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検索対象: 王とサーカス
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1. 王とサーカス

何歳ぐらいだろうか。三十五歳から五十五歳の間なら、いくっと言われても納得できる。外 国人旅行者向けのロッジにいるのだからネパール人ではなさそ、つだが、どこの人ともわからな い。タイ人ではないかと予想するが、これは直感というよりも、袈裟と禿頭から無理にこじっ いちべっ 姿が目に入らなかったかのように、 けたような気がしないでもない。彼はわたしを一瞥したが、 またマグカップに口をつけた。 もう一人は、それとは対照的だった。だしぬけに、 「やあ」 と声を掛けられる。 「昨日チェックインした人だね。ここはいい宿だよ。何泊の予定 ? 」 英語だ。作ったように明るい声だった。白い肌を紫外線で赤くした若い男が、これもどこか号 作為的な笑顔を向けてきている。髪は黒いが、よく見れば僅かに茶色がかっている。濃緑で無〇 地のシャツに、デニムパンツを穿いていて、痩せているわけではないのに線が細いと真っ先 に感じたのが不思議だった。一一十代前半だろうか。ただ、白人の年齢を推測した経験はほとん亠 どないので、自信は持てない。彼はおどけたように唇の端を持ち上げた。 キ 「そんなに睨まないでくれよ。それとも、英語はわからないかな。ナマステ ! 」 「英語はわかります」 言っても無駄だろうと思いつつ、付け加える。 「それに、睨んではいないわ」

2. 王とサーカス

「いえ、七時なら、もう誰もいなかったでしよう」 現地の人間が一一一一口うなら、そ、つなのだろう。バランは続けて訊いてくる。 「では、車を見ていたのはなぜですか ? 「この空き地で光を出しそうなものは、この軽自動車のヘッドライトしかありません。明かり が点いたかどうか確かめたかったのです」 「ふうむ」 そう唸ると、バランはそれまでと違った興味深そうな目でスズキ車を見まわした。 「しかし、仮にエンジンが生きていたとしても、照明にはならなかったのでは ? 「はい」 スズキ車と死体の位置関係を見ると、ちょうど直線上に並んでいることに気づく。ただ、車 の向きが逆だ。車は死体に後ろを向けていた。もしエンジンを掛けられても、ヘッドライトは 。バックライトも光源と言えば光源だが、いかにも ビルの壁を照らすだけに留まってしまう 弱々しい 「車をまわすわけにもいきませんしね」 「そうですね」 ノランが 軽自動車のタイヤは外されている。動かしようがない。わたしの視線の先を追い、ヾ 肩をすくめた。 「タイヤは高く売れますし、鉄屑よりも運びやすいですからね。取り外しの道具がいるから厄 15 二人の警官 317

3. 王とサーカス

廃ビルの中は、想像していたように埃のにおいが立ちこめていた。喉をやられてしまいそう で、ポケットからハンカチを出して口に当てる。けれどもちろん、これから人の話を聞くのに こんなことはしていられない。数回呼吸してから、そっとハンカチを外す。 ボディバッグからポイスレコーダーを出して、胸ポケットに入れる。スイッチを入れておく べきか考える。本来なら、録音してもいいかどうか相手に尋ねてから入れるのがマナーだ。け れど時と場合によっては、隠して録音することもないわけではない 今回はスイッチは入れないことに決める。隠して録音する理由がないし、もし露見した場合 に危険すぎる。 一階はダイナーのような場所だったらしい。わたしが入り込んだのはキッチンだった。既に 全ての食材が片づけられて久しい : : と思、つのだけれど、目にも留まらぬ速さで虫が床を這っ ていく。台所によく出る例の虫のように見えた。もっともこれは、わたしの心理が見せた幻だ ったかもしれない。蜘蛛の巣が張ったガスコンロやドアが半開きになった食器棚、床に落ちて いるソースパンを見ながら、キッチンを通り抜けようとする。そこでわたしの耳は、微かな音 を捉えた。 : という、均一な機械音だ。どこから聞こえてくるのか確かめようと、耳の向きを少 しずつ変える。壁に向けると音が大きくなる。業務用の大きな冷蔵庫がまだ生きているのかと 思ったけれど、そ、つではなかった。冷蔵庫に隠れていた死角に配電盤がある。音を立てている 182

