夜でも寝袋に入ったまま巣穴が観察できるよう、大きな望遠鏡を据えつけた。 と、つりゆ、つ オオカミのもとへ逗留して最初の何日かは、ほんの少し必要に迫られて外へ出る以外、テントの 中にとどまった。外へ出るのも、常にオオカミが視界にないときを選んだ。こうして姿を隠している のは、テントに慣れてもらい、大地の凹凸にもうひとっ別の凹凸が加わったくらいに事態を受け入れ てもらうためだ。その後、蚊の全盛期を迎えてからは、強い風が吹いているとき以外ほとんどテント にいた。何しろ北極圏で最も血に飢えた生き物は、オオカミなどではなく、飽くことを知らぬ蚊の大 群なのだ。 オオカミの邪魔になりはしないかという気遣いは余計だった。私が彼らの尺度に慣れるには、一週 間を要した。しかし彼らの方は、最初の遭遇のときからすでに私の尺度に慣れていたに違いない。彼 らがことさらはっきりと軽蔑的な態度を示していた、とい、つよ、つすはない。しかし、私がそこにいる ことを、というか、私の存在そのものを、いささか面食らってしまうほどの徹底さでものの見事に無 視していた。 私がテントを張った場所は、まったく偶然、オオカミたちが西の方にある彼らの猟場に行き来する 主要な通り道から十メートルと離れていなかった。それで、住まいを定めて数時間も立たないうちに、 彼らの中の一頭が猟から戻り、テントと私を発見することになった。夜のきつい仕事の後で、明らか
それから数週間、私は、知る人ぞ知る例の徹底さで決心を実行に移した。丸ごとオオカミたちまで 身を落とすことにしよう。手はじめに、なるべく近く、簡単に近づくことができ、しかも、彼らの 日々の単調な生活をそれほど妨げないと思われるほどの距離に自分自身の巣穴を作ることにした。結 局のところ、確かに自分はよそ者だし、オオカミではないのだから、あまり性急にことを進めてはい けないと感じていた。 小さなテントを持ってマイクの小屋を離れ ( 正直なところ、温度があがるにつれて小屋中ひどい匂 いが充満し、そこを出られて大いにほっとした ) 、巣穴のあるエスカーのふもとの入り江からちょう ど真向かいの岸辺にテントを設営した。キャンプ用具は必要最小限ぎりぎりにおさえてある。小さな 携帯用石油ストープ、シチュー鍋、ヤカン、それに寝袋といった必須品目だけ。武器は何も持たなか った。その後、ほんの東の間それを後悔したことが何度かあったけれど。テントの入り口に、昼でも 8 土地の囲いこみ
五メートル以上離れないように領土標識をつけていかなければならないと感じた。これにはほば一晩 中かかり、おまけに、おびただしい量のお茶を消費するため、しばしばテントに戻らなければならな こんばい かった。それでも、夜明けが猟師たちを家につれ戻す頃にはどうやら仕事を終え、私は疲労困憊して、 結果は如何にと引きあげた。 長くは待たされなかった。私のオオカミ日誌によれば、八時十四分、一族のリ 1 ダーである雄が背 後の尾根に姿を現わし、思案に没頭した普段と同じようすで家に向かって歩いてきた。いつものよう に、テントの方には目もくれない。しかし、私の領土境界線が自分の通り道と交差する地点に来たと き、まるで見えない壁にぶちあたったように突然停止した。私のところからは十五メートルしか離れ ていない。双眼鏡越しに、彼の表情をはっきり見てとることができる。 疲れた素振りが消え、当惑したようすに変わった。注意深く鼻をつき出し、私が印をつけた草むら の匂いを嗅いでいる。どう考えたらいいのか、どうしたらいいのかわからないみたいだ。一分間、何 をどうするか決められずにいた後、彳 ( 皮よ数メートル後退して座りこんだ。そしてそれから、とうとう テントと私の方をまっすぐ見た。長い、考え深げな、何か思いめぐらしているというふうな目つきだ。 少なくとも、どれか一頭にでも自分の存在を認めさせてやろうという目的は達せられた。しかし、 次に私は、自分の無知のせいで何かきわめて重要なオオカミの掟を犯してしまい、無謀さの償いをさ せられるのではないだろうかと考えた。自分を見つめる目つきがさらに長く、さらに考え深げで、さ
