社長の北野雄一一は、たとえ受胎しても翌年の出産が六月の遅生まれになることを考えて種付けの中 止を告げた。 それでもあきらめきれなかった。 前の年、祖父のリファールにも「いい仔を出したい」と誓った。何より、メジロラモーヌに男の責 任を感じていた。 七月の声を聞いて、牧場はすっかり夏になっていた。 「ものすごくいい発情がきてる」 、つつとりする目つきで、陰部を動かすしぐさは種付けの時を教えていた。直腸検査で子宮内の卵胞 〃卩、、こった。 を触診すれば、指先に適度な大きさを実感した。薄い皮膜も最高の 「思わず、社長に種付けさせてほしいと直談判しました。シンポリルドルフを付けていい子が生まれ たらまた付けたかったし、走るチャンスを少しでも逃したくなかった」 本当に懇願した。背に腹は代えられないような気持ちで、五回目は実現した。 十冠べイビ 1 のメジロリべーラを翌情 七月八日の種付けで、メジロラモーヌは仔を身ごもって : め 年の六月九日に出産した。 込 「生まれた時は体もよかった」 血 黒鹿毛の毛色は青鹿毛の母を思わせたし、額の流星も父の特徴である三日月のそれを真横に置き換 の えたような格好だった。両親の遺伝子を感じさせる娘に期待は沸いたが、成長するにつれて脚元に不母 安が出てきた。
「とまーれー 誘導員の合図を機に、ナリタトップロードの目の色が変わる。 あれほど優しい顔をしていた馬が、きりりと前を睨んでいた。 ちかばど、つ 渡辺が騎乗するのは、本馬場に入場する直前の地下馬道である。 「騎手がまたがると一気に燃えるから : : : 」 忠実に働く闘争心を考慮して、二歳の頃からそうしてきた。 本馬場に出ると、物すごい声援が飛んだ。 「トップロード 「ワタナベ ! 」 ナリタトップロードは一気に返し馬へと消えていく。 担当馬の手綱を放した東は、芝コースを横切って厩務員席へと走った。無事に馬をレースへ送り出 すと、「さみしくなるね」と少しだけ笑みをのぞかせた。 0 有馬記念は : ナリタトップロードは果敢に先行して見せたけれど、四着だった。稍重の馬場でのラストランにな ったが、 大きなストライドをフル稼動させて一生懸命に走った。 東は芝コースの方へ急ぎ、帰ってきた馬を出迎える。スタンドからは「トップロードありがとう、 はらおび おっかれさま」と声が飛んだ。検量の枠場に入ると、沖は腹帯をとりながら馬の首筋を叩いた。東は 出張馬房へ急いだ。一刻も早く脚元の無事を確認するために : 0 ややおも 4-
も実感するね。あの一族は走る仔が毎年、コンスタントに出るわけじゃないけど、時々、何頭か走る 馬を出してくれる。忍耐強い血統だから、人も辛抱して頑張れるんだよ」 ひとっ屋根の下で生きる。ヒシミラクルもあの築五十年の厩舎で育ってきたに違いない。 地色のくすんだ朱色の屋根を脳裏に浮かべながら、競馬の素晴らしさにもう一度、気づかされてい 2 50 年目の春
ヾ ) 0 貴久は残念そうだった。出走機会はわずか五戦で、走ることは承知していたが、骨折は致命傷だっ 程度は軽症だから、競走能力に支障はない。時期が来れば復帰できるけれど、数カ月の休養は厳し かった。放牧を終えた頃、ドージマファイターは四歳を迎えている。当然、自己条件の未勝利戦はレ ース番組から消える。調教師の佐藤も、一度は格上の挑戦を視野に入れたに違いないが、雄大な馬格 が芝のスピード競馬に耐え切れる保証はなかった。 「佐藤先生が、親父の厩舎でやってみないかって言ってくれてるんだ。大きい馬だから仕上がりは遅 いけど、きっと走ると思う」と貴久は言った。 「六着の千八百メートルも一分五十一秒台で走ってるんだな。中央でも準オープンになれるんじゃな いか」と父はうなずいた。 脚元と相談しながら、慎重に使われてきた牡馬は、十分な時計で走っていた。期待は相当に膨らん 本馬を見るまでもなく、手塚の腹は決まった。 「完全に仕上がれば、栃木のオープンでも楽勝できるだろう」 父のペンシルブッシャーの産駒は、平成一一年の札幌一二歳 ()n の三着馬バッキンガムシチーが目立っ程 度だった。決して良血とはいえないが、手塚は少しも気にしなかった。 「血統は二の次でいい。我々は馬のデキが一番」 そうやって馬を走らせてきた地方の自負があった。
