時間の習俗 320 中島河太郎 もう一一昔ほど前のこと、松本清張氏は『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を授けられたが、 きくまくら その受賞後の第一作として発表されたのが『菊枕』である。 これには「ぬい女略歴」という副題が添えてあって、福岡の中学教師の妻が、平凡無為の あきた ききょ・つ 夫に慊らなくて句作に熱中し、その才華のうに伴って、彼女の奇矯な言動が顰蹙を買い ついに狂死するまでの生涯が描かれている。 俳句に魅入られた女性の鬼気迫る愛執が、簡潔な筆で叙せられているだけに余韻があるが、 ひさじよ 実はこのヒロインにはモデルがあった。作者の郷里小倉にいた杉田久女がそれである。『或 る「小倉日記」伝』のときと同じように、作者は丹念に関係者にあたって、作品化した。 この作品が俳句に関心を寄せるきっかけになったのか、五年後には『巻頭句の女』を発表 している。俳句雑誌の巻頭を占めるかどうかが、投稿者仲間の重大な関心事となっているこ とに発想して、殺人事件があばかれる話である。続いてこの『時間の習俗』があるし、さら さいとうさんき つな に西東三鬼や橋本多佳子をモデルにした作品もあるから、俳句との繋がりは通り一遍のもの ではなかった。 解説 じよ あ ひんしゆく
時間の習俗 体が発見されて、その報知の電報が東京からくるのを待っていなければならないからだ。彼 は、そのアリバイを印象づけるために極光交通の当直員に「変わったことがあれば小倉に打 電せよ」と言いおいたのであろう。あとでも、彼が小倉にいたのはわかることだが、彼はも う一つ念を入れたのである。このへんが犯罪者の心理ではあるまいか。 峰岡が小倉に単独で行くため、須貝は福岡付近に残った。もしかすると、一一日市の武蔵温 泉の旅館で休憩し、峰岡が福岡に引きかえしてくるのを待っていたものと思う。武蔵温泉で も、 " 女…ばかり捜していたからわからなかったのだ。 須貝は旅館にはいる前に、理髪店にはいり、女性スタイルのヘアー・カットを慎太郎刈り ことが鳥飼の報 に変えた。水城の現場から発見されたときの彼の髪が、〃散髪後まもない ~ 告にあったではないか 峰岡は須貝を殺害する目的で福岡へ同行したのだが、須貝はなぜノコノコと峰岡について 行ったのか。おそらく峰岡から「博多にいっしょに遊びに行こう」と誘われたからであろう。 この辺は、普通の男女の愛欲関係とかわりはない。 では、、 月倉から福岡に引きかえした峰岡と須貝とはどこで出会ったのか。これも打ちあわ せができている。おそらく日が暮れて間もない五時すぎだろう。場所は水城に近い二日市駅 の待合室としよう。土地不案内なものには駅の待合室がいちばんわかりよい ート下の西鉄窓口で定期券売 峰岡はそれまで渡辺通りの大東商会に寄ったり、岩田屋デパ 場に立ったりしている。 むさし
時間の習俗 「峰岡という人と、被害者の土肥武夫とは、そんなに身近な関係だったのか ? 」 「いや、ただ商売の上で親しくしていたという程度だったらしいです」 「ずいぶん仁義が堅いんだな」 三原は、そのときはそれで聞き流した。 しかし、あとで考えてみて、ちょっと変な気がした。商売上でつきあっていた人間の変死 を、なぜ、わざわざ九州小倉にいる峰岡のところに知らせねばならないのだろうか。 それに、三原にはもう一つの疑問があった。東京と小倉とは、電話では直通区域になって いる。一一時間もかかる電報をわざわざ打つまでもなく、電話だとすぐに小倉が出てくるはず それも大吉旅館というのに電報を打ってるくらいだから、峰岡という人がその旅館に泊ま っていることも予定でわかっていたはずなのだ。なぜ時間のよけいかかる電報を打ったのだ ろう。三原は首を傾げた。 彳は部下に時刻表を持ってこさせた。 時刻表の末尾には、航空会社の時刻表がついている。峰岡周一が羽田を十五時に発ったこ とがわかっているので、それを見ると、その日航機は下り 311 便だった。これは、時刻表 によれば大阪の伊丹空港に十六時五十五分に着き、福岡板付空港には十九時十分に到着する。 つまり、二月六日の夜七時十分には福岡に着いているのである。 門司の和布刈神社の神事は、刑事の話だと、二月六日の深夜から翌七日の未明にかけてあ たみ