4. 王とサーカス

「これから調べる。全部これからだ。何も答えられることはねえよ」 わたしは警官に礼を言って引き下がった。 屈み込んでいる警官一一人が、何やら身振りを交えて話し合っている。やがて一方が、死体の 肩に手を掛けた。どさりと音を立てて、死体が仰向けになる。 背中に傷で文字を書かれた死者は、ネパール国軍准尉、ラジェスワルだった。 死体発見から一時間後。わたしはト 1 キョ 1 ロッジの自室に戻っていた。 あめ 部屋の明かりも点けず、飴色の机に両肘を乗せ、指を組み合わせてひたいに当てる。 昨日話した人間が、今日はも、つ冷たくなっている。それは初めての経験ではなかった。 何度か取材していた起業家、いっ死んでもおかしくなかったような無頼漢、若くして病気に 斃れた伯父、それに、遠い異国から来た大切な友人。これまでいくつかの死に巡り合ってきた。 けれど初めてではないからといって、無反応になれるわけではない。気がつくと、指が震えて いた。膝も。全身に力を込めて、震えを止めようとする。 ラジェスワルは、わたしには何も話してくれなかった。問いだけを投げかけて、後は全てを 拒絶した。 彼は王宮事件を恥だと言っていた。ネパール王国のトラブルが世界に配信されるのは耐えが たいことだと思っていた。ふだん、イノー丿。ー 、ヾレこよ興味を持たない、この国が王国であることさえ 知らない世界中のふつうの人々が、センセーショナルな問題が起きた時だけ目を向けてくるこ たお 214

5. 王とサーカス

国王の死は警護の失敗を意味する。語りたくないという気持ちになるのは、当然かもしれな けれどラジェスワルは、ただ断ると言っただけではなかった。彼は、なぜ、と問いかけてき た。なぜ報じなければならないのか。 なぜか。 「 : : : 正しい情報が広まれば、この国に世界が助けの手を差し伸べることもあるでしよう」 「必要ないー 「そ、つでしようか」 くちびるが乾くのを覚える。 「いまでさえ、この国には多くの支援が寄せられています。王室が揺らいだとなれば、それは ますます必要になるのではありませんか」 ラジェスワル准尉は初めて、笑った。 「マオイストとの戦いに向けて ? お前は私を脅迫するのか。お前に話をしなければ、世界はス サ 助けに来ないと そんなつもりは毛頭なかった。けれど、そ、つ聞こえても当然だった。わたしは、自分の取材王 のために世界を引き合いに出してしまったのだ。頬が赤くなるのを感じる。 「失礼しました、准尉。わたしは、ただ、真実について言いたかっただけなのです」 「それは理解する。お前を責めはしない 191

6. 王とサーカス

ゅ、つよ、つ 八津田は悠揚迫らぬ調子で、 あさって 「明後日か、その次か と答えた。 「それじゃあ、そのつもりでいますー きびす 踵を返して戻っていく吉田を見送り、思わず八津田をまじまじと見る。わたしはよほどおか しな顔をしていたのか、八津田は苦笑いをした。 「吉田さんも言い方が悪い」 「あの、いま、仏さんって : : : 」 明後日あたりに亡くなりそうな病人がいるのだろうか。それにしては気楽なやりとりだった。 「仏さんは仏さんでも、仏様ですー 謎かけのよ、つなことを一一一一口、つ。 「と、言いますと : : : 」 プ それには答えず、八津田は吉田に向けて声を上げた。 ャ 「なあ吉田さん。あんたが妙なことを一一一一口うから、こちらのお嬢さんがびつくりしていなさるぞ」キ ン 吉田は再び菜箸を取りながら、人の良さそうな笑みを浮かべる。 レ 「へえ。何か言いましたかね」 「仏さんと言ったろう」 思い当たったらしく、吉田は「ああと頷いた。わたしに向けて、一言う。

7. 王とサーカス

「名前なんか知るか。いつも部屋の掃除に来るガキだよ ! 」 ゴビンで間違いない。ロプはいきなりドアノブに手を掛け、引いた。当然ドアはチェーンに 阻まれ、硬い音を立てる。舌打ちすると、彼はチェーンロックを外し始めた。 「ロプ ! 何をするの ! 」 「あのガキが俺をおびき出したんだ。あいつが俺の銃を盗んだんだよ ! 」 ロックが外れる。ドアが内側に開かれ、ロプが廊下に飛び出す。止める間もなかった。彼は 階段を駆け下りていく。わたしも身を翻し、後を追う。今日のロプは感情の起伏が激しすぎる。 閉じこもって悪い想像ばかりしていたからなのか、あるいは何か薬物の影響下にあるのかもし れない。 ロビーでは、ロプが早くもチャメリに詰め寄っていた。 「あの客室係はどこにいるって訊いてるんだ ! 」 一一一一口葉は激しいが、手は出していない。襟首でも掴んでいるのではないかと思っていたわたし は、少しだけほっとした。チャメリが助けを求める目を向けてくる。 「タチアライさん、フォックスウエルさんは何を かろうじて二人の間に立ち、つとめて淡々と、わたしは言った。 「彼は、客室係のゴビンに嘘をつかれたと怒っているのです」 そしてロプに向けて両手を胸の前に挙げ、も、つ少し離れるよう押しのける仕草をする。 「ロプ。いま、街には外出禁止令が出ている。警官や兵士が巡回していて、誰か外に出ていれ

