ほんとに、馬鹿なのだ。役立たずなのだ、私は。けれど、どうにも涙腺が と、そのとき。 凛子の形のいい指がすっと伸びて、卓上の退職願に触れた。そして、そのまま、富士 宮さんのほうへと、音もなく滑らせたのだ。 「これは、受け取れません。 : : : 撤回してくれますか、 凛子の声が響いた。富士宮さんは、ようやく顔を上げた。その目は、涙でいつばいに 潤んでいる。 彼女の瞳をみつめて、凛子は、静かに、けれど力に満ちた声で言ったのだった。 「あなたの言う通りよ、富士宮さん。子供を産んで育てるのは、それを選んだ女性にと っては、その人の人生においても、社会においても、もっとも大事な『仕事』だと、私 も思、つ」 女性が子供を産んで、安心して育てられる社会。出産後も仕事に復帰できる労働シス 夫テムを作る。母子家庭をしつかりサポ 1 トする。恵まれない家庭であっても、母親に子 理 育てを放棄させない。 それが総理としての自分に課せられた、もっとも大事な「仕事」のひとつなの。 それを実践しましようよ、と凛子は言った。いっしか、テープル越しに富士宮さんの 両手を取って。 389
と撫で付けたショートカットの髪も凛々しく、長く熱い選挙戦を終えて、生まれ変わっ たよ、つにすっきりと、すがすがしい表情だ。 すそ 凛子に続いて、大臣の面々が登場。濃紺や漆黒のイプニングドレスの裾が、黒いタキ シードとともに、軽やかに翻る。なんと、女性大臣が半数を占めているのだ。 凛子を先頭に、正装した大臣たちは、心地よい緊張感とともに、、 しとも優雅な足取り で、大階段をゆっくりと下りてくる。カメラのフラッシュが、い っせいに閃光を放つ。 隣りに立っている富士宮さんが、くすくすと笑うのが聞こえた。背伸びをしながら、 夢中になって大階段を眺めていた私は、「 : : ヘンな顔」との囁き声を耳にして、富士 宮さんのほうを向いた。 「え、誰がですか ? 総理が ? 」 と訊 , と、 「まさか。日和さんが、ですよ 夫 なおもくすくす笑いながら、富士宮さんが答えた。 の 総「すつごいまぶしそう。目を細めて、ついでに鼻の下も伸ばしちゃって : : : 」 私は、あわてて、両手でごしごしと顔をこすった。 「いや、お恥ずかしいです。フラッシュが、あんなにいっせいに光るものだから : 「嘘ばっかり。と、富士宮さんは、したり顔で返してきた。 373 せんこう
124 て富士宮さんが、お茶の用意をしている。 「遅くまでお疲れさまですーと私が声をかけると、秘書のふたりは会釈をしたが、富士 宮さんは「日和さんはもうお休みください」とそっけない。毎度のことなのだが、凛子 が幹部や閣僚を伴って帰宅したとき、富士宮さんは私がキッチンに入ってくるのをどう やら警戒している感じなのだ。 しかし私は、そのときに限って、あえてキッチンに踏み込んだ。事務担当の官房副長 官である石田さんが来ているということは、公邸への引っ越しの段取りについても話し ているのではないかと考えて、挨拶をしておきたい、そのためにお茶をお持ちしようと 考えたのだ。 凛子の総理大臣就任までは、直進党の幹部などが夜間に来宅すれば、お茶の用意と提 はんちゅう 供は私の範疇だった。ところが、いまはそれを秘書たちゃ富士宮さんに取られてしまっ た。私はお茶の銘柄や淹れ方などにもちょっとしたこだわりがあるので、おいしいお茶 さび を客人に供するのはむしろ楽しみでもあった。それを奪われてしまって寂しく思っても いた。凛子か深夜に飲むのによかろうと、カモミールとジンジャーがプレンドされたハ ープティーを取り寄せたものがある。リラクゼーション効果もあるらしいし、是非とも それを飲んでいただこうじゃないか 「もう夜も遅いので、カフェインの多い緑茶ではないほうがよいのではありませんか。
