ロックフェラー大学は、クイーンズボロープリッジを越えたイーストリバ んまりとたたずんている。陸地側の地番ていえば、ヨークアベニュー、 6 6 丁目。ヨークア ふつう べニューはマンハッタンを縦方向に走る主要ストリートのうち一番東側の通りだ。 観光客はこんな場所まて来ないし、地元ニューヨーカーてすら、樹木に囲まれたこの場所 のことを公園か何かだと思って通り過ぎていることだろう。ヨークアベニューと丁目ス ロー・キ トリートの交差点にある小さな門に近づいて、控えめなプレートを読んて初めてここが大 学てあることが知れる。 RockefeIIer University ¯pro bono humani generis— ( ロックフェラー大学 ) ( 人類の向上のために ) この大学は二十世紀の初め、アメリカの医学研究振興のためにロックフェラー財団が設 立したものて、当初はロックフェラー医学研究所と呼ばれていた。今ても中央ホールやい くつかの研究棟は設立当時の重厚な建物のままぞ、縦型のらせん状階段や天井の意匠には 凝ったデザインが残されている。世界各地から人材を集め、基礎医学と生物学に特化して 次々と新発見を打ち出し、ヨーロッパ中むだったこの分野をアメリカに引き寄せるのに大
していたのてある。 ロサリンド・フランクリンの x 線解析 私の手には今、一枚の写真がある。ロサリンド・フランクリンを写したものだ。そこに オすむ彼女がいる。モノクロ写真なのて彼女の髪の は地味なプラウスを着てひかえめにたこ 毛の正確な色はわからないが、おそらく黒に近いプラウンてあろうか、ライトを浴びて美 才 ( 力。られている。あいまいな、徴笑にも見 しく輝いている。彼女の眼はどこか遠くに殳ガ、ナ える表情にはしかし深い憂いが宿されている。 フランクリンは一九二〇年、イギリスの裕福なユダヤ人家系に生を受けた。厳格な両親 は彼女を九歳から寄宿学校に入れ、与えうる限りの最高の教育を受けさせた。聡明な彼女 は早くから理数系の学科に興味を持ち、大学はケンプリッジに難なく進学した。 当時、ケンプリッジー よ女子の入学とユダヤ人の入学を認めてしばらくたった頃だった が、さまざまな因習が男子学生と女子学生とを隔てていた。フランクリンはそのようなこ 成績は常にトップクラスだった。彼女よ とに拘泥することなく自分の勉強を進めていた。 そのまま大学院に進学し、物理化学てケンブリッジの博士号を取得した。 彼女の専門分野は線結品学だった。未知物質の結品に >< 線を照射する。すると波長の 10 8
ハラーディは解像度を緩めることなく、に 立ロ分てはなく全体を記述したのだ 一フーデ 〃細胞の構造的・機能的構成に関する発見に対してみ、一九七四年、ジョージ・ ート・クラウド、クリス イは、同じく口ックフェラー大学の二人の共同研究者、アルバ チャン・ド・デュープとともにノーベル医学生理学賞を受賞した。ロックフェラー大学の 細胞生物学研究が最も輝いていた時代だった。 一フーディはみ、こ ロックフェラー大学て私が研究生活を始めた当時、すてにジョージ・ ノ にはいなかった。彼は、イエール大学医学部、ついぞカリフォルニア大学サンディエゴ校 に移って学部長レベルの行政職についていた。 不が働いていた研究室の片隅に古びた踏み台が転がっていた。試薬棚の高い場所から薬 品を取るときに使う円形のスツールのようなものぞある。その側面には、フェルトペンて "PALADE LAB こという文字が書かれていた。私はそれを発見して嬉しくなった。そう、 この踏み台は、い まや薄汚れてはいるものの、パラーディをはじめとする偉大なる先駆者 たちの足跡を宿した、まぎれもない歴史の遺物なのだ。 ったな 日本から拙い手紙を書いて求職してきた、どこの馬の骨とも知れない私をロックフェラ ー大学に雇い入れてくれたジョージ・シーリー博士は、。、 ノラーディの弟子の一人てある。 つまり、私は、名も無い研究者の卵とはいえ、 ハラーディの孫弟子に当たるのだ。 2 0 2