時間の習俗 彼はもう一度時刻表に眼をさらしたが、これはと思う発見はなかった。やはり峰岡周一は 福岡に十九時十分に到着したあとで、東京に引きかえしたはずは絶対にな、。 しかし、三原は、ふと、ここで気がついたことがある。 それは、部下の者が峰岡が羽田発十五時の日航機に乗ったことを確かめてはいるが、彼が 門司の和布刈神社の神事を見物したという証拠が取れていないことだった。 なるほど、峰岡は七日の午前八時には小倉の大吉旅館にはいっている。が、福岡板付空港 に六日の夜七時十分に着いた峰岡が、翌七日の午前八時に小倉の宿にはいるまでの間の裏づ けがとれていないのだ。この間、約十二時間五十分の余裕がある。もちろん、これは博多・ 門司・小倉間の交通時間を含めてである。 一方、相模湖で土肥武夫が殺害されたのは、六日の午後九時過ぎから、死体発見の十一一時 までの間だ。もっとも、解剖した監察医の所見では、午後九時から十時となっているが、も とより、絶対正確とはきめられない。 しかし、とにかく、午後九時から十一一時の間が相模湖畔の犯行時間とすれば、峰岡周一は 絶対疑惑の圏外にいる。 あきら 三原警部補は、いったん、これを諦めかけた。 一つは、ほかに有力な容疑者が挙がらなかったせいで が、どうも気になって仕方がない もあった。 三原は思いきって、今度は自分が当の峰岡周一に会ってみる気になった。ほかの刑事をや
時間の習俗 「へたながらというのは、恐れいりましたね」 ふたり 両人は声を合わせて笑った。 「どうも、長い尸 、お邪魔をいたしました」 三原紀一は言った。 「ところで、最後にちょっとおうかがいしますが、あなたは小倉の大吉旅館を出て、すぐ福 岡に行かれたわけですね ? 」 もら 「そうなんです。あの電報を貰ったものですから、もう、おちおちと旅館になどいられませ ん。私はそこを早々に引きあげて、博多に汽車で行ったわけです。そして、大東商会で約一 時間ばかり話をして、十六時三十分の《あさかぜ》に乗り、翌日の九時三十分に東京へ着き ました」 峰岡周一はすらすらと答える。 「あ、その電報のことなんですがね」 三原は言った。 「東京から小倉までは、直通の電話がありますね。電報を打たれたかたは、どうして電話を おかけにならなかったのでしようか ? 三原は、自分の抱いている疑問を言った。 「それはですね」 と、峰岡周一は眼を細めて答えた。
日本美術史に光彩を放っ川人の名匠たちの生 松本清張著月況日 , 不 ~ 云身の人間像を創造し、彼らの世俗的な葛藤を、 共感を伴いながらも冷静にみつめた異色作。 不具で孤独な青年が小倉在住時代の外を追 松本清張著或る「小倉日記」伝究する姿を描いて、芥川賞に輝いた表題作な 芥川賞受賞ど、名もない庶民を主人公にした名作肥編。 朝鮮戦争のさなか、米軍黒人兵の集団脱走事 松本清張著里地の△広件が起きた基地小倉を舞台に、妻を犯された 男のすさまじい復讐を描く表題作など 9 編。 西南戦争の際に、薩軍が発行した軍票をもと に一攫千金を夢みる男の破滅を描く処女作の 松本清張著西 「西郷札」など、異色時代小説肥編を収める。 逃れるすべのない絶海の孤島佐渡を描く「佐 松本清張著 4 生」度大儿人一丁渡流人行」、下級役人の哀しい運命を辿る「甲 府在番」など、歴史に材を取ったカ作ⅱ編。 平凡な主婦の秘められた過去を、殺人犯を張 松本清張著張→込み込み中の刑事の眼でとらえて、推理小説界に 新風を吹きこんだ表題作など 8 編を収める。
時間の習俗 125 万事はそのあとだ。三原はコ 1 ヒーの残りを飲んだ。 しかし、ふと、ここでまたかねての疑問が頭をもたげてきた。例のフィルムのことだ。 峰岡周一が西鉄の駅前に立っていたことはそれでいいとして、まだわからないのは、フィ ルムに残っている和布刈神事のネガだった。 これが彼の絶対のアリバイとなっている。フィルムの撮影順序からすると、彼は完全に二 月六日の夜中から七日の明け方にかけて和布刈神社の境内に立っていることになる。 だか、もしや、この部分だけは他人の撮影ではあるまいか、という疑惑が起こる。つまり、 ここでも協力者の存在である。 峰岡と、その協力者とがあらかじめ打合わせをしておいて、協力者が峰岡のカメラを持っ そうてん て和布刈神事の撮影に向かう。この場合、フィルムは峰岡が撮影した分をカメラに装填した まま使用する。共犯者はそこで八枚の和布刈神事をフィルムに撮るのだ。 峰岡は相模湖の凶行を終えて、七日午前一時半発のムーンライト号で羽田を発ち、五時十 分に板付に着く。協力者は峰岡の到着を門司か小倉かのいずれかで待つ。旅客機を降りた峰 岡が博多駅から列車で小倉に到着するのは、七時か七時半ごろであろう。ここで協力者と峰 岡との間にカメラの受けわたしが行なわれる。峰岡はそのカメラを持って八時ごろ小倉の大 吉旅館にはいり、残ったフィルムのコマで、旅館の係女中を撮影する。 こういうふうに考えると、きわめて整然とフィルムの種明かしができるようだ。 しかし、問題は、その協力者の存在である。これは峰岡のアリバイを立てるために協力し
