研究所 - みる会図書館


検索対象: 総理の夫 = First Gentleman
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1. 総理の夫 = First Gentleman

九三五年に設立した国内有数の鳥類専門研究機関である。自然誌研究室とともに保全研 究室を持ち、主には環境省の委託を受けて、絶滅危惧種の鳥類の調査や生存の回復のた めの研究を行っている。 私を研究所に引っ張ってくれたのは、大学の研究室時代にもお世話になった徳田所長 だ。徳田家は学者一族で、曾祖父の代から生物学の第一線で活躍してきた、専門家中の 専門家である。徳田所長ばかりでなく、我が研究所の所員は、当然皆専門家であるが、 と同時に、世の中の経済活動からは縁遠い、浮世離れした人物ばかりだ。と私が一一一一口うの もなんだろ、つけど。 その日は当然、凛子の遅い帰宅は決まっているから、居酒屋で二時間ほど過ごしてか ら帰宅しても問題なかろうと思われた。「ご帰宅時にはハイヤーを差し向けますので、 それに乗って帰ってください , と富士宮さんには言われたが、まあそんなに四角四面に 考えなくても大丈夫だろう。ハイヤーはお断りして、いつも通り地下鉄で帰ることにし よ、つ ところが、である。勤務時間終了直前に、思わぬ来客があった。 午後五時ちょうど。さあ祝宴だ、と皆そわそわと帰り支度を始めたそのときに、「相 たぬままさよ 馬さん。ご来客ですーと、事務局の田沼正代さんが色めき立って研究室に入ってきた。 「だめだよ、いま頃、来客だなんて。これからみんなで出かけるんだから

2. 総理の夫 = First Gentleman

けている。ちゃんと今日も来たよ、私はここにいるよ、だから私のことを忘れないでお くれ、と。 私は伊藤さんを私の書斎へと誘った。必要最低限の研究書や資料は公邸へ持って行っ たが、重くてかさばる全集や事典の類いはほとんどが書斎に残したままだった。書斎に 一歩足を踏み入れるなり、伊藤さんは目を輝かせた。 「すごい、こんなに資料が : : : わあ、アルキメデスの全集がほんとに全巻揃ってる ! オックスフォードの全集も、大英博物館の全集も ! 」 壁一面を埋め尽くす書棚に飛びつくと、伊藤さんは片端から書物を取り出し、広げ始 めた。そして、そこが私の書斎であることなどまったく忘れたかのように、夢中でペー ジを繰り始めた。 彼女が入所したての頃、所長に聞いたことがある。伊藤さんは北海道出身で、北大で 野鳥生態学を学んだ。大変な才女で、学術誌にも極めてユニークな論文を発表し、「北 に伊藤るいという才媛あり」と学会でも噂されていた。しかし、家庭の事情で、研究を 続けられなくなり、一度は東京にある製薬会社のとなる。が、その才能を見捨て難 く感じた所長が、当研究所に欠員が出たとき、なんとか彼女を迎えたいと画策し、その 結果、晴れて我が研究所の研究員となった。そんなこともあって、伊藤さんは所長には 特別に恩義を感じているようだったし、所長とて娘のように目をかけているのだ。

3. 総理の夫 = First Gentleman

148 ちの首を絞めかねない 、と野党民権党は、凛子を追い詰める際立った戦術もなく切羽詰 まっていた。 などと書けば、、、 し力にも私が凛子の現状について把握し尽くしているかのように見え るだろうが、もとより私は凛子から直接政局運営について、はたまた国会を乗り切る戦 略について、聞かされたことなどただの一度もなし ) 。いま彼女が何をしているのか、ど ういう状況にあるのか、私が情報ソースにしているのは新聞やネットニュース、テレビ の国会中継などだった。私は主要紙の政治欄、特に「首相の一日」欄の隅々まで目を通 し、研究所のオフィスに置かれたテレビでつけつばなしにしてくれている国会中継に耳 を傾けた。心優しい徳田所長は、「まあ国会のことなんかは総理に家で聞かされてるん だろうけど。私たちもなんだか気になるから」と、研究所の最大の支援者である相馬家 に敬意を表して、国会中継をつけておいてくれるのだった。 「で、公邸の住み心地はどうなんですか」 ある日のランチタイムのこと。研究所の会議室にこもっている私のところへ、ティク アウトのジャージャー麺を買って持ってきてくれた研究員の伊藤るいさんが、藪から棒 にそう聞いた。 最近の私は、同僚に外へランチに誘われても、なんだかんだと理由をつけてお断りす るようにしていた。そのへんの定食屋で私たちの会話をどこかの誰かに聞かれたらかな めん

