考え - みる会図書館


検索対象: 歌の翼に
8件見つかりました。

1. 歌の翼に

・ーー《曼珠沙華》のときは私の主人が、私が訳したドイツ語の歌詞で、意味はわかってく れたときに、あの子というのは絶対私生児か何かじゃないかと言いだしたわけ。それで私 が恵子ちゃんに話したら、やはり同じようなことを言っていてね。 < ーーーあれも難しいんです。柳Ⅱ ー , 。 / イたときは 、柳川の白秋研究家は、ゝ しや、そこまで考 えなくていいんじゃないですか、お墓に子供が取りに来て、女の持っている魔性と彼岸花 の赤い花と血の色と、子供なんだけれども、まだ七つなんだけれども、その女は魔性を持 っている、気をつけなさいというね。 よ 話 対 U) 、ーーじゃ、あの子というのは女の子なわけですか。 る あ < ーー・・・そう。そのつもりで、向こうの人はそんなに深い考えはなかったみたいなんです。と ころが、山田耕筰がつくったときは多分深い意味を感じとっていただろうと小島先生はおて っ っしやるんですけど。 ()D 。ーーでも、あの歌はもしかしたら白秋は全然そんな深い意味でつくらなかったかもしれな 本 日 いけれども、山田耕筰がもしも深く考えてつくったとしたら、やはりその不気味な感じが 9. 出なければね。

2. 歌の翼に

ゴレット》のチエプラーノ伯爵夫人という役で、やはり何小節かソロを歌うことになったり ということもありましたが、私にとって日本での本格的オペラは一九七五年七月、ヴェルデ イの《オテロ》でした。ある時やはり突然にオーディションを受ける様に言われて、オペラ を一本通して歌うことの大変さなど全く知らずにデズデーモナの《柳の歌》を歌い、何もわ からない新鮮さを買って下さったのか、この役を演ずることになったのです。戸田先生もち よっと当惑気味でいらして〃あなたにこのオペラ一本通して歌えるかしら、でもまだ何もや ったことないからわからないわよねエ・ / と心配しながら見守っていて下さっていた中で、 私自身はデズデーモナが全体を通してどんなに 声の面でもーー大変な役であるかなどま だ余り意識の中になく、ただ無我夢中で練習に取り組んでいました。自分の声が役にとって 大きいか小さいか、ぶ厚いオーケストラを通してとおるかとおらないか、そんな、オペラの 役を歌う上で基本的なことも考えもせずに、与えられた課題をプロの方達に混ざって一生懸 命こなしていたという感じです。 演出家が、私が大学時代よりずっとお世話になっていた鈴木敬介先生でいらしたことは、 私にどれ程大きな安心感を与えてくれたことかしれません。それまで何となく学生の一員の

3. 歌の翼に

ンの娘》というソプラノのアリアは私にはとても無理そうな為、オーディションを受けるこ とさえ考えもしなかったくらいです。 ところが大学院一年になったある日、学校へ行きますと、戸田先生が少し青い顔をなさっ てちょうど向こうから歩いていらっしゃいます。そしてー・ー・指揮の ( 故 ) 金子先生から前の 晩電話があり、横浜である《メサイア》のソプラノに是非私はどうかということ、芸大での オーディションさえ受けなかったのだからと、躊躇なさる戸田先生が翌朝学校へ来られると、 〃アナタ、どう 金子先生からのメモがあり、一一一一一口、〃サメジマさんにもう決めました。 / する ? 〃と心配して下さる戸田先生と共に、シカタナク必死の想いで大苦手なソプラノのア リアをさらい始めました。この時程、真剣な練習の大切さを身をもって知ったことはありま せん。何日か後、何とかこなせる様になり、戸田先生も少しホッとなさった笑顔で、〃意外に ワリと合いそうじゃないの〃とおっしやって下さいました。今では《メサイア》は私の大好 しつどこで歌っ きなレバートリーのひとつになり、愉决なことにこのソプラノのアリアは、ゝ ても平気な程全く自分のものになりましたが、金子先生指揮の横浜の《メサイア》がなけれ ということになっていたかもしれ ば、もしかしますと未だにこの分野には挑戦せずじまい

4. 歌の翼に

段々と一曲の歌を一つのドラマの、強いて言えば一つのオペラの凝縮された世界として捕え られる様になって、ひとつひとつ新しい世界を知り、作り上げてゆくことが大きな喜びとも なってきました。リサイタル等も多くなった現在、オペラか歌曲かという問いをいくら自分 に正直に投げかけてもはっきりした答えが返って来ません。勿論、舞台上でピアニストと全 く二人きりのリサイタルは、自分達だけでそのドラマの世界や映像を作り上げてゆかねばな りませんから、或る意味では演奏者にかかる責任がより重く、難しく、また、アガル割合が ずっとずっと高いのですけれども 詩人は自分の想いや考えのたけを言葉に綴り、作曲家はその世界を自分の感性の中の音楽 と結びつけて書き上げました。私達歌い手はそれに自分なりの色を彩って生まれ出るものを 聴いて下さる方に伝えます。ただ、装置も動作もカットされている歌曲の演奏の場合、私達 に何が残るでしようか。グリュンマー先生が私達生徒に厳しく要求されたもののひとつは、 立っている体の、そして顔、眼の表情でした。レッスンの度、何メートルか離れた場所に坐 られて、ひしと私達を見つめながら、繰り返す様にいつもおっしゃいました。〃悲しいと歌っ たら眼からもその悲しさが充分に伝わらなければダメ / み〃あなたの顔はまだ「歌を歌ってい

