思い - みる会図書館


検索対象: 時間の習俗
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1. 時間の習俗

時間の習俗 「三原です」 あいさっ ふたり 両人は向かいあって挨拶したが、峰岡専務は愛想のいい商売人といった態度だった。 「お宅にはいろいろとお世話になっております」 かんかっ まゆ と峰岡は太い眉をあげて如才なく言った。しかし、それは交通課の管轄で、捜査課とは関 係がないので、三原は苦笑した。もっとも、タクシーの犯罪となれば別だ。 「実は、今日うかがったのは」と三原はすぐに用件を切りだした。「ちょっと、ご迷惑なこ とをおききしたいと思いましてね」 「ははあ、ど、つい、つことでしよ、つワ、 女の子がはいってきて、三原の前にケーキと紅茶を置いた。 「たいへん失礼なことをきくかもしれませんが」と、三原は誰もいなくなってから言った。 「われわれは犯罪を捜査している立場で、なんとか市民の皆さんにご協力を願わなければな らないのです。そこで峰岡さんにもぜひご協力を願いたいんですがね」 「私でできることなら」と、峰岡は微笑した。「どんなことでもいたします。いえ、 商売の方で警視庁にはご迷惑をかけていますから、このさい、幾分でもご恩返しができれば ありがたいと思っています」 「それをうかがって安心いたしました。理由をお話ししないとわかりませんが、実は私は、 相模湖で起こった殺人事件、つまり、あなたもよくご存じの、土肥武夫さんを殺した犯人を 追及しています。これは神奈川県警と協力になっていますが、まあ、私が警視庁側の責任者

2. 時間の習俗

時間の習俗 101 「今日なんかは外を歩いた方が気持がいいくらいです」 三原も言った。 「そうでしよう。かえって暖房の中の部屋が気持が悪いくらいですな」 あいづち 峰岡周一も相槌を打った。 「ところで今日は」 と、三原は切りだした。 「その散歩ついでにお宅の前を通りかかって、つい、お邪魔をする気になりました」 「そうですか」 たばこふた 峰岡専務は、自分で接待煙草の蓋をあけ、三原にもすすめて、一本を口にくわえた。 「それはよくおいでくださいました。もし、ご用があったならば、お電話くだされば、いっ でも参りましたのに」 「いや、そんなたいしたことじゃないんですよ。ちょっとばかりうかがえばすむことですか らね。実は、ばくも庁内にいるより外を歩きたかったものですから」 「そりやどうも。で、何か御用というのは ? 」 「たいしたことではありません。実は峰岡さんが二月七日に博多の大東商会にお寄りになっ たことは、前にもうかかいましたね。その後のことなんですか、気にしないでください。峰 岡さんの姿を西鉄の窓口で見かけたという人が現われましてね」 三原は峰岡周一の瞬間の表情を観察したが、相手は平然としていた。

3. 時間の習俗

時間の習俗 「はあ、事務机のたくさん縦に並んでいる引出しの一つに、それがはいっていました。峰岡 さんの手紙もことづかってきました」 三原紀一は、ずいぶん手回しがいいのだなと思った。フィルムは自宅にあるのではなく、 まるでこちらの行くのを待っていたように事務所に持ってきている。いやいや、これは自分 のカングリかもしれなし 、。会社の近くの屋で処理をさせ、フィルムはつい自宅に持って 帰るのが面倒くさくなって、机の引出しの中にほうりこんでおくのは普通ありそうなことで ある。 したがって、刑事がそれをもらいにいって、すぐその場で間に合ったとしても、不自然で はあるまい 三原紀一は、とにかくその封を切った。 「ご丁重なお手紙いただきました。捜査に携われる当局側としては、あらゆることに気を 配られるのは至極当然なことであります。この意味で、小生に和布刈神事を撮影したフィ ルムの提出の要請に対して、心からご協力するしだいであります。なにとぞ、該当のフィ ルムをご検討の上、ご用ずみになりましたらご返却願います。 峰岡周一 三原はフィルムのはいっている袋を取りあげた。