4. 総理の夫 = First Gentleman

私の代わりに所長が答えた。田沼さんは首を横に振って「普通じゃない来客ですから。 所長もご一緒にーと言った。私と所長は顔を見合わせた。 応接室で私たちを待ち構えていたのは、相馬崇子、つまり私の母だった。 「これは、音羽の奥様 ! 」 いきなり所長はその場に土下座しそうな勢いで、平身低頭、挨拶をした。和装の母は、 袖を揺らしてソフアから立ち上がると、悠然と挨拶を返した。 いくつになっても世間知らずで、何か 「いつもたくの息子がお世話になっております。 とご迷惑をおかけしておりませんこと ? 」 しいえ」所長は両手をすりすりと揉んで、 「相馬さんは大変、たいっへんつ、研究ご熱心で : : : こちらこそ、いつもお世話になっ ております」 かくも所長があわててゴマをする理由はただひとつ。相馬家は、毎年、研究所の母体 夫である財団に多額の寄付を行っている。つまり、大口のスポンサーだからだ。母として 理は「節税対策の一環」とのことだが、それがなくなれば財団は立ちゅかなくなってしま うほどの寄付額らしい。私が研究所に勤務できることになったのはそのおかげだとは思 いたくはないが、 半分くらいはそのおかげなのかも、と思う。 「なんだいお母さん、アポイントもなしに、勤務時間が終わり頃に来るなんて非常識じ

5. 総理の夫 = First Gentleman

168 格的な観察をするようになった。成績はいつも学校で一番だったが、それを妬まれてい じめにも遭った。 苦学して北大を受験、奨学金を受けながら研究を続けてきた。しかし、いったんは高 校を卒業して就職した妹が、自分もやはり大学に行きたいと言い出し、その学費を稼ぐ ために、東京へ出て企業に就職したのだという。その後、徳田所長に見出されて我が研 究所の研究員となることができたが、給料のほとんどを実家に仕送りしているらしい 妹は、大学卒業後まもなく地元で結婚したが、夫が事業に失敗し、多額の借金を返済 しなければならなくなった。それを伊藤さんが細々と援助していたのだが、今度は母親 さつぼろ が難しい病気を患って、札幌の病院に入院したのだという。 自分の給料を送ったところで焼け石に水なのだ、と伊藤さんはカなく言った。そこま で話すと、ほとんど涙声になっていた。 「ここまで打ち明けちゃったんで、もう、思い切って言っちゃいます」 鼻の頭を赤くして、伊藤さんは消え入るような声で続けた。 「私、もうこれ以上、研究を続けることはできないかもしれません」 「えつ、ど、どうして ? 」私は、焦って問い質した。 「だって、研究所のお給料じゃ、とても家族を助けられないし : : : もっとお金になる仕 事をしなくちゃって」

6. 総理の夫 = First Gentleman

: とはいえ、おめでたいことには変わりありませんがね 努力もなく : むっとする物言いは、この人の特徴でもある。しかし彼なりの祝意の表れなのだろう。 「ありがとうございますーと、やはり笑顔で応える。 いや、じゃなくて、相馬さんのお嫁さん 「しかし、おきれいですねえ、奥さまは。 ・ : あ、じゃなくて、相馬総理は」 はたがやたく 凛子の呼称を何度も言い換えて割り込んできたのは、私の同僚の研究員、幡ヶ谷卓氏。 せいそく 絶滅危惧種であるアホウドリの棲息調査に人生を捧げる熱い研究者である。 「こんなにお美しくて、スタイルも良くて、演説もうまい。政策にもうなずけるところ かタタしし ) 。 ) やはや、相馬さんはすごい人を伴侶にお持ちなんだなあ , 「つて幡ヶ谷さん、政策とか言っちゃってますけど、ちゃんと聞いたことあるんですか とう さらにつっ込んできたのは、後輩の研究員、伊藤るいさん。我が研究所で唯一のアラ サー女子である。 「私は政策とか関係なく相馬総理を応援しますよ。この相馬さんのパートナーなんです から 、、、人こ決まってます」 「それはちょっと問題なんじゃないの ? 」窪塚さんが口を挟む。 「相馬君のパートナーだからっていい人とは言い切れないでしよ。そりや相馬君はいい

7. 総理の夫 = First Gentleman

たという異色の出自。切れ味鋭い論客であり、曲がったことが大嫌い。正義の人、加え て美人。 相馬日和、三十八歳。鳥類学者。東京大学理学部卒、同大学院生物多様性科学研究室 にて博士課程修了。善田鳥類研究所研究員。日本を代表する大財閥相馬一族を実家に持 つ。加えてイケメン、若作り。 「どうです。こんな夫婦が、ほかにいますか ? 」富士宮さんは、うっとりした目つきに なった。 はあ、と私は、「イケメン、若作りと評されたことに甘いような苦いような気分を 覚えた。そんなふうに面と向かって女性から自分の容姿について言及されたのは、これ が初めてのことだった。 「もっといえば、日和さんの、おばっちゃま然とした『天然』なところもいいんですよ ね。そこが特に、世の中の女性にはウケるんじゃないかと . 「ちょっと待ってください」と、そこで私はロを挟んだ。 「世の中の女性にウケるって : : : 僕は、関係ないんじゃないですか。さっき、あなたも おっしやってたでしよう。総理になるのは妻であって、僕のほうはいままで通り、あく まで一般人ですよ」 「確かにそう言いましたが」と富士宮さんは、メガネの銀色のフレームをくいっと指先

