くわわっていた。オパマ大統領の当初の反応は冷ややかで、遅ればせながら案を支持したときには、 それまで熱心たった共和党議員七人が翻意していたーー・共同発起人の共和党上院議員六人と、上院少 数党院内総務ミッチ・マコネルが、反対に回った。マコネルはそれまで熱心に案を支持していた。予 算危機に「取り組む最善の方法」で、「両党が支持するに値する」とい ( 、支持を渋っているオパマ * 9 大統領を非難した。 ところが、採決の三日前にオバマ大統領が法案支持を表明すると、マコネルは反対に回った。外部 : マコネル の人間はあきれ果てた。「変わったのはたったびとつの事柄たと、結論付けるしかない・ の党派主義の目的に、法案が政治的に利用できなくなったことた」と、《ワシントン・ポスト》の社 説欄編集人フレッド ・ハイアットが書いている。「大統領の財政は無責任たと非難できるあいたは、 よろこんで財政責任を主張する。ところが大統領が提案を支持すると・ : さらに、不利な勢にもか かわらず、委員会が上院で必要な六〇票を得る見込みがわずかでも出てくると、マコネルは逃げ出し 揉め続けたヘルスケア法案 ここ数年、もつばら党派主義の攻囲戦がつづけられている。たが、一九六〇年代半ばと現在の違い つまり中道の力による超党派政治とニュー ハワーゲームの党派主義の蛮行が、どれほど異なってい るかを如実に示しているのは、なんといっても、一九六五年のジョンソン大統領のメデイケア〔六五 歳以上の高齢者や身体障害者を対象とした公的医療保険制度〕法案の採決と、オパマ政権下で行われた二〇一 130
えんせん 兵士の逃亡や厭戦に悩まされた。現地の軍隊が弱いために、米軍が主導しなければならず、そのため 力し、ら 傀儡国家のように見られて、現地の政府や国民との亀裂を深めた。また、米軍の存在感が大きすぎる ハミド・カルザイ大統領がしばしば苦情を述べたような、ハイテク兵器による民間人の死傷 に対する恨みが激化した。 「良い戦争」が悪化する イラクでの戦争に反対を表明したオパマ大統領も含め、アメリカ人の大多数は、アフガニスタンの アルカイダを根絶するための軍事行動を正当であるとしていた。しかし、ミッション・クリープによ って米軍が国家建設に傾くようになると、数々の欠点が浮上した。アフガニスタンの指導者たちはカ が弱く、気が変わりやすい。アフガニスタン軍と米軍のあいたで緊張と衝突が増大した。また、カル ザイ大統領は、米軍の戦争遂行をしばしば激しく非難した。 代 そのうちにアメリカの高官の一部は、カルザイに幻滅し、 7 。 ナことに二〇〇九年八月の大統領選挙で、 の 争票の水増しや不正投票が行われたあとは、カルザイの正統性への疑惑が強まった。ェイケンべリー大 ン使は、カルザイは信頼できないと考え、カルザイ政権が蔓延する腐敗を取り締まって、もっと強いリ ーダーシップを示し、大衆の支持を得ない限り米軍の増派は徒労に終わるたろうと、オパマ大統領に 忠告した。 章 アメリカは、二〇一四年に米軍と z<+0 軍が撤退するに当たって治安維持を移譲するために、ア 第フガニスタン国軍と警察の創設に二〇〇二年から六〇億ドルを費やしてきたが、国軍と警察はとうて 197
のコンピューター企業がアメリカの半導体メーカーを脅かしたとき、レーガン政権は日本政府に政治 的圧力をかけて前例のない貿易協定を結び、アメリカ製半導体が日本市場でシェア二〇パーセントを 維持するよう強要した。レーガンが議会を説得して、コンピューター企業十数社と政府の官民。ハ ナーシップ、セマテックに一〇億ドルを投資させた。アメリカのハイテク産業が先駆者でありつづけ、 軍の兵器システムの部品を、国防総省が危険なまでに外国の供給に依存するのを防ぐために、「先制 競争」テクノロジーを創出する、という触れ込みたった。 またレーガンは、アメリカの自動車メーカーを強力に保護した。トヨタやホンダがアメリカの自動 車市場を深く侵食すると、レーガンはドルの四〇パーセント切り下げを強行し、日本からの輸入製品 の価格を割高にした。そして、日本政府に圧力をかけ、日本のアメリカ向け自動車の輸出割当量を定 め、日本の自動車メーカーがアメリカ国内に組み立て工場を設置して、アメリカ人労働者の雇用が生 ↓ 6 れるよ、つにしこ。 