研究室 - みる会図書館


検索対象: 生物と無生物のあいだ
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1. 生物と無生物のあいだ

それ 十年以上。それ以降、おそらく廊下も壁も改装されて当時の面影はあるはずもない。 ても私にはエイプリーの影が見えたような気がした。 それは、エイプリーがまさにこの廊下を行き来していた頃、ロックフェラー研究所と同 じくマンハッタンにあったコロンビア大学・生化学研究室一 にいた Z < 研究者、アーウィ ン・シャルガフが書いた次のような文章が心のどこかに残っていたからてある。 私はしばしばロックフェラー医学研究所を訪れた 私は・ バーグマンの研究室 にしったのてあるが ときどき廊下の壁ぎわを、薄茶色の実験着をきた年老いたネ ズミのような影がちょろちょろしているのを見かけた。それがエイプリーてあった。 (x ・・デュボス『生命科学への道』〔柳沢嘉一郎訳〕岩波現代選書、一九七九。訳者あとがきより ) ェイプリーは一八七七年、カナダて牧師の息子として生まれた。十歳のとき、米国ニュ ーヨーク市に移った。コロンビア大学ては医学の道に進んだ。ェイプリーが科学研究を始 めたのは一九一三年、ロックフェラー医学研究所に勤務してからのことごっこ。 オ学 / このし」き」 ェイプリーは三十六歳。研究者としてはかなり遅いスタートだった。 彼は研究所から三プロックほど離れた小さなアパートこ ( 住んていた。朝九時ごろ研究所

2. 生物と無生物のあいだ

ェイプリーは自分の研究成果を誇示したり、ことさら外に向かって宣伝するようなこと は一切しなかった。ただ 一歩一歩、得られたデータから導かれる控えめな推論を記述した 論文を投稿していった。それらは、当時、彼の所属するロックフェラー医学研究所が発刊 していた、ジャーナル・オフ・イクスペリメンタル・メディスン ( 実験医学会雑誌 ) という 専門誌に掲載された。 ェイブリーは謙虚ごっ、驀、 オオカしかし、その批判者たちは容赦なかった。形質転換物質、 つまり遺伝子の本体が 2Z< てあることを示唆するエイプリーのデータに最も辛辣な攻撃 を加えたのは、なんと、同じロックフェラー医学研究所の同僚、アルフレッド・マスキー だった。彼は、執拗に、コンタミネーションの可能性を指摘した。形質転換をもたらして いるのは、 Z てはなく、エイプリーの実験試料に含まれている微量のタンパク質の作 用に他ならないと。 ZZ< のような単純な構成の物質に遺伝情報が担えるはすがなく、遺 伝子の本体はタンパク質てあるはずだと。 研究者仲間から、それもよりによって同じ研究所員から激しい反撃をうけたエイプリー の心中は穏やかだったてあろうはすがない。 それは彼が学究生活に求めていた清明さの対 極にあるものだったろう。それてもとりうる道はひとっしかなかった。、 てきるだけ Z を純化して形質転換を実証するしかない。

3. 生物と無生物のあいだ

彼はてきるだ て明確に示しえなかったのてある。それてもエイプリーの論文を紐解くと、 けこの現象を定量化しようとさまざまな工夫を凝らしていた過程を読み取ることがき そして結局、エイプリーが正しく、マスキーは間違っていたのてある。ェイプリーを支 えていたものは一体何だったのてあろうか。ェイプリーがロックフェラー研究所のホスピ タル棟六階の研究室て、肺炎双球菌の形質転換実験に邁進していたのは一九四〇年代初頭 から半ば、彼はすてに六十歳を越えていた。もちろん彼は研究室を主宰するプロフェッサ ーてあり、複数のスタッフを擁していたが、彼は自ら試験管を振り、ガラスピペットを操 , 『していた 研究室員はそんなプロフェッサーを、敬意を込めて〃フェス〃と呼んてい おそらく終始、エイプリーを支えていたものは、自分の手て振られている試験管の内部 て揺れている Z << 溶液の手ごたえだったのてはないだろうか。 Z << 試料をここまて純 化して、これを型菌にえると、確実に co 型菌が現れる。このリアリティそのものが彼 を支えていたのてはなかったか。 これは直感とかひらめきといったもの 別の言葉ていえば、研究の質感といってもよい。 とはまったく別の感覚てある。往々にして、発見や発明が、ひらめきやセレンデイピティ 0 まいしん 55 第 3 章フォー・レター・ワード

