マイクは鍋一杯のシカ肉のステ 1 キを焼いているところで、オ 1 テクがそれを見ていた。北へ百キロ ほどのところで、彼らは運よく群れからはぐれたカリプーを捕まえたのだ。数分の間はどこかぎこち なく、マイクは私の存在を何とか無視したいと思っているようすだった。私がどうにか氷の壁を打ち 砕いて自己紹介をするに及んでも、オーテクの反応といえば、テ 1 プルの反対側までからだをずらし、 できるだけ私との間に距離をとろうとするだけだ。それから、二人は腰を下ろして食事に取りかかり、 マイクはとうとう私にも焼いたステーキを勧めてくれた。 喜んで食べたいところだ。しかし私は依然実験を継続中だったので、断らなければならなかった。 まず、そのことをマイクに説明した。彼は、イヌイットの祖先たちから受け継ぐ謎のような沈黙で私 の言い訳を受け入れ、私の説明をオーテクに明確に伝えたようだった。私の考えと私自身をどのよう に受けとったのか、オ】テクは典型的にイヌイット的なやり方で反応した。夜遅く観察テントに戻ろ うと私が小屋を出ると、彼が待っていた。恥ずかしそうな、しかし魅力的な微笑を浮かべながら、シ ひも カ皮で包んだ小さな包みを差し出している。動物の腱で作った紐を丁寧にほどいて贈り物を見ると ( 贈り物のようだったのだ ) 、五つの小さな青い卵が入っていた。疑いなくッグミ類の卵だが、はっき りした種類は特定できない。 嬉しいけれど、贈り物が何を意味しているのかわからなかった。そこで私は、また小屋に戻ってマ イクに尋ねてみた。 103
いくつかの理由、なかでも、私が何をしているか知ったとき、オ 1 テクとマイクがどんな顔をする か私が頭に思い描いたイメージに少なからず影響され、自分の収集品の分析を始めようという気にな かなかならなかった。何とか自分の糞便コレクションを秘密にしていたし、一方マイクもオーテクも、 小さな袋の中身に好奇心を抱いていたかもしれないのに、遠慮して ( あるいは、何を告げられるか恐 れていたのかもしれない ) それについて私に尋ねなかった。二人とも私の職業上の義務に関わる特異 な性癖に対して相当寛容になっていたとはいえ、私自身、その寛容さをさらに試してみたいとは思わ なかった。そんなわけで、分析の仕事を伸ばし伸ばしにしていたのだ。ところが十月のある朝、二人 揃ってカリプー狩りの旅へ出かけ、キャンプは私一人だけになった。十分プライバシーを保つことが できると感じ、それで私は、あまり楽しくない仕事に取りかかる準備をした。 長期間保存していたので、糞は風化して岩のように固まり、仕事をする前に柔らかくしなければな らなかった。そこで、それを川岸に持って行き、水を入れた二つの亜鉛メッキ製のバケツに浸けた。 柔らかくなるのを待っ間、私は道具やノートや諸々の備品を取り出し、日があたり、絶えず微風が吹 いている大きく平たい岩の上に並べた。これから取りかかる仕事は東縛のない環境で行なうのが最善 だと感じていた。 次の手順は、ガスマスクをつけることだった。この事実を記録するに際し、ことさら面白おかしく 書こうとしているわけではない。私には、オオカミを巣穴から追い出し検死標本とするために用いる 197
もしたら、おそらくどこかに移ってしまいかねないと恐れたからだ。それで私は、撤退を始めた。容 易な退却ではなかった。というのも、科学者業界の複雑な金属機器に邪魔されながら ( まさに、その 時の私はそうだった ) 、一キロ余りの距離、でこばこの岩だらけの斜面を後すさりしながら登って行 くのはこのうえなく難しかったからだ。今の私には、その難しさがわかる。 最初にオオカミを見つけた小山の頂まで戻り、私は双眼鏡でもう一度眺めてみた。雌の姿は依然と して見えない。雄は警戒の姿勢をゆるめ、エスカ 1 の頂に横になっている。私が眺めていると、大が するように二、三度ふり返り、それから尾の下に鼻先を入れて明らかに昼寝でもしようというくつろ いだよ、つすになった。 もはや私のことには関心がないとわかって、ほっとした。私の偶然の侵入が過度にオオカミたちを いらだたせ、その結果、こんなに遠くまでわざわざ探しにやって来た動物を研究するまたとない好機 を台無しにしてしまっていたとしたら、きっと悲劇であっただろう。
