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検索対象: 黄泉の河にて
237件見つかりました。

1. 黄泉の河にて

を許さなかった。この夜行性動物に備わった不気味なまでの知能の高さ、疲れを知らぬ強靭さ、神 出鬼没の能力に畏怖の念を覚えたのは一度や二度ではないし、長い孤独な年月のあいたに、想像を かす と・はり・ ふくらませ、もし国境の南の褐色に霞む山並みまで獲物を追っていけば、あの暗い帷の下で狼の精 霊に取り殺されるたろうと考えたこともあった。そういう叡智がミラーの人生に与えてくれた神秘 と意義は、教会の教えなどではぬぐい去れないものであり、ミラーの精神もまた、それ以上を求め たりはしなかった。現代社会に適応するタイプのインディアンではない彼は、現代的な町にも背を 向けていた。狼たちと同様、もっと古い掟に従って生きてきたのた。 アギラの狼は、夜の霊力の化身ともいうべき存在で、一夜のうちに六十五頭の羊を食い殺し、八 年の長きにわたってアリゾナ西部の牧畜業に壊滅的な打撃を与えたことで知られるが、一九二四年 を境に、その威名も忘却の淵へ沈んでいった。この狼を追っていたびとりの猟師が、ぶつつり消息 を絶っという事件があり、ミラーはいつも、男が最後に太陽のもとで過ごした無残な日に思いを馳 せて、たまたま付近を通りかかったアギラの狼が、止むことのないその旅程の途次でふと歩を休め、 卓いた空気のなかに人間のにおいをかぎ取って、先祖伝来の仕事をかたづけていったのではあるま いかと想像してみた。今でも、あのつわもの狼の子孫が、どこかで狩りにいそしんでいるはずた。 いったったか、ミラーが方々に仕掛けた罠を、かたつばしからよけて十三か月も逃げ回った黒い牡 狼がいて、結局は罠に掛かったものの、その罠を引きずって、なんと四十マイルも歩き続けた。あ れもきっと、アギラの血を引いていたに ノ 32

2. 黄泉の河にて

った。 翌日の午後にアーネストが姿を現わしたとき、アンは説明のつかない安堵感を覚えた。このとき は深緑色の安つばいネクタイを締めて、そのせいで、デニムのシャツの衿がふくれ、よじれていた。 ネクタイはアンに敬意を表するように揺れていたが、アーネストが近づいてきたのは、アンの手が あくのをちゃんと見届けてからたった。さっと歩み寄ってきて、話し始めた。「あんたに言われた こと、ずっと考えてたんた。自分をみじめに思っちゃいけないって アンは、あれは思わず口から出てしまった言葉で、自分の考えが足りなかったのだと言おうとし た。あなたの身になってみれば : 「ーーー・・・そりや、ほんと、あんたの言うとおりた。けど、やつばり、みじめに思ってしまう」明らか に恥じ入っているようすたが、まるで強制されたスピーチをするみたいに、アーネストは辛抱強く 続けた。「何がみじめかっていうと、おれが役立たずなことた。おれには、なんにもできない。他 とさま 人様のためになるようなことも : : 。たたじっとここにいて、自分が腐り果てるのを待ったけなん 「そんなことないわ、ハムリンさん 「アーニーって呼んでくれないか、アン ! 」声を張り上げ、大きな両手を宙に突き出して、苦悩を 表現する。それから、おとなしくアンに従って、部屋の隅まで行き、椅子に腰を下ろした。 「ねえ、アーニー ここを手伝ってくれてもいいのよ。人手が全然足りない状態たから、手助けが 必要なの。きようたって、作業療法室に詰めてるのは、看護婦さんびとりとわたしたけで、患者は 788

