時間の習俗 223 「こういう人がここに働いていないかね ? 稲村は写真を取りだして見せた。いちばんにマュミという男がそれを奪って、自分の眼の 前にかざした。 「まあ、いい子じゃないの」 「あら、あたしにも見せて」 四五人の若い男がその写真のぐるりに群れた。 「どうだね、そういう子を知っていないか ? 」 「あら」と、一人が叫んだ。「これ、芳子じゃないの ? 稲村の正面にすわっていた陽子が、 「本当だわ、芳子だわ」 と、それにつづいた。 見ている連中の中にも同じ声が起こった。 稲村も、隣りの大島もその連中の顔をじっと見ていた。 「芳子さんというのは、ここに働いていたのかい ? 」 旧すはさり・げなくいた。 ちょうちょう 、え、芳子は中村の″蝶々〃にいる子ですわ」 「君、知ってるのか ? 」 削にこの店にたびたびお客さんといっしょに遊びにきたことがありますわ」
時間の習俗 226 警視庁に帰った稲村と大島とが三原警部補に報告した。 すがいしんたろう 「 " 蝶々〃から行方不明になっている芳子こと本名須貝新太郎は年齢二十五歳です。本籍は 北海道の方ですが、アパートは名古屋市中村区松原町 xx 番地で、ずっと独り暮らしでした。 もう、ここには三年前から住みついているそうです」 「 " 蝶々 / には、 ) しつから勤めていたんだ ? 」 よく太った、三十五六の、丸髷の女が出てきた。これは駅裏の栄子よりも女になっている。 「黙って休んだまま連絡がないもんですからね」 ほおぼね 顴骨の出たマダムは男の地声で言った。 「芳子のアパートに二度ばかり店の者を行かせてみたんです。すると、三日ばかり郷里に帰 ってくると言って出たきりだそうです。それは口実で、三四日、どこかの客をくわえてのう のうと温泉にでも行ってるものだとわたしは田 5 っていましたよ」 もど 「それきりアパートには戻らないんだね ? 」 「へえ、そうです」 刑事はそこに腰を落ちつけた。 三原はきいた。 「一年ぐらい前からだそうです。本人はその前、喫茶店のポーイや、 ーテン見習などやっ
時間の習俗 216 「ああ、高田あたりだな」 つぶや と、稲村は走る風景に眼をやって呟いた。 「ほう。よくご存じですね。稲村さんは ~ 四十五歳の稲村は眼尻に皺を寄せて、 「この辺は、若いときによく歩いたからね」 「なんでですか ? 「いや、お寺まわりをしたことがある。ずいぶん前だが、あのころとあまり違っていないか らね」 とあくびをした。 うねびやま 「もうすぐ、畝傍山が右の方に見えてくるはすだ」 若い刑事に感興はなかった。 「稲村さん、名古屋には何時に着くんです ? 」 「さあ、あと三時間ぐらいだろうな」 「今度はうまく見つかるといいですがね。愛知県警の方には、係長から連絡が行ってるんで しようね」 「そりや行ってるだろう。だが、 あんまり他カ本願は当てにできない」 「そうですな。やつばりわれわれみたいに本気になってくれないでしよう」 めじりしわ 、削にこの辺に住んだことがあるんですか ? 」
時間の習俗 218 くらのすけやましな 「大石内蔵助が山科閑居で牡丹作りをしていたが、あれはこの長谷から根を持ってきたんだ よ。昔は有名だったんだ」 「ああ、そうですか」 あきら 今度は若い刑事があくびをした。稲村は説明を諦めて口をつぐむ。 大島は居眠りをはじめた。 若い刑事が眼をさましたのが伊勢中川だった。 「これから名古屋までどのくらいですか ? 」 皮は眼をこすりながらきいた。 「そうだな、あと一時間半ばかりだろう」 「こうしてみると、ずいぶん長く乗るもんですね。稲村さんはずっと眼をさましていたんで すか ? 「まあね : : : ばくはここへ来るのが十年振りだからね。やつばりなっかしい」 「腹が減りましたな」 ひ 大島は初めて窓の方を向いた。夕暮れが迫って、人家には灯が点いている。 「もう少しの辛抱だ」 「ねえ、稲村さん、こうして沿線の家がタ食をはじめているのを見ると、自分の家のことを 思いだしませんか ? 」 「ど、つい、つことだね ? 」 せなかがわ っ
時間の習俗 222 「君たちも飲みなさい」 「あら、うれしい ちそう 「すてきね。あたし、ここんところ、お客さまにご馳走してもらったことがないから、とて もありがたいわ」 「君はなんという名だい ? 」 稲村は正面にいるほっそりとした男にきいた。二十二三ぐらいだが、 これが眼を細めて、 ようこ 「陽子といいますの」 と、嬌態をつくって答えた。 「あら、陽子ばかり名前をきくなんて、妬けるわ。ねえ、あたしにどうして名前をきかない あご ひげそ その男は三十近いが、顎に濃い髭剃りの跡がある。 「失敬。君はなんという名だ ? 」 「マュミと申します。どうぞよろしく : ・・ : まあ、うれしい その男は稲村の片腕に抱きついてきた。 「ここでは美人はこれだけかね ? いえ、まだたくさんいますわ。休んでる人もいますの」 「休んでいる人は何人ぐらいいるんだね ? 」 「そうね、五六人じゃないかしら」
