傷。 た」し J い , フ 名投手沢村の生涯は悲痛というほかはない。中国戦線に二度召集され、左手を負傷。 帰国して徴用でびよう打ち工員、三度目の召集で台湾沖で戦死した。好きな野球に打ち こめるいまのプロ野球選手諸君よ、沢村の無念を忘るるなかれ。 『昭和史探索 3 』 昭和十一年の「国難」 一月五日、朝陽門事件ーー北京朝陽門内で鈴木大尉以下七名にたいして不法射撃。 五月一一十九日、輸送列車爆破事件ーー天津東駅にて貨車爆破、軍馬三頭負傷。 八月二十四日、成都事件ーー日本の新聞記者四名が大川飯店で虐殺される。二名が重 九月三日、北海事件ーー薬種商中野順三、理由もなく虐殺される。 九月十八日、漢ロ事件ーー吉田巡査が暴徒に射殺される。 てんしん
日中戦争に倦んできて 昭相十五年の群集心理 7 日中戦争の四年半で 昭和十六年一月の示達、戦陣訓にこうあった 昭和十六年舂、石原莞爾の予 = = ロ 昭和十六年、開戦の一一カ月前にこの国がやったこと 開戦一カ月前、大本営が考えた戦争の見通し四 日本人は十一一月八日のラジオ放送をどう聞いたか師 真珠湾への奇襲作戦わ 山本五十六の無念 第三章戦争の時代を生きて 8 真珠湾攻撃大成功の報せを受けて跖 私の親父はペんクだった 昭和十七年舂のレイテ島 昭和十七年六月、ミッドウェー海戦大敗後の銃後 昭和十七年八月のガダルカナル島、戦闘の翌日に記者は見た四
ガ島で日本兵は何を見たか屮 ガ島戦敗退後の天畠のつぶやき 昭和十八年五月、山本五十六の死とアツツ島玉砕 次の世紀までも記憶しておくべき昭和十八年の夜郎自大 昭和十八年、私の夜行軍 一方五千人の出陣学徒に東条英機は 昭和十九年三月にはじまったインバール作戦とはつまり 神風特別攻撃隊について天皇は 特攻の指揮をとった人が昭和十九年に = = 弓たこと 金輪際許せないこと 昭和十九年八月、学校ではなく軍需工場へ 灰色の軍需工場で 昭和十九年、悪い冗談もいっか真実のことく 昭和十九年暮れの東京で皿 大日本帝国の断末魔 かりに反戦思想をもった人がいたとしても叫 東京大空襲の夜は北風が強かった 中川の河岸で見た修羅場
150 武装解除がされたとき は、昭和二一年 ( 一九四六 ) 一月、戦争中に要職にあったものの公職追放を命 令した。いわば日本帝国の残滓の大掃除だった。 もちろんそれ以前に、ワシントンからの指令の第一目的たる日本の「非軍事化」は、 電撃的に処理された。八月一五日現在、海軍の艦艇はほとんどなかったが、陸軍は日本 本土に五七個師団約二五七万名余の兵力を有し、陸海合わせて約一万六〇〇〇機の航空 機が残っていた。これらがおとなしく武器をすて、武装解除が完了したのは一〇月一五 日。 ただ一人の死傷者もなくこれが完了したというのは、世界中のだ 一発の発砲もなく、 れの眼にも奇跡としかうつらなかった。 『「昭和」を振り回した男たち』 非人間的になること
それまで燈火管制で電燈や窓に黒い幕をつけていたのを、戦争が終わっても率先して 取り去る人がなぜかなくて、暗かったんです。そうするうちに指令がきました。記録を ひがしくにのみやなるひこ 見ますと、鈴木貫太郎内閣が八月十五日に総辞職したあとを受けた東久邇宮稔彦内閣に、 しゃへいまく 昭和天皇が「国民生活を明るくするためにももう、 しいかげん遮蔽幕を取れ」と命じたよ うで、八月二十日、じつに三年八カ月ぶりに屋外燈がともり、遮幕もすべて取られ、街 ゞ。、アーツと明るくなりました。それまでは外に光が漏れると「このやろう、丿国民 め」と表から怒鳴られたもんですが、それもなくなりました。たしかに明るくなるとい うのは人間の心をやすめるもので、このへんから人びとの気持ちが落ち着いてきたとい で ん う感じがします。 歩 後 同時にラジオ放送が、天気予報をはじめました。 ・ : 天気予報は戦況に大きな影響を 戦 酳与えるので一切止めていたのですが、その復活だけでこんなにねえ : : : 。新聞にも二十 第 二日から、今あるような天気図が載るようになり、低気圧や高気圧というのはこういう ものか、なんて眺めていました。