3. 黄泉の河にて

の正体はほどなく明らかになった。 わだち 前触れもなく、チャーリーはおんぼろフォードを轍たらけの脇道に乗り入れ、そこを横断しよう としていた老女をあやうくはねそうになった。ホーラスが狼狽ぎみに行き先をきくのを無視して、 海辺に立つ一軒の屋敷へすうっと車を乗りつける。薄物をまとったおおせいの若い淑女たち ( 例の ククループクの面々だろう、とわたしはホーラスに耳打ちした ) が、椰子の木陰で涼んでいた。 「停まっちやためです ! このまま行って ! ー目をそらしながら、ホーラスが叫ぶ。 わたしは、どんな崇高な審美眼にも堪えうる肌の色や姿形、サイズの娘が揃っていて、しかもみ んな天使のように愛くるしい笑みを浮かべているから安心しろ、と宣教師に請け合った。何人かが 立ち上がってしずしずと近づいてくると、ハシッドの鼻孔が怪しい期待にふくらんた。「おい、淫 売のけっ野郎、あんたにびったりの場所じゃないか」にんまり笑って、片手でもう一方の手の人差 し指をぎゅっと握ってみせる。 「車を出してくたさい ! 」ホーラスが哀願した。「頼むから、停まらないで ! 」 とそのとき、この聞くも愉央な喧噪の腰を折るように、あどけない女の声が響いた。「ねえ、 こわくてき 米人さん」蠱惑的な娘た。「あたい、処女よー その言葉を、ク異教徒クは自分の知性への許し がこい毎辱ととらえたらしく 、即座に顔をしかめ、そっぱを向いた。しかし、あとで気づいたのた 3 、ハシッドの心に引っかかったのは、まさに地獄へ突き落とされようとしているある魂の苦悶の 叫びだったのではないか。いや、それとも、ホーラスの口から出た自分のファーストネームたった のか。

4. 黄泉の河にて

りがにじんた。「あっちの病院で、修理やなんかを引き受けたことがあるけど、営繕課長さんが、 こんないい仕事は見たことがないって言ってたー首を左右に振って、「きよう、ここをのぞいてみ たのは、そんなわけです。旋盤か何か、工具が置いてあるんじゃないかと思って。でも、あるのは シャッフルポードと編み棒と子ども用のゲームぐらいたった」 アンは黙ってうなずいた 「ま、そういうことです。おれは軍人病院から送り込まれてきたたけで、精神病患者じゃない。婚 約者が、手紙を一通よこしました。きつばり別れたほうがお互いのためたって、書いてありました よ。あなたもつらいたろうけど、わたしはもっとつらいんたってね」アーネスト・ハムリンのロも とがほころびかける。「でも、おれはまた若造だし、これからの人生も長い。その長い人生をどこ で過ごすことになるかっていうとーーー」事実に思い当たり、あらためて衝撃を受けたかのように、 言葉をとぎらせた。「なんてことた」押し殺した声。「信じられない そのとき、ダンスをしていたなかのひとり、たぶたぶのダンガリーを着た娘が、よろけて倒れ込 んできたのを、アーネストがやんわりと立たせた。たらしなく口を開いたその娘は、両手を腰に当 て、しなを作りながら、ふんぞりかえった姿勢で戻っていった。パ ートナーを務めているのは、七 面鳥みたいに首を前に突き出し、今にも泣きたしそうな顔をした痩せぎすの女性たった。 「たから、自分がみじめに思えてくるんです アンは気圧されて、たたうなずいた。 わずら その心の動きを感じ取って、アーネストがはっと顔を上げた。「煩わせるつもりはありませんで ノ 84

5. 黄泉の河にて

季節はすれ フランクはとげのある声で笑った。 「そうかしら ? ーシシイはにこりともせず、夫のロの中で笑い声がしばんでいくのを見守った。 フランクはいきなり亀の頭を蹴ろうとしたが、爪先が縮かんでしまい、大きく開いたロと小さな 目に土ばこりをかけたにとどまった。亀が瞬きをすると、まぶたの上のほうから細かい土の粒子が 落ちた。 「トビ ・スニードの話をしたことがあったつけ、フランク ? ほかの子どもたちが鼠や蛙をいじ めてると、トビー ・スニードは金切り声をあげたり、くすくす笑ったりしながら、そこらじゅうを 跳ね回るの。うれしくてたまらないのね。痩せっぽちで弱虫なもんだから、自分以外のものがいじ められてるのを見るのが大好きなの 「ばくがうれしそうに笑ったというのか ? 」フランクの顔から血の気が引いている。 言いすぎてしまった、とシシイは思った。けれど、もう歯止めがきかない。彼女は悄耗しきった 気分で、くさむらにあおむけに横たわり、一年分の失望を吐き出そうとしていた。オートミールを 自分の口から出てくるものにやや驚きながらも、不安より もどす赤ん坊のような穏やかさで : は好奇心のほうに気持ちが傾いた。 「それに、男らしい新品の乗馬靴が汚れるわよ、フランク」抑揚のない声で言う。 「毎年ここへ来て、靴を履き込んでるわけじゃないからな」フランクは言い、返事がないと見ると、 さらに付け加えた。「ついでに、方言を覚えたり、使用人のご機嫌をとったり : 「管理人と言って」シシイは亀に目をやったままで言った。夫は嫉妬しているのた。なんというこ ノ 15

