126 実に意外だった。富士宮さんの言っていることも意外だったし、そんなことを彼女が 考えていたという事実も意外だった。これは捨て置けぬとばかりに、私は反論した。 「なぜ夫が妻の客人のためにお茶を出すのが、妻が夫をこき使っているということにな るのでしようか。妻が夫の客人のためにお茶を出すのであれば、それは当然の行為だと あなたはみなすのですか ? あなたの職場では、、 しまだに必ず女性スタッフが来客にお 茶を出すのですか ? 」 「いや、それは : : : 」富士宮さんは言葉を濁したが、正直に答えた。 「うちの職場の場合は、会議室にお茶とコーヒーの入ったポットが置いてあって、飲み たい人は勝手に飲む、ってことになってますー 「そ、つでしよう」と私は言った。 「あなたの職場のポスは党首である凛子ですよね。だから、そういうシステムにしてい るのだと信じます。彼女は真の平等主義者です。お茶を淹れるのは妻の役割などとは、 彼女は端から思っていませんし、私もまた同じです。ですからやはり、私がお茶を淹れ て妻の来客のために運ぶのは、まっとうな行為ですー 「いや、それはそれ、これはこれですよ。とにかく、ここは私が」 、え。私がやります。私は総理の夫ですから、そのくらいのことは」 湯呑みの載っかったお盆をあいだに挟んで小競り合いをしているところへ、「あのう
たのか、確信を持てないほど動揺していた。あまりにも阿部氏がみつめるので、私はい たたまれない気持ちになった。コロンボに追い詰められた容疑者も、こんな気分になる のだろうか 「そんなことを言うために、あなたは私をわざわざご自宅へ呼び出したのですか ? 」 エラそうなことすんな、と言っているように聞こえた。私は「はいつ。すみません とあっさり詫びてしまった。ああやつばり、私は絶対に罪を犯せない。刑事さんでも奥 さんでも、誰かに追及されたらすぐに白状してしまいそうだ。という以前に、盗撮され てカネを要求されて謝ってる私っていったい : 気を取り直して、私は、阿部氏をまっすぐに見て言った。 「私は、あなたの写真の中に写っていた女性と、断じておかしな関係ではありません。 しかし、写真にうつかりと写ってしまったことは私の責任です。だから、私は、本件を 誰にも話すつもりはありませんし、自分だけでなんとか解決しようと決心しました。私 は、このことで、妻をーー・相馬凛子を煩わせたくはないのです」 私は無力な夫ですが、妻を、凛子を守りたいのです。 消費税率引き上げについて、矢面に立ち、苦しみ抜いている凛子。脱原発政策に舵を 切ったことで、経済界や原発族から激しく突き上げを食っている凛子。 凛子をいま、支えているのは、世論。国民の支持だけなんです。しかし彼女は、国民
凛子が総理大臣に任命されてから、早速、目に見えて物理的な変化が訪れた。 まず、我が家の門前の両脇に「ガードマンボックス」がお目見えした。プレハプでで きていて、人ひとりがすつほり入る大きさだ。ここに二十四時間体制で警備の人が詰め る。暑かろうが寒かろうが、雨が降ろうが風が吹こうが、彼らは門の両脇を固めてくれ ている。まるでリアル仁王門だ。私は自分の家に出入りするつど、この頼もしき仁王た 夫ちに「お務めどうもご苦労さまです」と頭を下げる。 理「番記者ーというのが現れた。凛子が出かける時間帯に、彼らはすでに門前で張ってい る。総理の動静を事細かに探るのが、彼らの役目のようだ。マスコミ各社から派遣され ているとのことで、十名ほどがうろうろしている。凛子が迎えの車に乗り込むと、それ っとばかりに彼らも社用車に飛び乗って後を追う。ほとんどが若い記者で、女性も半分 しかしまさか : : : 妻が総理大臣になるところまでは、想像できなかった。自分の想像 力の貧弱さを、いまとなっては恥じている。とはいえ、世の中の夫諸君のほとんどが、 自分の妻が総理大臣になるとはあまり想像しないだろうけど。 というわけで、我が人生における二度目の地殻変動が起こった。相馬内閣始動ととも に、夫である私の生活も、いやおうなしに変わらざるを得なくなったのだ。