5. 歌の翼に

トの経験もあったせいか、録音することになっているほとんどの曲を知っていましたが、話 す日本語には不自由しないとは言え、一体どの程度日本語の詩やテキストに対して理解度が あるやもわからず、私はまず録音予定曲のドイツ語対訳を作ってみました。後になって考え てみますと、これは、彼にとってというよりも、結局は大変私自身の為になったのでしよう。 実際のところ、その時には私にはそれ程の意識はなく、ただ自分の〃ドイツ語の力だめし〃 のつもりで取り組んだのですが、高校での国語の授業以来ではなかったでしようか、これ程 真剣に日本語の詩と向かい合ったのは。日本語というのは、感性で捕える部分の大変多い言 葉だと思いますが、それを、普通の場合はひとつの主語の省略も出来ない非常に論理的なド ィッ語という一一一一〕語に置き換えてゆく作業の中で、無意識のうちに日本語の詩を必死に咀嚼し たのかもしれません。私のドイツ語訳の初稿はーー詩的に言い表わしてみたい等と分不相応 に欲張ったせいもあり 不適応な言いまわしや文法の間違いの為に、主人に〃一代のトン チンカン傑作。と何度も吹き出されましたが、何とか内容はわかってもらえた様です。 それから、或る意味では本格的な音楽上の〃勉強。が始まりました。主人からことある毎 に作曲家については問われ、 ノ ーについては問われ、特に有節歌曲の歌い方について

6. 歌の翼に

曲に近いものはやはり洋楽式発声で歌っているみたい。 別に意識をしないで。 ええ。ただ民謡風の歌曲とか邦楽調の歌曲はやはり大分意識している。だから、ビブ ラートを止めるために喉を下げておくとビブラートがついちゃうんです、自然のビブラー トが、洋楽のビブラートが。だから、喉を下げてリラックスしちゃうとビブラートがつい ちゃうから、次に揺りとかこぶしを入れようかなと思うとできないわけ。だから、民謡的 歌曲で例えば音韻を踏むのとかがあると、ノンビブラートがあって、揺りがあって、こぶ しがあってという音形がもうできているわけで、そうすると、止めるために喉をちょっと 締めて、ちょっと上げて緊張させて、こぶしのときにこうやって揺らしてというふうに、 それは民謡を習ってそれを意識している。私、『鶯』という曲を結婚式に呼ばれるたびに歌 っているの。 ーーーあれはアカペラで歌うんでしよう。 <—アカペラで歌うから、伴奏者との合わせもないし、一人でポッと行って、響かない場 所ならばマイクを置いておけるし、響く会場ならなしで、エコーみたいにすごく効果的な 188

7. 歌の翼に

ルームメイトのアメリカ人と一緒にドイツ語の宿題に手を焼くこともありましたが、何と 言っても忘れられない愉快な想い出がふたつ。ひとつはアメリカ人の十六、七歳の少女達に 〃センパイ″と見込まれてポーイフレンドやセックスの話を細々とされたこと、そしてもうひ とつは十五、六人でアーシャウという所へ〃散歩〃に行った時のことです。皆外国人同士、 ドイツ語がそれ程堪能でなかったせいもあるのかもしれません。確かに〃散歩に行く〃 ( シュ ハツィーレンゲーエン ) という言葉で誘われたのですから。でもそれだけでなく、東京で育 った私には、田舎の自然に対する想像力が欠けていたとでも言えるのでしよう。今でこそ、 振り返ると自分でも吹き出してしまいますが、とにかくその折私は〃夏に散歩に行く〃出でヘ 立ちでプリーンの駅に出向きました。サマーセーターに白いフレアースカート、あまり踵の 高くない白っほい皮靴ーーープリーンの駅で出会った他の仲間達は私をちょっぴり異様な目で し わ 見つめました。 美 レ」 ええ、と返事をしながら乗ったアーシャウ行きの電車の中で周りを見回すと、ジー スニーカー、日除け帽という観光客や仲間達、土地の人達はリュックサックに登山靴、ステ 〃ュミコ、その恰好でアーシャウに行くの ? /

8. 歌の翼に

場には審査の先生方と共に学生達が試験を聴くことも出来ますし、先生方が合格不合格につ いて挙手で意志表示をするのを " 見守って〃いることも出来るのです。これは期末試験や卒 業試験の折も同様で、何先生が誰。イ こ可点あげたということが全く公けにわかります。当然所 謂〃えこひいきみもあるわけですが、その〃えこひいき〃さえも堂々としていると言うべき なのでしようか。 声楽科の人数は学校全体で恐らく五〇人程だったと思います。私のゼメスター ( 学期 ) は 結局五人だけ合格しましたが、その年はたまたま他の学校の卒業証明書が認められた為、私 は、第一ゼメスターから始める十八歳のドイツ人の女の子とは違って、第五ゼメスター目かへ ッ ら入学することを許されました。即ち幾つか免除になった学科もあったわけです。第五ゼメ スターからの声楽の生徒には、それでも結構様々な授業が課せられていました。週二回か三 し 回にわたる専門の歌のレッスンの他、副科のピアノ、レバートリーを勉強する為のコレベテわ ーも イトールのレッスン、ソルフェージュ、二、三人ずつで習う舞台語発音法に加え、体操及び と ジャズ・ダンス、バレエ 、バロックダンス、パントマイム、フェンシング、歌曲講座にオペ ラ・アンサンプル、と本当に盛り沢山で、日本の音楽大学と全く異っていたのは、生徒は仕