たいと思ってくれている人がいる。表立って表明することはできなくても、無言のうち に一票を投じてくれる人もいるはずだ。 凛子の打ち出した政策は、決して日本経済を悪化させるものばかりではない。最初の うちこそ苦しいかもしれないが、長い目でみれば、再増税、脱原発、社会システムの変 革は、日本を再起動させ、経済を活性化させることができる。先見の明がある経済人で あれば、必ずそう理解できるはすだ。 自分自身はからきし経済や経営は苦手なのだが、日本を代表する経済人を祖父に、父 、兄に持っ私は、心のどこかで信じていた。ほんものの経済人であるならば、凛子を 応援してくれるはすだと。 そんなことを口にすれば、おそらく、母などには、「まったく、あなたはおめでたい 人ね」と言われてしまうのがおちなのだろうけれど。 ところが、その母は、こっそりと、凛子を後押ししてくれていた。 選挙期間中、何人かの経済界の大物が、私宛に電話やメールで連絡をくれた。「おお っぴらにはできないが、密かに応援している」という人や、「うちは、誰が何と言おう と相馬凛子を全面的に支援する」という人。彼らは、揃って「ご母堂から連絡をもらっ た . と言った。「ご母堂がわざわざご挨拶に見えた」と教えてくれた人もいた。 相馬凛子を、どうかよろしくお願いいたします。
「消費税のこと。それから脱原発に関してだよ。ほかはどうでもいい」端的に兄が言葉 を継いだ。 「総理の掲げている欧州型の『複数税率』は、正直、経済・産業界の足を引っ張りかね ない。おれが役員を務める経済同朋会会員の企業にとっては、現行の十 % から十五 % へ の引き上げは収支に大きく影響するし、一時的に赤字に転落する企業も出て来るだろう。 引き上げ分を商品の価格に上乗せするところも出るだろうから、物価高も招く。消費税 が高ければ消費マインドも冷え込むだろうし、結果的には市場を萎縮させ、日本の国際 競争力を弱める可能性もある」 急に経営者の口調になっている。私は黙って兄の言い分を最後まで聞くことにした。 「それに、脱原発。確かに世論は脱原発でほば一致している。長い目で見れば、いずれ 避けられはしないだろうが : : : それにしても、原子力もエネルギー政策の一選択肢とし て、せめて総電力の二割程度は原子力でまかなうべく、原発は残すべきだとおれは思う。 夫さもなければ、原発関連の雇用も失われるし、各電力会社の株もさらに下落する」 そこまで一気に話してから、「お前はのんきなおばっちゃまだから、年金の心配など しなくてもいいから知るまいが」と前置きして続けた。 「電力会社の株ってのは、かっては高配当の安定株だった。福島のあの事故でそうでは ) 。念理が言ってるよ、つに電力会社の自由化 なくなったが、年金の組み入れ率はまだ高し糸
302 「ほんとに ? ほんとにやる気なの、凛ちゃん ? しつこく兄が詰め寄った。 「そりゃあ、日本が借金漬けで、もうにつちもさっちもいかないお況になってるのはわ かるよ。しかし、我々経営者から見ると、増税よりも景気対策のほうが優先順位は高い。 下手に増税すれば、市場の消費欲は減退するし、前回の消費税率が上がったときだって、 結局焼け石に水だったんじゃないの ? それよりも、景気を刺激する政策をさきに発表 したほうが、市場は好感を持つはずだろう。そうすれば、株も上がるし、消費欲も回復 して : 「日本の経済が失速したのは、前回の消費税率引き上げが引き金になったから、という 見方には、私は同意できません」 凛子が、素早く応えた。 ーマンショック、欧州の通貨危機、震災と原発事故ーーー前回の消費税率引き上げか ら、日本は数え切れないほどの経済危機にさらされました。すぐにでも手を打たなけれ ばならない重篤な局面が何度もあったのに、前与党はそれを放置してきた。問題は消費 税率を再度引き上げるかどうかということではなくて、破綻しかけたこの国の財源を、 どこに見出し、いかにそれを安定的なものにするかということなんです。だから、私の 政策は、税率を上げることだけに終始はしません。当然、景気対策もセットで提案しま
