騎手時代の安田隆行氏とトウカイティオー トウカイティオー 昭和 63 年生牡鹿毛 父シンポリルドルフ 母トウカイナチュラル母父ナイスダンサー 栗東・松元省一厩舎馬主 / 内村正則 生産者 / 新冠・長浜牧場 12 戦 9 勝 主な勝ち鞍 / 平成 3 年皐月賞、ダービー ( 以上 GI ) 、 4 年産経大阪 杯 (G Ⅱ ) 、ジャパン C (G I ) 、 5 年有馬記念 (G I ) 安田隆行 昭和 28 年生まれ京都府出身 騎手成績 / 01 戦 0 勝 ( 昭和 47 年 3 月 ~ 平成 6 年 2 月 ) 重賞 13 勝 ( トウカイティオーく 3 年皐月賞、ダービー〉等 ) 調教師成績 / 1692 戦 165 勝 ( 7 年 3 月 ~ 14 年終了時点 ) 重賞 2 勝 ( シルヴァコクピットく 12 年きさらぎ賞、毎日杯〉 )
昭和引年オークス。右からメジロ牧場社長・北野雄ニ氏、馬主の北野俊雄氏、奥平真治調教師。 鞍上の河内洋騎手は、故北野豊吉氏の写真を口取りで掲げた メジロラモーヌ 昭和田年生牝青鹿毛 父モガミ 母メジロヒリュウ母父ネヴァービート 美浦・奥平真治厩舎馬主 / メジロ牧場 生産者 / 伊達・メジロ牧場 12 戦 9 勝 主な勝ち鞍 / 60 年三歳牝馬 S (CÆ) 、 61 年桜花賞、オークス、エリ ザベス女王杯 ( 以上 GI ) 、桜花賞 TR 、オークス TR 、 ローズ S ( 以上 G Ⅱ )
昭和三十二年に妻の光子と結婚した。七年の月日が過ぎれば、三人姉弟の末っ子で、長男の貴久が 生まれた。 昭和四十三年に騎手を辞めて、調教師に専念するようになった。 日高の馬産地を回って、競走馬の仕入れにも熱心だった。良血と言われるサラブレッドは、中央へ 入るのが相場になっている。 「つなぎの硬い馬は故障が多い。バネのある柔軟な馬を : ・ 牧場を何十軒も歩きながら、丈夫な馬を探した。地方の調教師は、血統を吟味する前に、馬のデキ を重視してきた。 中央から転厩してくる馬といえば、脚元に難のある場合も少なくなかった。 「能力はあるはずだから、治れば走るんじゃないか」 さ′、てい 削蹄にこだわったり、蹄鉄を工夫してみたり : : 。試行錯誤の末に、弱かった馬が連勝した時は、 なんともいえず嬉しかった。 「毎年が勉強」 粘り強く管理馬を仕上げてきたし、自信を持って足利で生きてきた。 血統はニの次でいい 平成七年の秋になって、貴久から父の家に連絡が入った。 ていてつ
昭和四十九年の収支は、一三八億円の黒字を計上した。あの頃は活気に満ちていたが、昭和五十八 年を過ぎて、赤字の年が増えていった。 一年に約四億円のマイナス。黒字に転じた年もあったが、世の中が不況になって、損害も五十五億 円に膨らんでいた。 赤字を記録してから、赤間が代表を務める調教師会と馬主会は、競馬組合と会合を重ねてきた。 「若い人にも競馬場に来てもらわないと : : : 」 馬券の売り上げばかりでなく、競馬ファンの獲得が大事だった。 「日本で話題になる新潟の名馬をつくろう」 「昔の競馬は、ギャンプルと呼ばれてきました。社会に貢献すれば、日の当たる場所に行けると思っ たのに : 赤間は、管理馬を丹精こめて扱ってきた。 「人馬一体にならなきや、走るものも走らない」 毎朝、馬体をふいたタオルで、顔を洗うのが赤間の信念だった。 「競馬の発展の妨げになることはひとつもしてこなかった」 憤然とする調教師の視界には、無人の厩舎街が広がっている。馬がいた頃、風情を思わせた木造の 厩舎も、あるじを失えば寂しい廃墟に見えた。
