「勝った、ジョッキ】になった」 安田は思わず胸でつぶやいた。ウイニングランをするのは気恥ずかしかった。馬と二人きりで検量 に引き上げる道中、「ティオ 1 、ありがと、つ」と大士尸で馬に言った。 「本当に涼しい顔をしてすごい馬だな」 息を少し弾ませながら、馬はやはり美しい目をしていた。 馬上から降りれば、胸が熱くなった。 「ティオーのおかげで勝たせてもらった」 ヒーローインタビューに応じる安田は、名実ともに〃全国区〃になった。 ウイナーズサークルの柵越しに、家族がやってきた。優子は顔を上げられぬほどに泣いていた。景 一郎と翔伍も「オーチャンがを勝った」と顔を真っ赤にしていた。食卓で明るく励ましてくれた 家族は、その実、祈るようにの日を待っていた。 「二十年、騎手をやってきて、子供たちゃ妻の前でを勝たせてもらって、言葉に表せない喜びが 沸き上がった。中山の空は曇っていたけれど、気持ちは日本晴れだった」 大きな勲章をくれたトウカイティオ 1 のロ取りで、安田は人差し指を一本立てた。父のシンポリル ドルフが三冠馬になる過程で、騎手の岡部幸雄がそうしたから、息子も : : : と以前から決めていた。 当然、ダービーで二本指をかざすつもりだった。 皐月賞が終わって、中山競馬場の出張馬房へ行った。 207 20 年目のラストチャンス
て、ギャンギャン立ち上がって騒いでいたのを思い出しますね。モガミもダービー馬を出していたけ ど、当時はまだ実績がなかったし、期待はしてたけど、まさかあの仔が牝馬の三冠を勝っとは思わな かった」 競馬場へ行ってから、メジロラモーヌは見違えて強くなった。 昭和六十一年の桜花賞、オークス、エリザベス女王杯を優勝したばかりでなくトライアルも全勝し たが、その実、苦労も人一倍あった。 エリザベス女王杯を目指して : : : 。休養で洞爺の牧場へ帰ってきた三歳の夏は、綱渡りの心境だっ た。帰郷してまもなく、二冠を勝った春の疲れが出てしまった。 「ラモーヌの時代は、現在の〃外厩〃設備も牧場に整っていなかったし、夏の休養も経験がなかった からね。牧場としてこんな素晴らしい教材はないと思うけど、毎朝、みんなが馬の状態を確認するの にビクピクしていました。馬が放牧で完全にリラックスしたとたん、疲れが出ちゃって体がガタガタ になってしまって : はた 傍から見れば順調なメジロラモーヌだったが、あの頃、メジロ牧場は馬を立て直すのに必死だっ 朝一番に馬房へ出かけて、誰もが神妙な顔つきで入念に脚元を触わっていた。秋になって美浦の厩 舎へ送り出す日は、全員の気が抜けるほど精も根も尽き果てた〃夏″の終わりだった。 それが、みじんの不安も見せずに、エリザベス女王杯を勝った。 「三冠を勝った瞬間は、プルプルと身震いがとまらなかった。牧場時代は丈夫な馬じゃなかったし、
中央で地道に馬を仕上げてきた佐藤の人情を思えば、負けたくないと思った。ドージマファイター に出会った天命も逃せない、と誓っていた。 連勝はを数えていた。期待が高まる一方、口さがない人は " 条件戦での連勝 ~ と言った。手塚は 批判めいた風評を少しも気にしなかった。 かって連勝するような馬を、何頭も手がけてきたから知っていた。 「馬にスピード旨ゞ 育カカないと、必ず壁にぶちあたる。オープンの << クラスに行ける器じゃないと、勝 ち切れない」 経験したから承知している事実だった。 勢いで二桁の連勝を築いても、必ず真価は問われる。馬に能力がなければ、条件戦でも勝ち続ける ことは不可能だった。 「なんでもかんでも、勝てばいいんだ」 結果を出して、ドージマファイターのすごさを教えてやると思った。 「勝つってことは強い。負けるわけがない 手塚は、心底あの馬にれ込んでいた。道中、何番手に付けようカ歹 ゞ、曵り一五〇メートルを過ぎる と、自分でハミを取って勝ちに行く馬だった。 「ドージマは勝ちパターンを知っている」 賢い管理馬を信じながら、身を削るような思いで " 無傷 ~ を守ってきた。それは戦歴だけでなく、 心身も同様だった。