368 は、あえてこの三つに争点を絞り込んだ。そして、原久郎サイドよりも先に、解散総選 挙となった数時間後に、素早くマニフェストを掲げたのだった。そうすれば、原氏は、 凛子と反対のマニフェストを掲げざるを得ない っせいに凛子のマニフェストに反発を 原久郎の水面下の動きもあって、経済界は、い 唱えた。 そりやそうだろう。再増税も、脱原発も、雇用の抜本的な見直しも、経済界には受け 入れられないことばかりだ。 当然、私は兄に呼び出された。そして、一方的に宣言された。「おれたちは、残念な がら、凛ちゃんをもう一度総理にする気はない」と。 もう我の限界だ。彼女には 「総理になった彼女を、ずっと支援するつもりだったが、 皮女の夫である、お前にもだー 幻滅した。彳 私は、以前と同様に、兄の言葉を黙って受け止めるほかなかった。兄は、続けて言っ 、」 0 「いまなら、まだ間に合うぞ。もし、お前から彼女に、マニフェストを撤回するように 働きかけて、日本の経済界とがっちり手を結んだ政策を打ち出せるなら : : : 経済同朋会、 それ以外にも、影響力のある経済団体が、全部味方についてくれるぞ。どうだ ? 」 私は、思わず苦笑してしまった。いまさら何を提案しても私が受け入れるはずがない、
350 私は、少々呆れて返した。 「有利になるって : 「それは、公私混同ですよ。僕の妻は総理大臣です。公的な立場にある人です。そんな 人に、うちの家業に有利になる政策をひとっ頼むよ、なんて言ったら、裏でロをきいた ことになるじゃないですか。そんなことを、あの潔白な凛子が、受け付けるはずがない でしよ、つ ? ・ 「馬鹿だな、お前は。ほんとうに馬鹿だ」 兄は、心底かっかりした、というように、ため息をついた。 「凛ちゃんが総理になったとき、経済界は一応期待していたんだぞ。彼女なら、斬新な やり方で、日本の製品を国際市場に売り込んでくれるだろうし、関税についても日本の 経済界に有利に動いてくれるだろうから : : : 。確かに国際市場への売り込みは好感触だ ったし、輸出拡大にも見込みが出てきた。でも、せつかく市場が上向きになってきたと ころに、さっそく増税をされちゃ、冷や水をぶつかけられるようなもんじゃないか。こ んな状况に追い込まれたら、経済界はこのさき相馬総理を推さなくなるのは確実だぞ それは結局、凛子の政治家としての立場を危うくする、と兄は言った。 彼女をできるだけ長く政権の座に就かせておこうと思うなら、経済界を敵に回すよう な政策をするなと助言してやるのが、総理の夫の務めではないか、と。 「女房のためを思うなら、そうやって助言してやることも必要だろ ? いざというとき
348 さて。ここまでこの日記を読んだあなたは、おそらく、 「ああなるほど。ってことは、相馬総理、高支持率のまま消費税再増税に踏み切ったわ けね。それでうまくいっちゃって、いまの日本があるわけね。なるほど、なるほど」 と納得されたことかもしれない。というか、未来がそうあればよいとの希望的観測の もとに、このようなことを書いている私なのだが : 凛子の方針を、確かに国民は受け止めたようだった。が、当然、反発する面々も多か った。 特に反発したのは、経済界の人々である。 車や住宅を販売するメーカーなどは、猛反対だった。「消費税はすべての消費品目に 同等に課すべきではないのか」「これでは差別税だ」と、不満が噴出した。 各経済団体の会長は、揃って記者会見を開いて、総理の方針に反対の意をとなえた。 「このような『格差』消費税は、経済界としては受け入れられない」 「すべての消費品目に同率の課税をするか、もしくは消費税率引き上げそのものを取り やめるべきだ」 「いままで日本の経済発展に寄与してきた大手企業には大打撃だ。法人税の課税方法も、 常軌を逸している」 「法人税がこんなに高くなっては、企業は日本を捨てて税金の安い海外へ流出してしま
ソウマグローバルの取締役として名を連ねているからには、あなたも勉強会のひとっ という母の厳命もあって、この通称「二十二世紀会」に くらい顔を出しておきなさい、 私も出席していた。経済同朋会の会員である一流企業の社長や役員がすらりと列席し、 さしずめ経済界の縮図を眺めるようだった。私にはどうもこの手の経済界の「勉強会」 まあ一種の異業種交流会のようなものだ 的なものの成り立ちがよくわからないのだが、 ろう。ただし、出席している御仁たちは気安く声をかけられるようなレベルの人々では ないのだが。 会は二ヶ月に一回開催され、下世話な話ではあるが、朝食会の年会費は一社三十万円、 参加費は一名一回につき一万円ということだった。ゲストスピーカーの先生方には、い かほどの報酬をお支払いしているのかは不明だったが、いつもなかなか面白い人選では あった。この人選は顧問である五所川原先生にお任せしているようで、五所川原先生の 見識とネットワークが物を言う。なかなかお目にかかれない学者や伝説の経済人、首相 夫経験者などは先生の直接の知人であり、ソウマグローバルや参加企業がぜひともコネを 作っておきたい類いのありがたい人たちばかりだった。 ソウマグローバルのみならず、大手企業が主宰するこの手の会は多数存在し、支持政 党の政治家を囲む定例会のようなものまで含めると、兄が入会している勉強会は月十数 回もあるようだった。むろんそのすべてに出席しているわけではなく、名代として私が 205