昭和十一一年の東京下町風情ワ あのころ蚊帳が怖かった 下町の = 一葉の威勢のよさ刃 下町の夜を渡った音色 流行歌は反戦歌だった銜 鉛筆のなっかしい香り 昭和十年代、隅田川の向こうは朝 横須賀で見た駆逐艦 もしも中学の入学試験に落ちたなら 川向こうの小さな働き手 玉の井初見参の記の 昭和十四年、国のク節義クによって戦ったノモンハン ノモンハン停戦後の結論 ノモンハン敗戦のあとで参謀は四 ノモンハンから今につづくもの 昭和十五年七月、首相近衛文麿の積極方針 近衛首相がつくった大政翼賛会を荷風がいわく 昭和十五年八月の、せいたくは敵だー
130 戦後、日本四分割構想があった 日本も分割される危険性があった、という微妙な事実にふれておく 竹前栄治氏の研究によると、アメリカの三省 ( 陸軍・海軍・国務 ) 調整委員会は、早 くから日本占領の統治政策についての討議を重ねていた。第一局面として、日本降伏後 の三カ月間は、米軍八十五万が軍政をしいてゲリラなどの抵抗を完全に抑える。が、い つまでも米軍将兵を帰国させないというわけにはいかない。 そこで第二局面となるつぎ の九カ月間は、米・英・中国・ソ連の四カ国が日本本土に進駐し、これを統治する。 さらに、東京は四カ国が四分割して統治する、という決定をみたのである。そして、こ れが成文化されたのが、なんと、昭和二十年八月十六日のことであったという。 『ソ連が満洲に侵攻した夏』 シベリア抑留のはじまりは
209 出典著作一覧 出典著作一覧 「あの戦争と日本人」文春文庫 「いま戦争と平和を語る」日本経済新聞出版社 「風・船のじてん」 ( 荒川博氏との共著 ) 蒼洋社 「勝ち上がりの条件軍師・参謀の作法」 ( 磯田道史氏との対談 ) ボブラ新書 「荷風さんの昭和」ちくま文庫 「完本・列伝太平洋戦争」文庫 「原爆の落ちた日」文庫 一腰ぬけ愛国談義」 ( 宮崎駿氏との対談 ) 文舂ジプリ文庫 「指揮官と参謀文舂文庫 「物歳の東京大空襲』ちくまプリマー新書 「十一一月八日と八月十五日」文春文庫 「昭和史が面白い」文春文庫 「昭和史裁判」 ( 加藤陽子氏との対談 ) 文藝春秋 「昭和史残日録 1926 ー 45 」ちくま文庫 「昭和史残日録戦後篇」ちくま文庫 『昭和史 1926 ー 1945 」平凡社ライブラリー
昭和一一十年八月一一十八日の石原莞爾 石原莞爾の人間味 元首相東条英機の自決未遂 東条英機の形式主義 マッカーサーの日本占領構想 昭和天白王とマッカーサー マッカーサー会見の朝、香淳畠后は邨 私の昭和一一十年九月一一十七日邨 武装解除がされたとき 非人間的になること 餓死者七〇バーセント 第四章戦後を歩んで 戦後がはじまったとき 遮蔽幕がとれて 昭和一一十年秋の渋谷で 昭和一一十年十一月一一十八日の山田風太郎 7
131 第三章戦争の時代を生きて 歴史的事実としていうならば、八月十六日にトルーマンに宛ててスターリンが手紙を 、北海道を半分くれという手紙でした。 出しています。その手紙は何かというと 北海道島の北半と南半との境界線は、島の東岸にある釧路市から島の西岸にある留萌市 にいたる線を通るものとし、右両市は島の北半にふくめること」と。トルーマンは「と んでもない。 断固としてノーだ」と、これを蹴った手紙は八月十八日付けでした。 これに対しスターリンは、八月二十二日付けで、不満タラタラの手紙を再度トルーマ ンに送ります。それでスターリンが何を考えたかというと、シベリア抑留なんですよ。 ソ連極東軍総司令官ワシレフスキー大将に極秘の命令「捕虜にかんする実施要綱」を発 したのが八月二十四日でした。いちばん大事なところを紹介しましよう。 「旧日本軍の軍事捕虜のうちから、極東とシベリアの気象条件のなかで労働可能な身体 強健な捕虜を、最低五十万人選抜せよ」 これがシベリア抑留のはじまりでありました。 『日本のいちばん長い夏』 ( 松本健一氏との対談で )