も勝ち星を増やすのに頑張ってきたから、全国のスポーツ紙に報道される出来事を達成するとは夢の 8 ようだった。 「一日六勝もできるなんて、素晴らしい日だったな」 十九歳でジョッキーになってから最高の仕事をしたと思えたが、それは違った。 〃六勝″を挙げた馬の中には、さらに最高の仕事を一緒に成しとげる相棒がいた。″二勝目″をくれ た新馬が、トウカイティオーだった。 「この馬は、じっと手綱を持ってればいいんだ」 初出走の二歳牡馬だが、返し馬にまたがれば不思議なほど信頼を覚えた。実際、トウカイティオー は追うところなしの楽勝だった。「すごい走るな」と感激したが、 二冠馬になるとはまだ知る由もな かった。 土日の中京競馬が終わって、栗東の自宅に帰ると、「六勝だなんてどうしたの ? と嬉しそうに出 迎える妻の優子に安田は笑った。 「すごい調子がよかったんだよ」と答えたけれど、もし今ならばこう言うだろう。 「ティオーと出会えたことを含めて、六勝もできた」 早朝の攻め馬を終えて、栗東・松元省一厩舎を訪ねるのは、安田の日課だった。 松元厩舎の調教を手伝うよ、つになり十年近く経っているから、″メイン・ステープル〃のひとっと
「 " リストラ ~ じゃないよ。中央で無事に走っていれば、当然、準オープンまでは出世していた馬で 質問をされる度、手塚は柔らかい笑顔で説明した。 「うちへ来る前から能力のあった馬なんです」 調教師は何度も言った。 三歳の秋に管骨を故障しなければ、未勝利戦を勝ち上がっていたと手塚は確信していた。連勝する 姿を見れば、中央での出世は容易に想像できた。 その頃、美浦の佐藤全弘と親類の結婚式で会う機会があった。手塚は親子で出席していた。 「ドージマに、ぜひ記録を達成させてやってくれよ。名前がずっと残るから。佐藤先生も大きな人だ から、喜んでくれてるよ」 貴久は父に言った。 「そうだな」 ほほ笑んでうなずきながら、内心、こんなに勝たせてもらって・ : ・ : と謙虚な気持ちになっていた。 手塚は、恐縮する思いで調教師の佐藤に声をかけた。 「そちらでも準オープンまで行ける馬なんだから、うちで走って当たり前です、 すると、佐藤は顔をくしやくしやにした。 「そんなことないよ。ドージマは足利の水に合ったんですよ。頑張って下さい」 「佐藤さん、ありがとう。これからも勝たせてもらいます」 乃 29 連勝への道
度の入社を懇願した。 「ちょうど繁殖の獣医がほしいと思ってたんだ。馬が好きな奴はやつばり牧場がいいぞ」と北野は優 しげに笑ってくれた。 「採用が決まった時、僕の目を見て会長は言ってくれた。『うちに来るからには、全部、自分の馬だ と思って育ててくれ』って。すごく嬉しかった」 毎朝、サラブレッドの顔を見られるのが幸せで仕方なかった。当然、乗馬の腕もあったから、獣医 師のかたわら若馬の運動も任された。一歳馬の中には、あのメジロラモーヌがいた と肝に銘じながら、頑張っている矢先だった。 「自分の馬と思って : 昭和五十九年の一一月十七日、北野豊吉が脳溢血で亡くなった。八十歳だった。 その日、北野は競馬場に行く準備をしていた。関西に出かける予定だった。 「いつものように競馬場へ行く支度をして、洗面所で髭を剃っている時に突然、倒れたそうです。ど んな馬でも一生懸命に走るんだからって、新聞に印が付いてようがなかろうが阪神や京都にも飛んで いく人でした」 秋に会った時は元気だったから、訃報が信じられなかった。馬の応援に行く日に倒れたと聞いて、 せつなくてたまらなかった。街の食堂に入れば、勝利のゲンをかついで、必ずカッ丼を頼む逸話も思 い出された。 と田中は言った。 「先代は、競馬を自分の励みにしていたから : ・ 実際、亡くなる前日も、目白の事務所で、長男の俊雄、次男の雄二を前に馬の話をしていた。東京
さっそう 厩舎街を歩く背中は、寒風を苦にすることなく颯爽としていた。 羽織ったウインドプレーカーは、機敏な動作を物語るように、衣擦れの音を小気味よく刻んでいた。 「安田先生」 不意に呼び止めた声に反応して、人物は即座にふり返った。 「なんでしようか」 たかゆき 調教師の安田隆行は笑みを浮かべて相手の目を見すえ 声をかけたのは見覚えのない顔だったがゞ = 「あの、トウカイティオーの仔がようやくを勝ちましたね 新聞記者と名乗る若者は、マイルチャンピオンシップを優勝したトウカイボイントのことを言って いるらしかった。 「ティオーと先生のファンだったから、なんだか嬉しくて : : : 」と言葉は続いた。 「そうですね。僕も嬉しかった」 大きな目を少し細くして、調教師は答えた。 を勝ったトウカイボイントは管理馬ではないが、気になる馬だった。 平成十四年のマイルチャンピオンシップの日、京都競馬場でトウカイボイントの調教師・後藤由之 を見かけた。午前中の装鞍所で「きようの、頑張ってくださいね」と安田は激励した。後藤とは 親しかったが、馬への愛着からもそう言わせた。 父のトウカイティオーは、騎手時代に安田が騎乗していた。皐月賞、ダービーを勝たせてくれた名 よしゅ ) 190