「イヌイットは、男かネズミを食べると、あそこがネズミみたいに小さくなってしまうと考えるの さ」。彼は、気のりしないふうに教えてくれた。「しかし、卵を食べると、またもとに戻る。オーテク は、お前のことが心配になったんだろう」 十分な証拠がないから、これが単なる迷信なのかはど、つか知るよしもない。しかし、用心するにこ 卩を全部合わせても三十グラムにならないから、私のネズミ実験の正当性を損なう したことはない ことはないと理屈をつけ、私はそれをフライバンに割り入れて簡単なオムレツを作った。巣づくりの 季節が盛りを迎えていて、だから卵があったわけだ。どちらにしても食べるのだし、オ 1 テクがじっ と見ていることでもあり、私はいかにもおいしそうに食べてみせた。 嬉しそうな、ほっとしたような表情が、幅の広い、笑みを浮かべているイヌイットの顔中に広がっ た。おそらく彼は、死よりも忌わしい運命から私を救ったと確信していたことだろう。 私は、マイクには、自分の科学調査の重要性や意味を何とかわからせようとしてもできなかった。 しかし、オーテクの場合、そんな苦労はなかった。というのか、中身を理解していたのかいないのか、 最初から、それが確かに重要であるという私の確信は共有してくれているように見えた、というべき かもしれない。ずっと後になって私は、オ 1 テクが彼の部族の小シャ 1 マン、つまり、呪術師である ということを知った。そして、また彼は、マイクから聞いた話や自分自身の目で見たことから、私も 104
れていようと、ボタンをはずすというまさにその行為が、ひょっとして誰かに見られているのではな いかと異常に私たちを神経質にさせてしまうというのは注目すべき事実だ。この決定的に重大な時、 よほどの自信家以外、たとえプライバシーが守られていることが確かでも、本当に自分一人かどうか 再度確認しようと、こそこそまわりを伺ってみるということをしない人間などいるだろうか。 そして、自分一人たけではなかったことを発見したら、くやしいという言葉だけでは足りないこと だろう。まっすぐ私の後ろ、二十メートルと離れていないところに、見失ったオオカミが座っていた のだ。 まるで何時間も私の後ろに座っていたかのように、すっかり気楽にくつろいだようすだ。大きい方 の雄はいささか退屈しているみたいだ。しかし雌の方は、厚かましい、淫らな好奇心の表われと受け とれるほどの視線をじっと私に注いでいる。 人間の心とはじつに驚くべきものだ。ほかのどんな状況でも、きっと私は恐慌にかられて狼狽した だろうし、それを責める人だってほとんどいないと思う。しかし、その場の状況は普通と違っていて、 私の反応は凶暴な怒りだった。怒りにかられ、私は眺めていたオオカミに背を向けると、いまいまし さに震える指で急いでボタンをかけた。尊厳といわないまでも、体面を整えると、自分でもびつくり するほどの毒々しさでオオカミたちをののしったのだ。 「シーツ、シーツ ! 」。私は大声で怒鳴っていた。「一体全体、何のつもりなんだ、おまえたちは : ろ、つばい
せいではなく寒さのせいだ。怒りは去り、私の心はこの出来事の余韻の中で乱れていた。私があの時 抱いたのは、恐怖が生み出す憤慨の怒りだった。怒りが向けられた獣の方こそ、私という剥き出しの 恐布にさらされ、人間のエゴに堪え難いまでに侮辱されていたというのに。 夏の間のオオカミのもとでの滞在が彼らについて教えてくれたこと、そして私について教えてくれ たことを、自分は何と簡単に忘れ、何と容易に否定してしまうのかに気づいてぞっとした。 飛行機という雷のような幽霊を避け、巣穴の奥底で縮こまっていたアンジェリンと子どものことを 、、、、恥すかしかった。 どこか東の方から、問いかけるように、かすかなオオカミの遠吠えが聞こえてくる。それまで何度 も聞いてきた、よく知っている声た。。 ショージの声が、見失った家族を求め、荒野にこだまして響い てくる。しかし、私にとってそれは、失われた世界を物語る声だった。私たちが異邦人の役割を選び 、最後 とるまでは、自分たちのものでもあった世界、私自身ちらりと垣間見、その中に入りかけ : には、自らの本性によってそこから締め出されてしまうだけだった世界 : 2 16
るように聞こえるかもしれないことは承知している。といって、私自身無線通信について何の技術的 ねっぞう な知識ももちあわせていないことだし、一介の生物学者に次に述べるような一連の出来事を捏造した りする能力などないのも確かだろうと思う。私としては、のちに専門家から受けた説明をそのままこ こに書くしかない。技術的な説明によると、それは「電波の跳躍」として知られる不思議な現象に関 わっていて、大気の状態のさまざまな条件が重なると、時として ( 特に、北極では ) 非常に弱い通信 機の信号が相当な距離まで届くことがあるらしい。私の機械に起きたのは、まさしくそれだった。私 の呼び出した局は、なんと、ベル 1 のアマチュア無線家のものだったのだ。 彼の英語はこちらのスペイン語同様たどたどしく、互いに通じあうまで手間がかかった。その後も 彼は、私がフェゴ島〔南アメリカ南端に位置する島〕辺りから送信していると思いこんでいたらしい。私 は極度にイライラしたあげく、やっとベル 1 人に私の上司宛ての通信内容を書きとらせ、通信会社を 通じてオタワへ送るよう依頼した。先般の訓戒を思い出し、私はこの通信文を十ワード以内にとどめ たが、どうやらそのせいでベルーでは正しく理解されなかったらしい。そのうえ英語からスペイン語、 スペイン語から再び英語への翻訳で間違いなく混乱し、とんでもない結果になったのも故なしとしな といっても、それがわかったのは、何か月もたってからのことだ。 おそらく南米の通信局からの電信だったからだろう、通信は私の所属省ではなく外務省に送られた。 それがフェゴ島からのものらしいことと、暗号らしいこと以外、外務省にはさつばり見当がっかなか
