年 - みる会図書館


検索対象: 狼が語る : ネバー・クライ・ウルフ
220件見つかりました。

1. 狼が語る : ネバー・クライ・ウルフ

【著者紹介】 ファーリー・モウェット (FarleyMowat) 1921 年、カナダ、オンタリオ州生まれ。 幼い頃からナチュラリストとして育ち、動物や自然とのふれあい、北極圏への 旅などの体験から 50 冊以上にのばるノンフィクション、小説、児童文学を生 み出してきた。 カナダ北極圏に暮らす人々の過酷な生活を描いたもの、マリタイムと呼ばれる カナダ東海岸と北大西洋、なかでも 8 年間を過ごしたニューファンドランド島 を舞台にしたもの、イタリア戦線での体験を描いたもの、ヴァイキングをはじ め航海者たちがコロンプス以前の北アメリカにしるした足跡をたどったもの、 さらに伝記や自伝など、作品は多岐にわたる。 その作品には一貫して、人間と動物を問わず、過酷な状況の下で生き残りを 懸けて苦闘する者たちへの深い共感と、彼らに手を差し伸べようとする熱い 思いやりがあふれている。しかも、痛烈なまでの皮肉やユーモアとともに 活発な環境保護運動家としても知られ、現在なお、オンタリオ州ポート・ホー プとノバスコシア州ケープ・プレトンで旺盛な執筆活動を続けている。 【訳者紹介】 小林正佳にばやし・まさよし ) 1946 年、北海道札幌市生まれ。国際基督教大学教養学部、東京大学大学 院博士課程 ( 宗教学 ) を修了。 1970 年以来日本民俗舞踊研究会に所属して須藤武子師に舞踊を師事。 1978 年福井県織田町 ( 現越前町 ) の五島哲氏に陶芸を師事し、 1981 年織田町上 戸に開窯。 1988 年から現在まで天理大学に奉職。その間、 1996 ~ 1998 年トロント大学 訪問教授、セント・メリーズ大学訪問研究員としてカナダに滞在。 現在は、天理大学総合教育研究センター特別嘱託教授。 民俗舞踊を鏡に、宗教体験と結ぶ舞踊体験、踊る身体のあり方を探ってき た。民俗と創造、自然を見つめる眼ざしといったテーマにも関心がある。 著書に『踊りと身体の回路』『舞踊論の視角』 ( 共に青弓社 ) 、訳書にヒュース トン著『北極で暮らした日々』、ロックウェル著『クマとアメリカ・インディアン の暮らし』 ( 共にどうぶつ社 ) など。

2. 狼が語る : ネバー・クライ・ウルフ

誠にわたくし事ながら、この本を、モウェットと同じ一九二一年生まれのわたしの母と、あの日以 来すっと一緒にいっか日本語で出版されることを願っていてくれたわたしの家族に贈りたい。 ・クライ・ウルフ』が世に出て半世紀が経った二〇一三年秋 小林正佳 234

3. 狼が語る : ネバー・クライ・ウルフ

明した。 恐慌状態がやっと収まったのは、三日目のことだった。午後遅く、軍隊所属の六トン積みトラック の運転手が飛行場から隊に戻る途中、前方の路上に毛皮の固まりを発見し、急いでプレーキをかけた が間にあわなかった。その頃にはひどく病に侵され、もはや動くことさえできなかったオオカミは、 無惨に殺された。 その後の成り行きも興味深い。今でもなお、待ってましたとばかりにすぐさま一九四六年のオオカ ミによるチャーチル侵略の話を始めるチャーチル住民 ( 加えて、疑いなく、大陸中に散らばったたく さんの兵隊たち ) がいる。彼らはみな、一人ひとりがオオカミと遭遇した絶望的な状況、襲われた女 性や子ども、ばろ切れのようにすたすたにされた大橇のチーム、籠城生活を強いられた人間社会につ いて語ってくれるだろう。そこに欠けているものといったら、凍った原野を逃走する北アメリカ版ロ シアのトロイカの最後を物語る、いかにも芝居じみた記述だけだ。平原にはオオカミの群れが波のよ うにあふれ、北極の夜のしじまにオオカミの顎が人間の骨をバ リバリ噛み砕く音が響きわたる、とい ったふうな。 原註 * カナダのカリプー生息数は、一九三〇年の四百万頭から一九六三年の十七万頭にまで減少した。 165