4. 時間の習俗

時間の習俗 に、やってるようですな」 「この和布刈神事というのは、俳句の方でも有名なんですか ? 「わりと知られています。そのことを主題にした秀句も、少なくはありません。私の記憶し ておけ らんじよ わぎ たもと ている限りでも、注連たれて和布刈の手桶岩にあり ( 蘭女 ) 和布刈禰宜二つの袂背に結ぶ ( 晴 ) というようなのがありますよ」 「それについて」 はいざらも と、三原は吸いつくした煙草を灰皿に揉みけした。 「峰岡さんは、今年の和布刈神事を見にいったということですが、お聞きになりましたか ? 」 「もちろん、聞きました。いや、聞くも聞かないもない。彼は私に、和布刈神事に行きたい か、どういうふうに行ったらいいカ、と相談しにきましたからね」 「ははあ。それはいつごろですか ? 」 「たしか、今年の一月の終わりごろだったと思います」 「私は峰岡さんにその句を見せてもらいましたが、そのよさがよくわかりません」 三原はわざと言った。 「そうですね、正直に言って、あの句は私もあまり賛成できないのです。しかし、当人とし ては、たいへんうれしかったようですよ。いろいろと、帰って話をしてくれました」 「福岡の郊外に都府楼址というところがあって、そこへも峰岡さんは寸暇をさいて見にいっ たということでした。それをお聞きになりましたか ? 」

5. 時間の習俗

時間の習俗 「筑紫俳壇の人たちば彼が境内で写したんです。あいで二十人ばかりおらしたでしような。 もちろんこっちの方は夜が明けてからですばい。彼の説明だと、夜通し神事を拝観して、社 務所でひと休みし、十時ごろにその撮影をしたと言うとりました」 「なるほど」 とどろき 刑事は胸の轟をおさえながら、手帳に克明にメモした。 えがら 「で、その神事の写真は ? と、彼は性急にきいた。「どんな絵柄だったか覚えています カワ・ たいまっ 「覚えとります。神主さんが海の中にはいって、一人は桶ば持ち、一人は松明ば持ちんさっ て、もう一人は海にしやがみこんでいる写真でした」 もら 「あなたは、その写真を梶原君から貰いましたか ? 」 いえ。ぼくはそんなものにはあんまり興味がなかですけん。見せてもらっただけでその 場で返しましたやな」 「写真は : : : つまり、神事の写真は四枚でしたか、五枚でしたか ? 「ばくが見せてもらったのは、たしか五枚だったと思いますばってん、そのほかにもたくさ んあったと思いますやな。なにしろ、カメラ道楽の彼のことですけん、二三本のフィルムは たつぶりと使ったでしような」 ・ : 梶原君は、写真の現像焼付はどこかの屋に頼むんです 「ちょっと待ってください :

6. 時間の習俗

時間の習俗 111 「俳句 ? 「あとでお目にかかって、詳しくお話ししたいと思います」 三原は相手の不安を拭うように、できるだけていねいに述べた。 警視庁と駿河台とは、タクシーを飛ばせば二十分とかからなし辛自 、。釜市屋は、峰岡周一が言 ったように神田からの坂道をお茶の水の駅の方へ上がる途中、右側に折れた角にあった。経 こっと - っ 師屋としては高級な方らしく、店の構えも、骨董商を思わせる上品なしつらえであった。 江藤白葉は、五十四五ぐらいの、真っ白い頭をした男だった。彼は職人の働いている仕事 場の横を案内して、三原を店続きの客間に通した。白葉は大きな鼻と、落ちくばんだ眼とを 持っていた。 あいづち 三原は世間話をしばらくしたが、白葉は相槌を打ちながらも、見当のつかない三原の用件 かすかな不安を顔に現わしていた。 「ところで今日は電話で申しあげたように、俳句のことをうかかいにきたのですが : : : 」 三原は切りだした。 「それは、私に俳句を教えろということですか ? 」 と白葉はききかえした。 、え、そうじゃありません。だんだんお話ししますが、江藤さんは『荒海』という俳誌 を主宰していらっしやるんですね ? 「はい、そうです」

7. 時間の習俗

時間の習俗 まっていた。 大島は、そこの職員の案内で工員の宿舎へ行った。事務所の裏側がかなり広い敷地の工場 になっていて、アパートはその隣接地にある。この会社はおもにハム、ソーセージなどを製 造していた。 従業員は八十人ぐらいということだったが、その約半分は市内からの通勤者で、遠い所か ら来ている工員だけが会社直営のあまり上等でない寄宿舎住まいをさせられていた。六畳一 間ぐらいで食堂は別に付いている。この寄宿舎まで設備が回らないらしく、境のところどこ かたすみ ろは剥げおちている。廊下の板も片隅が浮きあがったりなどしている。 退社した梶原武雄の最も親しい友人というのを職員が連れてきてくれたが、それは彼の隣 りの部屋にいる二十五 , ハぐらいの青年だった。ちょうど、午後三時の休憩時間にはいってい たが、大島は、会社側の計らいで山岡というその若い工員とたつぶり話しあうことができた。 「あなたは梶原武雄君と仲がよかったそうですか、いま彼がどこに行ってるかはご存じない んですね ? 」 大島は質問をはじめた。 「ええ、 いっこうに知らんです。梶原君は私には大川に帰ると言うとりました。そのあと手 紙もくれないので、どげえしとるのかと思うとった矢先です」 ぶしようひげ ぼくとっ 山岡は、無精髭を伸ばした顔で朴訥そうに答えた。仕事の途中のせいもあったが、あかぬ けのしない黒い顔をしていた。