応えていた。 あるいは、彼女を歌わせたのは欲求不満ではなかったのかもしれない。というのは、翌朝私が目を 覚ますと、訪問者があったことをオーテクが知らせてくれたからだ。間違いなく大きなオオカミの足 跡が、大を繋いだところから百メートルも離れていない月 ー岸の濡れた砂の上にはっきり残っている。 まさしくその夜ロマンスが実を結ぶことを妨げたのは、おそらく、嫉妬深い雄のハスキー大たちの存 在だけだったのだろう。 ジョージかあるいはアルバ ートか、どちらかがきっとその晩、誘惑に満ちた匂いの染みこむク 1 ア の恋文を発見するだろうと予想するべきだったのに、私はそんなにすぐ結果が出るとは思っていなか った。 こうなったら、急いで計画の第二段階を実行に移さなければならない。オーテクと私は観察テント に行き、そこから夏の巣穴に向かって百メートルのところにある、十五メートルほど離れた二つの岩 の間に太い針金を張りめぐらした。 翌朝私たちは、その場所にクーアを引っ張って行った。あるいは、クーアに引っ張られて行った、 という方が正しいだろうか。自らオオカミ探索に出ようとする彼女の決然たる試みを押さえつけ、私 たちは何とか彼女の鎖の輪を針金に通すことができた。針金の仕掛けのおかげで彼女はかなり自由に 動くことができるし、何か不都合が生じたときのためにテントからライフルを手に監視していること 136
らしていた。内陸に暮らすイヌイットは、今ではほとんど姿を消している。オーテクが属する四十人 くらいの小さな集団が内陸部に暮らす最後の人々で、彼らもすべて、広大な原生自然の中に飲みこま れているにすぎない ほかの人間に出会ったのは、たった一度だけ。ある朝、その日の旅を始めて間もなく、曲がりくね った河をまわったところでオーテクが突然オールをあげ、大声で叫んだ。 前方の陸地に、うずくまるように革のテントが張られている。オーテクの叫び声に、二人の男と、 一人の女と、まだ若い三人の少年がかたまってテントから飛び出し、近づいてくる私たちを迎えに岸 辺に走ってきた。 上陸して、オーテクがみんなを紹介してくれた。彼と同じ部族の一家族だという。その日の午後い つばい、私たちは腰を下ろしてお茶を飲み、噂話をし、笑い、歌い、山のようなカリプーの茹で肉を 食べながら過ごした。その夜、眠りにつきながオーテクが語ってくれたところによると、彼らがその 地点に野営地を設けたのは、そこから数マイル下流の川幅が狭まっている場所でカリプーは河を渡り、 それを狙って狩りをするのにちょうどよい場所だったからだという。一人用のカヤックを漕ぎながら、 短いャスを武器に男たちは河を渡る脂肪の乗ったカリプーを殺し、冬を越すのに十分な肉を蓄えたい と願っていた。オーテクは、私さえかまわなければ二、三日そこにとどまり、猟に加わって友達を手 伝いたいと思っていた。 167
に疲れ、家に戻って休みたいようすだ。頭を垂れたまま五十メートルほど離れた小さな丘をやって来 びんしよう さいぎしん るその姿は、半ば目を閉じ、考えにふけっている。作り話に登場する超自然的な敏捷さや猜疑心を そなえた獣とははるかにかけ離れ、このオオカミはすっかり自分のことだけに没頭し、私から十五メ ートルほどのところまでまっすぐやって来た。もしも私がヤカンに肘をぶつけて大きな音を鳴り響か せなかったら、テントには目もくれずそのまま通り過ぎていただろう。オオカミの頭が持ちあげられ、 その目が大きく開かれ、しかし、立ち止まりも、たじろいでペ 1 スを変えたりもしない。そのまま道 をたどるだけで、ほんのわずか横目で眺める以外まったく相手にしてくれなかった。 自分が目立たないようにと願っていたのは本当だ。しかし、それほど完璧に無視されてしまうと、 何だか落ち着かなくなってしまう。しかも、それに続く二週間の間、毎晩一頭か二頭のオオカミがそ の道をたどってテントの脇を通りながら、少しも私に関心を示さなかったのだ。記憶に残る、ひとっ の機会を除いては。 そのことが起こる頃までに、私は、オオカミ風の暮らしを送る隣人たちについて随分たくさんのこ とを学んでいた。明らかになった事実のひとつは、決して彼らは、広く普遍的に信じられているよう な遊牧の放浪者ではなく、定住動物で、きわめてはっきり境界づけられた恒久的な領地をもっている A 」い、つ一」 A 」た。 私が観察しているオオカミ一家が所有している縄張りは二百五十平方キロ以上に及んでいて、一方