8. 総理の夫 = First Gentleman

の理由で。 所長の場合は、総理が原久郎にそっほを向かれる↓消費税率引き上げ法案は否決され る↓相馬内閣は責任をとって総辞職↓研究所に多額の寄付をしてくれている相馬本家夫 人 ( 母 ) が不機嫌になる↓寄付額が減る : : : という図式を思い描いたようで、 「なんとか相馬総理に踏ん張ってもらいたいんだがなあ。なんとかならんのかなあ、ね え相馬君 ? 」 と、姪っ子の縁談が破談になるのを心配する叔父さんのような調子だ。 先輩の窪塚さんと同僚の幡ヶ谷さんの場合は、案外はっきりしていて、「ひょっとす ると潔く退陣したほうかいいんじゃないの ? 」という意見だった。 「いやあ、後輩の奥さんだから、あんまり言わなかったけどさ : : : 正直、女性で総理大 臣って、色々大変なんじゃないのかな。何をやっても色メガネで見られちゃうだろうし さ。相馬君だって、総理の夫っていうレッテル貼られて、研究者としてじゃなくて、そ 夫っちのほうで有名になっちゃっただろ。それって、どうなのかなあ、って思ってね」 理 窪塚さんは、毎度のことなのだが、気持ちいいほどぐさりと核心をついてくる。 「ばくは、相馬総理の政治家としての手腕を認めています。ご自分ももともと研究者だ ったから、内閣発足後の大胆な予算再編でも、学術的研究補助費を削ろうとはなさらな かったし : : : そ、ついうところでは、助かったと思いました」 329

9. 総理の夫 = First Gentleman

人だろうけど、政治の世界はいい人だからってうまくいくとはいえないよ。むしろ、多 少悪いやつじゃないとやっていけないんじゃないの。ねえ相馬君 ? 」 はあ、と私は苦笑いすることしかできない。悪いやつじゃないとやっていけない、な んて、凛子が聞いたら怒り出しそうだが、それも一理あるような気がする。 いえ、そんなことはありません。相馬総理は絶対に正義の人です。まっすぐな人で す。でなくちゃ、相馬さんが結婚するはずがありません」 負けずに伊藤さんが言い返した。そして、私の周りの女性たちも同様の意見である、 私たちはとにかく相馬総理を支持する、と鼻息が荒い。凛子はまだ総理としてきちんと 政策を示したわけではない。にもかかわらず、策士・原久郎とプロモーションチームの もくろみ通り、世論を確実に味方につけそうだ、と感じさせる。 「まあとにかく、今日はめでたい日だ。どうだい相馬君、今日は所員全員で祝宴としゃ れ込もうじゃないか」 たた 夫 私の肩を叩いて所長がうれしそうに言った。所長は、自分の研究対象であるオオタカ 理と同等かそれ以上に、アルコールが興味の対象なのである。周囲に集まっていた研究員 全員がたちまち賛同、私に有無を言わせず、本郷にある行きつけの居酒屋に行くことに なってしまった。 りゅうのすけ 善田鳥類研究所は、日本鳥類研究史に多大なる足跡を遺した故・善田竜之介博士が一 ほんご - っ のこ

10. 総理の夫 = First Gentleman

216 いま三十歳か 国際政治学研究者。政治経済社会構造研究所上席研究員。東京大学法学部卒、同大在 々士不ノ ド大学に留学、ノーベル経済学賞受賞者のハロルド・ ーミリオン博士 に師事。東京大学大学院法学政治学研究科で博士課程修了。 ーーなお、父 ( 故人 ) は史 上最年少で開田川賞を受賞した作家・真砥部惇氏。母 ( 故人 ) は国際政治学者、真砥部 タ氏。 うわあ。これは、すごい。あり得ないほどきらびやかな学歴だ。しかも、あの真砥部 惇と真砥部タの娘 ? 真砥部厚の作品は、 ) しくつか読んだ。絶筆『手術台の上のみかんとジャンプ傘のたま さかの出会い』は、衝撃だった。大学時代、あればっかりは、何度も繰り返し読んだっ け。あれ、タイトル違う ? 『解剖台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会い』だっ たかな ? はて、どっちだっただろうか 真砥部タといえば、伝説の国際政治学者だ。この分野で世界に通用する数少ない日本 人学者、しかも女性ということもあって、彼女の名は一般にも広く知られている。東大 に在籍中だった私も、大学構内を歩く真砥部先生の颯爽とした姿を何度か目にしたこと がある。すらりと背が高く、前をまっすぐ向いて歩く姿は、たとえてみれば、宝塚の男 役という感じだった。文壇の天才にして変人でも名高かった真砥部惇を、唯一御せる夫