4. 狼が語る : ネバー・クライ・ウルフ

三十年前、私が本書を書きはじめた当初、オオカミには小さな役割しかふりあてるつもりはなかっ た。最初の計画は、まったく別種の獣ーー私たちみんなに関わるすべての事柄に専制的な裁決権をふ るう、官僚として知られる人類の奇妙な突然変異体ーーを風刺する文章を書くことだった。同時に、 今や自らを唯一正当な真理の解釈者と見なすわれらが時代の祭司、「科学者」たちのくだらなさを 揶揄してみるのも面白かろうと思ったのだ。 悪意に満ちた思惑を胸に、私は、ゆっくりと、私たちの世界の新しい支配者たらんとする者たちの 正体を暴くこと、むしろ、本の中で彼ら自らが正体をさらけ出すよう仕向ける仕事に取りかかった。 しかしなせか、官僚的、あるいは科学的ばかばかしさに対する興味は失せ、もともとは脇役にしかす ぎなかった存在、すなわちオオカミに心奪われている自分に気がついた。 出版された本は、人間という動物の中の、ある者たちからは好意的に受け入れられなかった。真実 の発露が事実によって妨げられるのを許さないという私のやり方と、われわれの生を理解するうえで ューモアはきわめて重要な位置を占めているという確信のせいで、この本は、専門家を任ずる多くの 何が変わっただろうーー一九九三年、出版三十周年の年に 218

5. 狼が語る : ネバー・クライ・ウルフ

決めの中でロにされるお楽しみの猿芝居というところだ。しかし、オオカミにとってはまぎれもない 事実である。オオカミはまた、私個人はそれを必ずしも賞賛すべき特質だとは思わないのだが、厳格 な一夫一婦制主義者である。まさしくそのことが、オオカミはふしだらに乱交すると勝手に考えてき た者たちの間に、オオカミを何か偽善的だとする世評を生み出してきたのだろう。 ジョージとアンジェリンがどれくらいの期間夫婦でいたのか、はっきりとはわからない。しかし、 後にマイクから、彼らは少なくとも五年間、ということは、オオカミの寿命を人間の寿命に換算する と、およそ三十年に相当するくらい一緒にいたことがわかった。マイクやほかのイヌイットたちは、 自分たちの土地にいるオオカミをそれぞれなじみの個体として認識しているし、マイクは違ったけれ ど、通常オオカミたちをきわめて高く評価している。したがって、オオカミを殺したり傷つけたりと いった考えさえ抱こうとしなかった。ジョ 1 ジやアンジェリンや、家族のほかのメンバ 1 たちのこと、 さらには彼らの巣穴は、四十年、五十年にわたって何世代ものオオカミがそこで家族を養ってきたこ とも、イヌイットたちには知られていた。 家族の構成に関して、最初はあるひとつの要素が非常に不可解だった。巣穴への最初の訪問の際、 私は三頭のオオカミを目にしていた。また、巣穴の観察を始めた最初の数日間に、再び、何度かちら りと第三のオオカミの姿を見かけていた。大きな謎というのはそのことで、オオカミの世界に十分入