図書館の二階の一隅には黒ずんだプロンズの胸像がおかれていた。私はしばらくの間 ( したある日、いつものように図書館へ その存在も、そしてそれが誰なのかも気づかず一 ハラ。ハラと新着雑誌を眺めたりしながら、ふと胸像のプレートに目を留めた。そこ には、 Hideyo Noguchi と銘が入っていたそうなのだ。野口英世もかってここにいたこ とがあったのだ。貧困と、幼い頃の屋我という二重の試練を克服し、単身アメリカに渡り 世界的な医学者となって功成り名を遂げた人物。そして最期はアフリカて研究半ばに非業 たお の死に斃れた人物。日本人なら誰ても知っている偉人伝ストーリー ところが、ロックフェラー大学における野口英世の評価は、日本のそれとはかなり異な ったものとなっている。私は、ロックフェラー大学の何人かの同僚に聞いてみたが、誰も 図書館の胸像がどんな人物なのかを知ってはいなかった。 相反する野口英世像 今、私の手元には、二〇〇四年六月発行のロックフェラー大学定期刊行広報誌がある。 ここには、野口英世をめぐる奇妙なトーンの記事が掲載されている。 記事はいささか揶揄的な書きつぶりて、丁目に面したロックフェラー大学門衛所に、 おずおすと頼みごとをする日本人観光客がこのところ急増してきたことを伝える。図書館
オこの頃の京都大学はき 私は、一九七〇年代が終わろうとする頃、京都大学に入学しこ。 わめてのんびりしていて、学年の進級に関して何の制約もなかった。単位はすべて卒業ま てに取得すればよく、各人の専攻も入学時に決まっており、東京大学のように専門課程へ の進学振り分けに際して点数が細かく間われることもなかった ( それに応じて、教師の側 も実に大雑把な成績しかつけていなかったと思える ) 。結局、自由気まま、自堕落な学生 生活を散々送った挙句に、四年生になってからあわてて単位をそろえるような学生も多数 いた。それを彼らは「教養がじゃまする」などと称していた ( 教養課程の単位不足という 意味てある ) 。そんなことてあるから、高校を出たばかりの一年生の語学クラスに﨟長け た四年生が少なからず混じりこんていた 今から思えばこのようなモザイク性こそ大学の面白さだといえるのだが、そこて私が学 んだことて、今ても慮えているのがこの「ふるまい」という一言葉なのてある。 物か事かあまり定かてはないす、 何らかの無生物が主語て、その behav ぎ r について記 述された文章だった。意味は取れるものの、誰もうまく訳せなかった。そんなとき後ろの ( した四年生が、ふるまい って訳されていることが多いてすよ、といったのてあ る。物質のふるまい方。それ以降、この言葉は私の引き出しに大切にしまわれた。 純度のジレンマは、純化のプロセスと試料の作用との間に同じ「ふるまい」方が成り立 ろうた 53 第 3 章フォー・レター・ワード
を一心不乱に弾いていた。 音は外にはわずかしか聴こえてこない。私は黙ってその場を離 クラーク・ケントこ ( 別の顔があることをその後、私は知った。むしろそれが彼のほんと うの顔だった。彼は午後の限られた時間ロックフェラー大学て働いた行ウイレッジに行 く。「スティープは ska だよ。彼のグループ、知ってるかい トースターズっていうん た」。私はそれまてスカ・ビートのことも、グリニッジ・ヴィレッジのことも、トースタ ーズの有名さもまったく知らなかった。 私たちは、その後もロックフェラー大学の、イーストリバーを見下ろす古びた研究室の 片隅て、黙々と実験をこなした。スティープは時折「昨日は明け方まぞやってたから眠く って」とか「ビルの裏てマグ ( 羽交い絞めされて金を奪われること ) されそうになった」など とつぶやくことかあったが、私はあえて彼に彼の音楽について間うことはなかった。私に は間うべきことがほとんど思いっかなかったし、それがどういう形態てあれ、研究がきわ めて個人的な営みてあることを私たちはお互いに尊重しあっていたのだと思う。 のちに、研究室のポスが、ニューヨークのロックフェラー大学からポストンのハ ド大学医学部に移籍することになり、私たちポスドクは研究室の備品やサンプルとほば同 じ扱いて一挙にポストンに輸送されることになった。雇われている以上そこに選択の余地
ントてある。それゆえに彼らの最優先事項は、国の研究予算あるいは民間の財団や寄付な どを確保することてあり、それに狂奔する。グラントがすべてのカの源泉ぞあり、研究資 金のみならす自分のサラリーもここから得る。 大学と研究者の関係は、端的にいって貸しビルとテナントの関係となる。大学は研究者 の稼いだグラントから一定の割合を吸い上げる。これをもって研究スペースと光熱通信、 メンテナンス、セキュリティなどのインフラサービス、そして大学のプランドが提供され ード大学医学部の研究室に移ったが、こ 私は麦に、ニューヨークからポストンのハ こてはこのシステムが徹底していた。 研究スペースの割り当ては完全にグラントの額と比 。。、区け出しの研究者には窓の 例していた。 巨額のグラントをもっ研究者には潤沢な面積カ馬 ない小部屋が与えられる。万一、グラントの更新に失敗すれば、つまりショバ代が滞れ ば、たちまち退去てある。 ナい研究者は山のようにいるのだ。私が在籍 していた数年の間にも激しい新陳代謝が繰り返された。ちょっと見かけないなと思ったら 彼の実験室はがらんとした更地となり、まもなく新しい研究チームが意気暢々と乗り込ん てきた。 私たちポスドクは、ある意味て過酷な、リ 男の意味ては気楽な稼業てある。新陳代謝を横 87 第 5 章サーファー・ゲッツ・ノーベルプライズ