ン つまり、二〇〇八年の経済崩壊時に、オパマ大統領がウォール街の銀行救済のために、ジョージ・ プ ・ブッシュ大統領が議会の承認を得た資金のうち八〇〇億ドルを使って ( ゼネラル・モーターズ ) ヤとクライスラーを救済したのは、まったく前例のないことではなかった。 一要するに、現代の右派政治の論理とは裏腹に、両党の大統領は公的資金や権限を使ってアメリカの マ 内産業を保護し、なおかつ国の交通・通信・金融システムに数千億ドルを注ぎ込んできた。アメリカ建 国 国以来ずっと、大統領たちは新テクノロジーの進化を育成してきた。しかし、民間セクターのイノベ 章 ーションとして市場に出されたものに政府が一役買っていたことに、アメリカ人は往々にして気づい 第ていない 119
夢を取り戻すための一〇ステップ アメリカンドリームを取り戻すのは、すぐにはできないし、簡単でもない。アメリカには長期の構 造的な雇用問題があり、あらたな思考や大がかりな新経済政策目標が必要とされる。たからこそ、ホ ライゾン・プロジェクトの O 0 たちは、国内マーシャル・プランを唱えた。彼らが提唱している政 府主導の産業政策は、数百万人の雇用を創出し、製品の輸出を増やし、インフラを現代化し、税制を もっと賢明で公平なものに改革し、アメリカ国内の製造業を復活させ、中国の不公平な貿易慣習に異 議を唱えるか報復することを求めている。 この O O たちゃ、その他の人々の思考から、アメリカンドリームを取り戻すための一〇のステッ プがここに生 ~ ↓まれた ステップ①もっとうまく競争するためのインフラ雇用 ステップ①は、老朽化したアメリカの交通網を現代化し、五〇〇万人ーーもしくはそれ以上ーーーの 雇用を創出するために、新官民パ ートナーシップを創設し、今後一〇年間、大規模な投資を行うこと な政府の支援で大陸横断鉄道を推進し、補助金を出したリンカーン大統領、内陸水路を建設したセ オドア・ルーズベルト大統領、アメリカの近代的な州間高速道路網の父アイゼンハワー大統領のモデ ルに倣、つ。 政府が着手資金を出せば、ウォール街はインフラ・プロジェクトに投資するのにやぶさかでないと 114
止した。 あらたなテロの脅威がどんなものであるにせよ、私たちの「基地の帝国」がほとんどそのままなの は、主に現在の政治・軍事指導者がいずれも冷戦期の思考を墨守しているからだ。ポスニアのイスラ ム教徒を守るにせよ、イラクに侵攻するにせよ、リビアの独裁者ムアンマル・カダフィを権力の座か ら引きずりおろすにせよ、アメリカは世界の警察官たという考えが根底にある。「アメリカは世界に とって不可欠な国として、孤高を保っている」と、一九九七年にクリントン大統領は宣言した。二〇 〇五年にはブッシュ大統領が、アメリカの安全保障は、軍事的脅威に対抗するよりも、世界に民主主 義をびろめることでもたらされると唱えた。「私たちの国の自由が生き延びられるかどうかは、他国 の自由が成就されるかどうかに、大きく左右されるようになっています : : : 」とブッシュは宣言した。 「アメリカの重要な権益と、私たちの強い信念は、い まやびとつなのです」。 世界秩序に不可欠なのはアメリカの軍事力のみたというのが、ブッシュ政権の国防ドクトリン ( 基 本原則 ) たった。世界のどこかで挑みかかる勢力が勃興するのを阻止するには、アメリカがーーー必要 代とあれば先制的に 行動することを、そのドクトリンは明記している。オパマ大統領はそれよりは の 争穏健たが、やはり幅びろい意味を含めて、「これまで六〇年以上、アメリカ合衆国は他のいかなる国 戦 ンよりも世界の安全保障を引き受けてきた : たが、その後、ノーベル平和賞授賞式の演説では、 ガ フやや控え目な表現になった。「アメリカの世界の安全保障への取り組みが揺らぐことはありません」 と、オパマは約束した。そして付け加えた。 「いまの世界では、脅威が拡散し、任務が複雑化してい 〇ます。アメリカが単独で行動することはできません。アメリカたけでは、平和を確保できないので 第す」。 103