4. 生物と無生物のあいだ

建物はシンプルな造りて、どの階も廊下が真ん中に走り、その両側に狭い研究室が雑然 と並んて いた。ビルは地下二階と地上十階まてあったのて、ほとんどの研究所員は建物中 央にある古びたエレベーターを利用していた。私の所属していた分子細胞生物学研究室は ちょうど中層の五階にあった。廊下の端には控えめな扉があり、そこを抜けると普段誰も 使わない階段室に出る。私はその階段が気に入っていた。 手すりの造形はおそらく当時 階段は長円形のらせんを描いて下から上へと昇っていた。 の流行だったのだろう、凝った彫刻が施されていて、上層階から階段の内側を見下ろすと 細長い輪が規則正しく いくえにも重なって見えた。じっと見つめているとめまいを起こし そうなその幾何学文様は私に、少年時代に見た co ドラマ、タイムトンネルを思い出させ いや文字通り、その階段はタイムトンネルてあったのだ ニューヨークての研究生活に農れ始めたある日、研究室のボスが私に教えてくれた。 ェイブリーたよ」 / E2. ( = 一ⅱ力しオカ′去 . って ( る力し ? ・ 「シンイチ、この上のフロアーの六皆こ隹す 実験て遅くなった夜、私はらせん階段を一層上がって六階に出てみた。人気のない廊下 は静まり返っていた。リノリウムの床が電灯ににぶく照らされている。実験サンプルを収 内した令東庫だけが氏い音を立てていた ェイブリーがここて過ごした最後の日々から四 4 1 第 2 章アンサング・ヒーロー

5. 生物と無生物のあいだ

盗み見られた >< 線写真 ロザリンド・フランクリンは、自分が独立した研究者てあり、 z << の >< 線結品学が自 分のプロジェクトだと考えていた。ところが、彼女が所属する前からロンドン大学キング ズカレッジて Z << 研究に携わっていたモ ーリス・ウイルキンズの認識は異なっていた。 ウイルキンズは、フランクリンを自分の部下だとみなしていた。そして自分が研究 プロジェクトの統括者だと考えていた。線結品学に疎いウイルキンズは、フランクリン の参加によって自分のプロジェクトが大いに推進されることを期待していた。この齟齬が 不幸の始まりだった。 曖昧さや妥協を一切許さないフランクリンは研究所内てことあるごとにウイルキンズと 衝突した。ある時など、ウイルキンズに対してきつばりとから手を引くようにいい 渡したこともあった。ウイルキンズはこの冷戦にほとほと手を焼いていたようご。 ウイルキンズとフランクリンが所属していたロンドン大学キングズカレッジと、ワトソ ンとクリックが所属していたケン。フリッジ大学キャベンディッシュ研究所は Z 構造解 明を巡ってライバル関係にあった。しかし両者は私的なレベルては友好関係にあった。特 に、クリックとウイルキンズは年も近く、古くから親交があった。ウイルキンズはクリッ 113 第 6 章ダークサイド・オプ・ DNA

6. 生物と無生物のあいだ

ハッタンにあったコロンビア大学・生化学研究室の研究者、アーウイン・シャルガフてあ る。研究所の暗い廊下を行き来する年老いたネズミのような影。その影が去った後を追っ て、科学者たちは、こぞってを分析しはじめた。皆が、自分こそはコード ( 暗号 ) を解くものてあるとひそかにむに誓っていたむろん、シャルガフもそのひとりごった。 それゆえにこそ、のちに夢破れてからても、彼はエイプリーのことを親愛の追想をこめて ネズミと呼んだのだ。事実、シャルガフは、当時、誰よりも聖杯の隠し場所に肉薄してい たのてある。 そのとき彼は、自らたどり着いた場戸て次のようなメッセージを ~ み解いていた 「動物、植物、微生物、どのような起源の QZ<< てあっても、あるいはどのような の一部分てあっても、その構成を分析してみると、四つの文字のうち、と、 0 との含有量は等しい」 この奇妙なデータは一体なにを暗示しているのだろうか。 私たちも、シャルガフと同じ分析をしてみよう ( ただし、私たちはシャルガフが、持ち たくとも持ちえなかった島の目をもって、を俯瞰てきることとしよう ) 。 6 5 第 4 章シャルガフのパズル

7. 生物と無生物のあいだ

クリンはあらん限りの成果を詰め込んて詳細な報告書を作り上げた。 こだし、これは学術論文はない。 したがって厳密なビア・レビュー、すなわち専門科 学者による論文価値審査を受けることはなく、公表されることもない そのかわり、研究 者は未発表データや研究途上の試験的データも盛り込むことがてきる。とはいえ、英国医 学研究機構の予算権限を持っメンバー達がこの報告書に目を通すことになる。その意味て は、この報告書もまた研究論文と同様、ピア・レビューに晒されることになる。 そのレビューアーの中に、マックス・ベルーッカしオ 、、。、ご。ベルーツは機構の委員てあり、 かっ、クリックの所属するケンプリッジ大学キャベンディッシュ研究所ては、彼の指導教 官にあたる立場にいた。フランクリンが英国医学研究機構に提出した報告書の写しはまず ベルーツに行き、そこからクリックの手に護った。クリックはフランクリンのデータを見 ることがてきたのてある。じっくりと、隹にもじゃまされることなく。 この報告書はワトソンとクリックにとってありえないほど貴重な意味をもっ文書だっ た。そこには生データだけてなく、フランクリン自身の手による測定数値や解釈も書き込 まれていた つまり彼らは交戦国の暗号解読表を入手したのも同然だったのてある。そこ には Z 結品の単位格子についての解析データが明記されていた。これを見れば ラセンの直径や一巻きの大きさ、そしてその間にい くつの塩基が階段状に配置されている 1 2 7 第 7 章チャンスは、準備された心に降り立っ

