。 ( しすれも無味乾燥に聞こえました。 なぜでしようか ? これは、恐らく三人とも生死に関わる大病によって将来の生 計を立てていく道が閉ざされるという体験をしたことがないからではないかと思い ます。病気との闘いだけではなく、それによって職を失い、将来の生計が成り立た ないという不安の中で生きた体験がなければ、患者や家族と同じ目線でコメントす ることはできないと思うのです。 私は、三十四歳のときにクモ膜下出血で倒れ、五十五歳のときに中咽頭癌が左首 リンパ節に転移したステ 1 ジ 4 の進行癌が見つかりました。あとになって聞いた話 を総合すると、双方のケ 1 スとも病気の進行状況からして命が助かる確率は非常に 低かったようです。 、」、ついーレよ、つ 一命を取り留めたとはいえ、かなり重い後遺症が残るおそれが大きいと言われた クモ膜下出血のときは、幸いにも退院後にリハビリ、トレーニングを続けた結果、 発病前より頑健な身体になりました。 がんけん
そこで私のほうから、 「最近というのを聞いたことがあるが、 O+ を撮ればわかりますか ? 」 と聞きました。すると、 、刀しレ」、つ 「あなたの場合は全く該当しませんが、クモ膜下等の出血があった場合はわかりま と言われました。初めて聞く病名ではありましたが、 「すぐに撮ってほしい と要明しました。 若い医者は面倒臭そうに室に電話をしました。 「今、 0 空いてる ? 空いたら電話して」 それから、さらに待っこと約三十分、よ、つやくを撮ることになりました。と ころが、が動きだした瞬間、「大変だー クモ膜下だ ! 」と言、つ声が聞こえま した。 それからは空気が一変し、蜂の巣をつついたような状態になりました。医師、看 はち 0 い
と言ったそうです。それを聞いていた医師や看護師から、入院中に「恐るべし。 企業戦士の日本商社マン」とからかわれました。当時の私は年間九十日から百五十 日ぐらいは海外出張していましたので、当たらすと言えども遠からずの仕事中毒の 勤務状況でした。 国際的で大きな入札案件の準備や、受注できるかどうかが瀬戸際の仕事のプレッ シャ 1 はかなり大きなものでした。それに加え、仕事上の会食も連日のようにあり ました。もともとあまり飲めなかったお酒を毎晩痛飲するようになり、学生時代は ① 遊び程度でしか吸わなかったタバコも本数が増えました。絵に描いたような、身体 生 人 の に悪い生活を続けていたのです。それに身体が悲鳴を上げたのだと思います。 で ま る それでも、なぜ私がクモ膜下出血になったのかという問いかけに対して、医者か れ さ 見 ら納得のいく回答は得られませんでした。クモ膜下出血の最大危険要素の一つと言 発 働われている高血圧に関しても、会社の身体検査で常に正常でした。 あさ 章 のちにいろいろな医師の意見を聞き、また医学書を読み漁るなどして自分なりに 第 達した結論は、私の場合、先天的に脳に動脈瘤が存在していたのではないかという
イジメを生む日本の社会 突然襲われたクモ膜下出血 仕事のストレスに悲鳴を上げた身体 病院で繰り返された不思議な質問た 診断書無視の復帰と一年間の静養命令 第四章◎癌が発見されるまでの人生 独立の決意と妻の反対 インテリア事業への参入 社長の夢と現実 スウェーデン人社長の怒り — 0 コンセプトと「グランビック」の誕生 記録的な売れ行きとグッドデザイン賞受賞 ② , ・・・ー・独立起業 ノ 02
、っそ と言いました。しかし、私は妻の顔を見て一目で嘘をついていることがわかりま した。 私にとって幸いだったのは「最後まで意識があったことです。あとから聞いた話 では、最初の衝撃で亡くなる人も多く、病院に辿り着いても自分で意思表示ができ ない状態の人のほうが圧倒的に多いということでした。 私は割れるような頭の痛みに耐えながら、医師に手術をしてもらえるよう強く要 請しました。その結果、すでに帰宅していた脳神経外科部長が再度病院に戻り、手 術の準備が始まりました。 開頭して破裂した箇所の脳動脈瘤をクリップで留めるという大手術は、夜を徹し て行われました。手術は無事成功し一命は取り留めたものの、いまだ予断を許さな い状態のまま、私は手術室から集中治療室に移されました。 自分では記憶に残っていませんが、手術室からストレッチャ 1 に載せられて出て きた私のそばに妻が寄ってくると、私は、 「三井物産に電話して、クモ膜下出血の手術をしたから今日は休むと電話してくれ」
