自分 - みる会図書館


検索対象: 生物と無生物のあいだ
56件見つかりました。

1. 生物と無生物のあいだ

見ようとして見えなかったもの さて、ただひとつ、もし公平のためにいうことがあるとすれば、それは当時、野口は見 えようのないものを見ていたのだ、ということがある。狂大病や黄熱病の病原体は当時ま だその存在が知られていなかったウイルスによるものだったのだ。自分を受け入れなかっ た日本への憎悪と、逃避先米国ての野心の熱が、野口の内部て建設的な焦点を結ぶことが ついになかったように、ウイルスはあまりにも徴小すぎて、彼の使っていた顕徴鏡の視野 の中に実像を結ぶことはなかったのてある。 うつる病気、すなわち感染症には必ずその原因となる病原体が存在している。それがヒ トからヒトへ、場合によっては動物からヒトへ、乗り移ってくることによって病気が媒介 される。このような病原体の存在をいかにして私たち人類は認識することがてきるように なったのだろうか あなたが研究者だったとしよう。この厳封された試験管の中に、ある病気にかかった患 者から採取された体液がある。この中に病原体が潜んている可能性がある。あなたはま ず、万一、自分自身が感染することのないよう十分な防護措置をとらねばならない。サン しぶき プルに直接触れないよう薄いゴム手袋を両手にはめる。飛沫が飛び散ったときに備えてマ スクを着用し、防御ゴーグルをする。白衣を着用する。器具はすべてディスポーザプル 23 第 1 章ョークアベニュー、 66 丁目、 ニューヨーク

2. 生物と無生物のあいだ

科学者はその常として自分の思考に固執する。仮に、自分の思いと異なるデータが得ら れた場合、まずは観測の方法が正しくなかったのだと考える。自分の思考がまちがってい るとは考えない。 それゆえ、自分の思いと合致するデータを求めて観測 ( もしくは実験 ) を繰り返す。 しかし、固執した思考はその常として幻想てある。だから一向に合致するデータが得ら れることはない。科学者はその常としてますます固執する。隙間に落ちた玉を拾うために 隙間を広げると玉がさらに深みにはまるように、あてどもない試みが繰り返される。研究 に多大な時間がかかるのは実はこのためてある。 仮説と実験データとの間に齟齬が生じたとき、仮説は正しいのに、実験が正しくないか ら、田 5 い通りのデータが出ないと考えるか、あるいは、そもそも自分の仮説が正しくない りよりよく から、それに沿ったデータが出ないと考えるかは、まさに研究者の膂力が間われる局面て ある。実験がうまくい力ない という見かけ上の状况はいずれも同じだからてある。ここ ても知的てあることの最低条件は自己疑がてきるかどうかということになる。 a z < は単なる文字列ではない さて、シャルガフのパズルにもどろ - フ。もとより、シャルガフの場合、あらかじめ Z 6 7 第 4 章シャルガフのハ。ズル

3. 生物と無生物のあいだ

盗み見られた >< 線写真 ロザリンド・フランクリンは、自分が独立した研究者てあり、 z << の >< 線結品学が自 分のプロジェクトだと考えていた。ところが、彼女が所属する前からロンドン大学キング ズカレッジて Z << 研究に携わっていたモ ーリス・ウイルキンズの認識は異なっていた。 ウイルキンズは、フランクリンを自分の部下だとみなしていた。そして自分が研究 プロジェクトの統括者だと考えていた。線結品学に疎いウイルキンズは、フランクリン の参加によって自分のプロジェクトが大いに推進されることを期待していた。この齟齬が 不幸の始まりだった。 曖昧さや妥協を一切許さないフランクリンは研究所内てことあるごとにウイルキンズと 衝突した。ある時など、ウイルキンズに対してきつばりとから手を引くようにいい 渡したこともあった。ウイルキンズはこの冷戦にほとほと手を焼いていたようご。 ウイルキンズとフランクリンが所属していたロンドン大学キングズカレッジと、ワトソ ンとクリックが所属していたケン。フリッジ大学キャベンディッシュ研究所は Z 構造解 明を巡ってライバル関係にあった。しかし両者は私的なレベルては友好関係にあった。特 に、クリックとウイルキンズは年も近く、古くから親交があった。ウイルキンズはクリッ 113 第 6 章ダークサイド・オプ・ DNA