日和さんが一般人であることには変わりがありません。従って、公の場に相馬凛子氏と ともに登場するとき以外の取材は、私を通してのみお受けいたします、 でんば ざわざわと波紋が広がる。「誰 ? 」とひそひそ声が伝播するのを聞きつけて、「申し遅 れましたが。と、富士宮さんは幾多のいぶかしそうな顔を見渡して言った。 「本日より、相馬日和担当広報スタッフとなりました直進党の富士宮あやかです。今後、 相馬日和さんに関するすべての取材は、私を通してお申し込みくださいますように」 富士宮さんの言葉は、さながら戦国武将の名乗り上げのように、私には聞こえた。 それから、女戦国武将に引きずられるようにして、私は待機していた直進党の党用車 に乗せられた。「ご勤務先までお送りします」と言われ、是非もなく乗り込んだのだ。 「一言ったじゃないですか、外に出ちゃだめですよって」発車してすぐ、富士宮さんが文 句を言った。 「凛子さんが総理になるってことは、夫である日和さんも注目されるわけなんですから。 夫気をつけていただかないと」 理「すみません」と私は小さくなった。 「そういうものなんでしようか。その : : : 妻が注目されるのは当然ですが、僕まで ? 」 「何言ってるんですか。このまえのプリーフィングでそういう話になったでしよう ? 」 そう言われればそう一一一一口われたような気がしないでもないが、今後妻を支えてくれる日
島崎君の背後に、屈強な体型の黒服の男性が二名、張り付いている。ずいぶんゴッい 背景だ。 「あの、後ろの方々は ? 」と訊くと、 とくがわ ばんだ 「ああ、今日から凛子さんのを担当される、番田さんと特川さんです。あ、大丈夫 ですよ、おふたりはこちらでお待ちくださいますんで。プライベートエリアには立ち入 りませんよ。っと、失礼します」 勝手知ったるなんとやらで、島崎君は靴を脱ぐと、リビングへ向かって足早に入って いった。私はのふたりに向かって、どうぞ妻をよろしくお願いいたします、と頭を 下げてから、島崎君の後を追った。 リビングでは、すでにしやっきりとメイクをしてジャケットを着込んだ凛子が、島崎 君と向かい合って何やら協議を始めている。凛子の表情にはほどよい緊張感がみなぎり、 それがまた彼女を極めて魅力的に輝かせている。島崎君のためにコーヒーを淹れながら、 夫私は、自分の胸がぐんぐん高鳴ってくるのを感じた。 の 理 いよいよ、歴史が動くのだ。私の妻の手腕によって。 まったく、こんなに無性に胸がときめくのは、北海道鶴居村で、電線に接触して傷つ いたタンチョウヅルが回復したのを野に放っとき以来だった。 凛子は、神秘だ。と同時に、圧倒的な強さと輝きを持つ人間だ。そればかりではない。 2 つる
358 凛子と私は、決戦の場・投票所へと到着した。に囲まれ、驚くほど大勢の報道陣 の中を、体育館へと移動する。 体育館の中にも、報道陣は待ち構えていた。海外のメディアも複数来ている。凛子と いや、いつも以 私の一挙手一投足を、カメラが追いかける。凛子はいつものように 上に、さわやかな様子。私のほうは、かちんこちんに固まってしまって、右足と右腕を 同時に前に出しそうになりながら、投票用紙を手に取り、エンピッを握る。手の内側に は、じっとりと汗をかいている。 私たちは、同時に、記入台のあるプースに向かった。 投票用紙に、廩重に、一文字一文字、心を込めて、私は、私の妻の名前と、もう一枚 の用紙にその政党名を書き込む。 相ー・馬ー凛ー子 直ー進ー党 書き終わると、じっとみつめて、ほんの一瞬、目を閉じた。 相馬凛子。 我が妻の名前。そして、日本初の女性総理大臣である人の名前。 この国を救うべく、信念を持って立ち上がった人の名前 どうか、この名前が、もう一度、国会議事堂内で呼ばれますように。