われた。 昭和五十 , ハ年の暮れ、調教中に落馬した。何かの拍子で馬銜が折れた。すぐに下へ落ちればよかっ あぶみ たが、左足だけが鐙に引っ掛かった。「左足が太ももからもぎとられる」衝撃だった。 骨は砕けて、安田の膝と踵は大手術を施された。 「悔しいより、早く馬に乗りたかった」 焦るのも無理はなかった。三勝しか挙げられなかった、この昭和五十七年は九カ月も競馬に乗れな かった。結婚した妻の優子との間には、四歳になる長男の景一郎と生後まもない次男の翔伍を授かっ ていた。 「あの頃はクラシックうんぬんの気持ちはなかった。ダービ】を勝つどころじゃなく馬に乗りたくて たまらなかった」 必死で復帰だけを考えた。複雑骨折の後遺症で左足をひきずるようになったが、馬の背中に乗れば 騎手の手腕に変わりはなかった。 競馬場に戻ったのは秋だが、その年は八十の乗り鞍をこなした。 「もうすっかりええんやな」 努力する安田の背中を知っているのか、騎乗の声をかけてくれる調教師もいた。 「ありがとうございます」 深く頭を下げながら、感謝の念は尽きなかった。 「今思えば、蚤我をしてよかった」 かかと 197 20 年目のラストチャンス
に戻っても、プロになっても、絶対に茶碗に一膳と決めてたし、リーディングジョッキーになっても それは同じだった。みんなに飯をよそってやる優しさもね」 昭和五十五年になって、赤間厩舎は念願のリーディングを獲得した。騎手見習いだった渡辺も、昭 和四十九年に百八勝を記録して、十八歳の若さでリ】ディングジョッキーになった。以来、十二回も トップを取る名人になった。 「渡辺正治が乗って負けたら、しようがないー 腕のよい騎手は、ファンの信頼も厚かった。 大レースのロ取りに臨む赤間と、勝ち馬の背にまたがる渡辺のコンビは華やかだった。 新潟県競馬の景気もよかった。昭和四十年から開始して五十七年にいたるまで、赤字はゼロだった。 新潟県の財政に貢献し、働く人々にはその自負があった。 「お客さんがもっと入るように、強い馬をつくろう」 赤間だけでなく、誰もが躍進だけを胸に描いていた。 り の 年 馬体をふいたタオル 「昔は、日の当たらない競馬でもさ : ・ その日、赤間が見上げた新潟の空は、灰色だった。太陽が顔を出さないかわりに、小雨がしとしと制 4 降っている。男が漏らした物悲しさを知っているような天気だった。
「女房、子供を泣かす男だけにはなりたくないー 馬主と縁ができても、馬房数がなければ多くのサラブレッドを管理することはできなかった。馬が 勝たなければ収入もない。 「喉から手が出るほど馬房が欲しかった」 通用門から一番離れた場所にある厩舎地帯は、辺境になぞらえて〃北海道地区〃と呼ばれていた。 「こんな遠い場所に追いやられてどうするんだ」 三十代前半の新人調教師は、どこまでも貪欲だった。 管理者の新潟県競馬組合から大目玉を食らうのを承知で、洗い場を馬房に改造するほどだった。幼 い頃の真剣相撲と一緒で、なんとしても勝ち星を稼ぎたかった。 しずれ成功を呼ぶことになった。次第に成績は上向いた。昭和四十年代の後半にな 熱心な仕事は、、 れば、リーディングの三位以内に顔を出すようになった。それでも赤間は満足しなかった。 「一位と二位じゃ、社長と平社員ぐらい違う。新潟で一番になりたいー り 時には執念が成績に追いっかなくて、歯ぎしりするような思いをしたが、意欲は衰えなかった。 の 年 た 一膳の茶碗 馬 渡辺正治に出会ったのはその頃だった。 昭和四十六年の八月、渡辺は中学三年生の夏休みを過ごしていた。騎手になりたくて、地元の新潟