夏休み海辺の砂浜を歩くと足元に無数の、生物と無生物が散在していることを知 る美しいすしが幾重にも走る断面をもった赤い小石私はそれを手にとってしばら く眺めた後砂地に落とすふと気がつくと、その隣には、小石とほとんど同し色使 いの小さな貝殻があるそこにはすでに生命は失われているけれと、私たちは確実に それが生命の営みによってもたらされたものであることを見る小さな貝殻に、小 石とは決定的に違う一体何を私たちは見ているというのたろうかー・・・ー本文より 生 物 と 生 物 1 9 2 0 2 4 5 0 0 7 4 0 6 の あ 福 岡 生物と無生物のあいた 福岡伸ー lSBN978-4-06-149891-4 C0245 ¥ 740E ( 0 ) 9 7 8 4 0 6 1 4 9 8 9 1 4 定価 : 本体 740 円 ( 税別 ) 福岡伸一 ( ふくおかしんいち ) 一九五九年東京生まれ京都大学卒 大学医学部研究員京都大学助教授などを経 て、現在、青山学院大学教授専攻は分子生物 学著書に『もう牛を食べても安心か』 ( 文春新 書 ) 、「プリオン説はほんとうか ? 』 ( 講談社ブルー バックス、講談社出版文化賞科学出版賞受賞 ) な どがあるニ 0 0 六年第一回科学ジャーナリス ト賞受賞 講談社現代新書 講談社現代新書 1891 1891
呼ばれる褐色の石積み建物の間からのぞく空は鈍く低い。まもなく長い冬が訪れる。一日 中、気温が零度を上回らない日も多くなる。そんな夜は街路灯や遠くの窓辺の光が、透明 なまてに鋭角的に澄んて見える。空気中の水蒸気がすべて氷結して地表に落下してしまう のて、光の通り道にそれを散乱するものが何もなくなるのだ。 ニューヨークから北東へ約二百キロ上がった、同じ大西洋岸に位置するこの街には、ニ ューヨークには確かに存在していた何かが欠けていた。新しい環境て研究を再開すること にに殺されていた私には、最初、それが何てあるのかわからなかった。新しい環境とはい きようたい え、筐体が変わっただけて私のポスドクとしての立場には何の変化もなかった。 ポスドクは、研究室の奴隷 ( ラブ・スレイプ lab slave) 、これが私たちの乾いたジョークだ った。朝から夜遅くまて、実験台に張り付いて小さな試験管やピペットを操作する。こま ねすみのように冷凍室と遠心機室をにしく往復してサンプルの精製を進める。測定器の前 に陣取って細かい数値を書き取る。暗室にこもって線フィルムを現像する。心を石にし て、無数のマウスをあやめる。 し」 - い A っ》し」 当時、私が所属していたのは、、 ド大学医学部の分子細胞生物学研究室 ドの他、マサチューセ ころだった。不田 5 議なことに、こんな極寒の小さな街に、 ツツ工科大学、ボストン大学、タフツ大学、世界て最も有名な先端医療センター 18 8
起こればたちまち生命は変調を来すだろう。分泌の障害は、発育不良や糖尿病のような疾 患の主要な原因となっているかもしれない このような着眼点を持って細胞の動態を調べようとしたのは、むろん、私たちが初めて てはな、。 ここには細胞生物学という一大研究分野があり、数多くの先人たちの努力があ 細胞生物学とは、一言ていえば「トボロジー」の科学てある。トボロジーとは、一言て えば「ものごとを立体的に考えるセンス」ということてある。その意味て、細胞生物学 者は建築家に似ている。 ハラーディのターゲット 話はしばし、、ポストン・ ト大学からニューヨーク・ロックフェラー大学へ戻 一九六〇年代から七〇年代にかけて、ロックフェラー大学は細胞生物学のセンター・オ プ・エクセレンス ( 研究の世界的な中枢 ) てあり続けた。その中心人物がジョージ・ ディぞある。彼はルーマニア出身の研究者て、俳優のマルチェロ・マストロヤンニを思わ せる渋みのある風貌をしていた。。、 ノラーディが取り組んだ課題は、細胞の内部て作られた ノ ノ 191 第 11 章内部の内部は外部て、ある