七月までテントで寝ずの番を続けていたけれど、オオカミについての知識はそれほど増えなかった。 子どもたちは急速に成長し、ますます大量の食べ物が必要になっている。ジョージもアンジェリンも アルバ 1 トも、そのエネルギーのほとんどを遠くまで狩りに出ることに割かなければならない。子ど もたちのために食料を見つけるのは体力を消耗する仕事で、巣穴にいる少しの間、彼らはほとんど寝 て過ごした。そうした事態にもかかわらず、彼らは時々私をびつくりさせた。 渓谷の住まいからもとの巣穴の場所に戻っていたときのことだ。ある日オオカミたちは、さほど離 れていない場所でカリプーを殺し、願ってもない食料供給のおかげで休日をとることができた。その 夜彼らはまったく狩りに出す、巣穴の近くにとどまって休憩していた。 翌日、暖かい晴天の朝が明け、満ち足りた気だるい空気が三頭を包んでいるように見えた。アンジ 隠れ谷からの訪問者 149
ツンドラ平原を歩きまわった数週間はのどかだった。おおむね天気はよく、はてしない大地からく る開放感が、私たちが送る日々のさまざまな生活と同じくらい爽やかだった。 新しいオオカミ家族の縄張りに入りこんだことに気がつくと、私たちはテントを張り、集団と知り 合いになるのに必要な期間、周囲の草原を探索した。何もない平原の広大さにもかかわらず、私たち は決して孤独ではなかった。常に、カリプーが一緒にいた。それに連れ添うセグロカモメやワタリガ ラスの群れとともにカリプーたちがふりまく気配がなかったら、光景は荒凉としたものになっていた にろ、つ この大地は、カリプーやオオカミや鳥たちや小さな獣たちのものだ。私たち二人は、行きあたりば ちんにゆうしゃ ったりの、取るに足らない闖入者にすぎない。かってこれまで、人間が不毛のバーレン地帯を支配 したことなどなかったのだ。そこを縄張りとしていたイヌイットたちもまた、大地との調和の中で暮 四裸での追跡 166
七月半ば、じっと一か所にとどまって行なう観察を中断し、オオカミの狩りの行動についてまじめ に研究を始めるべき時だと決心した。 この決定は、何週間分もたまった汚い靴下の山の下から、長い間無視したままだった任務命令書を 偶然発見したことで促された。私は、命令だけではなく、オタワのこともほとんど忘れてしまってい た。こまごま詳細に記された指針の東を再びばらばらめくっているうちに、自分が職責放棄の罪を犯 していることに気がついたというわけだ。 命令には、最初の仕事はオオカミに関する統計調査並びに概括的な調査を遂行すること、続いて、 オオカミとカリプーの間の捕食者ー被捕食者の関係を集中的に研究すること、とはっきり述べられて いる。とすれば、オオカミの習性や社会行動を研究することは、私の任務が依るべき準拠枠から明確 こんほ、つ にはずれている。そこである朝、小さなテントをたたみ、望遠鏡を梱包して、観察拠点を閉鎖した。 家族生活 158
オ 1 テクの物語を要約しておこう。 初めに女と男がいて、ほかには、歩いているものも、泳いでいるものも、飛んでいるものも、世界 にはいなかった。ある日、女が地面に大きな穴を掘り、そこで釣りを始めた。一匹ずつ、女はすべて の動物を釣りあげ、最後に穴から出てきたのはカリプーだった。天の神であるカイラは女に、カリプ ーはすべての中で最も偉大な贈り物だ、なぜならカリプーは人間の食べ物となるからだ、と告げた。 女はカリプーを解き放ち、行って地に満ちよと命じた。カリプーは女の言った通りにし、ほどなく 大地はカリプーであふれた。女の息子たちは、首尾よく狩りをすることができたし、食べ物、衣服、 住むための上等な毛皮のテント、すべてをカリプーから手に入れた。 女の息子たちは、大きく、太ったカリプーだけを狩った。というのは、弱、 しもの、小さいもの、病 気のものはいい食料にならないし毛皮も上等ではなかったから、狩りたいと思わなかったのだ。しば らくして、病気や小さいカリプーの方が、太って強いものより多くなった。そのことにうろたえ、息 子たちは女のところに泣きついた。 そこで女は魔法を使い、カイラに話しかけた。あなたの働きぶりはよくない。カリプーは弱くなる し、病気になる。それを食べたら、私たちも弱く、病気になるに違いない。 カイラはそれを聞いて、こういった。私の働きぶりはよい。私は、オオカミの霊アマロックに告げ、 110