ほんとに、馬鹿なのだ。役立たずなのだ、私は。けれど、どうにも涙腺が と、そのとき。 凛子の形のいい指がすっと伸びて、卓上の退職願に触れた。そして、そのまま、富士 宮さんのほうへと、音もなく滑らせたのだ。 「これは、受け取れません。 : : : 撤回してくれますか、 凛子の声が響いた。富士宮さんは、ようやく顔を上げた。その目は、涙でいつばいに 潤んでいる。 彼女の瞳をみつめて、凛子は、静かに、けれど力に満ちた声で言ったのだった。 「あなたの言う通りよ、富士宮さん。子供を産んで育てるのは、それを選んだ女性にと っては、その人の人生においても、社会においても、もっとも大事な『仕事』だと、私 も思、つ」 女性が子供を産んで、安心して育てられる社会。出産後も仕事に復帰できる労働シス 夫テムを作る。母子家庭をしつかりサポ 1 トする。恵まれない家庭であっても、母親に子 理 育てを放棄させない。 それが総理としての自分に課せられた、もっとも大事な「仕事」のひとつなの。 それを実践しましようよ、と凛子は言った。いっしか、テープル越しに富士宮さんの 両手を取って。 389
てくれたものをダイニングでひとり黙々と食べるのが、このところの私の定番だったか 伊藤さんから渡されたお弁当箱のふたを開け、ふつくら黄色の卵焼きとかわいらしい タコのウインナーとたわら形のおむすびを見た瞬間、不覚にも感動で涙が出そうになっ 「こんなにおいしいお弁当はひさしぶりだよ」 タコにかぶりつきながら、私は言った。ひさしぶり、というのは嘘だった。ほんとう のことを言えば、初めてだったのだ。結婚してこのかた、私は妻に弁当を作ってもらっ たことなど一度もない。それどころか、幼少期にも、母の手製の弁当を持たされたこと しにせ などなかった。運動会のときですら、老舗料亭の松花堂弁当を校庭まで届けさせる周到 さだったのだ、私の母は。 「そうですか、よかったあ . 夫伊藤さんは、にこやかに応えた。天使が微笑むときっとこんな感じなのだろう、と本 理 気で思えてきた。米粒ひとっ残さずに完食してから、私は「ああ、おいしかったーと箸 を置いた。 「ありがとう。このご恩は、いっか必ず、何かでお返しします 私は大真面目だった。しかし女の子の手製のお弁当に、何で恩返ししたらいいのか、 157
とにかく、いってきます。詳しくは、また」 くっ たまらずに、私は外へ飛び出した。スリッパのままで、ではなく、いちおう靴にはき か、んて。 かんだがわ あてもなく、神田川沿いの散策路を歩く。散策路の並木、桜の木々の若葉が目にもま 季節は春、光あふれる週末の朝。こんなにも気持ちのいい日なのに、私の心は、なん ししつばいになっている。 だか得体のしれないもので、もう、いつば ) ああ、まったく。こんな気持ち、初めてだ。 ハルが主宰する朝食会 この気持ちは、あの日、あの瞬間から始まった。ソウマグロー に、颯爽と現われたあの人ーー真砥部凛子に出会ったときから。 ところで、いま、これを読んでいるあなたは、「この日記の筆者はとんでもなくウブ で女性経験もないお坊ちゃまだろうから、意中の女性の口説き方もわからんのだろう」 前者はノー、後者はイエ とお思いではないだろうか。先に書き記しておきたいのだが、 ス、である。 いちおういまのところは誰にも見られない日記だし、いずれ誰かに ( つまりあなた に ) これを見られているときは、私はこの世にいない前提だから、この際、はっきりと 書いておこう。私は、こう見えて、案外、早熟な男子だった。初恋は小学一年のとき、
