり、潮垂れるままの若布を、祝詞神楽が奏せられるなか を、うやうやしく神前に供えるのである。折りから、干潮時であるので、潮は激しく流れて つかさど 海底が現われ、禰宜はたやすく若布を刈ることができるという。この神は潮の干満を司ると じんぐう せいかん いわれ、航海の守護神としてむかしから尊崇せられている。遠い昔に神功皇后の征韓の船路 まも を護った神であると言い伝えられている」 しかし、これは詳しい解説ではない。 「古伝』によると、 たてまっ つごもり しかん としのはじめみそなえ 「毎歳十一一月晦日の夜、祠官海中に入りて和布を刈り、元朝の神供とす。昔は朝廷にも奉 おきながたらし しおひるに しおみつに かたや あずみのいそら りしが千古この方廃めり。是れ阿曇磯良が海中に入りて、潮涸瓊、潮満瓊の法を、気長足 ひめのみこと 姫尊に授けし遺風によるなり」とあり、 りぶおうき 『李部王記』によると、 げんめいちょうわとう ぶぜんのくにはやとのかんぬしめかりごしんじ 「元明朝和銅三年 ( 日紀一三七〇 ) 豊前国隼人神主和布刈御神事の和布を奉る」 と見えているから、この神事は、少なくとも上代から始められていたものであろう。 め め なぎさ みかど かぐら