時間の習俗 214 「明日の今ごろに取りにきてください」 翌日、三原は一一人の刑事を呼んで五十枚の写真を手渡し、すぐに大阪出張を命じた。 課長の了解は昨日のうちに取ってある。 名古屋のバ 二日経った。 大阪に出張した捜査員一一人から電話で報告がきた。稲村と大島の両刑事だった。 「どうも、うまい手かかりがありませんでした」 年上の稲村が三原警部補に伝えた。 てんのうじかいわい 「さんざん、それらしいところを歩きまわったんですがね、飛田のあたりから天王寺界隈の ジャンジャン横丁のあたりのゲイ・ バーは、シラミつぶしに歩きました。これから足を伸ば して神戸の三ノ宮あたりに行ってみましようか ? 」 「そうだな」 三原は考えて、それをやめさせた。 とびた
時間の習俗 224 「前というと、いつごろかね ? 」 「そうね、もう半年ぐらいになるわね」 彼は同僚に確かめるように言った。 「そうね、そのくらいになるわね」 「それからこっちはどうなんだな ? 」 稲村は胸をわくわくさせていた。 「そういえば、ちっともこのごろは来ないわ。どうしたんでしようね」 「じゃ、半年前に来ただけで、そのあと芳子さんはここに現われていないわけだね。誰かこ の " 蝶々一の店に行 0 た者はいるのかね ? 「わたしあるわ」 後ろから新しい声か聞こえた。 「あら、ママさん、お早うございます」 としま おおまるまげ 四十ぐらいの年増女 ( ? ) が、派手な女の着物に赤い帯をつけている。髪は大丸髷だった。 ほかの男たちがママのために席をあけた。彼女はゆっくりと稲村にならんですわった。 「いま、このかたがね」と、マュミがその写真を彼女に見せた。ママは、厚化粧の顔を写真 おしろい にうつむけた。ちょっとした動作でも女が出ている。咽喉が太く、白粉を塗った手の指もご つごっしていた。 「あら、これ、芳子じゃないの」
時間の習俗 215 「名古屋に行ってくれないか。少し日数はかかってもかまわないからね、丁寧にあたってほ 「わかりました」 「まだ写真はあるだろう ? 「二十枚ばかり残しておきました」 「それで十分だろう。大阪の方は、あとの連絡は頼んでおいたね ? 「あとから何か出たら、直接に大阪府警察本部から東京へ連絡するはずです」 「それでいいだろう」 「では、これから名古屋にまいります」 「ご苦労さん」 刑事二人は三原の指令どおり名古屋に発った。 稲村刑事はもう一一十年も警視庁に奉職している古手だった。大島は二十七だった。 うえほんまち 二人は上本町から名古屋行の急行に乗った。二日ばかり大阪の盛り場を歩きまわったので、 旧村は車中にはいると居眠りをはじめた。 「ここはどこだね ? 稲村は寝息がやむと、ふいと首を起こして窓の外を見た。電車は山岳地帯から平野の中を 走っていた。 「さあ」大島刑事が見当をつけかねていると、
時間の習俗 めてだから、西も東もわかりませんでな」 「お安い御用です」 稲村と大島の両刑事を呼んで、ざっと簡単に話をすると、 「鳥飼さんに詳しく話してあげてくれ」 と言いつけた。 「やあ、お世話になります」 若い刑事にも鳥飼は頭が低かった。 鳥飼と、彼の連れの若い刑事と四人は席を移して打合わせにはいった。稲村は出張のとき 買ってきた名古屋市内の地図をひろげたりしている。鳥飼なら名古屋の方をまかせて大丈夫 だった。峰岡と須貝の関係を立証する有力な手がかりをつかんで帰るかもしれなかった。い や、その期待は十分にもてそうである。 しかし、と三原は考える。 たとえそれがわかったとしても、もう一つの壁があった。峰岡が相模湖の殺人事件の現場 には絶対にいなかったという例のフィルムの証明だった。 めかり 和布刈神事の写真は誰が写したのか。もとより須貝ではない。またほかに共犯者があろう とも思えない。峰岡が独りで操作するにしてもこれは時間的に間に合わない 峰岡が撮影したのではないとすると、あの神事は誰かが撮影したことになる。共犯者がな ければ峰岡の撮影となるが、これは時間的には絶対不可能だ。それなら複写が考えられるが、
時間の習俗 219 よそ 「いや、ほくはですね、他人の家が家族中で集まって飯を食っているのを見ると、女房の奴、 今ごろ飯の支度をはじめてるだろうなと思うんですよ。日ごろはそうは考えませんがね、タ 食どきだけ里が恋しくなるんです」 「そうだろうな。しかし、君、まだまだ序のロだよ。名古屋は三日ぐらいかかるかもしれな いね。君は、あと三回ほど奥さんの夕食支度を想像しなければならないわけだ」 名古屋にはいると、完全に日が暮れていた。駅の構内の食堂にはいった。 「稲村さんは、名古屋の方は詳しいんですか ? 「そう詳しくないが、われわれが行くだいたいの見当はつけておいた。この駅の裏の方がそ うらしいんだ」 「それは便利がいいですな。降りたとたんに場所が近いというのはありがたいですよ。とこ ろで、宿の方は早いとこ手配しておかないと、また断わられて迷いますからね。宿さえ確保 しておけば、どんなに遅くなっても安心です」 「まあ、なんとかなるだろう。いよいよだめなら、その辺の百円宿にでも泊まるさ。その方 がかえって調べるのに便利かもしれない 「ちょっと待ってください」 若いだけに大島の方が先に食事を終わった。ふいと立ちあがって食堂を出ていったが、や がて絵葉書を手にして帰ってきた。 つまようじ 稲村か茶を飲みながら爪楊枝を使っている横で、大島は絵葉書に何かしきりと書いていた。 やっ