6. 狼が語る : ネバー・クライ・ウルフ

は、レミング数がそうした周期の最小期にあたっていた。それと平行してその年、すでに激減してい たキーワティン地方のカリプーの群れが、何年間も続いていた移動習性を変え、大多数が中部キ 1 ワ ティン南部を迂回してしまった。そこで暮らすイヌイットにとっても、オオカミやキツネにとっても、 悲惨な年だった。飢餓が大地を覆い、潜伏していた狂大病ウイルスがまたたく間に飢えたキツネの間 に広がり、オオカミたちにも感染した。 ところで、狂大病にかかった動物は、言葉通りの意味で「気が狂う」わけではない。神経組織が冒 され、常軌を逸して行動の予想がっかなくなる。動物自身、恐怖心によって守られているはずの保身 の術を失ってしまう。狂大病に罹ったオオカミは、時として走る自動車や列車に向かってそのままっ っこんで行ってしまったり、また、ハスキー大の一団によろよろと入りこみ八つ裂きにされたりする。 また、稀にではあるけれど、村の通りにさまよい出たり、人間が住んでいるテントや家に入りこむこ とさえある。そうしたほとんど死に瀕した病気のオオカミは、哀れむべき対象といえる。しかし、彼 らに対する人間の反応は、通常、おさえきれない恐怖でしかない。狂大病と認知されることは稀だか そんななかで、 ら、それは、病気への恐怖というよりオオカミそのものに対する恐怖といっていい。 狡猾で危険なオオカミという一般的な神話を裏書きするグロテスクな事件が起こる。 一九四六年に伝染病が流行したとき、病気で死にかけたそんなオオカミがチャーチルの町に姿を現 こ、つかっ カカ 163

7. 狼が語る : ネバー・クライ・ウルフ

どまった。 オオカミが入手できる家屋敷は決まった数量しかないという事実とは別に、彼らが増えることは、 体内に組みこまれた産児制限メカニズムによっても抑制されている。食料となる動物が豊富なとき、 あるいは、オオカミの数がわずかなとき、雌は一腹で多くの子どもを産む。たとえば、八頭といった 具合だ。しかし、オオカミの数が多すぎるとき、あるいは、食料が少ないときには、一回の出産数は 一頭あるいは二頭にまで減少する。このことは、ケアシノスリ〔タカ科ノスリ属の大型のタカ〕といった、 まにゆ、つ 北極圏に棲むほかの動物にもあてはまる。小さな哺乳類の数が多い年には、ケアシノスリは一回に 五個か六個の卵を産む。しかし、野ネズミやレミングが少なくなると一個しか卵を産まなかったり、 あるいはまったく産まなくなる。 ほかの抑制要因が作用しない場合、伝染病もまた、オオカミの餌になる動物が個体数を維持してい くことができなくなるほど、オオカミの数が多くなりすぎないよう調節する決定的な要素になる。全 般的な均衡が破れる稀な状況 ( しばしばそうした状況は、人間の介入によってもたらされる ) では、 オオカミが多すぎると食料が乏しくなり、栄養不足は早々飢餓状態にまで進展し、オオカミは体力的 ) コヒ 体イする。そうすると、荒廃をもたらす狂大病、ジステンパ 1 、介癬といった伝染病が決まって まんえん オオカミの間に蔓延し、即座にその数は、かろうじて生存可能なレベルにまで減少する。 北極圏カナダでは、レミング生息数が四年周期で頂点とほとんどゼロの間を変動する。一九四六年 かいせん 162

8. 狼が語る : ネバー・クライ・ウルフ

に進み、『ネパー ・クライ・ウルフ』に感動したことのお礼を述べ、サインを求めた。といっても、 あらかじめ彼の本を用意していたわけではなく、手元にはその日路上のテントで買い求めた別の著者 の手になる小さなオオカミの本しかなかった。おずおすとそれを差し出すと、彼はそれを眺め、中身 をパラバラとめくってニッコリ笑い、それからサインしてくれた。自分の名前の横に、「オールド・ ウルフ」と書き添えられていた。そのとき、ふと、この本を日本語にしたいという思いが浮かび、早 速翻訳を始めた。その時の翻訳原稿を抱えたまま十五年の時が経ち、今こうして、やっと出版の運び に至ったことを嬉しく田 5 、つ 帰国して後、この本にはすでに日本語訳があることを知った。今は絶版でなかなか手に入らない。 新しい翻訳で、その本の読者をはじめ多くの方々に読んでいただけるとありがたい。 東吉野の山中で最後のニホンオオカミが殺されたとされてから百年、北海道のオオカミがあっとい う間に駆逐されてから百年の時が経ち、今また生態系の回復を目指してオオカミを再導入しようとい った動きさえ生まれつつある。実際アメリカでは、イエローストーン国立公園を皮切りに各地でオオ カミの再導入が図られ、生態系回復の成果も確認されている。同時に、オオカミは、クジラやパンダ と並ぶ自然保護運動のシンボルにもなりつつある。オオカミとの共存を実現していくためには、何よ り、ひたすら否定的イメージを背負わされてきたオオカミに対する新しい眼ざしの獲得 ( あるいは、 オオカミを大神ともしてきたわたしたち自身の古い感性の復活というべきだろうか ) から始めなけれ 232