総理の夫である私ですら、わからないのだから。 『一歩でも外へ出たら、二度と公邸へは帰れなくなる可能性があるので、事態が落ち着 くまで外出禁止です』 事態を重くみた富士宮さんから電話があり、ひさしぶりに直々の指令が飛んだ。私は すかさず異議を申し立てた。 「それは困ります。近々、環境省へ『鳥類レッドリスト』に関する報告発表があるんで す。そのために研究所で詰めなければならないことが : : : 」 『ご自分がレッドリストに載ってるんですよ ! そんなこと言ってる場合ですか ! 』 とんでもない比喩をされてしまった。 「総理の夫、絶滅寸前ってことですか」いちおう尋ねると、 『そういうことです。絶滅寸前』富士宮さんが、重ねて答えた。 たしかに、凛子が総理を辞任したら、日本にたった一羽のみだった総理の夫は、それ 夫とともに絶滅だ : 理 しかたなく自室でじりじりしていると、善田鳥類研究所の徳田所長からメールが入っ た。緊急でスカイプ会議を開きたいという。私が当面出勤できないことは、すでに富士 宮さんより連絡済みとのことだった。 ハソコンのスクリーンに、徳田所長をはじめ、研究所の仲間たちが会議室のテープル 425
128 確かに、公邸に住んだのはわずか三ヶ月という総理大臣も過去には存在した。どうや ら腰を据えて住む場所ではないようだが、それはつまり、内閣が短命であることの裏返 しだ。そんなことになっては、凛子にとって由々しき問題だ。 「日和さんには、ご勤務先から若干遠くなってしまいますが、変わらずに党の車で富士 宮が毎日送迎させていただきますから、ご了承ください。それに、これからは公邸秘書 も付きますし、公邸専属の家政婦さんもおりますので、日和さんにお茶の準備の心配を していただかなくても大丈夫になりますよ」 「はあ . とまた、私は生返事をした。それから、生真面目に尋ねた。 「じゃあ、私は何をすればよいのでしようか」 「やだなあもう。日和さんは総理の旦那さまなんですから、そんなこと言わないで、も っと堂々としていればいいんですよ」 富士宮さんが口を挟んだ。 「日和さんは学者だしお坊ちゃまだから、育ちのよさはあるんだけど、凛子さんのこと になると、いつもおずおすとしてるっていうか、ちょっと頼りない感じがするんですよ ね。総理もおっしやってましたよ。『あの人はとにかく温室育ちだから』って」 富士宮さんは日頃から何かと私に厳しく接するのだが、その日ばかりは彼女の言葉が 。温室育ち。ああ、でも、そう言われたと すしんときた。おずおずとしてる。頼りない
398 十一月中旬、首相公邸にひさしぶりに富士宮さんが訪ねてきた。 「富士宮さん ! 元気でしたか」 声をかけると、富士宮さんは、たちまち弾けるような笑顔になった。 「日和さん ! おひさしぶりです」 直進党の広報部長に就任して一ヶ月と少し。相馬内閣が国民の期待に応えるべく機能 していること、そして直進党党首としての凛子がいつも国民のことを思って行動してい ることを伝えるために、昼夜を分かたずに奔走している富士宮さんだった。 公邸で、まさかの「退職願、提出の場面に立ち会ってしまったが、その後、凛子の説 得もあり、一転、直進党の広報部長として、仕事をやり抜く決意をした。 富士宮さんが「総理の夫付き」広報担当でなくなってしまったのは、少々さびしい気 持ちがないとはいえなかったが、島崎君しかり、凛子をもり立ててくれた若き逸材たち った。 そうして私は、ひさしぶりに、我が腕の中に凛子を感じた。 ほっそりと、こわれそうな、けれどしなやかで、あたたかな体。 しいにおいかした。まるで、バラの花束を抱きしめているようだった。
「相馬日和付きー広報担当者として、最後の挨拶に出向きたいと、富士宮さんが、凛子 と私を首相公邸に訪ねてくれた。三日後の十月一日には辞令が出る、という今日の夜、 十時頃のことである。 ほんとうにひさしぶりに、凛子が早く帰邸し、幹部との夜のミーティングもない日だ った。よく考えると、凛子のスケジュールを隅々まで把握していた富士宮さんは、この 日このときしかあるまいと、覚していたに違いない 公邸にはたくさんの会議室や応接室があるのだが、比較的小さな応接室に、富士宮さ 夫んを招き、夜勤の家政婦さんにハ ープティーなど淹れてもらって、私たち三人はソファ に腰を下ろした。 腰掛けるなり、富士宮さんは、バッグの中から一通の封書を取り出し、凛子と私に向 けて、すっとテープルの上にそれを滑らせた。封書には「退職願」の三文字が、はっき りと書かれていた。 ところが 思いがけないことが起こった。 昇進が決まった富士宮さんは、逆に、直進党を去る決意を固めたのだった。