けたガスマスクのことを忘れていた。見知らぬ人たちに挨拶しようとすると、五センチの木炭と三十 センチのゴムパイプを通った私の声は墓場を吹き抜ける風のようにこもって悲しげな響きを帯び、そ の効果がイヌイットたちをぎくりとさせた。 大急ぎで埋めあわせをしようと、私はマスクを引きはがし、勢いよく何歩か前に進み出た。すると、 ミュージカル・コメディーの舞台で一列に並んで踊るコーラスラインのような正確さで、イヌイット たちは何歩か後退する。それからまた、野性の推理力を働かせながら私を見つめている。 私は善意を伝えようと必死で、できるだけ大きく微笑んだ。そのため歯が剥き出しになって、悪鬼 の笑いのように見えたに違いない。訪問客たちはさらに一、 二メートル後退してそれに応えた。ある 者は、私の右手に握られた輝くメスを見つめている。 彳らは明らかに、今にも飛び出そうと身構えている。それでも私には、そんな状況へのとっておき のものがあった。その場にふさわしいイヌイットの言葉を思い出し、多少なりとも正式な歓迎の言葉 を口にすることだ。長い沈黙があって、彼らの一人が勇気をふるっておずおすと返事をした。それか ら少しすっ、彼らは私を、ガラガラへビを前にした一群のニワトリのような目つきで見るのをやめに した。 私たちは本当に親密というわけではなかったけれど、それに続く堅苦しい会話によって、これらの 人々はオーテクの部族の人々で、遠い東の方で夏を過ごし、ホームキャンプに戻ってきたばかりだと 199
な証拠はなかった。 オオカミの言語に関する本格的な教育は、オーテクがやって来て数日後に始まった。私たち二人は、 特に記録すべきこともないまま、何時間もオオカミの巣穴を観察していた。静まり返った日で、ハエ の煩わしさは頂点に達し、アンジェリンと子どもたちは巣穴の中に退却した。一方、二頭の雄は、午 前の半ばまで続いた狩りでくたびれはて、近くで眠っている。私も退屈で眠かった。その時、オーテ クが突然両手を耳にあて、じっと聞き耳を立てはじめた。 私には、何も聞こえない。彼がこう一言うまで、何が彼の注意を引いたのか見当もっかなかった。 「聞いてみろ、オオカミたちが話している」。そう言って彼は、私たちから北へ八キロほどのところに ある丘陵地帯の方角を指さした。 私も聞いてみた。しかし、仮にオオカミが丘から放送を流していたとしても、私が受信できる波長 ではないらしい。プンプンいう忌わしい蚊の羽音以外、何も聞こえない。だが、エスカ 1 の頂で寝て いたジョージが突然起きあがり、耳を前方に立て、長い鼻面を北に向けた。一分か二分後、彼は頭を 後ろに反らすと遠吠えした。低く始まり、最後は私の耳でとらえられる最も高い音で終わる、長く、 震えるような遠吠えだった。 オーテクが私の腕をつかみ、嬉しそうににやりと笑った。 「カリプーがこっちに来る。オオカミがそ、つ言った」 1 16
また、何やら自分の知らないタイプのシャ 1 マンであるに違いないと考えていたことを発見した。彼 の観点からすると、そう仮定すれば、それ以外には説明できないような私の行動をほとんどすべて説 ちゅうちょ 明することができるし、さらに、そんな利己的な動機を想定することには躊躇を感じるけれど、私 と一緒にいれば、自分の職業である秘義的な実践の知識を広げることができるかもしれないと考えた のだとしても理解できる。 いすれにせよオーテクは、私と一緒にいる決心をし、翌日には、自分の寝間着持参で私のオオカミ 観察のテントに姿を現わした。明らかに、長逗留のつもりでいる。彼が足手まといな厄介者になるの ではという私の恐れは、すぐに溶けて消えた。オーテクはマイクからいくつかの英語の単語を習って いて、飲みこみはすばらしく、すぐに基本的なコミュニケーションを確立することができた。私がひ たすらオオカミ研究に打ちこんでいることがわかっても、彼はまったく驚かない。それどころか、自 分もまたオオカミに対して強い関心を抱いているということを伝えてくれた。その理由のひとつは、 アマロック、すなわちオオカミの霊が彼の個人的なト 1 テム、すなわち守護霊であったからだ。 オーテクはこのうえない助けになることがわかった。彼は、本に書かれているような、われわれの 社会に受け入れられているオオカミに関する誤った考えをまったくもっていなかった。事実彼はオオ カミと親しい間柄で、本当の親族と見なしていた。後に私が彼らの言葉をいくらか習い、私に対する 彳の評価が向上したとき、彼はこんな話をしてくれた。彼が五歳の頃、名のあるシャーマンだった父 105