ことです。 『に動脈瘤を持っていること自体は特に珍しいわけではありません。しかし、ほ とんどの人間は、持ち合わせている動脈瘤が破裂しないまま一生を終えるのです。 それに対して、私の場合、過度のストレスが心身にかかり続けたために免疫力が低 下し、動脈瘤が破裂してクモ膜下出血を発症したものと思われます。 病院で繰り返された不思議な質問 目が覚めたらすでに夜でした。私は、集中治療室から一般病室に移されていまし た。妻はもう帰宅していました。看護師がちょうど点滴薬を替えに病室にいて、私 の意識が戻ったことに気づき、べッドの横に来ました。 「あなたのお名前は ? 」 と聞くので、 「都倉です」
第七章病気が教えてくれた新しい生き方 という意欲が出てきました。「お腹が空く。何かが食べたい」という感覚を長い尸 忘れていました。食事は単に身体に必要な栄養補給手段でしかありませんでした。 食欲とはこういうものだったのだとっくづく思い喜んでいる今日この頃です。 私は現在四か国語 ( 日本語、英語、ドイツ語、スペイン語 ) を話せますが、さら に新たな外国語を学びたいと思っています。六十歳になるまでにあと二か国語を日 常会話程度までマスタ 1 したいと密かに考えています。 また、四月に米国のオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブで開催されるゴルフ の祭典「マスターズ・ト 1 ナメント」のテレビ中継は、大学でゴルフ部に所属して 以来、毎年私にとっては春の訪れを告げてくれる楽しみでした。ここ数年は見たこ ともありませんし、ト 1 ナメント結果についても全く気にも留めていませんでした が、久しぶりにその始まりをワクワクと心待ちにする気分がよみがえってきました。 大学時代にハンディキャップ 0 になってから、ゴルフは私の生涯の友と思ってい ました。クモ膜下出血を患ったあとも、医師のすすめもあり、リハビリを兼ねて散 歩代わりにコースを回りました。しかし、最後にクラブを握ってから三年以上経ち、 203
と言いました。 そのときの私には全く意味がわからなかったのですが、後日いろいろ病状に関す なぞ る説明を受けてようやく謎が解けました。 つまり、病院側としては手術を断念したぐらいの重体にもかかわらず、私の強い 要請で手術を断行したのです。一命を取り留めたものの、後遺症があるかどうかに ついてはいろいろなチェックをしなければわからなかったのだそうです。 結果的には、一命を取り留めたのみならず、言語障害を含めて心配された身体の 機能障害も全くありませんでした。 そのような状態で入院生活が始まりました。しかし、もともとじっとしているの が苦手であった私は、一週間ぐらいすると、医師、看護師に対して「いっ退院でき るのですか ? 」と同じ質問を繰り返すようになりました。 脳動脈瘤が破裂してクモ膜下出血と診断され、手術が行われたのが三月四日の深 夜から五日の早朝にかけてでした。私は、五月の連休後には出社したいと再三要請 しました。病院側は非常に困っていましたが、私の繰り返しの要請に「最初は一日
第三章癌が発見されるまでの人生① 護師が集まり、「絶対安静が必要です」と、つい今しがたとは百八十度態度が違う ひょうへん 豹変ぶりでした。 病院に着いたときから医者と私とのやりとりを見ていた妻は、病院側の対応に不 信感を持ち、病院を替えたいと申し出ました。しかし、今度は「絶対に動かせな ! 」の一点張りでした。 このような経緯で、クモ膜下出血の確認までかなり無駄な時間を要した結果、動 、り・ゅ、つ 脈瘤が破裂して大量の血が頭の中を回っていました。 手術しても助かる見込みは少ない。助かったとしても重い後遺症が残る確率が高 いというのが、病院側の妻に対する最終所見でした。 仕事のストレスに悲鳴を上げた身体 妻は私が寝かされている集中治療室のべッドの横に来て、 「あなた、手術をしないでも大丈夫みたいよ」
それは、孤独な精神状態がどれだけ人間にとって苦渋に満ちたものかということ を端的に述べた発言だと思います。「自分の存在が認められていること」が実感で きないと、人は絶望していくのです。 突然襲われたクモ膜下出血 一九七六年に大学を卒業した私は三井物産株式会社に入社し、化学プラント部に 配属されました。化学プラント部の仕事は、当時日本が最盛期を誇っていたプラン ト輸出ビジネスが中心でした。私も仕事を任されるようになってからは、世界中の とうほんせいそう 石汕製汕所、石油化学コンビナ 1 ト建設のために、東奔西走する日々を送っていま した。 一九七六年は「今太閤」「庶民の宰相」と絶大な人気を誇った田中角栄元首相が、 いわゆるロッキード事件で逮捕された年です。企業戦士などという言葉がもてはや されていた時代でした。私も仕事人間で、自分では日本のため、会社のために身体 学にし一」、つ