そ、ついえば、平成六年の菊花賞は馬より人間の方が緊張した。 あの日、千歳空港から関西空港へ飛んだ早田は、特急列車で京都の競馬場へ向かっていた。窓の外 を見れば、雨が降ってきた。 「どんどん雨脚が強くなって、嫌な予感がしてた」 トライアルの京都新聞杯は、スターマンの二着に負けていた。灰色の空を眺めると、わけもなく不 安になった。 まさあき あの敗戦には夏負けという理由があったし、調教師の大久保正陽も「今度は大丈夫」と言っていた。 雨が小降りになったのは記億しているが、いつやんだのか気づかなかった。 「余裕がなかったから」と早田は笑った。 終わってみれば、レコ 1 ドで走ったナリタブライアンは七馬身差で圧勝した。 「クラシックの三冠を取るなんて、生産者の夢のまた夢ー 兄のビワハヤヒデが菊花賞を勝った翌年の快挙でもあった。 「努力したからできるもんじゃないし、プラスアルフアがあったとしかいいようがない 〃未知の領域″で誕生した三冠馬は、三千メートルを走った直後でも〃涼しい顔″をしていた。早田 はホッと胸をなでおろしながら、黒鹿毛の精神力に感動した。 「ナリタブライアンに関しての思い入れは特別だよね。あの馬が走ることによって、早田牧場の評価 を上げてくれたから」 早田が輸入したプライアンズタイムと。ハシフィカスの配合から生まれた馬でもあった。
ナリタトップロードの馬房前は、大勢の人が囲んでいた。競馬記者はもちろん、ファンの姿も見え た。生産者の佐々木牧場・佐々木孝も馬をねぎらうために訪れていた。 沖は人垣から少し離れた場所で、穏やかな視線を洗い場に向けていた。 「きようは本当によく頑張ってくれた。有馬記念で掲示板に載ったのは初めて。最後は、馬場が渋っ とにかく無事に終わってよかった。結果には満足してます」と言 ているぶん伸びなかったけど : った。本当は良馬場で走らせたかったに違いなかった。 「まったく、トップが走る度に雨が降ったからね。ずっと天気予報と付き合ってきた気がするよ」 全国から厩舎に届く〃てるてる坊主〃も多かった。 それでも、あの馬は一生懸命走ってきた。 受験生や病気の人たちから、「勝てなくても頑張るトップロードに励まされた」という手紙も送ら れてきた。 有馬記念のファン投票一位に支持された理由は、最後まで夢中で走った馬を見れば当然の気がし ス 東はレースを終えた馬を捕まえながら、感激していた。 レ 「ありがとうってファンの声が聞こえた時は胸が熱くなったよ。この馬はそれだけずっと頑張ってき 退 たんだなって : ファン投票で一位になったのも、勝てそうで勝てない馬に冠を取らせてやりたい 感 って気持ちだったんだろうな」 万 思えば、北海道から栗東に入厩してきた当時は、「歩くにしても何にしてもマイベースでおっとり 6 」 0
平成十五年一月十九日 ナリタトップロードは京都競馬場で引退式を行った。 「今は一緒にいるから寂しくないけど、離れる時はつらいだろうな。子供と一緒で、馬はいっか離さ しゅばば なきゃなんないと覚してるけど : 。でも、これだけの馬に育ってくれて、種牡馬になれるんだか ら本当にありがたいことだね。とにかく北海道へ行くまではふつくらとさせて親父の体になるよう備 えてやらなきゃね」 有馬記念の翌日、東が言っていたのを思い出す。 しているから、競馬ができるのかな」と少しだけ不安になった。 それが、付き合えば付き合うほど、賢くて感受性の豊かな馬だと分かった。競馬になれば、まっす ぐな闘志を武器にがむしやらに走った。 ぶじこれめいば 「本当に、最後まで無事是名馬で来てくれた。有馬記念は積極的な競馬ができて、もし馬場がよけれ ば負けてなかったと俺は思うよ」と東は言った。 疲労の回復を早くするのに、栗東へ帰るのは火曜日にしている。 レースからひと晩明けて、厩務員はカイバをやりながら、馬の顔を眺めていた。 「それにしても、きようのトップは昨日と全然顔が違うな。ずいぶんリラックスして、もう競馬しな いのが分かるのかな」とそっと鼻面を撫でた。
