伊藤さんは書物に夢中になり、くだんのアホウドリのページをスキャンする気配がな い。自分の研究に関係のある珍しい書物を見出したとき、我を忘れて没頭してしまう研 究者の気持ちは痛いほどわかる。しばらくはそっとしておいたほうがよかろうと、私は 書斎を出た。キッチンへ行って、 ープティーでも淹れようと食器棚からポットを出し たところで、上着の内ポケットのスマートフォンが震え始めた。 あんたん A 」、つ , も、す・ あちゃあ、富士宮さんだ。暗澹たる気分で通話キーを押すと、私は「はい、。 みません」といきなり謝った。 「でご覧の通り、ただいま、私は自宅に来ております。研究所の用事です」 『日中にご自宅へ立ち寄るとは、聞いてませんけど』我が監視員殿のトゲだらけの声が 返ってきた。 『そ、ついうことなら、どうして朝のスケジュール擦り合わせのときに言ってくださらな かったんですか』 夫「いや、それは、その : 私はロごもった。「所長が必要とされている資料が、私の 総書斎にあるとさきほど判明したので : : : 取りにきたんです , 『おひとりで、ですか』ますますトゲトゲしい声になって、富士宮さんが尋ねた。『誰 かと一緒じゃないんですか』 「いや、まさか。ひ、ひとりです。勤務中ですから」とっさに、そう答えてしまった。 161
けている。ちゃんと今日も来たよ、私はここにいるよ、だから私のことを忘れないでお くれ、と。 私は伊藤さんを私の書斎へと誘った。必要最低限の研究書や資料は公邸へ持って行っ たが、重くてかさばる全集や事典の類いはほとんどが書斎に残したままだった。書斎に 一歩足を踏み入れるなり、伊藤さんは目を輝かせた。 「すごい、こんなに資料が : : : わあ、アルキメデスの全集がほんとに全巻揃ってる ! オックスフォードの全集も、大英博物館の全集も ! 」 壁一面を埋め尽くす書棚に飛びつくと、伊藤さんは片端から書物を取り出し、広げ始 めた。そして、そこが私の書斎であることなどまったく忘れたかのように、夢中でペー ジを繰り始めた。 彼女が入所したての頃、所長に聞いたことがある。伊藤さんは北海道出身で、北大で 野鳥生態学を学んだ。大変な才女で、学術誌にも極めてユニークな論文を発表し、「北 に伊藤るいという才媛あり」と学会でも噂されていた。しかし、家庭の事情で、研究を 続けられなくなり、一度は東京にある製薬会社のとなる。が、その才能を見捨て難 く感じた所長が、当研究所に欠員が出たとき、なんとか彼女を迎えたいと画策し、その 結果、晴れて我が研究所の研究員となった。そんなこともあって、伊藤さんは所長には 特別に恩義を感じているようだったし、所長とて娘のように目をかけているのだ。
デア・アルバトウルスとはアホウドリの別名である。 と伊藤さんは答えた。 「所長には、もう外出許可をとってるの ? ーと尋ねると、はい 「急いでいるからなるべく早く行ってきてほしいと、所長もおっしやっていました」 「では、すぐに行きましよう」私は、空になった弁当箱にふたを被せてから立ち上がっ , 」 0 。じゃあ、タクシーを : : : 」 「そ、つい、つことなら、早いほ、つかいし 「あ、もう呼んであります。外で待ってるはすですんで」 段取りがよ過ぎる気がしたが、とにかく私たちはタクシーに乗り込んで、護国寺の家 へと向かった。 「わあ、すごい。さすが、相馬家のお屋敷。レトロですてきですねえ」 家の中に入ると、伊藤さんはきよろきよろと室内を見回して歓声を上げた。 あるじ 邸の主たる私と凛子がいなくなっても、平日の午前中には家政婦の下村さんがやって すさ 夫きて、換気と掃除を怠りなくしてくれている。家というのは、人が住まなくなると荒ん 理 でしまうものらしい。だから下村さんにお願いして、毎日、あなたは見放されていませ んよ、ご主人はそのうちに帰ってきますよ、と邸にサインを送ってもらっているわけだ。 私も、毎朝、富士宮さんに付き添われてこの邸に立ち寄り、わずか十五分ほどではあ ったが、野鳥観察を続けていた二階のべランダへ出て、野鳥たちに、私の森に、語りか 159