8. 時間の習俗

時間の習俗 を調べる手段はなかった。 現場は、この死体を埋めるために約三十センチばかり土が掘られている。その上に落葉や 枯草を掛けているところをみると、冬の犯罪だったことはわかる。被害者の服装、手袋、死 体の変化もことごとく二カ月前の二月の初めから半ばまでという推定と合致していた。その 死体を大の付属病院に運んで解剖した結果も推定殺害時日に矛盾はなかった。 ここは昼間だとわりに人目が多い。近所には散在部落があるし、築堤の切り通しには鹿児 つくしこくぶん 島本線も走っている。もっとも、往還はずっと南の山寄りになっていて、その辺は筑紫国分 とふろうし くるめ 寺址、都府楼址、観世音寺とつづき、久留米街道となっている。 犯罪はどこで行なわれたのであろうか。 現場付近には道幅は狭いが、県道も通っている。だから、ほかの場所で殺して死体を車で かっ 運び、この築堤に担ぎあげることは可能である。 もう一つは、被害者をこの築堤の上まで誘ってきて、そこで殺すことだ。 ふつかいち たいせい 二日市署に置かれた県警の捜査本部の意見は、あとの場合の説に大勢が傾いた。現場で農 婦が拾った婦人用の冬手袋からの推定である。 もっとも、この片方 ( 左 ) の手袋がこの犯行に関係があるかどうかはわからない。それは、 手袋の主が死体のことには気づかずに犯罪現場へ来たという場合も考えられるからだ。 しかし、これは、次の推定によってかなり犯罪に密着したものだと思われた。 手袋が冬もので、数度となく雨に打たれて汚れている。試みに福岡気象台に照会してみる

9. 時間の習俗

時間の習俗 お祭りだけを見にいらっしやるのは、よほどのことでしようね」 「まあね」 「和布刈さんのお祭りは、東京でそんなに有名なんですか ? 一部の人だがね。つまり、あれをわざわざ見にゆくような人 「一般がそういうんではない。 は、俳句だとか和歌に趣味のある人だ」 だんな 「じゃ、旦那さまも、俳句か和歌をお作りになるんですか ? 「まあそういうところだな」 客は眼をこすった。 「おかげで、だいぶ暖ったかくなったよ。身体がこう暖ったまってくると、今度は眠気がさ してきた。昨夜は、なにしろ、一晩中、あそこで立っていたんだからね」 「そりやお眠いでしよう。すぐお床をのべましようか ? 「そうしておくれ。ぐっすりひと眠りしたい」 「はい、はい。では、これから湯たんほを暖めてきます」 女中が床を敷いている間に、客は縁側の籐椅子にすわって、中庭の方を見ていた。 「いい庭だね」 とういす

10. 時間の習俗

時間の習俗 「じゃ、先に庭に降りて待ってるよ」 と客は立ちあがった。 「でも : : : 」 いいよ。さあ、すぐいらっしゃい」 客はカメラ・ ソグを開いて 0 カメラを取りだした。それは真っ黒い皮だった。 「そんなものを持ってまわっていらっしやると、重いでしよう」 文子という女中は眼にとめて言った。 やっかい かっ 「ああ、厄介だね。だが、カメラが道楽でね。つい こんなものを肩に担ぐ。昨夜だって和 布刈神社まで行って、あの行事を撮ってきたのだ」 「暗くっても撮れますか ? 」 「いや、フラッシュで撮ってきたんだよ。そうだな、そのフィルムがまだ半分残っている。 それを君のポートレートに使おうというんだ」 「あら、もったいないですわ。そんな神さまの続きにわたくしなんかが写ったんじゃ」 「いいよ。早いとこして、すぐ来なさい 客は廊下へ出て、階段を降りた。 背の高い、小太りの男で、柔和な顔である。 客は庭下駄をつつかけて、庭石を覗いたり、植込みの木を見上げたりしていた。まだ眼が 眠そうだった。