8. 王とサーカス

ろを振り返って初めて、人々の怒りを撮れるのだ。 もしかしたら抜け道があるかもしれないけれど、それを案内してくれるサガルは帰ってしま った。そもそも、さすがにこの場に子供は連れてこられない。もしどうしても人々の顔を撮ろ うとするなら、この群衆をかき分けて前に出るしかないだろう。しかしもし移動中に人々が暴 徒化したら、あるいは警官隊が発砲したら、どこにも逃げ場がなくなる。まだ大丈夫だとは思 、つけ・れど : 何かもっといい方法はないか、周囲を見まわす。気づくとすぐ近くに、ネパールのテレビ局 なのか、パラボラアンテナをつけた車が停まっていた。その車の屋根にカメラマンが上がり、 背伸びするようにして群衆を撮っている。彼らは前に出ることを諦めたらしい。あの中継車で 人の群れに突入するわけにもいかないだろう。 他にも、記者らしい姿はまばらに見られた。その中で、通りの反対側で何かを話し合ってい る二人組に目が留まった。格子模様のシャツに灰色のパンツを穿いた若い男と、髭を生やしひ たいにバンダナを巻いた中年の男で、バンダナの方がカメラを手にしている。おもちゃのよう 街 なわたしのデジタルカメラとは違うが、プロ仕様にしては小さなカメラだ。 の 二人は日本人ではないか、という気がした。若い男の履いている靴が、日本の靴メーカーが噂 出しているスニーカーだったのだ。もちろん、国産の靴を履いているから日本人だとは限らな 8 い。 ) けれどサガルも言っていた。日本人ですかと声を掛けて、もし間違っていても、殴られる わけではない。

9. 王とサーカス

らこそ、子供たちの姿がより目に入るようになってきたのだろう。 ことわざ 「それ、ネパールの諺なの」 「俺の言葉さ」 そう言って、サガルはにやりと笑った。 彼の一一一一口うことに一理あるとしても、それでも平日の昼間にしては子供の数が多いように思え てならなし、イノー丿 、。、ヾレの休日は日曜日ではなく、イスラム国家で一般的な金曜日でもなく、土 曜日のはず。今日は金曜日だ。 わたしの疑問を察したのか、つまらなそうにサガルが付け加える。 「ま、確かに子供は多いよ」 「このあたりには、ってこと ? すると彼は、しよ、つがないなとばかりに首を振った。 「そういうわけじゃない。この国じゃ、赤ん坊が死ぬことはしよっちゅうだったんだ。医者が 少なくってね」 「なんとかっていう外国の連中が来て、この国の子供たちがどうなってるのか世界中に知らせ た。おかげで金が集まって、赤ん坊が死ぬ数はぐっと減った。この街に子供が多いのはそれが 理由さ。母さんが一一一口うには、そいつらの助けがなかったら俺も危なかったらしい 「なんとかって、」

10. 王とサーカス

受け答えはバランの担当らしい。彼は「それなんですが」と言いながら、白いものが交じる 、ヾール語で二一一口一言った。するとチャメリはくるりと 頭を撫でる。そしてチャメリを見ると、、イノ しいなのに・及は、 背を向けて、奥に下がっていく。人に聞かれたくない話なら、場所を移せば、 場所はここでいいと言い、チャメリを立ち去らせた。警官らしいとは思わなかったが、少し、 人に命令することに慣れた雰囲気を感じた。 チャメリの姿が消えると、バランは改めて言った。 「驚かせたら申し訳ありませんが、私たち、実は警察官なんですー 「そうですか。 「おや、驚きませんねー 「驚いています。あまり顔に出ないのです . バランはえびす顔で頷いた。 「チーフから聞いたとおりです。昨日あなたの話を伺った警官、彼が私たちの上司です。彼の 命令で来ました」 「なるほど」 チェックシャツの二人を見る。 「改めて連行する、というわけではないようですが」 。チーフの命令は、あなたを守ることです」 それは意外な一一一一口葉だ。バランが手を打った。 15 二人の警官 299