ころで否定できない自分がいる。なんてことだ。私の知り及ばぬあいだに、凛子と富士 宮さんは、私をいじって「女子トークーを繰り広げているのだろうか。 客人たちが移動する足音が廊下から聞こえてきた。島崎君は「ではまた、詳しいこと は後日」と告げて、キッチンを出た。富士宮さんとふたりの秘書もその後を追った。私 たたず は玄関まで見送る気分になれず、ほんやりとその場に佇んでいた。 しばらくして、凛子がキッチンに現れた。そして、「どうしたの ? 」と私の顔を見る なり訊いた。 「何かあったの ? なんだか思い詰めたような顔してるけど」 私は、とっさに作り笑いをした。 「いや、ちょっとね。遅まきながらお茶を淹れようかと思って : : : 緑茶とハープティー と、どっちがいいかなって」 「ハープティーのほうがいいんじゃない ? ・」凛子がにつこりと笑顔になった。「私もい 夫ただこうかな」 理 ープティーにハチミツを添えて、ダイニングテープルへ運んだ。凛子は椅子に座っ てくつろいでいるかと思いきや、テープルの上に幾枚もの資料を広げ、ネットの端末を 眺めて、何かぶつぶつつぶやいている。明日の国会答弁の練習をしているのだ。 凛子が国会でほとんど資料に目を向けず、野党の質問者から視線を逸らさずに話すと 129
たいポイントではあるのだが。 「最近、毎日『出待ち』しておられるアラサー男子がいるんです。けっこうセンスのい いジャケットを着ていて : : : 」 「アラサー男子 : : : ー富士宮さんはつぶやいた。「凛子ジェンヌがコワくて、仕方がな いからひょラーに転向したのかな : そんな理由での転向はヤだなと思ったが、それはロには出さすに、気を取り直して私 は一言った。 「アラサー男子ばかりではありません。おじさんもいますー 「おじさん ? 」富士宮さんは、心底意外そうな声を出した。「どんなおじさんですか ? 」 「天然パーマで、あごひげの剃りあとが濃くてぶつぶっしてて、目付きが悪くて、よれ たコートを着てます」 かなり的確におじさんの容姿を描写してから、「なんとなく、『刑事コロンポ』みたい な感じですーと付け加えた。ふうん、と富士宮さんは気の抜けた返事をした。どうやら、 そんな大昔のテレビドラマの主人公などまったく知らないようだ。 「まあ、男性ひょラーがいたって、それは構わないでしよう。個人のシュミの問題です からね」 富士宮さんは、微妙な意見を述べた。それから、「いずれにせよ、気をつけたほうが
が成長するのを見るのは、何よりうれしいことである。 そりゃあ毎日の送迎に付き添ってくれるのは、 co のむくつけき男性よりも、若い美 人のほ、つ , 刀しし ( ( 、 ゞ、、こよ決まっているが・ 「その節は、、 しろいろと面倒なお話をしてしまって、すみませんでした。 : でも、凛 子さんだけじゃなく、日和さんが一緒に聞いてくださって、うれしかったですー 富士宮さんは「退職願」を提出するに至った経緯を、凛子とともに私にも告白した。 とても、とても深い事情があったことを、正直に話してくれた 妻子ある人の子供を宿したと、富士宮さんは打ち明けた。 凛子と党に迷惑をかけてはいけないと辞表を書いた彼女の心情は、いかばかりだった であろうか おろおろする私とは対照的に、凛子は、富士宮さんにはっきりと言ったのだった。あ なたとあなたの赤ちゃんは、私が守るーー・と。 夫 いま、富士宮さんは妊娠四ヶ月。もともとスリムな体型だからかもしれないが、言わ の れなかったらわからないほど、あいかわらずほっそりとしている。 「どうですか、赤ちゃんは ? 順調に発育していますか」 私の問いに、彼女はとてもうれしそうな表情になって「はい、 おかげさまで」と答え 399