にシーズンの途中から劇場に飛びこんだ形ですが、もともと″順応性が高いんのと、劇場内 の仲間にも大変恵まれ、毎日楽しく練習に追われる日々が始まりました。 劇場の規則と″飛びこみ〃 日本のオペラの練習にいては、私が経験した限りでは本番までローテーションがほとん ど一ヶ月分以上きっちりと組まれていて、大体その通りにスケジュールが運んでゆくのに比 べ、ドイツの劇場では、練習の進み具合、他の作品との兼ね合い、練習場所の可能性、等様々 なことが考慮されながら、一日毎にその翌日の練習予定がたてられてゆきます。ですから突 然一日空くこともありますが、基本的には、いっ練習の予定を組みこまれるかわからないの で、いつも劇場の為に時間をフリーにしておかなければならないわけです。一週間先の自分っ 入 個人の予定がなかなか簡単にたてられない状態というのも初めてでしたし、何にもましてま 場 ず劇場の仕事が優先してゆくというのも、頷けることながら、目新しい経験でした。突然の ム コンサートや他の劇場の仕事を受ける為には、実際自分の予定が空いていたとしても、そのの 時間を正式にフリーにしてもらう為の劇場側からの許可書が必要ですし、ましてや三日以上
人の女性デスデーモナは無骨な黒人オテロに対して、ロマンティックな愛情表現においては、 彼より巧みであるはずだ、というのが先生の言葉でした。練習を何度繰り返しても上手くゆ きません。相手に顔が近づくと無意識に私の体中が強ばるのだそうです。顔を相手と同じ方 向に傾けたりして笑われもしました。〃もっと体中がトロリとして″】〃と何回言われたことで しよう。周囲の人達には冷やかされるし、上手くいかないしで、到々最後の通し稽古までき てしまいました。皆が〃サア今日こそ〃と待ち構えていますし、鈴木先生も全く容赦があり ません。プロなら本番だけでもし ) いけれど、そうでなかったら練習の時にちゃんとしておか なければダメ、と言われて私は意を決し、トロリどころかェイヤッ / 正直に言って、全く 大変妙な気持でした。その日練習が終った後、余りにも周囲の仲間達にヒャカサレタので、 思わず涙を浮かべてしまったのは、いつの間にか二期会の中では語り草になったそうです。 実はこれには後談があって、《オテロ》が終ってもう何カ月も経ったある時、鈴木先生が〃し かし、あの時よくやったね〃と言われたのです。ハアと目を見張った私に先生が語って下さ った〃特別な理由〃とはーーー勿論物語の解釈上ということはあったけれども、別にその為だ けになら、何もわざわざ観客に示す形をとることもなかった ( 後で考えてみれば、実際舞台
を相好をくずして面白そうに他の人に話すプライ氏の姿は大変愛すべき男性 ( 失礼 / ) とし て私の眼に映りました。 何十年もの演奏歴を経たプライ氏でも、アガル時、アガル場所というのがある様で、自分 の生まれ故郷ベルリン、あるいはザルップルク音楽祭、カーネギーホール等のコンサートの 折は、やはり不断よりずっと緊張感が強いとか、同じ歌を職業とするものとしてこういう大 先輩からそんな話を聞きますと、なんだかホッとして嬉しい気がしてしまいます。また、も う一点、同じ歌い手としての立場から、驚きの目を見張り感嘆せざるを得ないのは、プライ イ 氏の音楽に対するエネルギーです。本番の日の午前中、またその翌日の午前中も必ずと言っ プ ていい程練習を欠かしません。それもほとんどの場合、他のプログラムの練習をしています。 ン マ 私などはまだまだ精神的余裕と実力が足りないせいで、本番の日はやはり当日演奏するもの に注意と気持ちがさらわれ、なかなか気分的に他の曲の練習が出来る状態にはならないのです像 ヾゝ 0 青 カ の 彼の頭の中にはオペラの役以外、おそらく二十程の様々なリサイタルのプログラムが常に 用意万端の状態にありますが、そんな中でのプライ氏のオハコはと問われますといささか困
