帝王賞の日まで、左海は馬のことだけを思って、必死に仕上げた。最高の状態で本番を迎えたマキ ハスナイバーは、統一を優勝した。 平成十三年、「最大の俺の試練」を経験した左海は七十一勝を挙げた。デビュー以来、最多の勝ち 星の中には、帝王賞の後に勝ったマキバスナイバーの東京記念も数えられた。 かけがえのない人馬 平成十四年の四月になって : ・ 船橋の騎手に、中央の騎乗依頼が飛び込んだ。 「誠二、フローラでニシノハナグルマの鞍上を頼まれたよ」 岡林から報告を聞けば、返事をするまでもなく笑顔を見せる左海だった。 「なんか知らないけど、重賞に乗れるんだ」 物 指名の理由はどうでもよかった。ひたすら胸は高鳴っていた。 の フローラ ()n の日を迎えても、緊張はしなかった。 へ 匠 「楽しんでいこう」 師 騎手として中央の重賞を満喫したいと思った。気負いのない九番人気だったけれど、当然、勝ち負の 天 けは意識していた。 「三着までに来てよ」
ラ co を優勝した。中央で騎乗して十七戦目の初勝利が重賞だから、競馬記者の一団は、府中の地下馬 道に引き揚げてきたヒーローを一斉に囲んだ。 「ありがとうございます ! 」 雨の降る馬場で必死に追い込んできた左海は、泥だらけの顔で何度も頭を下げていた。 細く通った鼻筋と二重まぶたの大きな瞳は、笑う度に少年の風情を思わせたが、ロを開けば、凛々 しい勝負師の面差しに変わった。 「直線は必死でした。〃 誰も来るな″って渾身のカで追って、気がついたら先頭に立ってた。馬場に 入って、ゲートを出れば、誰にも負けたくないから : : : 」 一瞬、鋭くなった眼光を見て、遠巻きに眺めていたべテラン記者の一人が言った。 「左海っていい男だな」 それは整った顔ばかりではないように田 5 えた。 たいく 身長一五八センチ、体重四十九キロ。数字よりもスラリとした印象の体軅には、筋肉が無駄なく付 いている 実戦で地道に鍛え上げた体同様、必死に焦らず頑張ってきた。 「中央の重賞に乗せてもらえるんだから、がむしやらに楽しんでいこう」 競馬に気負いは禁物だから、ニシノハナグルマに限らず、それを肝に銘じてきた。 フローラ ()n から約一カ月後 : : : 。左海は重賞の二勝目を挙げた。ュニコーンを勝ったのは みつひろ 船橋所属のヒミツへイキで、岡林光浩厩舎の三歳牡馬だった。 0
騎手時代の安田隆行氏とトウカイティオー トウカイティオー 昭和 63 年生牡鹿毛 父シンポリルドルフ 母トウカイナチュラル母父ナイスダンサー 栗東・松元省一厩舎馬主 / 内村正則 生産者 / 新冠・長浜牧場 12 戦 9 勝 主な勝ち鞍 / 平成 3 年皐月賞、ダービー ( 以上 GI ) 、 4 年産経大阪 杯 (G Ⅱ ) 、ジャパン C (G I ) 、 5 年有馬記念 (G I ) 安田隆行 昭和 28 年生まれ京都府出身 騎手成績 / 01 戦 0 勝 ( 昭和 47 年 3 月 ~ 平成 6 年 2 月 ) 重賞 13 勝 ( トウカイティオーく 3 年皐月賞、ダービー〉等 ) 調教師成績 / 1692 戦 165 勝 ( 7 年 3 月 ~ 14 年終了時点 ) 重賞 2 勝 ( シルヴァコクピットく 12 年きさらぎ賞、毎日杯〉 )
船橋の報知オールスターカップ、大井の東京シティ盃など、アローセプテンバーで重賞を七つも勝 った。平成十一年の秋には、マキバスナイバーで大井のⅡ・東京記念を制した。 六年目の勝利数は , ハ十五を数え、七年目も五十勝を挙げた。 北川の馬で重賞を走りながら、騎乗の勘が養われていった。 「きようは胸を張って帰れるな」 凛々しい顔で左海がコースから引き揚げた時は、北川は胸を張って待っていた。 「強かったな」 面と向かって褒めるようなことはないけれど、馬を讃える言葉を聞けば、騎手として嬉しかった。 「先生に文句言われるな、と思う時も言葉はいらなかった」 意志の疎通は、勝ち負けと関係なかった。先頭でゴールに入っても〃納得いかない ~ と弟子が思え 、ヒ 」川も渋い顔をしていた。 「暗黙の了解だった」 競馬も調教も : 。日々の生活で互いを信頼していた。 地方も中央も関係ない 平成十二年になって アローセプテンバーは中央のフエプラリー (f) に挑戦することになった。 101 天国の師匠への贈り物