へい ものだ。 凛子と結婚すると決まったときも、あなたは浮気することもあるのかな ? と冗談半 分に問われて、馬鹿正直に答えたものだ。いや、絶対にありません。僕は隠しごとがで きない性質だから。浮気であれなんであれ、嘘をついてあなたを悲しませるようなこと は、僕には絶対にできません。そう聞いて、凛子は笑っていた。笑いながら、そっと私 の手を握った。そして、言った。日和クンの、そういうところが、いいんだよね。 そうだ。やはり、ここはひとつ、妻に相談しようではないか。当然、そうするべきだ ろ、つ ねえ凛子さん、ちょっと聞いてくれるかな ? 実はね、とあるジャーナリストからの 依頼で、彼の口座に七日以内に一千万円、振り込まなくちゃならなくなったんだ。 どうしてかって ? それはね、つまり、彼が、偶然、決定的な写真を撮って、それを 公表しない代わりに一千万円くださいって言われたからなんだ。 夫決定的な写真ってどういうものかって ? ええっと、それはね、それは、僕と、僕の 理 同僚の伊藤るいさんが、タクシーの中で、こう、顔を寄せ合って : : ってんなこと一一一一口えるわきゃないだろ ! 」 思わず虚空に向かって叫んでしまった。叫んでしまってから、あわてて周りを見回し た。あと数メートルで公邸の出入り口、というところだった。周辺には誰もいなかった 193
ノヤーナリストの名誉に 皿データを消去していかなる媒体にもネットにも流出させない。、、 かけて、と阿部氏は言ったそうだ。ゆすりを仕掛けておいて、名誉も何もあったもんじ ゃない。が、わざわざ原久郎を経由して話を持ち込んだところに真実味がある。第三者 ( しかも政界の大物 ) を介在させることによって、「武士に二言はない」と強調したかっ たのだろう。 「 A 」に , か / \ ロ 、阿部の言う通りにしてください」と原氏は、私に是非すらも問わず、一方 的に命じたのだった。 なまり 全身に鉛を詰め込まれたかのごとく、重過ぎる足取りで、私は公邸へと帰った。頭の はんしよく 中では、繁殖期のウミネコが飛び交うかのように、言う通りにしてください、との原氏 の最後のひと言が、大音響でリフレインしていた。 さあ困った。困った困った。困ったぞこれは。 困ったときにはどうしたらいいんだ。困ったときに、私はいままでどうしていたん 私が困ったとき。子供の頃は、頼れる祖父に。結婚まえは、ともかく母に相談してい た。そして、結婚してからは、 いかなる些細なことであれ、妻に相談していたのだ。 たち 元来、私は隠しごとができない性質だった。友人たちとバハ抜きをしても、日和クン はババのカードを抜きそうになると鼻がぶくっと膨らむ、などと言われてからかわれた
いまの情勢から考えると、もしも内閣不信任決議案が提出されたら、原氏サイドの議 員と野党議員の頭数からして、可決される算段のほうがずっと高い。可決されれば、凛 子のとるべき道はふたつにひとつ。 内閣総辞職か、解散総選挙だ。 これはもう、増税法案が否決か可決かという問題じゃない。責任とって内閣総辞職か、 総選挙で「国民に信を問う」しか、凛子には道がないのだ。 これは、まさしく、チェスでいうならチェックメイト。将棋ならば、王手をかけられ たよ、つなものだ。 やられた。 ざんき 漸愧の念で、胸が引き裂かれる気がした。が、 , も、つ一い 原久郎は、ここまでの場面を思い描きながら、ゲームを進めていたに違いないのだ 夫 ばたばたと廊下を小走りに近づいてくる音がして、島崎君と私は、はっとして顔を上 の げた。家政婦の女性が、「あの : : : 」と遠慮がちに声をかけた。 「総理が、お帰りになるそうですが」 すらりと客間の襖が開いて、凛子が廊下に出てきた。急いで戻った私と島崎君をちら りと見ると、凛子の顔に微笑が浮かんだ。 321
442 正直、自分の思惑通りに動かせるだろうとたかをくくっていた。 政治経験も浅いし、どこかで弱音を吐くだろ、つ、とも思っていた。 けれど、相馬凛子は、自分の想像をはるかに超えて、強かった。たくましかった。 国民の支援をこれほどまでに得て、この国を変えようとこれほどまでにがむしやらに 突き進んだ総理大臣が、かって存在しただろうか。 相馬凛子が総理の座に再び就いたとき、政治家になって初めて、深い敗北感を覚えた。 すぐにでも引退すべきかとも考えた。 か、しかし。 ここまできたら、このさき、見せてもらおうじゃないか。どんなふうに政局を運営し て、どんなふうに国民に応えていくのか。 どんなふうに、この国を変えていくのか。 相馬凛子は、必ずやる。成し遂げる。優雅に、軽やかに、日本を変容させる。 その瞬間を、この目で見届けたい。 「私は、すいぶん長いあいだ、政界に身を置いてきました。正直、いっ引退しても構わ よい。けれど、あなたが総理大臣として政治改革を成し遂げるまでは、自分ももう少し がんばってみるか、という気になったのです 凛子は、膝の上に組んでいた手にぐっと力を込めた。そして、かすかに震える声で言