廩重に徹する競馬を以前にも増して肝に銘じるようになったし、 " あいっ頑張ってるな ~ と思って くれる人の期待に応えたいと強く願うようになった。競馬だけでなく調教も精力的にまたがる安田は、 べテランと呼ばれるようになっても〃努力″を胸に生きた。 それから数年が経って : ・ 安田といえば〃小倉男″と呼ばれるようになっていた。いずれ四十五 週連続勝利の記録を樹立するほど、ホームグラウンドと呼べる場所だった。 「があっても小倉へ行くようなスタンスがありました。それくらい〃小倉男″の名前をもらった ことに誇りがあった」 馬にたくさん乗せてもらえるだけで幸せだったし、ローカル競馬での活躍に自負があった。 ーズプーケで重賞を二勝した。 平成元年には小倉一二歳 co のハギノハイタッチとサファイヤのリリ 八十一二勝を挙げた平成二年は、小倉記念のスノージェット、スワンのナルシスノワールでも勝っ トウカイティオーに初めて出会ったのは、そんな年だった。 しよ、ついち あの馬が入厩した松元省一厩舎といえば、昔から調教も手伝ってきた。今思えば、本当に縁が深 かった。左足の骨折をした時も松元厩舎の馬だったし、十年以上も前から管理馬で勝たせてもらった。 馬に対しては人一倍、慎重で妥協を許さない調教師を生真面目な安田は信頼していた。 トウカイティオーを初めて視界に入れた時のことはよく覚えている。 「貴公子だなあ」 りん 背中の感触を確かめる前から凛とした相貌にひかれた。
われた。 昭和五十 , ハ年の暮れ、調教中に落馬した。何かの拍子で馬銜が折れた。すぐに下へ落ちればよかっ あぶみ たが、左足だけが鐙に引っ掛かった。「左足が太ももからもぎとられる」衝撃だった。 骨は砕けて、安田の膝と踵は大手術を施された。 「悔しいより、早く馬に乗りたかった」 焦るのも無理はなかった。三勝しか挙げられなかった、この昭和五十七年は九カ月も競馬に乗れな かった。結婚した妻の優子との間には、四歳になる長男の景一郎と生後まもない次男の翔伍を授かっ ていた。 「あの頃はクラシックうんぬんの気持ちはなかった。ダービ】を勝つどころじゃなく馬に乗りたくて たまらなかった」 必死で復帰だけを考えた。複雑骨折の後遺症で左足をひきずるようになったが、馬の背中に乗れば 騎手の手腕に変わりはなかった。 競馬場に戻ったのは秋だが、その年は八十の乗り鞍をこなした。 「もうすっかりええんやな」 努力する安田の背中を知っているのか、騎乗の声をかけてくれる調教師もいた。 「ありがとうございます」 深く頭を下げながら、感謝の念は尽きなかった。 「今思えば、蚤我をしてよかった」 かかと 197 20 年目のラストチャンス
本は初めて繁殖牝馬を持った。 時には、調教師と酒を酌み交わしながら、初年度の配合に思いを巡らせた。 ショウナングレイスといえば、大久保が管理したメジロファントム、メジロハイネの活躍馬と同じ 牝系だった。 「先生、やつばりいっかクラシックを取りたいよね」 二人の夢は尽きなかった。 たねうま 「トニービンはすごい種馬だから付けたいけど、万が一、受胎しなかったらなあーと大久保は思案す るよ、つに一一一一口った。 あの頃のトニービンといえば、初年度産駒のウイニングチケットがダービーを勝ち、牝馬のベガも 桜花賞、オークスを優勝していた。当時の種付け料は一千万円だから、不受胎や流産の場合、リスク 、も , 入 (J い 「トニービンでいきましよう」 国本は力強く言った。 「馬が稼いでくれた賞金は馬に返す」 ぜんや 日本競馬を代表する社台の吉田善哉も、メジロの北野豊吉、シンボリの和田共弘も、競馬への情熱 はすさまじかった。国本もそれに感銘してきたから、経済的な投資を惜しまなかった。 さんく 翌年、トニービン産駒の牡馬が生まれた。初仔だが、品のよいアカ抜けた馬体だった。二番仔はフ ジキセキ産駒の牡馬だった。