448 この小説を初めて読んだのは、第二次安倍内閣が発足し、約五年ぶりに私が「総理の 妻」となって一年が過ぎた頃でした。知人から「読んでみたら」と勧められたのです。 これは、鳥類研究所の研究員で、政治とは無縁だった相馬日和が書く日記という形式 「総理の夫」となった になっています。彼の妻凛子が、日本初の女性総理大臣となり、 日和は、日本の歴史に一石を投じる覚悟で、彼と凛子との出会いから、大財閥である日 和の実家との付き合い、仕組まれたスキャンダル、さらに政局の裏側まで克明に記しま す。時を経て誰かがこの日記を発見したら、当時を知る貴重な資料になる、そんな心づ もりがあったようです。 凛子の総理大臣就任当日は、大きな話題となりました。日和はさっそく騒動に巻き込 まれます。出勤しようと自宅を出た途端、報道陣に取り囲まれてしまうのです。そこに かけこんできたのが、凛子が党首を務める直進党の広報担当者富士宮あやかでした。彼 女は、日和専属の広報担当。日和は、彼女から日々の言動についても指示されます。 解説 安倍昭恵 ( 内閣総理大臣夫人 )
446 子育てこそが、こっこっと成長を綴る日記のようなものなのだと、気がついた。 だから、日記をつけるのは、今日までとしておこう。 ちなみに「野鳥観察日誌」は、あいもかわらず続けている。もう少し、子供が大きく なったら、一緒に観察をしよう。ときどき、妻も誘って、親子三人、自宅のべランダで。 ささやかだけれど、それこそが、いまの私の夢だ。きっとかなう、夢なのだ。
相馬内閣発足の日、初の閣議が行われたあと。首相官邸の階段を下りてくる、内閣総 理大臣となった我が妻・凛子のまぶしさを、どう表現したらいいだろうか。 閣僚となったメンバーが、会議のために初めて首相官邸に集結するとき、全員、正装 している。これは、宮中で天皇陛下による総理大臣任命の親任式、国務大臣の認証式が 行われたあと、官邸で初閣議があるためで、何も記念撮影のために全員が正装してくる わけではない。それでも、モーニングやドレスをきっちりと着込んだ新しい顔ぶれの閣 じゅうたん 僚たちが、赤い絨毯を敷き詰めた階段に居並ぶ姿を見れば、この国はこれから生まれ変 わるんだ、という気持ちが自然と湧き上がってくる。 凛子は、この日、くるぶし丈の黒いイプニングドレスに白いジャケットを着て、颯爽 夫と階段の上に現れた。新閣僚たちが、続いて次々に現れる。少し高揚した顔、誇らしげ 理に胸を張る姿。一団となって、一歩一歩、階段を下りてくる。目を開けていられないほ どのフラッシュの光の中、凛子は、まっすぐに顔を上げ、前を向いていた。その目は、 幾多のカメラを見据えて、決して逸らされることはなかった。 けれど、私にはわかった。そのとき、凛子が見据えていたのは、カメラではなく、カ 私の妻は、ああ見えて、なかなかの人物なんですよ。ご覚悟を
( 私はそのすべてに職場の有休を取得した上で付き合わされた ) は、特別国会開会中の タイトなスケジュールの合間を縫って敢行された。二〇一〇年に中国に経済大国世界第 プレセンス 二位の座を奪われて以来、残念ながら我が日本は、グローバル社会の中でその存在感を どうしても高められないままでいた。凛子にはかねて、国内の経済地盤を固め国際市場 で産業力をもっと伸ばすべきだとの持論があった。国際社会における日本の復権を狙い 他国とも対等に渡り合うと決意している。国会が終わるまで外遊はすべきではないとい う意見も周辺から出てはいたのだが、とにかく一日でもいいから米中韓の首脳と渡り合 ってくるからと、さっさと出かけてしまった。いま何を真っ先にすべきかという優先順 位のつけ方、判断力、決断の速さ。我が妻ながら、恐るべき人物である。私なんぞは、 勤務先の所長に有給休暇の申し出をどのタイミングで出すべきか、たとえ「外交的に総 理を助ける」ということでも、普通に考えてみると、妻の出張に夫がくつついていっち やったりしていいのか ? それってヘンじゃないのか ? と迷っていたら、所長のほう 夫 から「君、奥さんの外遊に同伴しなくっていいの ? 」と切り出してくれた。 の 延長された特別国会では、凛子が公約として打ち出した消費税率改定法案についての けんけんごうごう 大議論がすでに始まり、喧々囂々の様相を呈しつつあるところだった。日本初の女性総 理のお手並み拝見ということで、野党に転落した民権党の諸氏も、声高に総理をののし ったりするのは初めのうちは控えていたが、消費税率引き上げというパンドラの箱を、 103