余りの真剣な演技に , 練習中ニ本も金のネックレスが引きちぎられました /
か。また練習にいて一音たりとも気の抜けた音を弾こうものなら納得のいくまで何回でも 繰り返させられ、時にはかなり辛い想いもするそうですが、それでもこの九年間にわたるプ ライ氏との演奏経験が自分にもたらした音楽的影響にはとても言葉には言い尽くされないも のがあると言っています。時折意見の相違もある様ですけれど、最終的にはやはりプライ氏 の音楽に対する本能的な勘と、長年にわたる豊富な経験から出てくる確信の方がどうも的を 射ていることが多い、とポャいたりも致します。 ところで、こうした厳しい練習の後や演奏会後のプライ氏は、本当に陽気なサニーポーイ そのままで、ドイツの酒場やレストランに入れば様々な人が話しかけてきますし、彼の住む ミュンヘン郊外の店にいては、隣近所のテープルから′ ヘルマン ! 〃と気軽に 声がかかります。いっぞやこんな場面に出くわしたこともありました。 , 彼の行きつけの一杯 飲み屋さんの隣のテープルで四、五人の″地元民〃がトランプをして遊んでいます。のぞき こんだ彼が〃何やってんだい ? 僕にも覚えられるかネ工 ? 〃と言いますと、チラリと見上 げた一人の熟年の男性、「アンタの頭がそれ程バカじゃないンなら、三時間もありやマアマア だね。〃「宮廷歌手」と「一般市民」の親し気な言葉のやりとりもさることながら、その様子
へ ン 〃先生とは呼ばないで下さい〃 シ ス 昔から外国に留学することに何とはなしの夢を抱いていましたが、大学院に入った頃から、ら その " 何とはなし。が少しづ固まりつつありました。ただ具体的なことになると、何も見当代 がっかないというのが実情でしたから、私の両親も様々なことがはっきりするまでは、留学 業 修 ということに対して余り実感がなかったかもしれません。オペラを歌ったり、少しづっ他の コンサートの経験も出来てきましたが、やはり自分の勉強の何かが、どこかが違う様な気も は遠いので、そんな細かい処まで見えることはほとんどないはずです。 ) ただ、私の中の何か を振っ切らせる為に最後まであのシーンにこだわった、ということでした。ふと目の覚める 想いと共に、私の心の中は感謝の気持ちで一杯になりました。確かにあの最後の練習の一日 を境に、自分の中で変化したものがあったのです。何かの役に取り組んでゆく場合、無意識 のうちに自分に抵抗感のないきれいな部分だけで終らせず、自分にテラウことなく役に向か っていってみる姿勢の大切さ、そんなものを未熟ながら肌で感じとった様な気がしたのでし
歌で、聞いた人が何という歌です力しし。 ゝ、 ) ゝ歌ですねえと一言う歌なの。だから、サメも絶対 あれを歌ってほしい。 ーーー私はでも、一人で歌うのすごく上がるの。 私だって上がるわよ。 ( 笑 ) 練習も兼ねて、上がらないように、すごく孤独との勝負だ から、上がらないようにというので、お祭りだろうがどこだろうが、どこでもあれを歌っ ていたの。そうすると、結局レバートリーになってくるんです。 ーーー私は日本歌曲はレコードから始まったから、レコードで入れた歌はほとんど私達が小 よ 話 対 さい頃からずうっと知っている歌でしよう。だから、それからレバートリーをふやしてい る あ くというのはすごく大変なんです。 <—サメも自分の雰囲気が生かせるような歌を、テレビなどへ出るとき必ず一曲はそれをて っ 歌うということにすれば、ちょっと日本歌曲というのか、洋楽に近い歌でヒット曲が生ま 曲 れるんじゃないかと思う。昔はラジオ歌謡とかでそういうのが毎月新しい歌があっても、 本 日 毎日毎日それを流せばわりとヒットしていたんだけれども、この頃はないから。 ーー今は回転が早い時代ですものね。それとリズムや何かが難しくなっている。