だった。 ミチアサが生んだ初仔の牡馬は華奢だった。黒鹿 チャイナロックはいかにも頑丈な馬体だったが、 毛のせいか、細い体はよけいにひょろりと見えた。仔馬の頃は体質も弱くて、獣医師の免許を持って いた大塚さんは注射を打ったり、薬を飲ませた。 「細身の " どじよう腹 ~ の馬でね。長めの体で胸囲も足りないから、見映えのする馬じゃなかった。 しよっちゅう下痢をしてたし、重賞を取っていくなんて思いもしなかった。それが三歳の秋に力をつ : 。淀競馬場で見てた時は、嬉しくて嬉しくてバンザイしたよ」 けて、菊花賞を勝つんだから : 両手を上げるだけでなく、隣にいた知らない人の肩を何度も叩いていた。 従業員さながら、父の牧場で腕を磨いてきた息子は強烈に思った。 / いっか自分も : 昭和四十四年に菊花賞を勝ったアカネテンリュウは四代目の場主に夢をあたえた。 一族を守り抜くために 昭和二十八年にプレイガイドクインが繁殖入りしてから十六年が過ぎて : 統になっていた。 辛抱と忍耐はこれからだった。 誰もが認める日本の良血になったが、 「いい繁殖を残すのが役目」 ・ : 。一族は牧場の看板血 きやしゃ 224
昭和一一十八年、田中は東京都の大田区で生まれた。 都会で育ったが、昔は自然が豊富だったから、生き物に触れる機会が多かった。大でも猫でもなん でも好きだった。 遊び場といえば、たいてい近所の洗足池だった。小鳥を飼っていたせいか、水辺に集まる野鳥の観 察が少年の好奇心を刺激した。 研究に似たそれは獣医師の原点のような気がするが、原体験は小学校の飼育係だった。 「小さい頃は人見知りで引っ込み思案でした。先生に当てられると心臓がバクバクして真っ赤になる くらいだった」 快活で人柄のよさがにじみでた笑顔に少年時代の葛藤はみじんもないけれど、当時は深刻だった。 十頭の仔を取りながら、受胎の難しさも馬を走らせる苦労も知った。当然、獣医師の腕を磨かせて もらったし、とにかく長い付き合いだ 田中がメジロ牧場に入社したのは昭和五十九年で、メジロラモーヌが一歳の頃だった。 育成時代も携わっているし、牝馬の三冠を勝った時は、「プルプル震える」ほど感動したのを覚え ている。繁殖牝馬になってからも一緒に頑張っている。牧場人生をふり返れば、必ずそばにいた。 幼い頃はサラブレッドと無縁の生活を過ごしていたが、今は馬産以外の場所で生きられないと田中 は確信している。 せんぞくいけ 1 ラ 4
洞爺の風景 とうや うすざん 噴煙を吐き出す有珠山を眺めながら、車は順調に洞爺村のメジロ牧場に近づいていた。 薄く窓を開ければ、鼻先に運ばれるのは硫黄の匂いだった。 有珠山の白い息は、煙草をくゆらせるように、のんびりした感じで上空へのばっていく。晴れの日 は鮮明に映る煙は、雨の日は水蒸気の関係で灰色の景色にかき消されてしまう。平成十一一年の三月に、 大噴火で日本を騒がせた活火山とは思えなかった。 「あと二十年ぐらいは噴火しないと思うよ」 ハンドルを握る岩崎伸道は、現在の山の風景に負けず、大らかな調子で笑った。 メジロ牧場の専務を務める男は、一一度の被災を経験している。 昭和五十一一年に有珠山が火を噴いた時、岩崎は砂を積んだダンプで牧場へ帰る途中だった。粘土状 の灰が一瞬にして、フロントガラスに張り付いた。フル稼動のワイバーは形無しで、夜より暗い昼間 になった。 「一度目は本当に死ぬかと思ったよ」 二度の噴火を経て、メジロ牧場は再建を繰り返してきた。明るい気性の専務 笑い飛ばす岩崎だが、 は、苦労の歴史を口にしなかった。 「昭和五十二年の噴火は、メジロアシガラが障害レースを勝ちまくって、資金を稼いでくれたんだけ 150