4. 生物と無生物のあいだ

ごけにいそしんていれよ、。 目て見ながら研究だ ポスドクは、独立研究者がグラントて雇いいれる傭兵だ。米国の研究室は基本的にこの 単位、ポスとポスドク、て成り立っている。ポスドクは即戦力の人員として、研究戦争の 最前線に立つ。鵜匠と鵜の関係といってもよい。ポスとの関係は、純粋に期限付きの雇用 契約だけてある。 ポスドクの賃金は安い。私が雇われていた頃て二万数千ドル程度てあった ( もちろん年 俸てある ) 。今てもそれほど変わっていないはずだ。ニューヨークやボストンといった都 会にいれば、まずレント ( 家賃 ) だけて給与の半分は飛ぶ。 それてもポスドクが日々ポスのために研究に邁進てきるのは、次に自分がボスになる日 を夢見てのことてある。ポスドクの数年間に重要な仕事をなして自らの力量を示すことが てきれば ( 成果は論文として表れ、筆頭著者にはポスドク、最後の責任著者にはボスの名 前が記される ) 、それはそのまま独立した研究者へのプロモーションの材料となる。科学 専門誌の巻末には必ずおびただしい数のポスドクの求人広告がある。そしておびただしい 数の応募があるはすだ。つまりここに存在しているのは、少なくともたこつばてはなく流 動性のある何か、あるいは風なのだ

5. 生物と無生物のあいだ

はなかった。、ポスはスティープにも来ないかといった。ニューヨークを離れることは考え られない と彼は答えた。彼は手際よく口ックフェラー大学の別の研究室にラボ・テクニ シャンの職を見つけた。彼ほどの技量があればどこても歓迎される。もちろん彼は勤務時 間について自分の条件を提示したはずてある。 何年か前、それは私がロックフェラー大学に在籍していた時期からするとすてに十年以 上が過ぎていた頃のことだが、大学を再訪し、受付て電話番号帳を調べる機会があった。 そこにはちゃんとスティープ・ラフォージの名前があった。私はかしくなってスティー プの所属するラボを覗いてみた。案の定、彼はいなかった。時刻はまだ午前中だった。 マリスの伝説 自由てあるためのスタイルは他にもある。ラボ・テクニシャンてはなく、ポスドクを渡り 歩くのだ。幸いなことに米国には大きなポスドクの市場があり、常に流動している。えり 好みさえしなければ、ポスドク職をつないていくことはまさに〃自分の好きなことをして お金をもらうみための、とても素敵なあり方になる。グラントの穫得に神経をすり減らす こともなく、研究室内のいざこざに振り回されることもない。研究のテーマこそボスの意 向に沿う必要があるけれど、経験をつんだポスドクには自分の研究方法がある。テーマの 93 第 5 サーファー・ゲッツ・ / ーベルプライズ

6. 生物と無生物のあいだ

したがって、素焼きの陶板ぞ徴生物を含む水を〃濾過みすることがてきる。たとえ衛生 状態が悪く、病原体をたくさん含むよ , フな、つまり、そのまま飲めばたちまちお腹をこわ してしま - フよ - フな水てあっても、陶板を通せば、それを浄化することがてきる。このこと は経験的に知られていた事実てある。ちなみに現在、発展途上国の衛生向上のために配布 されている濾過ボトルもこれと同じ原理が使われている。さすがに陶板てはなく、その代 わりに高分子を網目状に成型した薄いフィルターが装着されている。フィルターの網目の 〇・二マイクロメートル程度てある。 これをボアサイズと呼ぶが 大きさは わくらば イワノフスキーは陶板を使って、タバコモザイク病にかかった病葉の抽出液を濾過して みた。陶板の反対側から染み出てきた液には、普通、病原体は存在しえないはずてある。 だからその液を健康なタバコの葉に塗っても、そこに病気が発生することはない。 実験結果はイワノフスキーの予想を裏切っていた。陶板の濾過液にもタバコモザイク病を 引き起こす力が十分に残っていた陶板を通り抜けることがてきる微生物 ! サイズにす れば単細胞生物の十分の一以下。当然、光学顕徴鏡の解像度ては到底、追いっかない小さ さぞある。もちろんそのような極小の病原体が存在しているなどとは当時、誰も考えても みなかった。イワノフスキーもすぐには実験結果を信じることがてきなかった。 このような場合、つまり自分の予想とは異なった実験結果を得た場合、科学者は普通、 33 第 2 章アンサング・ヒーロー

7. 生物と無生物のあいだ

ていた Z << の行方に田 5 いを馳せる瞬間があっただろうか ロックフェラー大学の人々にエイプリーのことを五らせると、そこには不田 5 議な執 ~ が宿 る。誰まがエイ。フリ . ーにノーベル賞が与えられなかったことを科学史上最も不当なことだ と語り、ワトソンとクリックはエイプリーの肩に乗った不遜な子供たちに過ぎないとのの 皆がエイプリーを自分に引き寄せて、自分だけのアイドルにしたがる理由は他にもある ような気がする。早熟な天才だけが、あるいは若い一時期だけ、、、、 力研究上のクリエイティ ビティを発揮てきる唯一のチャンスてあると喧伝される科学界にあって、遅咲きのエイプ リーはここてもある種の慰撫をもたらしてくれるアンサング・ヒーローなのだ。 しかし、公平のためにいえば、エイプリーはすべての栄誉から見放されたわけてはな 先駆的な科学上の発見を顕彰し、今日ては、将来のノーベル賞を占うものにもなって いるラスカー賞を退官間近の一九四七年 ( 第二回 ) に受けている。外出嫌いの彼が果たし て授賞式に出席したかどうかまては調べることがてきなかった。また、一九六五年九月に は、エイプリーを讃える記念碑がロックフェラー大学構内の木陰に立てられた。そこに は、こ - フ記されている。 57 第 3 章フォー ワ タ レ