「テロとの戦い」から「反政府活動鎮圧」へ ミッション・クリ 1 プは、言葉の上たけのことではない。大統領が方針を変更するにつれて、アメ リカの軍事目標は新しいものへと変容した。かってはアルカイダが、国防総省のアフガニスタンにお 代ける標的たったが、その影が薄くなった。遅くとも二〇〇六年には、アルカイダとそれに勧誘された の 争アラブ人戦士は、事実上、アフガニスタンから姿を消していたと、現地司令官たったデービッド・マ ンキャナン将軍はいう。アルカイダはもっと安全な避難所を。ハキスタンで見つけていたし、世界各地の ガ フ他の基地からも欧米を攻撃することができた。つまり、米軍がアフガニスタンで作戦を行う根本的理 由は、当初は筋が通っていて、大衆の強い支援を得ていたが、し 、までは消滅してしまった。 〇国防総省はあっさりと方針を変更した。大統領の指示に従い、米軍上層部はアフガニスタンで国家 第建設の膨大な任務に着手した。二〇〇三年から二〇〇四年にかけてブッシュ政権の国家安全保障問題 ます。医療を改善しています。世界の麻薬需要に応じることなく国民を養えるような経済を、アフガ ニスタン国民が発展させるのに、私たちは協力するつもりです」。 やがて、二〇〇三年にブッシュはアメリカをイラクでの戦争に突入させ、アフガニスタンから人 的・物的資源を移したが、それでも熱心に「アフガニスタンの民主主義と平和への道」について語っ た。アフガニスタンのハミド・カルザイ大統領とホワイトハウスで会談したときに、ブッシュは「ア メリカはアフガニスタンの成功と繁栄を手伝うために、一分の隙もない取り組みを続けるーと力説し 191
がもはやテロリストの安全地帯にならないようにすることが任務た」と、二〇〇一年一一月二六日に ブッシュ大統領が断言している。 長引くゲリラ戦に引きずり込まれたくはないと、ブッシュは強調した。米軍部隊がアフガニスタン のアルカイダ拠点を攻撃した直後に、ある記者がブッシュに、アメリカがベトナムのような泥沼に引 きすり込まれないために、どういうふうにやるのかと質問した。 「私たちは、、 ( くつかきわめて貴重な教訓をベトナムで学んた」と、ブッシュは答えた。「私が学ん たもっとも重要な教訓は、正規軍ではゲリラ戦は戦えないということたろうね」。二〇〇〇年の選挙 運動でブッシュは、国家建設への嫌悪を厳談して、海外で平和維持活動や民主主義促進を行っていた クリントン前大統領を批判した。大統領就任後の二〇〇一年七月には、「私たちの軍隊は戦争を遂行 して勝利を得るために使われるべきたと考える : : : 」と述べて、その考え方をさらに強調した。「し たがって、国家建設事業に部隊を使用することに、懸念をおばえていた : : : それは軍の戦略ではない と、私は強く否定してきた。 たが、アルカイダが掃討され、カプールのタリバン政権が倒れて、ビンラディンが。ハキスタンに逃 れると、ブッシュは目標を拡大した。二〇〇二年四月、ブッシュはアフガニスタンの「マーシャル・ プラン ( 復興計画 ) 」を公表した。「アフガニスタンの人々が大望を達成する手段をあたえてはじめて、 真の平和が成就されることを、私たちは知っています」とブッシュは宣言した。国家建設に向けた野 心的な政治目標を列挙した。「アフガニスタン国民がみずから安定した政府を築くことで、平和は成 就されるでしよう : : : みずからの国軍を訓練し、発展させることで : : : 少年少女のための有効な教育 システム〔を設置すること〕で。私たちはアフガニスタンで一所懸命やっています。地雷を処理してい 190
だが、タイミングが遅すぎた。民主党の投票者は、それを日和見主義と見なし、スペクターは予備 選挙で敗退した。そして、本選でトウーミーがスペクターの議席を奪い、ティー ーティー議員団に くわわった。 スペクターの粛清は、共和党右派の「イデオロギーの民族浄化」を例証していると、《ワシント ン・ポスト》のコラム = スト、ダナ・ミルバンクは述べ。スペクタ 1 にしてみれば、政治的共食い たった 「共食いするか、さもなければ破減を招く」。 ニューライトオバマ 二〇〇八年、ポピュリスト ( 人民主義者 ) の熱意の波に乗って大統領選挙に勝利したパラク・オパマ テは、中央政界の激しい党派主義の分裂を改革できると確信して、大統領に就任した。