8. 生物と無生物のあいだ

に出勤し、ホスピタル棟六階の研究室に入り、夜にはまっすぐアパートに戻る規則正しい 生活を生涯にわたって維持した。学会出席や講演旅行などはほとんどせず、ニューヨーク から外に出ることもなかった。生独身を通した。 彼の風貌は一種特異的だった。 小柄て華奢な身体に、禿げ上がって鉢の張った大きな 頭、それていて目は大きく飛び出て、あごは細くとがっていた。まるてグリム童話の小人 かウエルズの co 小説に出てくる宇宙人のように見えた。 彼のロックフェラー時代は、野口英世がここにいた時期と完全に重なる。おそらく二人 は頻繁に会話を交わすことはなかったとしてもお互いを知っていたはずだ。ェイプリーの 研究が佳境に入ったのは、しかし、野口がこの世を去ってからの一九三〇年代のことだっ た。おりしもマンハッタンは長い不况時代から脱するた めに、高層ビルが争うように建設され始めたときてあ る。ェイプリーは研究所への行き帰り、遠くのほうて立 ち上がるクライスラービルやエンハイアステートビルを 眺めたに違いない 家族もなく、きわめて単調に見える彼の生活は、おそ オらく彼の内部ては決してモノトーンてはなかった。天に 43 第 2 章アンサング・ヒーロー

9. 生物と無生物のあいだ

ているのだった。反応のこのステップにはこのような意味があり、それゆえにこのメーカ ーの薄手の試験管を使うのが適当なのだ。 Z に、塩とアルコールを加えると沈殿する のは、ます塩が QZ< の酸陸電荷を中和し、その後アルコールによって疎水的な環境が作 この本のこのページにちゃんと一 られるからだが、その寄な率の程度を知っているかい 。私は舌を巻い 覧表があるんだ スティープは、しかし、やむなくテクニシャンをしているのてはなく、進んてテクニシ ャンをしているのだった。彼がもしアカデミズムの階段を上ろうと田 5 えば、欠けるものは 何一つなかった。東海岸の有名大学を卒業し、製薬メーカーの研究所に勤めたあと、ロッ クフェラー大学のこの職に応募して採用された。そしてすっとここに留まっている。 研究室のボスは、スティー。フの働きにいつも敬意を表して、彼が関ケしたプロジェクト の論文には必ずスティープ・ラフォージの名前を共著者に入れていた。あるときボスは私 にこんなふ - フに、つご。 「スティープはとてつもなく優秀だよ。今の研究を進めれば博士号も取れるしその先もあ しというんだよ」 る。たからつねづねそうしろと激励しているんだ。、 ても皮はい、 スティープと私は不思議とうまが合った。おそらく、他人と一定の距離を保つ彼のあり 方と、言語の障壁からおのすと言葉すくなにならざるを得ない私のあり方が一致したのだ

10. 生物と無生物のあいだ

れもない事実てある。 一尢二八年、野口が研究先の西アフリカて実験対象としていた黄熱病にかかって客死す ると、ロックフェラーては研究所をあげて喪に服し、フレクスナーは野口の葬式一切を取 り仕切った。彫刻家セルゲイ・ティモフェイビッチ・コネンコフに依頼された彼の胸像が 完成し、図書館に飾られた。 ハスツールやコッホの業績は時の試練に耐えたが、野口の仕事はそうならなかった。 数々の病原体の正体を突き止めたという野口の主張のほとんどは、今ては間違ったものと かび してまったく顧みられていない。彼の論文は、暗い図書館の黴臭い書庫のどこか一隅に、 おり 歴史の澱と化して沈み、ほこりのかぶる胸像とともに完全に忘れ去られたものとなった。 野口の研究は単なる錯誤だったのか、あるいは故意に研究データを捏造したものなの 、刀 はたまた自己欺瞞によって何が本当なのか見極められなくなった果てのものなのか、 ( れども彼が、どこの馬の骨とも知れぬ自分を それは今となっては確かめるすべがない。ナ、 拾ってくれた畏敬すべき師フレクスナーの恩義と期待に対し、過剰に反応するとともに、 自分を冷遇した日本のアカデミズムを見返してやりたいという過大な気負いに常にさいな まれていたことだけは間違いないはずだ。その意味て彼は典型的な日本人てあり続けたと しえるのてある。 2 1 第 1 章ョークアベニュー、 66 丁目、 ニューヨーク