時間の習俗 わけですね ? 」 「そのとおりです」 「そのとき、東京から土肥さんが死んだという電報を受けとられたわけですね」 「そうです。わたしが刑事さんにお話ししたとおりです」 「ははあ。そこで、峰岡さん、ちょっとうかかいたいんですが」 と三原警部補は接待煙草を一本指先につまんだ。 「あなたに、その電報を打ったのはどなたですか」 まなざ 「それはですな」と、峰岡は静かな眼差しで言った。 「うちの宿直員です。私が九州の小倉の旅館にはいっていることを知っているものですから、 土肥さんの死を知ってすぐに電報をくれたんです」 「それは、あなたと土肥さんが親しいことを知っておられたからですか ? 」 「そうなんです。あの人とはよく飲んでいましたからね。それに、宿直員はその日の朝刊の 記事を見て、びつくりしたようですね。普通の死に方でなく、殺されたんですから」 三原紀一は、なるほどそうかと思った。彼もその朝刊の記事を読んだ記憶がある。朝刊が 配達されるのは、六時か , ハ時半ごろだろう。それから小倉に電報を打てば、ちょうど九時ご ろに間にムロ、つ。 相模湖で死体が発見されたのは前夜の十二時過ぎだから、新聞社がそのニュースをキャッ チしたのは、七日の午前一時ごろと思われる。すると、朝刊の最終版締切にはぎりぎりに間
時間の習俗 しかし、神官が海に降りている間が、この神事の絶頂だった。これが過ぎると、見物に集 まった群れもしだいに境内から引いてゆく。夜が白みかけて、沖の満珠・干珠の島影がほの さんけいにん かに見えてくるころは、参詣人もずっと少なくなってしまう。 うたげ あとは、社務所などでお神酒を汲みかわす宴や、歌会や句会の人群れが残っているくらい なものだった。 バスは夜を徹して動く。三時を過ぎると、逆に和布刈神社からの客を門司港駅に運んでい 小倉、八幡、戸畑、若松の北九州はいうにおよばず、福岡、熊本、大分の方からも、この 夜の神事を見るために、わざわざ来る旅客もあったのだ。のみならず、遠く、東京、大阪方 面の人も少なくはない。 和布刈神事を見て帰る人びとは、例外なく顔が紫色になっていた。一晩中、潮をまじえた 玄海の寒風にさらされていたからである。 その日の、朝八時ごろだった。 だいきち 小倉駅の近くの大吉旅館に、一人の客がはいってきた。三十七八ぐらいの年配に見えた。 黒っほいオー ーを着、茶色の大型トランクを提げ、肩にカメラ ・バッグをかけている。自 動車ではなく歩いてきたのである。 「いらっしゃいませ」 やはた
時間の習俗 制は峰岡周一もいっしょだったと考えなければならない。 鳥飼の頭には一つの想像が浮かんでいる。 被害者の青年が和布刈神事の撮影フィルム入りのカメラを渡したのは、門司でも小倉でも いいのだが、 とにかく、小倉の大吉旅館には峰岡が午前八時ごろにははいっているのは確か なので、カメラはそれ以前の時間に手渡されたとみなければならない。 青年はそのまま福岡に出発する。大吉旅館には峰岡一人しか現われないから、この想像は、 まず間違いはない 女はどうしたか。 相模湖畔から逃走した女は、二月六日の夜は東京都内のどこかの旅館に泊まり、その翌七 日の午前中の飛行機で福岡に飛んだに違いない。彼女は峰岡に指定された福岡付近の場所で 彼の来るのを待ちあわせていたのだ。 この場所が旅館か、それとも別な所かは判然としないが、この場合、旅館と考えるのがい ちばん自然だ。和布刈神事の撮影を受けもった青年も、おそらく同じ場所に来たに違いない 一方、峰岡は大吉旅館で九時半ごろ東京からの電報を受けとり、相模湖畔で「交通文化情 報』の土肥武夫が殺されたことを知り、いや、知ったふりをして博多に向かう。彼は午後一 時に大東商会に現われる。これは鳥飼自身がそこの社員について確かめている。 たたず とふろうし その後、峰岡は、例の西鉄営業所の前に佇んでいるところを目撃されたきり、都府楼址に 遊びにいったという彼の話を除けば、どこに行ったかわからない。したがって、どう考えて