6. 黄泉の河にて

と考えがありやすで。上等の考えがね。奥さんが何かをあちこち探し回ってるちゅうことを聞いて、 すぐに事情を確かめたですよ。だが、けさのうちに知らせてもらいたかったですな」 ーケットは従順にうなずき、あとでその自分の態度を恥ずかしく思い返すことになった。この 大男を冷たくあしらいたかったが、相手の風采と後ろに控える町民たちの人数に気圧された。それ に、このク判事クがどんな害を及ばしたというのか。ずっと好意的に、こまやかに接してきてくれ たではないか。そして今も、ふるまいこそ無礼たが、気持ちを率直にぶつけてくれているではない 、刀 ジム判事はディッキーに、まっすぐ事務所へ行くように言い、それから、スヌークをくすねた半 ズボン姿の大きないたずら坊主を物陰へ連れていくみたいに ーケットを小屋のほうへ導いた 「ちゃんと考えがありやすで」自身の権勢の大きさを味わうように、歯をなめながらつぶやく。「わ しの町で、わしのモーテルで、あいつらに盗みを働かせておけますかって ! 」 「あいつら ? 」。 ーケットの声は、自分の耳にもやけに甲高く聞こえた。赤くなった鼻や額、赤く なった膝や脛が、腫れてかさっき、軽いめまいがして、笑い声も浮ついている。 ジム判事もいっしょに、短く笑った。「おじようずですな」おもしろくもなさそうに、喉を鳴ら す。「ユーモアをお忘れじゃあないようた」その声には、新たな響きが加わっていた。よそ者がっ まずき、弱みをさらしやがったとでも言いたげな : ーケットの肘の上をつかんた手に、優越 の力がこもるのがはっきりわかった。 「誤解のないように言っておきますがーーー・ー」 ーケットは一言葉を切り、腕をねじるようにして振り

7. 黄泉の河にて

「アリス、何もなかったふりをすることなど、できっこないたろう ! 」 「なせ ? なぜ、できないの ? 妻のこわばった冷ややかな言いかたが、パ ーケットを驚かせた。べッドの中であちら向きに転が り、夫のほうを見ようともしない。 「われわれは文明人たからた ! 」とどなりつけたかったが、反 論がこわくて言葉を引っ込めた。「なあ、彼と直接話して、こういう行為がどんなにばかげている か、説いて聞かせようじゃないか。舟の上で、話を切り出すんだ」 「あなたが話せばいいわ。一対一で、どうぞ。単刀直入にねー触れようと伸ばした手を、アリスは 振り払った。「わたしはここにいるから ディッキーにできるたけ場所を与えようと、舳先に坐ったが、そこからでも船頭のラムくさい息 がにおった。帽子の下のゆがんた唇、眉に寄った深いしわ、酔っ払い特有の挑みかかるような身構 えと妙に横柄な態度を見たたけで、こちらがロ火を切るのを待ち受けていることがわかった。黒人 ガイドはロ笛を吹かず、呼吸もほとんどしていないように見え、櫓を水に刺すその動作も実に緩屡 たったので、この陰鬱な舟が荒涼とした浅瀬を進んでいることを示すのは、水底の生物のかすかな うごめきたけたった。 アリスへの怒りにかまけて、日焼け止めクリームを忘れてきてしまい、光と風をはらんた朝の空 気にびりひりする皮膚を痛撃されたが、きようばかりは、。 カイドがスヌーク探しに本腰を入れてく れた。密林に守られた水路で、 ーケットは黒い人差し指の示すポイントへ釣り糸を投じた。魚は