382 気味よく笑ったのだった。それにつられて、凛子も、そして私も、思わず笑顔になった。 「ほんとうに、お義母さまのご支援がなければ、私、経済界全部を敵に回して、当選が かなわなかったかもしれません」 正直に凛子が一一一口、つと、 「あら、そんなことはなくってよ」 平然と母が応えた。 いったい 「私はちょっと意見しただけ。相馬凛子ではなく、原久郎が総理になったら、 この国がどうなるか、想像してごらんなさいましな、ってね。経済界のお偉方は、さす がに頭がいい方ばかり。この国が沈んでしまったら、自分の会社も経済も何も、一緒に 沈んでしまうんですからね。そのくらいの想像力は、皆さん、お持ちだったようよ それから、につこりとして、 「まあ、ただしうちのもうひとりのどら息子だけには、きっちり意見しておきましたけ どね。あなた、弟のお嫁さんを突き放したければ、そうなさい。その代わり、あの方が 総理にならなかったら、あなたを解任して、日和をソウマグローバルのにするわ。 そのくらいのことは、わたくしには雑作もないことよ : : : ってね」 いままで一度もない。よって、兄とソウマ 母の「意見、に兄が従わなかったことは、 グローバル傘下の社員もまた、きっと凛子一派に投票してくれたに違いなかった。
1 12 なんかしてみろ、いまの電力会社の株が軒並み下がって、ただでさえ少ない年金はもっ と少なくせざるを得なくなる。とにかく、あの事故以来、停止廃止で原発はなくなる流 れにあるんだから、何もいますぐ脱原発を掲げる必要はあるまい 「ソウマ」は父の代に「関東電力」の大株主でもあった。あの事故で大変な損失があっ たわけだが、 いまもまだ株主ではある。関東電力ばかりではない、兄の会社は世界各国 の電力会社に大口投資もしている。既存のエネルギービジネスとは深いかかわりを持っ ているから、原発の利権にも何らかの関係があると考えるのが自然だ。とどのつまり、 消費税率引き上げも、 ' 脱原発も、「ソウマーとその仲間たちの企業にとってはメリット よりもデメリットのほうが大きい、との判断のようだ。 そういえば、凛子が先頃アメリカを訪問したとき、経済界から二十名ほどが訪問団を 作って同行した。経済同朋会会長をはじめ、同会役員のお歴々ばかりだったが、現地の 経済界との交流パ ーティーに引っ張り出された私は、彼らに取り囲まれて大変な目にあ った。もちろん、相馬家の次男ということもあったからだろうが、自分の父親ほどの年 齢のお偉方におべつかを言われたり持ち上げられたりで、どう対処していいものやら、 ありがとう ) 」ざいます、よろしくお願いいたします、がんばります、などと、当たり障 りのない返事をしてどうにか逃げ切ったのだった。 彼らにしてみれば、かっては長らく政権の座にあった民権党と癒々着々をしてきたの
別の申請に基づいて「こども育成助成金 . を給付。各地の駅周辺に託児所・保育所を作 り、保育士数を大幅に増やす。社内に託児所を設ける企業には、補助金給付と減税措置 をする。高齢者が地域の子供たちの面倒をみるプログラムを運営するへ助成をす る。 高齢者の在宅介護のため、派遣介護士数の増員。介護士の賃金を上げるために、介護 資格所有者には補助金を給付。高齢者介護施設の増築。各自治体のシルバーセンターへ の助成。お年寄りと若者、子供たちの交流の機会を作るへの助成。 ・ : 等々、凛子が乗り出した政治・社会改革の数々は、国民一般には大いに歓迎され、 企業関係者には渋い顔をされるものばかりだった。 もちろん、景気対策や外交なども決して怠ることはできない。あれもこれもあっちも こっちもどっちも、枚挙にいとまがないほど、凛子はめまぐるしく働き、闘わなければ ならなかった。 が、結局、このくらいの大鉈を振るわなければ、いつまで経っても日本は変わること はできない。少子高齢化に悩み、社会的弱者が苦しみ、多くの国民が将来に備えてせつ せと貯蓄ばかりに励み、結果、経済は停滞し、日本の国力は衰えていく。 いずれ誰かがやらなければならないのなら、私がやる。それが、再び総理大臣になっ た自分の使命なのだから。