がむしやらな日々を、調教師の北川は見守ってくれた。積極的に管理馬の鞍上を任せてくれた師匠 8 は、若い騎手を育てるのに懸命だった。 しだいに転機は訪れようとしていた。 平成十年を迎えて、アローセプテンバーやマキバスナイバーか北川の厩舎で走っていた。 「いい馬ですね」 毎朝の調教で背中の感触を確かめる度、高揚を覚えた。 普段、熱心に稽古を付けている馬は、レースの相棒になった。アローセプテンバーに騎乗した左海 は、浦和のⅢゴールドカップを優勝した。初めての重賞勝ちは、デビュー六年目の秋だった。 「強かったな」 北川は目尻に皺を寄せながら人馬を出迎えた。 「強かったですね」 左海も顔をくしやくしやにして手を握りしめた。 「こんなに早く重賞を勝たせてもらえるなんて : 念願のグレードレースに違いなかったが、巡り合えた人や馬にひたすら感謝するばかりだった。 左海の名前は、南関東で知られるようになった。 ゴールドカップから約一年三カ月 :
物 平成十四年の春、中央の重賞を二勝した船橋の左海は〃全国区″になった。 り一 「周りの環境のよさには感謝しています。いろんな人にかわいがられてるから の へ ふり返れば、職業の詳細も知らず「騎手になる」と伯父・ 」川の厩舎に飛び込んだ。嬉しい思いも、 匠 師 悔しい思いもして、マキバスナイバーやヒミツへイキにも出会ってきた。 の 「競馬の世界に入って順調にやってこれたから : : : 。騎手をやってなかったら何をやっていたか考え天 もっかない 「偶然、俺が運よく乗せてもらえて、勝たせてもらっただけ」 左海は言ったが、直線の追い比べは騎手として生きてきた術がそうさせた。 〃騎手は騎手″ 中央、地方の垣根も知らずジョッキーになった頃と気持ちは一緒だった。 〃誰も来るな〃 馬場へ出たら勝つのが役目だから、必死に先頭に出るだけだった。 それから約一カ月後、左海は船橋所属のヒミツへイキでユニコーン co も勝った。 「岡林先生が挑戦してくれたから、結果を出せた。地方の馬も強いって証明できたのは嬉しかった」 自厩舎の期待馬で中央の重賞を勝てたことは、素直に自信になった。 空の上にいる北川も「あの野郎、やりやがったな」と笑っている気がした。
ってほしい」と佐々木は素直に願った。 九月二十二日、マイネヴィータは札幌二歳 co に出走した。厩舎ではうるさい方と聞いていた馬が、 下見所ではのんびりと回っていた。立ち上がって尻つばねをする出走馬を見ても、平然としている。 毛色は違うが、まるい目と度胸のある様子は父親とよく似ていた。 パドックには横断幕が出ていた。桃色の布地に紫の文字。ナリタブライアンの勝負服になぞらえた 横断幕にはこう書かれていた。 "Narita Brian ・ s Legacy 父の遺産・マイネヴィータは三頭が横一線に並ぶゴール前で、クビ差の二着に粘った。 佐々木は事務所のテレビでそれを見ながら、直線で声を嗄らしたはずだ。新馬を勝ったばかりの牝 馬が、牡馬を相手に闘争心を見せてくれたし、ナリタブライアンの命日を前に、重賞の二着は何より の手向けとなったのだから。 々 勝ちを逃したのは海しいけれど、暮れの二歳に出走できる賞金を得た。 日 た し 「マイネヴィータが札幌二歳 ()n で頑張ったよ。来年のクラシックが楽しみだな、プライアン その日の夕方、こんなふうに墓前へ報告したのだろうか。 と 馬 たった二世代。重賞を勝った産駒がいないから「思ったより走らない と一一一一口、つ人もいる。でも、 佐々木は信じている。 「プライアンズタイムの仔も骨の成長が早い方じゃないけど、故障は少ないよ。ナリタブライアンの亡 仔も古馬になってから目立ってくるのがいると思う。数が少ないから、丈夫に長持ちしてほしい。ま