8. 黄泉の河にて

万策尽きて、アンはやみくもに言葉を発した。「それまで、気をつけて過ごさなきやためよ、ア ーニー、頭をどこかにぶつけないように。粘り強く、勇気を持って」 「頭のことを、誰にきいた ? 」 「ソーベル先生よ。ほんとうに、気をつけてね。そうじゃないとーーー」 「ソーベル先生か。いい人たよ、あの博士は」アーネストがうなずく。「とにかく、ありがとう。 じゃあ、あとで」 「どこへ行くの ? 」 「みんなが呼んでるのが、聞こえるたろう ? シャッフルポードをやりに行くんた アーネストが足を止めた。 「アーニー、きっと何もかもうまくい くわ ! そのときは、あなたとわたし、ふたりでお祝いを その瞬間、アンは自分がまたまた過ちを重ねたことを知った。励ますどころか、アーネストを現 実に直面させてしまったのた。ソーベル博士が語った現実に アー、不ストは△「にも ~ きそ ) つに 頬をびくつかせると、身を翻して、逃げるように遠ざかった。修復の機会は失われた。 アンは看護学生をひとりつかまえて、仕事を代わってもらった。赤土色の建物のあいたをあてど なく歩くうちに、たんたん足取りが速くなり、 ついには走りたす。十二月も間近な寒い日たった。 鋭利な空気がちくちくと肺を焦がした。

9. 黄泉の河にて

なかった。 白人が動き、また少し近づいてきた。ャウポンの木立の奥で、ふたたび豚が鼻を鳴らす。枝の下 全身に泥をこびりつかせた茶色と黄色のまたらの雌豚がいるのが、ちらっと見えた。好奇心に 駆られたように、その豚がこちらへ歩きだす。白人を目にするより先に、トラヴァーを見つけるた ろう。そうなると、トラヴァーの居場所が敵に知れてしまう。 トラヴァ】は唾を呑んた。赤い目をした豚が近づいてくる。白人も、微動たにせずそれを待ち受 ける。豚はトラヴァーに気づいて足を止め、ややあとずさってから、鼻を鳴らして走り去った。 トラヴァーは急いで視線を男に戻した。 何かを嗅ぎ取ったようた。ゆるやかな弧を描いてライフルの銃口を巡らせ、トラヴァーの左数フ ィートのところに照準を合わせる。 やつあ、いよいよおれを殺る気た。命乞いしたって、殺られるに決まってる。 男が歩を進め、トラヴ , ーは土手を「退してい「た。目深にかぶ「た帽子の下で、ふた「の目が トラヴァーの左の空間を見据えているその空間めがけて、トラヴァーは折った枝をびよいと投げ た。白人が音のしたほうへ体を向けるのを待って、立ち上がり、棍棒を投げつける。的ははずさな かった。棒が命中すると同時に、銃声が響く。 トラヴァーは本能的にわきへ転がったが、同じ本能に導かれて、ふたたび立ち上がり、前へ進み れ出た。男はライフルのそばに、じっと仰向けに横たわっている。ライフルのほうへ伸びかけていた 片手が、トラヴァーが飛びかかると引っ込んた。灰色の顎ひげの下、日に焼けていない生白い喉も

10. 黄泉の河にて

「騒ぎをおつばじめた張本人たからさ。もっとも、消防士のほうはそんなことは知らずに、たた、 排水管を手にしたあのでか牛野郎が、自分の頭を壁に打ちつけてるのを見て、止めなきゃいけない と思った。それだけのことたよ 「今はどうしてるの ? 」 「誰が ? 」 ート・エス 「アーニーがどうしてるかなんて、知るもんか。興味もないね。興味があるのは、ロヾ ポジートと哀れなコリンズ爺さんのことた」 リーをたしなめる意図が、明らかに汲み 「あれは自傷行為たよ」ソーベル博士が口をはさんた。ハ 取れる。それまで、コーヒーを見据えたまま、黙りこくっていたのた。「ハムリンは発作を起こし て、それをわれわれに知らせなかった。自分で予知はしていたのたと思う。壁に頭をぶつけたのは、 わざとたろう。しかし」と、 ハリー・マ ] ヴィンに向かって言う。「わざと暴動を引き起こしたと は思えない。、 ノムリンが自分を傷つけるのを見て、ほかの患者たちがおびえ、殺気立ったのたろ 「そのとおりたよ」別の医師が言った。「あの病棟にいるわたしの患者から、事情を聞いた。ハム リンが急にわめきたして、洗面所に飛び込み、排水管をねじ取るなり、あたりの物を壊し始めたら しい。すると、同室の患者たちが興奮して、大声で助けを求め、ほかの部屋の連中も、いわばそれ に触発された。当然の成り行きとして、何人かの患者がハムリンといっしょに、鉄格子をたたいた 270