中央への遠征を夢見て、現場の人間は仕事に励んだが、状況は劇的には変わらなかった。馬が走っ ても、大きな宣伝活動にはならず、入場人員は下降していった。 しだいに馬券の売り上げも減った。 「十万円の大口が入りましたー 廃止が決定する数年前は、大金を馬券に注ぎこむ客が珍しくなっていた。 「十万円の大口で驚くなんて、新潟競馬の信頼がなくなってる」 赤間は危機を感じた。 「騎手も馬も、全国レベルに一歩もヒケをとらない」 事故は少なかったし、当然、不正もあり得なかった。 「我々は一生懸命やってる」 赤間だけでなく、新潟の調教師は、馬の仕入れに自信があったし、厩務員にしても必死に担当馬を 磨いてきた。 平成十二年の秋になって : ・ 九州の中津競馬が廃止に追い込まれた。赤字は二十一億円。「再建に動く」と発表して、わずか三年 カ月後の廃止だった。中津に所属していた三百頭のうち、二百頭が廃用になった。何の前ぶれもなく、 た 気管を切断され、銃殺された多くの競走馬だった。勝ち星を挙げた若い三歳馬も命を失った。行政と 闘争を繰り広げても、働く人間の補償問題は十分でなく、職場と家を追われていった。 馬 「俺たちは馬で飯を食ってるんだ」
大塚さんが十二歳の頃に建てられた " 馬屋 ~ は、牧場の歴史だった。 馬を走らせる人の苦労も知っているし、を優勝した笑顔も見てきた。冬を経て春を待っ : 牧場の営みは北海道の風土を思わせる。何十年もそれを受け入れてきた厩舎は、い つのまにか皺の深 い老人然とした威厳を身につけていた。 本州に負けない " サ一アを 「どこから話せばいいのかな」 大塚さんは途方に暮れる感じで笑うけれど、無理もなかった。 明治一一十年代に開業された大塚牧場は、百年以上も馬の生産をしてきた。 誰もが " 老舗 ~ と認める牧場の活躍馬を見れば、並外れた歳月は一目瞭然だった。昭和三十年の菊 花賞、三十一年の有馬記念を優勝したメイヂヒカリを育ててきたし、昭和四十四年の菊花賞馬アカネ テンリュウも生産馬である。当然、平成二年の宝塚記念を勝ったオサイチジョージも : ・ 馬を さかのば 生んだ母も、祖母も、曾祖母も。遡れば、五世代が築五十年のひとっ屋根の下で暮らしてきた。思 えば、アカネテンリュウを出産したミチアサは、オサイチジョージの曾祖母にもなった。 「うちの繁殖は六代目、七代目って続いている一族もけっこういるね。生産は長いスパンの話だから、 四代、五代といっても、それほど驚くことじゃないよ。今は輸入馬が全盛の時代だから、国産の血統 を大事にするのは〃流行り〃じゃないと言われるけどね。うちは日本の土壌になじむよ、つに、血の流 220
馬の脚に負担をかけたくはなかった。 「でも、楽な気分で乗ってこいよ。勝とうとすれば、無理なコース取りになるから。馬の能力は抜け てるんだ」 調教師になる前、騎手だった男はそう付け加えた。 泥んこ馬場は、予想を超える苦戦になった。 勢いよくゲートを飛び出したが、ドージマファイターは一瞬、つまずいた。 スタンドから観戦する手塚に、一コーナーあたりに白く光るものが見えた。とっさに、双眼鏡で管 理馬の脚を確認した。 「あっ、鉄がないー ぬかるみに脚をとられた時に、右前脚を落鉄したのだ。 三コーナーを走るドージマファイターは、脚を滑らせるように、大きく外へ曲がっていく。後続の 馬は、逃げる馬に追いついていく。管理馬を凝視しながら、血の気が引く思いだった。 「とにかく無事に : 勝敗を見極める余裕はなかった。 不良馬場にもがきながら、伸びる気配はなかったが、馬体を併せられた瞬間、負けず嫌いの馬は、 全身を大きく前に突き出した。 クビ差しのいだ場所が、ゴール板だった。スタンドからは、大きな拍手が起きた。 頭が真っ白になって、調教師はドージマファイターに躯け寄った。すぐさま蹄を確認した。血は吹