だった。 ミチアサが生んだ初仔の牡馬は華奢だった。黒鹿 チャイナロックはいかにも頑丈な馬体だったが、 毛のせいか、細い体はよけいにひょろりと見えた。仔馬の頃は体質も弱くて、獣医師の免許を持って いた大塚さんは注射を打ったり、薬を飲ませた。 「細身の " どじよう腹 ~ の馬でね。長めの体で胸囲も足りないから、見映えのする馬じゃなかった。 しよっちゅう下痢をしてたし、重賞を取っていくなんて思いもしなかった。それが三歳の秋に力をつ : 。淀競馬場で見てた時は、嬉しくて嬉しくてバンザイしたよ」 けて、菊花賞を勝つんだから : 両手を上げるだけでなく、隣にいた知らない人の肩を何度も叩いていた。 従業員さながら、父の牧場で腕を磨いてきた息子は強烈に思った。 / いっか自分も : 昭和四十四年に菊花賞を勝ったアカネテンリュウは四代目の場主に夢をあたえた。 一族を守り抜くために 昭和二十八年にプレイガイドクインが繁殖入りしてから十六年が過ぎて : 統になっていた。 辛抱と忍耐はこれからだった。 誰もが認める日本の良血になったが、 「いい繁殖を残すのが役目」 ・ : 。一族は牧場の看板血 きやしゃ 224
左海は興奮を覚えながら、笑顔を浮かべる地方の名騎手を見ていた。 平成七年の桜花賞トライアル・四歳牝馬特別で、安藤勝己はライデンリーダーに騎乗して優勝し その年は、地方と中央の交流元年で、さっそくと言わんばかりに、笠松の人馬は桜花賞トライアル を鮮やかに勝った。 「強い馬だな」 地方の底力を見れば、船橋競馬に所属する左海は嬉しくなった。 あの頃、十九歳の若者はジョッキーになって三年目の " あんちゃん ~ で、重賞勝ちもまだなかっ 「自分もいっか中央の舞台で : : : なんて、全然想像もしていなかった」 特別な野心を抱くより、純粋な願望を持ちながら、夢中でレースを体に叩き込んでいた。 「頼まれたからには一生懸命、馬に乗って結果を出したい。有名な騎手になりたい」 名前が通った騎手とは、スターのことではなく、実力のある腕前の持ち主のことだった。 デビュー二年目は、二〇八戦三十四勝、三年目は二〇六戦四十勝だった。 激戦区・船橋では乗り鞍を確保するのも大変なら、新人が勝ち星を稼ぐのも至難の業だった。 せつかく " あんちゃん ~ に巡ってきた有力な騎乗馬も、一流騎手の体が空けば、とたんにキャンセ すごうで ルになることは珍しくない。凄腕と呼ばれる騎手だろうが、とりわけ新人の頃は誰もが辛酸をなめる 厳しい世界だった。 こ 0 かつみ
は一度も思わなかった。 「絶対に大久保先生と重賞を取るんだ」 グレードレースは夢のまた夢だったが、決、いに揺らぎはなかった。 競走馬を持って五年目のことだった。 国本は大久保と一緒に、日高の一歳セリへ馬を探しに出かけた。 出発の前、調教師は分厚い名簿をめくりながら、馬主に見せた。目当ての牝馬は、 " ャセイコーソ の〃だった。 「この馬を買ってみたいんです。血統の良さは十分、分かってるから」 目を輝かせる大久保だった。 プラックタイプの太い黒字で書かれた一族の馬を見れば、明らかだった。天皇賞・秋の二着馬メジ ロファントム、オークスの三着馬メジロハイネ : : : 。牝系の活躍馬は、大久保が手塩にかけてきた。 「牝馬で、母親はヤセイコーソ。父はラッキーソプリンだけど、馬のデキはどう ? 」 懇意にしているあちこちの牧場で事前に情報収集もするほど、愛着の血統らしかった。 「先生におまかせだよ」 信頼している人物の惚れ込みようを見れば、無論、賛成だった。 ラッキーソプリン産駒の牝馬は、丸みがあって実に女らしかった。幅も豊かで、首差しのしつかり した印象も悪くなかった。当時、馬の見方は知らなかったけれど、好みの馬だった。 「この馬は競走半分、繁殖半分だよ」 27 17 年目の初 GI 勝利