尊敬する友人に、私の歌う日本の歌がどう映るのか率直に何か言ってもらえれば、という思 いもありました。 結局は日本の歌に関する友人同士の雑談となってしまいましたが ーー恵子ちゃんが例えば《この道》を歌うときと私が歌うときと、発想の感覚のちがいと いうのがあるかしら。 < ーー発想も違うし、聴いている人も、受けとめ方がみんな違う《この道》を描いているん よ 対 じゃないかなと思う。私は《この道》を歌うときはやはり自分の故郷を思っちゃうわけ。 る あ それと、自分の母を思うし、自分の想像の中でその詩を自分の中に入れて歌うしかない。 ーー日本語の発声法というのは考えているの ? て っ < ーーー最初日本歌曲にとりかかった時期はすごく発声法のことをこだわったの。私は最初に 日本歌曲を歌った時にしばらくは、洋楽発声をずうっと習ってきたから、とりあえずいわ歌 ゆる洋楽発声の「アー」で発声練習を始めて、「ウー」も洋楽の「ウ」であったりして。そ日 れに日本語を当てはめるような感覚で歌っていたわけ。そのうちにだんだん逆になってき = = ロ
ゴレット》のチエプラーノ伯爵夫人という役で、やはり何小節かソロを歌うことになったり ということもありましたが、私にとって日本での本格的オペラは一九七五年七月、ヴェルデ イの《オテロ》でした。ある時やはり突然にオーディションを受ける様に言われて、オペラ を一本通して歌うことの大変さなど全く知らずにデズデーモナの《柳の歌》を歌い、何もわ からない新鮮さを買って下さったのか、この役を演ずることになったのです。戸田先生もち よっと当惑気味でいらして〃あなたにこのオペラ一本通して歌えるかしら、でもまだ何もや ったことないからわからないわよねエ・ / と心配しながら見守っていて下さっていた中で、 私自身はデズデーモナが全体を通してどんなに 声の面でもーー大変な役であるかなどま だ余り意識の中になく、ただ無我夢中で練習に取り組んでいました。自分の声が役にとって 大きいか小さいか、ぶ厚いオーケストラを通してとおるかとおらないか、そんな、オペラの 役を歌う上で基本的なことも考えもせずに、与えられた課題をプロの方達に混ざって一生懸 命こなしていたという感じです。 演出家が、私が大学時代よりずっとお世話になっていた鈴木敬介先生でいらしたことは、 私にどれ程大きな安心感を与えてくれたことかしれません。それまで何となく学生の一員の
ンの娘》というソプラノのアリアは私にはとても無理そうな為、オーディションを受けるこ とさえ考えもしなかったくらいです。 ところが大学院一年になったある日、学校へ行きますと、戸田先生が少し青い顔をなさっ てちょうど向こうから歩いていらっしゃいます。そしてー・ー・指揮の ( 故 ) 金子先生から前の 晩電話があり、横浜である《メサイア》のソプラノに是非私はどうかということ、芸大での オーディションさえ受けなかったのだからと、躊躇なさる戸田先生が翌朝学校へ来られると、 〃アナタ、どう 金子先生からのメモがあり、一一一一一口、〃サメジマさんにもう決めました。 / する ? 〃と心配して下さる戸田先生と共に、シカタナク必死の想いで大苦手なソプラノのア リアをさらい始めました。この時程、真剣な練習の大切さを身をもって知ったことはありま せん。何日か後、何とかこなせる様になり、戸田先生も少しホッとなさった笑顔で、〃意外に ワリと合いそうじゃないの〃とおっしやって下さいました。今では《メサイア》は私の大好 しつどこで歌っ きなレバートリーのひとつになり、愉决なことにこのソプラノのアリアは、ゝ ても平気な程全く自分のものになりましたが、金子先生指揮の横浜の《メサイア》がなけれ ということになっていたかもしれ ば、もしかしますと未だにこの分野には挑戦せずじまい