アメリカを「ポ スト党派主義政治」に移行させると、希望に満ちた言葉を口にした。 オバマには、万にびとつの勝ち目もなかった。新大統領にあたえられる伝統的な蜜月期すら得られ なかった。第一一一議会は初日から、党派主義の赤い線に画されていた。オパマ政権の最初の二年間 派 右は、下院共和党院内総務ニュート・ギングリッチが、一九九三年から一九九四年にかけて仕掛けた性 進急な戦争とまったくおなじた。二〇〇九年一月にオパマと対決したのは、一九九〇年代にギングリッ チの右腕たったジョン・べイナーで、ギングリッチの議事妨害主義者の作戦計画をふたたび利用した。 九事あるごとに、オパマの新政策を打ち砕くか、信用を失墜させて、オパマと多数党の民主党が無能た 第と有権者に思わせようとした。 ノ 167
一バーセントの、一。ハーセントによる、一。ハーセントのための政府 中央政界のカのパランスを変えるには、ホワイトハウスと議会が平均的なアメリカ人の声をきき、 ミドルクラスの政治目標を法制化するよう仕向けるために、草の根の大規模な運動が必要になる。ま た現在、党派主義過激派が満喫している、もとから組み込まれている利点を減らすことで、政治穏健 派と無党派の有権者の影響力が増すように、政治体制を改革する必要がある。 もちろん投票は重要たが、それたけでは十分ではないことが経験からわかっている。有権者がミド ルクラス寄りの大統領や議員を選んでも、選挙と選挙のあいたに過酷な摩擦で政策が形作られ、有権 者はそういった政策に裏切られたと感じる。中央政界で影響力のゲームが行われて、有権者が投票し ふんまん た目的の大部分が討ち滅ばされてしまう。大衆が世論調査に憤懣をぶつけることはできるが、これま での経験から、議会は世論調査に耳を傾けないとわかっている。 議会がーー大統領もたがーー耳を傾ける相手は、お金た。そこで役目を果たしたものが再選される。 政治運動のコストが急騰するなかで、政治献金の力は増大し、ついに政府は超・階級の要求ばかりに ーセントの、一。 革応えるようになった。エコノミストのジョセフ・・スティグリツツは、「一。 改 ーセントのための」政府と呼んでいる。保守派の共和党上院議員で二〇〇八年に 治セントによる、一 政 大統領候補になったジョン・マケインは、ロビー活動と選挙運動への資金流入について、「巧妙に影 ニ響力を売りさばく企てにほかならない。そこで二大政党はともに、最高値で落札した相手に国を売る 第ことで、公職にとどまろ、つとする ークラス 151
オパマの言葉には、アメリカの力を支える経済に限界があるという含みがあった。アメリカには、 もはや万能の軍事的役割を果たすたけの財力がない。 第二次世界大戦を終わらせたときの絶頂期、アメリカは世界経済を支配していた。核兵器を独占保 有し、陸軍は九五師団、海外遠征能力のある海軍は主要戦闘艦艇一一一〇〇隻を擁し、重爆撃機は一一〇 〇〇機以上を保有していた。アメリカの支配による平和を世界中に布く資力があった。たが、一九七 〇年代初頭には、アメリカ経済の退潮がはじまった。一九七一年にはじめて貿易赤字を出すと、ニク ソン大統領は、ドルを切り下げ、金本位制をやめて、アメリカの役割がもっと限定されることになる のを暗黙のうちに示した。一九七〇年代にアメリカの国内石油生産が減少しはじめ、回復する兆しが ぜいじゃく なかったため、海外の石油生産国が原油価格をつり上げると、アメリカ経済が脆弱であることが実感 された。ガソリン価格が四〇パーセント急騰し、ガソリンスタンドに長い列ができた。 ジミー・カーター大統領は緊縮財政を唱えようとしたが、次のロナルド・レ 1 ガン大統領がアメリ カ国民に「金メダルを勝ち取れ」と命じて、消費を続けさせた。レーガンは国防予算を大幅に増加さ せ、そのいつばうで大規模減税を行った。「レーガンは、軍事支出とその他すべての予算、政策の要 件とのつながりを断ち切った。九・一一後に、ジョージ・・ブッシュがその発想を復活させた」と、 ・べイセヴィッチは指摘する。 歴史学者アンドリュー 過剰な国防支出 不況に陥る前の二〇〇六年と二〇〇七年の貿易赤字が八〇〇〇億ドルを超えているのを見れば、収 ックス アメリカ 104