「頑張ろうな」と佐々木は思った。生産頭数は二世代で百五十一頭。 賢いのが余計にせつなかったが、 数が少ないのはつらいけれど、いい仔が出来ているし、期待は日に日に大きくなった。 馬を好きだったファンはスタリオンを訪ねて、佐々木の話をなっかしそうに聞いた。 " ナリタブラ ィアン新聞〃を作って、産駒の入厩情報を毎週、ファックスで流してくれる人もいた。 「プライアンの子供がレースに出てもらわなきや困るよ。出れなかったら清水の舞台からパラシ ュートをつけて飛び下りなきや」 " ナリタブライアンと約束だ ~ とようやく笑えるようになった佐々木がいた。心底、自分の種馬を信 じていたし、夢は日々、育っていた。 平成十三年の夏が来て、二年目の産駒がデビューした。 「お前の仔が勝ったぞ」 「残念ながら負けたよ」 前の年から佐々木の報告は続いている。雨の日も雪の日も : ・ 「きようも取材が来たよ。マイネヴィータが札幌二歳に出るんだぞ」 ナリタブライアンの仔が重賞に出るから、テレビや雑誌が取材へやってきた。さすが、いつまでも 華のある名馬だった。 「親父なみに走れっていってもゆるくない話だけど、プライアンの仔は牡馬も牝馬も、どの馬も頑張 128
「勝つ自信はある」 連勝の日本記録に並ぶ執念はすさまじかった。 右前脚の限界 早朝の厩舎街は、思いがけず人の出入りが多くなっていた。 洗い場に繋がれた馬をレンズに収めて、カメラマンは盛んにシャッターを切っている。取材記者は 調教師を囲んでいた。 「食いもいいしね。調子は万全ですよ」 手塚は、温和な笑顔で記者の質問に応じた。 たくま カイバ桶に顔を突っ込む勢いも豪快で、五四〇キロの体はすこぶる逞しい。手塚の言うとおり、 誰が見ても文句のないデキだった。 平成十年の秋、ドージマファイタ 1 は字都宮の古賀志山特別に出走が決まっていた。 % 連勝に向け て、周辺はにぎやかになっていた。 「勝つ自信はあるよ。負けたら記録にならないからね」 普段と変わらず、調教師の目は優しく細められた。傍から見れば、不安とは無縁に見える手塚だが、 その実、執念はすさまじかった。 「負けるわけがない。勝たなきやだめだ」 77 29 連勝への道
「 " リストラ ~ じゃないよ。中央で無事に走っていれば、当然、準オープンまでは出世していた馬で 質問をされる度、手塚は柔らかい笑顔で説明した。 「うちへ来る前から能力のあった馬なんです」 調教師は何度も言った。 三歳の秋に管骨を故障しなければ、未勝利戦を勝ち上がっていたと手塚は確信していた。連勝する 姿を見れば、中央での出世は容易に想像できた。 その頃、美浦の佐藤全弘と親類の結婚式で会う機会があった。手塚は親子で出席していた。 「ドージマに、ぜひ記録を達成させてやってくれよ。名前がずっと残るから。佐藤先生も大きな人だ から、喜んでくれてるよ」 貴久は父に言った。 「そうだな」 ほほ笑んでうなずきながら、内心、こんなに勝たせてもらって・ : ・ : と謙虚な気持ちになっていた。 手塚は、恐縮する思いで調教師の佐藤に声をかけた。 「そちらでも準オープンまで行ける馬なんだから、うちで走って当たり前です、 すると、佐藤は顔をくしやくしやにした。 「そんなことないよ。ドージマは足利の水に合ったんですよ。頑張って下さい」 「佐藤さん、ありがとう。これからも勝たせてもらいます」 乃 29 連勝への道
「ボロもおしつこもしないんじゃないかと思うくらい気品を感じた」 長めの前髪からのぞく涼しげな眼は、一一歳馬とは思えなかった。実際、またがれば無類の柔軟性が 安田の尻に伝わってきた。 「ゴムまりみたいにやわいけど、乗っててしつかりしている」 新馬は勝つなと直感した。 「安田、この馬に乗ってくれるか」と松元が伝えるまでもなく、「ティオーがデビューする時はぜひ、 どこへでも行きます」と言った。 来年はティオー一本だ 中京競馬場の調整ルームに戻ったその日は、ビールや高級な酒を大量に購入した。 ス 翌日の日曜日も競馬の開催がある。当然、宴を開く気楽な夜ではないが、安田は御祝儀の代わりに ン ャ 騎手仲間に差し入れをした。 チ 「好きな時に好きなだけ飲んでください」 ス 平成二年十二月一日の土曜日、中京競馬で騎乗した安田は〃六勝〃を挙げた。″ ローカル男〃と呼ラ 目 ばれてきたべテラン騎手は、得意の中京で当時の一日最多勝利の Y--E< 記録を更新した。 年 普段は少量の酒ですぐに眠くなるけれど、床に就いても昼間の興奮が何度も浮かんでは消えた。腕 はよいと言われてきたが、小倉や中京での活躍は華やかな感じではない。三十七歳の騎手は、一つで叨