やったからって、見返りを期待するのは違う。結果がうまくいかない時は、それが自分にあたえられ た流れだと受け止めるしかない。うまく行けば、一生懸命やってよかったと思う。勝負の世界は、そ う思わないとやっていけない。と三十年以上、馬の世界にいる調教助手は答えてくれました。 なんだかハッとしました。頑張っていても苦難は山ほどあるけれど、ずっと頑張らないと奇跡は起 きない 「神さんはちゃんと見ている」 祖母の言葉も、ようやく耳に入った感じがしました。 何があっても、時間は過ぎていく。いいことがあったから、悪いことがあったから終わるわけじゃ ない。そう思えば、「馬と人、真実の物語 2 」は営みの途中を記したような気がします。 ドージマファイターの手塚佳彦調教師は、長く籍を置いた足利競馬に別れを告げて、今は同じ栃木 の宇都宮競馬に厩舎を構えています。先日、長男の手塚貴久調教師に会ったら、「地方に定年制はな いから、親父は死ぬまで調教師を頑張るみたいだよ」と言っていました。 いま、「人生はつづく」と当たり前のことを思います。 そんなふうに、この本を読んでいただけたら幸いです。 メジロラモーヌ、初仔のメジロリュウモン親子の写真を表紙カバ ーに提供してくれたメジロ牧場社 長・北野雄二氏にも感謝しています。月に数度、北海道の牧場へ出かける時は必ずカメラを持参する オーナーは、ずっと愛馬の子をフレームにおさめてきました。 「やっとラモーヌらしい子ができたぞ。これが当歳時の写真だよ」 ち 6
県競馬の門を叩いた。 「赤間さんのとこは、みんなが家族みたいで雰囲気がいいから、甥っ子を頼むよ」 厩舎に馬を預けてくれた馬主の紹介でやってきたのは、気の優しそうな少年だった。 痩せ型の体形は、、、 し力にもジョッキーのそれだから、赤間は央く引き受けた。 秋になれば、中学校の校長に許可をもらって、厩舎から通学させた。無ロな十五歳の〃親代わり″に なった。 元来、太らない体質の渡辺だったが、環境が変わったせいか、四十キロ前半の体重が四十九キロに 増加した。五十キロを目前にした数字は、騎手を目指す男にとって〃赤信号〃だった。 「正治、サウナへ行くぞ」 赤間は毎日、渡辺を連れて、〃汗とり″に付き合った。騎手になった自分も通った道だから、減量 の苦しみは分かっていた。 軽く盛った一膳の白飯をゆっくり食べても、誰よりも先に渡辺の茶碗はカラになってしまう。 朝晩の食事は、調教師の家に全員が集まっていた。日がな一日、カ仕事をこなした厩務員たちの食 欲は旺盛だった。その中で、食事がすんだ渡辺は、人がお代わりする白飯や味噌汁を、ニコニコして よそった。 「一緒に夢を見ような」 弱音を吐かない少年を、赤間も仲間も胸の内で励ましていた。 「あの子は真面目で無ロだから何も言わないけど、減量はきっかったんだろうね。体重が四十五キロ
洞爺湖沿いに建てられたホテルまで、火山灰は押し寄せなかった。二年半の歳月が流れて、温泉客 も大勢訪れるようになったが、被害を受けた百メートル先の民家や商店は人影もまばらだった。 岩崎は遠回りをして、噴火口の近辺を案内してくれた。廃屋が広がる場所は、立ち入り禁止のロー プが張られている。 「もう、ここは危険だからね。永久に人が住めない地域に国が指定したんだよ」 何十年後、洞爺の温泉街が昔の活気を取り戻しているとは思えなかった。噴火の可能性がある限り、 新装が叶わないホテルは、おそらく老朽の一途をたどる。洞爺の近隣に宿を取って、車で訪れるよう たくま な名所に様変わりしているかもしれない。それでも、村で暮らす人々は逞しく生活を続けるに違いな 、 0 「あと二十年ぐらいは噴火しないと思うよ」 岩崎の言葉が不意に甦った。 「その時はまたその時だよ」 何があってもメジロ牧場は続いていく、と言っているような気がした。 そういえば、取材に来たのはメジロラモーヌの件だった。昭和六十一年の桜花賞、オークス、エリ ザベス女王杯を優勝した三冠牝馬の繁殖生活を知りたくて牧場を訪ねてきた。 「ラモーヌは来年で二十歳になるんだよね」 四歳で故郷に帰って、仔を産むようになって : : : 。気がつけば十六年が経とうとしている。 牡馬が七頭、牝馬が三頭生まれている。平成十五年の春になれば、メジロライアンの子供が誕生す 152