8. 生物と無生物のあいだ

れもない事実てある。 一尢二八年、野口が研究先の西アフリカて実験対象としていた黄熱病にかかって客死す ると、ロックフェラーては研究所をあげて喪に服し、フレクスナーは野口の葬式一切を取 り仕切った。彫刻家セルゲイ・ティモフェイビッチ・コネンコフに依頼された彼の胸像が 完成し、図書館に飾られた。 ハスツールやコッホの業績は時の試練に耐えたが、野口の仕事はそうならなかった。 数々の病原体の正体を突き止めたという野口の主張のほとんどは、今ては間違ったものと かび してまったく顧みられていない。彼の論文は、暗い図書館の黴臭い書庫のどこか一隅に、 おり 歴史の澱と化して沈み、ほこりのかぶる胸像とともに完全に忘れ去られたものとなった。 野口の研究は単なる錯誤だったのか、あるいは故意に研究データを捏造したものなの 、刀 はたまた自己欺瞞によって何が本当なのか見極められなくなった果てのものなのか、 ( れども彼が、どこの馬の骨とも知れぬ自分を それは今となっては確かめるすべがない。ナ、 拾ってくれた畏敬すべき師フレクスナーの恩義と期待に対し、過剰に反応するとともに、 自分を冷遇した日本のアカデミズムを見返してやりたいという過大な気負いに常にさいな まれていたことだけは間違いないはずだ。その意味て彼は典型的な日本人てあり続けたと しえるのてある。 2 1 第 1 章ョークアベニュー、 66 丁目、 ニューヨーク

9. 生物と無生物のあいだ

小学校の低学年て、私は都内から千葉県の松戸という場所に引っ越した。東京都の東を 流れる江戸川を渡ったところだ。公務員をしていた父が、新築の宿舎の抽選を引き当てた からてある。一九六〇年代後半の頃だった。当時の松戸市は、東京圏というには田舎じみ ており、田舎というには中途半端な、開発途上のべッドタウンだった。 なせこのような昔話をしているのかといえば、最近、当時のことを田 5 い出すきっかけが あったからだ。の求めに応じて、自分の卒業した小学校に出かけて行って課外授業 を収録した。私は三十五年ぶりに松戸の母校を再訪し、忘れかけていたいろいろな記憶を にい」る一」し」こよっご。 駅ビルとデッキが作られ、周辺の区画はきれいに整えられて、私が覚えているようなこ まごまとした店が並ぶ低い町なみは消えていた。 周囲には高層マンションが立ち、短大が 四大となってその校地を拡張していた。 けれども駅からほど近い台地の上にある、公務員 住宅と隣に広がる公園はそのままだった。私は自分が住んていた棟の前に行って周囲を見 護した。今も誰かかここに住んていることが不田 5 議に田 5 えた。車止め、自転車置き場、ポ エピロー、ク 2 7 4

10. 生物と無生物のあいだ

これまてに数多くのノーベル賞受賞者を輩出している。しかし私が語 きな力を発揮した。 りたいのは、輝かしい稜線をつなぐことてはない。今、ては暗く広いタ闇の中に沈んてしま った山麓のかそけき樹木のざわめきについててある。 私が初めてこの場所に来たのは八〇年代も終わろうとする頃だった。マンハッタンのビ ルの谷間にはさわやかな初夏の風が吹き抜けて街路樹を揺らしていた。私が勤務したの し」。いっ , し J は、ホスビタル棟と呼ばれる最も古い建物の五階にあった分子細胞生物学研究室 ハーが見渡せた。そこには観光客を満載し ころだった。建物の小さな窓からはイーストリ。 川から街を たサークルラインの遊覧船が日がな一日、何便も通過していった。自分は今、 見ているのてはなく、こちらから彼らを眺めているのだ。そんな単純なことだけぞ、自分 がまぎれもなくこの街に属していると感じられ、ひそかに胸が高鳴った。 厳しいニューヨークの冬に備えて、ロックフェラー大学構内に散在する建物は互いに複 雑な地下通路によって結ばれている。実験の合間に、私はしばしばその地下道を抜けて二 十四時間開いている図書館に行った。そしてよく手入れの行き届いた気持ちのいい苔色の ひとけ せいひっ 椅子に深く腰をかけてそっと架呼吸をした。静謐な図書館はふだんあまり人気もなく、ひ とり日本を飛び出してこの地にやってきた私にとって心安らぐ場所てあり、人知れず感傷 一ひたれる場所てもあった。 ニューヨーク 1 7 第 1 章ョークアベニュー、 66 丁目、