158 皆目見当がっかなかった。 「いえ、そんな」と伊藤さんは、首を小さく横に振った。「お返しだなんて : : : 」 そう言ってから、上目遣いにちらと私を見た。私の胸が、一瞬どきりと鳴った。彼女 の目の奥に、あやしい光が宿っているように見えたのだ。 「あの、でも、もしよかったら : : : 今日の午後にでも、相馬さんの護国寺のお宅へお邪 魔できませんでしようか」 「私の家に ? 」と私は訊き返した。「しかも、勤務時間中に ? 」 「ええ。相馬さん、以前、一九二一年に刊行されたジプリ ・アルキメデスの世界鳥類 全集をお持ちだっておっしやっていましたよね。そこに記載されているはずのディオメ デア・アルバトウルスの記述に関して、今度、所長が学会で発表する論文で引用したい とおっしやってるんです。それで、拝見して、ハンディスキャナでスキャンさせていた だけないかと思って : : : 」 「ああ、そういうことか。なるほど」 私は、すぐに頭の中で鳥類全集をめくった。アルキメデスの図鑑ならば、子供の頃か ら何百回も眺めて、ほほすべてを暗記しているくらいだ。私の十歳の誕生日に祖父が贈 ってくれた大変な希少本で、国会図書館にも入っていない珍品だ。たしか、第三巻の五 七二ページあたりにディオメデア・アルバトウルスの記述があった。ちなみにディオメ
てくれたものをダイニングでひとり黙々と食べるのが、このところの私の定番だったか 伊藤さんから渡されたお弁当箱のふたを開け、ふつくら黄色の卵焼きとかわいらしい タコのウインナーとたわら形のおむすびを見た瞬間、不覚にも感動で涙が出そうになっ 「こんなにおいしいお弁当はひさしぶりだよ」 タコにかぶりつきながら、私は言った。ひさしぶり、というのは嘘だった。ほんとう のことを言えば、初めてだったのだ。結婚してこのかた、私は妻に弁当を作ってもらっ たことなど一度もない。それどころか、幼少期にも、母の手製の弁当を持たされたこと しにせ などなかった。運動会のときですら、老舗料亭の松花堂弁当を校庭まで届けさせる周到 さだったのだ、私の母は。 「そうですか、よかったあ . 夫伊藤さんは、にこやかに応えた。天使が微笑むときっとこんな感じなのだろう、と本 理 気で思えてきた。米粒ひとっ残さずに完食してから、私は「ああ、おいしかったーと箸 を置いた。 「ありがとう。このご恩は、いっか必ず、何かでお返しします 私は大真面目だった。しかし女の子の手製のお弁当に、何で恩返ししたらいいのか、 157
総理の夫 155 ゝいですね」と言い足した。 「ひょラーと見せかけて、日和さんの動向を探っている輩かもしれませんから。もちろ ん、おばさんの中にも刺客がいないとは言い切れませんよ。とにかく、日和さんに近づ こうとする人物には、誰であれ、要注意です。わかりましたね ? 」 と答えるほかはなかった。 念を押されて、私は小声で、はい、 「要塞、公邸と、職場と、ときどき護国寺の自邸と。その三箇所以外に、私が出かける ことは、まったく容易ではなくなってしまった。 いったい、いつまでこの状態が続くのだろうか。 いやいや、弱音を吐いている場合ではない。凛子が総理大臣の職を務める限り、この 状態から脱することはできないのだ。 そう腹をくくらなければならないのだ、私は、総理の夫として。 さらなる異変というと、最近、同僚の伊藤るいさんが、やたらあれこれと気遣って声 をかけてくれるよ、つになったこと、だろ、つか もともと、彼女はよく気がつく、大変できるタイプの女性で、研究所内でも紅一点の 研究者であることから、徳田所長も彼女の存在を大変尊重していた。根気のいる細やか
たいポイントではあるのだが。 「最近、毎日『出待ち』しておられるアラサー男子がいるんです。けっこうセンスのい いジャケットを着ていて : : : 」 「アラサー男子 : : : ー富士宮さんはつぶやいた。「凛子ジェンヌがコワくて、仕方がな いからひょラーに転向したのかな : そんな理由での転向はヤだなと思ったが、それはロには出さすに、気を取り直して私 は一言った。 「アラサー男子ばかりではありません。おじさんもいますー 「おじさん ? 」富士宮さんは、心底意外そうな声を出した。「どんなおじさんですか ? 」 「天然パーマで、あごひげの剃りあとが濃くてぶつぶっしてて、目付きが悪くて、よれ たコートを着てます」 かなり的確におじさんの容姿を描写してから、「なんとなく、『刑事コロンポ』みたい な感じですーと付け加えた。ふうん、と富士宮さんは気の抜けた返事をした。どうやら、 そんな大昔のテレビドラマの主人公などまったく知らないようだ。 「まあ、男性ひょラーがいたって、それは構わないでしよう。個人のシュミの問題です からね」 富士宮さんは、微妙な意見を述べた。それから、「いずれにせよ、気をつけたほうが