9. 狼が語る : ネバー・クライ・ウルフ

なさいといった風情の店主たちに、誰よりもカナダらしい作家は誰かといつも尋ねていた。そのたび に返ってくる名前のひとりが、モウェットだった。間違いなく、カナダを描き続けた、カナダで最も 人気のある著者のひとりといってよい。しかも、子ども向けの物語からおとな向けの小説やノンフィ クション、ユーモアあふれる楽しい話題から鋭い政治批判に至るまで、年代を超えた幅広い読者層を 誇っている。 モウェットは図書館員だった父親の影響で早くから文章を書きはじめ、十代前半にはすでに新聞の コラムを担当していたという。引っ越し先のカナダ中部サスカチュワン州サスカトウーンでいっそう 自然との交わりを深め、本格的な少年ナチュラリストとして成長していく。イヌやネコや昆虫だけで はなく、ヘビやフクロウやワニに至るさまざまな動物と暮らし、そのようすは、日本語訳もある『大 になりたくなかった大』 ( 一九五七 ) や『ばくとくらしたフクロウたち』 ( 一九六一 I) に生き生きと描 かれているし、一九九三年に書かれた自伝『 BornNaked 』 ( 生まれたときは裸 ) にも詳しい。 一九四三年に入隊し一九四五年に除隊するまで、イタリア戦線での激しい戦闘に参加した。その時 の体験は、『 And No Birds Sang 』 ( そして、鳥は歌わなかった ) ( 一九七九 ) 、『 My Fathers' son 』 ( わたしの父の息子 ) ( 一九九三 ) などに記されている。 除隊後トロント大学に入学し、改めて生物学を勉強した。その研究の一環で北極圏、亜北極圏カナ ダに足を運び、その土地や、そこで暮らす人々との結びつきを深めていく。その時出会ったカリプ 2 2 6

10. 狼が語る : ネバー・クライ・ウルフ

されてきた。一九八五年発行の一冊に『 My Discovery ofAmerica 』 ( わたしのアメリカ発見 ) とい う書がある。冷戦の時代、何やら定かではない理由で彼の名が危険人物リストに載せられ、アメリカ 入国を拒否された際の顛末を綴った書だ。その中に、「お前の名前は何と発音するんだ、マオ・イツ トか」「名字は、フェアレイかーと意地悪そうに尋ねる出入国管理官に、「詩人と同じ音」「大麦と同 じ」、と答える場面がある。将来その場面を翻訳する際の不便を考えたわけではないけれど、名前は、 ボウェット ( 詩人 ) という音に倣いモウェット、姓はバ ( 大麦 ) に倣いファ 1 リーと表記する。 じつは、地元カナダにおいてさえ、しばしば彼は少しずつ違った名前で呼ばれることがあるらしい ハリファックスで開かれた朗読会の折にも、私はボウェットと同じモウェットですと、笑いながら改 めて自己紹介していた。 ファーリー ・モウェットは、一九二一年カナダのオンタリオ湖に面したベルヴィルで生まれ、九十 二歳になる現在も、生地に近いポート・ホ 1 プと、夏場を過ごすノバスコシア州ケ 1 プ・プレトンで 精力的に執筆活動を続けている。五十冊を超える著書は、千七百万部以上を売りあげ、五十数か国で 翻訳出版されてきた。「総督文学賞」 ( 一九五九年 ) をはじめ、カナダにおける数々の図書賞を総嘗め にしてきたといっても過言ではない。 し力にも本のことならまかせ カナダに滞在していた二年間、わたしは足しげく古本屋に通っては、、、 225