平成元年の四月十一日、初仔の牡馬メジロリュウモンが誕生した。慎重に両前脚を引っ張り出して、 仔馬はメジロラモ 1 ヌの胎内から無事に滑り落ちた。 「男の子だ。ダービー馬だね」 繁殖スタッフは静かな出産馬房で嬉しそうに言った。田中も安産でホッとしていたが、馬体を見る と思案する気持ちが拭えなかった。牝馬の三冠を勝ってくれた馬の仔である。目に入れても痛くない ほどかわいいに違いないが、決して褒められた体じゃなかった。生産馬であろうと、プロの目は容赦 きやしゃ なく″デキ″を見極めてしまう。初仔は小柄な馬が多いと決まっているが、華奢な牡馬は明らかに頼 りなく映った。 「リュウモンは初仔で小さかったし、力強さが足りなかったですね。ラモーヌの仔が生まれた翌日か リュウモ ら、いろんなマスコミから電話が相つぎました。新聞には大きな見出しで報道されて : ンは多少、ひ弱なところがあったし、初年度が不受胎だった分、正直、困ったなと思いました。ラモ ーヌもその仔も競馬ファンの馬だから、裏切らないように頑張らなきやって」 熱 情 競馬記者は興奮したように「素晴らしい男の子が生まれましたね」と繰り返した。田中といえば、 「そうですね」と一言うのが精いつばいだった。メジロリュウモンが母同様の成長力を発揮するのを願め ったが、 競走成績は未勝利に終わった。 血 の
思います。これほど双子に泣かされた馬はいなかったしね。苦労も喜びも何もかも経験させてもらい ました」と言って、田中は遠くを眺めた。 種付け回数や双子が多かったから、夜も眠れないほど試行錯誤した。頭を抱えたけれど、必死にな った分、獣医師も牧場の人間も知識や腕を磨くことになった。技術だけでなく、馬産の根本を改めて 知った。 「″馬の生産なんて配合どおり簡単に走るもんじゃないのよ ~ ってラモーヌは試練をあたえてくれて ラモーヌ いるような気がします。直仔だけでなく、孫や曾孫って何代も血統は続くものだって : も突然、三冠牝馬に生まれてきたわけじゃない、父のモガミ、祖父のリファール、母のメジロヒリュ ウって、何代もの交配があって、優秀な遺伝子が続いてきたんだと思うんです。違う角度から見れば、 馬の体は〃乗り物〃で、本体の遺伝子は血を絶やさない限り、馬同士、優秀な QZ< をもらいながら 永久に乗り継がれていく。僕なりにそう思うと、〃長い目で見なさいよ〃ってラモーヌに教えられて る気がします。難しい話だけど : 熱 情 そう言って、田中は笑った。 メジロテイターン、シンボリルドルフ、リアルシャダイ、サンデーサイレンス、プライアンズタイめ ム : : : 。看板の繁殖牝馬のメジロラモーヌに、時代の大種牡馬を配合してきた十六年は、牧場の執念 血 だった。 の 「オーナープリーダーは生産馬が走らなきや何も生まれない」 競馬の賞金で牧場は運営している。馬が走ってくれなければ高額の種付け料さえ水の泡となる。
ヾ ) 0 貴久は残念そうだった。出走機会はわずか五戦で、走ることは承知していたが、骨折は致命傷だっ 程度は軽症だから、競走能力に支障はない。時期が来れば復帰できるけれど、数カ月の休養は厳し かった。放牧を終えた頃、ドージマファイターは四歳を迎えている。当然、自己条件の未勝利戦はレ ース番組から消える。調教師の佐藤も、一度は格上の挑戦を視野に入れたに違いないが、雄大な馬格 が芝のスピード競馬に耐え切れる保証はなかった。 「佐藤先生が、親父の厩舎でやってみないかって言ってくれてるんだ。大きい馬だから仕上がりは遅 いけど、きっと走ると思う」と貴久は言った。 「六着の千八百メートルも一分五十一秒台で走ってるんだな。中央でも準オープンになれるんじゃな いか」と父はうなずいた。 脚元と相談しながら、慎重に使われてきた牡馬は、十分な時計で走っていた。期待は相当に膨らん 本馬を見るまでもなく、手塚の腹は決まった。 「完全に仕上がれば、栃木のオープンでも楽勝できるだろう」 父のペンシルブッシャーの産駒は、平成一一年の札幌一二歳 ()n の三着馬バッキンガムシチーが目立っ程 度だった。決して良血とはいえないが、手塚は少しも気にしなかった。 「血統は二の次でいい。我々は馬のデキが一番」 そうやって馬を走らせてきた地方の自負があった。