「相馬日和付きー広報担当者として、最後の挨拶に出向きたいと、富士宮さんが、凛子 と私を首相公邸に訪ねてくれた。三日後の十月一日には辞令が出る、という今日の夜、 十時頃のことである。 ほんとうにひさしぶりに、凛子が早く帰邸し、幹部との夜のミーティングもない日だ った。よく考えると、凛子のスケジュールを隅々まで把握していた富士宮さんは、この 日このときしかあるまいと、覚していたに違いない 公邸にはたくさんの会議室や応接室があるのだが、比較的小さな応接室に、富士宮さ 夫んを招き、夜勤の家政婦さんにハ ープティーなど淹れてもらって、私たち三人はソファ に腰を下ろした。 腰掛けるなり、富士宮さんは、バッグの中から一通の封書を取り出し、凛子と私に向 けて、すっとテープルの上にそれを滑らせた。封書には「退職願」の三文字が、はっき りと書かれていた。 ところが 思いがけないことが起こった。 昇進が決まった富士宮さんは、逆に、直進党を去る決意を固めたのだった。
よラ 1 さんかもなどと悠長なことを言っていた ( そしてなんとなくちょっとうれしかっ た ) 自分が、無性に恥ずかしくなった。 それ以上言うと私がおびえて逆効果かもと思ったのか、『じゃあ、そういうことで。 終業時間にいつも通りお迎えに上がります』とあっさり締めくくると、富士宮さんは通 話を切った。 私はもうハープティーなど淹れる気にもなれず、足取りも重く書斎に向かった。ノッ クしてからドアを開けると、伊藤さんは、、 ノンディスキャナでくだんの図鑑の一ページ をスキャンしているところだった。 「あ、すみません。なんだか私、夢中になっちゃって。勝手に散らかしちゃいました」 すまなそうな表情になって、伊藤さんが言った。私は、「いやいや、 いいんだよ」と 言いつつも、 「あまり長くなると午後の業務に差し障りがあるし、そろそろ引き揚げましよう」 夫そう促した。伊藤さんは、はい、 とまた素直に返事をした。 理 スキャナをトートバッグの中にしまい込んでから、伊藤さんは、「これ、すてきな写 総 真ですね」と、デスクの上に飾ってある写真フレームを指差して言った。 フレームの中には、私と凛子、ふたり並んで写っている写真があった。凛子は椅子に 座り、傍らに私が立っている。緊張でかちんこちんに固まって、歪んだ笑顔になってい 163 ゆが
これじゃまるで、妻に浮気現場を突き止められて言い訳しているみたいだ。 『ならば、 しいですけど』と富士宮さんは言いつつも、あまり合点がいってない口調だ。 『ご自宅へ用事があって立ち寄ることまで禁じるわけにはいきませんからね。用事が済 ) 0 ゝ、ヾ ししてすね ? 』 んだら、寄り道せずに、まっすぐ研究所へ帰ってくださし と答えて、私はしゅんとなった。「すみません」 「はい 『謝るようなことじゃありませんよ』富士宮さんは口調をやわらげて言った。その言葉、 つい最近凛子も口にしたなと急に田 5 い出した。安易なごめんは言ってほしくない。彼女 はそんなふうに言ったのだ。いままでになかったような、冷たい声で。 ・ : なんでした 『ところで、日和さんがおっしやっていた「男性ひょラー」の件ですが : つけ、「刑事コロンプス」に似てるとかいう』 「『刑事コロンポ』です」私はすかさす訂正した。「それが、どうかしたんですか」 : どうやら、総理の周辺を嗅ぎ回っている、 『気になったんで、調べてみたんですが : 阿部とかいうフリーの政治ジャーナリストのようです。米沢内閣解散直後から、総理が 原さんと連立を組むだろうということで、早くから独自に動いて、情報を週刊誌に売っ ていたみたいです』 フリーの政治ジャーナリスト。そう言われてみると、刑事じゃなければフリーの政治 ジャーナリスト以外には考えられないような風貌だった気がする。それなのに、男性ひ