てもいけない。ファンの方々に対しては、あくまでも礼節を持ち、距離を保って接する のがよい。それが富士宮流「ひょラー対処法」だった。 出待ちのひょラーたちは、毎日並ぶ顔ぶれが変わっているような気がしたが、そのう ちに何曜日にどういう特徴の人が来ているかを私は把握した。だてに長年野鳥観察をし ているのではない、瞬間的に小さな鳥の特徴をつかむのはお手のものなのだ、人間とな れば大きさは野鳥の数十倍、難なく見極められる。月曜日には「いってらっしゃい」プ レートとともに大きな花のコサージュを胸元に着けているおばさん、火曜日にはゆるふ わカールの髪型で大きなフリルのついたポンチョ風コートを着ているおばさん、水曜日 は真っ赤なニット帽と真っ赤なマフラーをつけたおばさん : : : っておばさんばっかりじ ゃないか 「男性のひょラーさんっていうのも、いらっしやるんでしようか」 ある朝、出勤時に富士宮さんに尋ねてみた。富士宮さんはいぶかしそうな表情になっ 亠大 , 」 0 の 理 「日和さん、視力が落ちたんですか ? 見ての通り、ひょラ 1 の九十九 % はおばさんで すよ 「そりゃあまあ、そうには違いないのですが : : : 」 私は渋々と肯定した。なんでそんなにおばさんばっかりなのかも、私としては究明し 153
152 「凛子ジェンヌ」と呼ばれているらしい。凛子もまた女性の追っかけが圧倒的に多いよ うで、男性ファンは、凛子を猛烈に応援し彼女を崇拝する「凛子ジェンヌ」の勢いがコ ワくて参戦できないらしい。まあ確かに、凛子にはどこかしら「ベルサイユのばら。の り・り・ オスカルめいた凛々しさが漂っているのだから、宝塚ファン的熱狂が彼女を支持する女 性陣のあいだに巻き起こるのもうなすける気がする。 もはやあなたもよくご存知の通り、毎朝、私は富士宮さんとともに直進党の公用車に 乗って出勤する。公邸は壁に囲まれているのだが、その出入り口の両脇には、仁王像の ごとく頼もしき門番係の方々が立ち、公邸敷地内からゆるゆると出動する車に向かって 敬礼を送ってくれる。そして歩道の周辺には二十名ほどだろうか、ひょラーたちがわあ っと群れて、車に向かって盛んにカメラのシャッターを押したり、手を振ったりしてい る。『日和さんおはようございます』『いってらっしゃい』『凛りんをよろしく D 』など など、手書きのプレートを掲げる人もいる。ひょラーたちが出現した当初、私はどう対 応したらいいのやらまったくわからす、目を合わせてはいけないような気がして、おど おどと顔を伏せるばかりだった。しかし総理の夫となってもうすぐ三ヶ月、いまでは軽 く会釈をするくらいの余裕を持ち合わせている。手を振り返そうとしたこともあったが、 「それはやり過ぎです。と富士宮さんからびしやりと止められた。総理の夫たるもの、 無愛想なのはよろしくないが、愛想を振りまき過ぎていい気になっているように見られ
二〇 x x 年十二月十二日晴れ時々曇り 総理公邸へ移住してから一週間、私の周辺で異変が起こり始めた。 最初に感じたのは、まあ異変というほどおおげさなものではなかった。私を「出待 ち」している人たちの中で、微妙に男性率が上がったという程度のものだ。 たからづか 「出待ち」などと書くと、なんだか自分を宝塚スターにでもたとえているようで、我な がらちょっと気色悪い。けれどそれは「出待ち」という以外にたとえようもない現象だ 夫った。つまり、私が外出するのを待ち構えている「ひょラー」たちが、公邸の門前に群 れているのだ。ちなみに「ひょラー」とは、私目当てにわざわざ自宅の前までやってく ろう る女性たちのことを、富士宮さんが冗談めかして付けた名称だったが、どこからどう漏 洩したのか、いつのまにか週刊誌などでも「総理の夫・相馬日和さん追っかけひょラ ー」などと掲載されるようになり、現在に至る。もうひとっ言えば、凛子の追っかけは 151 9